氷付けの仔猿や仔狸たちが、風呂場でせっせと介助を受けている頃。
 猩影は、きちんと身なりを正した雪女が、リクオの姿を探してふらふらと出ていきかけるのをつかまえ座らせて、それでも雪女が不安げにあちこち何かを探して視線をさまよわせるので、今は抜け殻となった布団を恨めしそうに一瞥し弱りながら、女を宥めるのだった。

「あいつなら、ちょっと外の様子を見に行っただけですから。墓地にでも行ったんでしょう。ちゃんと帰ってきますよ、大丈夫。止めたって聞くような奴じゃないけど、平時にまで無理を美徳とする奴でもねえんで」
「墓地?」
「あいつのお袋さん、この山の麓の墓地に眠ってるんです」
「………若菜さま、が」
「そんな痛ましい顔、してやらないで下さいよ。お袋さんのことは、あいつにとってはもう、良い思い出になってんですから。何だったら、行ってみたらどうですか。つららの姐さんが行ってやったら、リクオの奴、きっと喜びます。あ、でも、なんで起こしたって、後から俺が怒られるかな」
「………猩影君、親しいのね。そのぅ……若様と。花霞一家副将の片方が猩影君だってわかったときも、驚いたけど、いつの間に知り合ったの?」

 声が少しばかり、不機嫌そうに尖った雪女である。
 雪女にとって、花霞大将は、顔を思い出せば頬に熱が上がる恋の相手。
 リクオとは、捜しに捜した奴良家の若様だ。

 抗争の最中、花霞大将は若き日の奴良組初代に似た面差しであると噂がたったときには、年経た妖怪たちが何人もの妻を娶り、あるいは妻としないまでも、幾人もの情人を持っていることはままあるので、なるほどそれでは瓜二つも当然であろうとしか考えられなかった。
 実はそれこそが、奴良組の事情まで考慮した偽りであったと知らされても、この二人が同一のひとだと、あの抗争の最中、立派な美丈夫であった花霞大将が目の前で夜明けの光を浴び、幼さ残す少年へと変じなければ、そうだと言われたところで信じなかったであろう。

 この数日の間、御側に侍り続け、昼には人の少年の姿で凍り付き、黄昏が過ぎると立派な妖の男子となって、氷は融けるものの眠り続ける彼を実際に見つめ続けていても、何かのいたずらでお二人の魂が一つの体に宿っているのではないかと、やはり信じがたい。
 いやいや、そういうものでもないかもしれない。
 信じるの信じないのではなく、雪女の中で、花霞大将と奴良の若様に対する気持ちはそれぞれ別々に育ってしまっていて、今更、花霞大将を恋しく狂おしく想う気持ちも、若様をいとしく健気に思いやる気持ちも、どちらもやめることはできないのだった。

 ところが、この一家の者たちときたら、己等の大将が夜明けとともに小さな少年になったとしても、驚いたり目下に扱ったりすることはなく、当たり前に受け入れて問題にすらしない。
 雪女が猩影に感じたのは、そんな彼等への、ちょっとした嫉妬だったのかもしれない。

「あ、スミマセン、なれなれしくて。……俺、あいつが奴良家の若様だって知ったの、知り合ってからずいぶん後だったもんで。俺が奴良家の若様をお見かけしたのもずいぶん前の話だったし」

 猩影は不器用だが、野暮ではない。
 雪女の声からにじみ出た、可愛い嫉妬をすぐに読みとって、大きな体を小さくして頭を掻いた。

「俺もしばらく、親父が奴良組だって事は伏せてたんで、おあいこなんですけどね」
「猩影君が出奔したって聞いたときも驚いたけど、戦ってた相手の陣営にいたなんて、知ったときはもっと驚いたわよ。いったい、どこで知り合ったの?」
「異界祇園のバーですよ。俺がチーム率いて腐ってたときに、そこで乱闘騒ぎ起こしちまって、そのとき以来の付き合いかな。最初はいけすかねぇ奴って思ってたんですけどね」
「ふぅん……って、ちょっと待って、若様はまだ十四よね?!知り合ったのっていつの話?!」
「四年前ですから……あいつ、まだ十歳か。そういや昼に会ったときはランドセル背負ってたっけ。明王の方だとガキには見えませんからね、バイト先でもサバよんでましたよ。十六だって。異界じゃ十三から立派な大人だし、年なんて誰も気にしねぇし」
「猩影君」
「はい」
「詳しく教えて」
「え、ええと……、店の場所ですか?あ、確かどっかにマッチがあったかな。そこに住所が」
「違う」
「は、はあ……」

 えてして女怪とはこういうもの。
 好きな男にまっしぐら。

 ご多分に漏れず雪女は、ついに悋気を隠しもせず、細めた金色の瞳で猩影を睨みつけた。
 自分の知らないところで、自分が捜し続けた愛し子に日常があったことへの嫉妬なのか、帯まで解いておきながら恋しい男が目覚めたときに側にありもせず、とっととどこかへ去ってしまったことへの怒りなのか、自分自身ですらどちらかわからぬ感情が小さな胸の内で渦巻いて、はしたないあさましいと恥じ入り隠そうとすればするほど、雪女が座すところからひんやりとした冷気が目に見えるほど白く漂い、畳を凍り付かせてしまうのだった。

「どこで。どうやって。どんな風に。ううん、その前に猩影君、いつからこっちに来ていたの?姿を見かけなくなった後、出奔したらしいって噂は聞いてたけど、どうしてなのかなんて、総大将にも狒々様にもお訊ねするわけにいかないし。それに、私が若様を捜してたのは知ってたはずよね、だったら、教えてくれればよかったのに。
 ……ごめんなさい、私、嫌な女になってるね。こんな事、言いたいわけじゃないのに」
「いや、そんな事ないですって。俺こそ口下手で、うまく説明できなくてすいやせん、姐さん。端折って話すとか、すげぇ苦手なんですよ。
 だからまぁ、長い話になるかもしれませんが」

 何より己の欲深さに、しょんぼりと肩を落としてしまった雪女は、あの時その場に居たどんな大妖をも金縛りにした迫力など微塵も感じさせず、無垢な白い花びらのようになよやかである。
 甘い罠を張って男を籠絡し虜にせしめて己のために使う、それが雪女という生き物であるだろうに、彼女はそんな手管を使うどころか思いつきもしない様子で、猩影が差し伸べた言葉の尻尾に、おずおずと手を伸ばすかのように上目遣いの視線をよこした。

「俺が腐ってた頃の話から始めましょうか。あいつを待ってるには、丁度いいかもしれねぇし」

 こくん、と可愛らしく頷いた雪女の所作が、猩影の苦笑を誘ったとしても仕方がなかったろう。
 どこでもかしこでも「いけずなお人や」と、袖にした女に恨み言を言われ続けている大将が、我が身も謀の是非も省みず、この女のこととなると飛び出していく気持ちが、少しわかってしまった。



+++



 花霞一家副将の一、猩影の父は、奴良組の古参大幹部の狒々である。
 今こそ魑魅魍魎の主として知られる初代奴良組総大将が、四百年前に羽衣狐を下し若き主として日ノ本の全ての妖の頂点になるよりも前から、初代を主とした百鬼夜行に加わっていたつわもので、四百年の後、今この現代において、初代が隠居し二代目が主の座を含めた身代全てを譲った後も、自らは奴良組の貸元大猿会を率いて変わらぬ現役を貫く譜代家臣だ。
 猩影はこうした家に、末子として生まれた。
 しかも人の血を引く末子として。

 初代が人と交わり子をもうけた四百年前の徳川の世では、破天荒だの無節操だのと大笑いしはしゃいでいた狒々であったが、何人もの同属の妻を娶り子を孫をもうけてしばらくすると、今度は何を思ったか平成の世にさしかかろうという頃に、人の娘と契りを結んだのだ。

 完全な人ではない。数代前に妖の血が入っていた。
 にしても、以前の狒々ならば、相手になどしなかったであろう、それほど人に近く何の力も持たない女であった。
 結果、猩影が生まれた。

 狒々は力の強い一属だ。
 力だけならば、総大将にも勝るだろう。
 そんな中で、弱い女にはらませ生まれた子が、例え組長の子であれ歓迎されるはずもない。
 一属のみならず、奴良組の他の幹部たちも、上辺だけは祝いの言葉を手向けたが裏ではこそこそと謗り笑い、心から喜んだのは長年の付き合いの総大将くらいのものであった。

 家中にあっても新たな妻に対する風当たりは強く、年の離れた妻と年経てから恵まれた末子を、狒々はその分溺愛と言えるほど庇い護り、これが尚更に一属の者たちの末子への目を厳しくした。

 猩影は、兄たちに疎まれた。
 弱いくせにと笑われ、喧嘩をして勝てば今度は父の手前手加減してやったのだと負け惜しみを言われ、努力をして力をつけ学び頭角を現せば、組の中の古参家臣どもが薄ら笑いを浮かべてもみ手をしつつ近寄ってきた。
 強くなった後も、一属の中の弱い仔猿どもに自分を重ね庇ってやる事が多かったので、兄たちの誰より慕われたが、裏では一属の次代の長の座を狙っているのではないかと、いわれなき謗りまで受けた。

 その頃、なんだか、全てが嫌になった。
 くだらない諍いを繰り返す兄たち。
 母への陰口をたたく家の者ども。
 気丈に耐える母も、己の機嫌を取ろうとしてか、優しすぎる父も。
 逃げるように家を出て、母方の親戚を頼り、人として暮らし始めたが、これもやはり上手くいかなかった。
 人の身で妖との婚姻など、人の家で歓迎されるはずもなく、娘は死んだと思っていたところへ、その娘の子が現れても恐ろしいばかりだ。
 猩影は腫れ物のように扱われた。
 これも、嫌になった。
 どこへ行っても居場所はなく、何をしても疎まれる。
 一度は疎んだはずの妖の世界を、離れた土地で猩影が再び求めるのは無理からぬことであった。
 東京から遠く離れた京都の地でよそ者の妖が一匹でうろつくなど、一歩間違えば生死に関わる。知らぬ猩影ではなかったが、並の妖怪どもに引けを取らぬ自信は持っていたし、逆に余分な過信はしておらず、結果として彼は半年もしないうちにちょっとした有名人になった。
 弱い者を庇護する面倒見の良さが手伝って、慕ってくる者も多くなると、一家とは言えないまでも少数のチームを率いるようにまでなったのである。

 家の後ろ盾がなくても、一人で身を起こせる。
 居場所がなかったのは、関東のあの家だけだ、ここには己の居場所がある。
 猩影は京都でやっていくことに決めた。
 喧嘩だけならば、古参のどの妖怪にも負けぬ自信があった。
 ヤクザ者が何するものぞ、羽衣狐など化石に過ぎぬ。
 陰陽師や螺旋の封印に怯えて、こそこそと夜中だけ歩き回る古参妖怪などよりも、猩影が率いる一派が力をつけた頃、騒ぎが起こった。
 発端はちょっとしたことだった。
 猩影の部下と相手とが、どちらが先にぶつかっただの手を出しただの、くだらない諍いを始めたのである。不幸にも両方ともが血気盛んな若い妖怪であり、両方が最近名前を知られるようになった一派であって、引けば己のチームが相手方のそれに下るような印象もあって、両方ともが下がるに下がれず争いの火はいとも簡単に広がった。
 いよいよ互いのボスが出てくる場面になり、猩影はここで相手を下した。
 人間の血が混じっていることが、逆に妖の血を強めでもしたのか、猩影は関東を出てくるときには既に、兄たちの誰にも負けぬ力をつけていたのだから、当然と言えば当然だったが、結果的にこれが一番まずかった。

 つまらない諍いなど見ぬ振りをして、手打ちにしておけばよかったのだ。

 負けた相手方は、末端ではあるが、羽衣狐の息がかかっていたのである。
 猩影の部下が何人か犠牲になり、生き肝を抉り取られた上で滅された。
 もちろん、それで黙って引き下がる猩影ではない。
 鉈のような得物を肩に担ぎ、報復のために相手を探し回って、飛び込んだ先は奴等が祝勝会などを催しているモダンバーだ。

 店の普段の客層とあきらかに違うのは、店員たちの顔色ですぐわかると言うのに、せいぜい粋がってソファにどっかり深く沈み、煩く騒ぎながら浴びるように酒を飲んでいた奴等は、猩影とその部下たちの姿を見るや、逃げ出すどころかゲラゲラと笑ってこう言った。

「おい見ろよ、力馬鹿な大猿の親分がやってきたぜ。あいつの生き胆を抉って皮を剥ぎ、羽衣狐様に献上しようか。それとも、臭ェ猿の生き胆なんざ、お上品な狐様のお口にゃ、合わないかもしれねぇなあ。なにせほら、あいつの部下どもの生き胆ときたら、身を離れた途端にすぐ腐っちまって、魚の餌にもなりやしなかったもんなァ」

 辱めを受けた部下たちの事を思えばこそ、猩影が怒り狂うのも当然だった。
 場所もわきまえず、猩影は大鉈を振り回し、テーブルと言わず椅子と言わず手当たり次第に斬りさばいた。
 下品な客のせいで元々少なかった客たちが、テーブルの下やカウンターの中などへ逃げ込み、悲鳴や怒号、破裂音が響いてその場で起こった二つのチームの抗争。
 一度は負けたはずの相手を前にして、にやにやと笑っていた相手方のボスは、そうなるとひいと上ずった悲鳴を上げて、背中合わせのソファで我関せずとばかりにグラスを傾けていた、一人の男にすがりついた。

「旦那、旦那、鬼童丸の旦那、あいつですよ、俺がこの前言ってた新参者っての!羽衣狐様に楯突く奴ですぜ、だから俺はあいつをこらしめてやろうとしたんです!さっさとやっちまってくだせぇよ!」

 今思えば、その頃には鬼童丸は既に、羽衣狐ではなくリクオに内応していたはずだが、最後の最後まで、四百年以上も羽衣狐の下で働いていたしょうけらや茨木童子にも気づかせなかった胆力の持ち主だ。
 ぎろりと猩影を睨んだ眼光は鋭く、一睨みで猩影は動けなくなった。
 腰に二刀を差した着流し姿が、ゆっくりと一刀を抜くのを、非現実の、どこか遠い国の映像を見るかのように目で追っているのだが、その刀が己の脳天目がけて振り下ろされるまで、猩影は身動き一つできずにいたのである。

 金縛りは己の命の危機を感じた次の瞬間に解け、猩影は転がるようにして避けた。
 細身の日本刀のどこにそれだけの重量があるのか ――― この問いは無意味だった。
 妖同士の戦いならば、目に見えるものは全て嘘偽りと思って良い。
 形はあくまで妖が相手に見せようとしている残像に過ぎず、実質は形に上乗せされる《畏》こそがそうだ。

 鬼童丸の《畏》が乗せられた刀は、ソファやテーブルどころか床すらぶち抜いても尚走り、地走りとなって真正面の壁を吹き飛ばす。
 あまりの力に目を見開いた猩影目がけ、次の一撃がすかさず繰り出されたが、これは避けようが無かった。

 やられる。
 脳天から真っ二つにされ、血反吐を吐き臓物を巻き散らかしながら果てる己の姿が脳裏に過ぎり、目を見開いたまま動けずにいた猩影だったが、最後に歯を食いしばり、ならばこの男の片腕ぐらいは道連れにしてやろうと、大鉈を振りかざして捨て身の一撃を放った。
 《畏》と《畏》のぶつかり合い。
 しかも真っ向勝負を是とする者同士が刀に載せた《力》対《力》の勝負は、互いの間で竜巻となり互いの一撃が互いを抉る ――― はずだったが。




 がし、と、とてつもなく大きな手が、両者の刃を止めた。

 《畏》がぶつかり合った竜巻の最中、巻き込まれて舞い飛ぶ者もあるほどだ、そんなところで確かめる術などなかったが、切っ先を掴まれてびくともしない感触に、そう感じた。

 鬼童丸を前にしたときとは違う、睨まれての恐怖ではない、その時感じたのは。

 己の渾身の力を、赤子をあやすように受け止めてしまい、後は押すも引くもかなわなくしてしまうほどの、しかし、決してあちらからは斬りかかってこない、殺気を感じさせるどころかこちらの殺気を絡め取って癒してしまう、不思議な安心感。

 そう、あれこそが。
 大いなるものへの畏怖。




 一体どんな大妖怪が目の前に立ちふさがっているのかと、今度こそぶるり、身を震わせながら猩影は、辺りを吹きぬけた風がおさまるのを待ったのだが。

 目の前で猩影と鬼童丸、それぞれの刃を片手で ――― しかもそれぞれ二本の指だけで ――― 挟んで立っていたのは、二人よりよほど細身の少年が一人。
 さやさやと揺れて流れるしろがねの髪。
 遠くを見るような瞳は紅瑪瑙。
 カッターシャツに、店の者がする揃いのネクタイを締めた洋装の出で立ち。
 結んだ形の良い唇は桜色。
 一瞬、女かと見まごう美しい妖だった。
 年を考えれば、少年や少女と言うより、子供という一括りである頃だから、華奢な輪郭が手伝ってそう見えても仕方が無かったろう。

 彼は力ではなく何か得体の知れぬ《畏》でもって、二人の中に渦巻く力を殺して見せたのである。

「オヤジさん、それにニイサン、店の中で喧嘩はご法度だ」




 大妖ではなかった。
 華奢であるし、声もまだ高い。若いなというのはすぐにわかった。
 だが、『大妖ではない』の前には、『まだ』という条件がつく。

 まだ大妖ではない、しかし、今後はいずれ大妖となるだろう。
 早くもその器を思わせる彼は、猩影を見て、にいと笑った。




「この喧嘩、オレが預かる。双方、引きな」




 これが、花霞リクオと猩影の出会いだった。












 耐熱グラスにホット・コーヒーを注ぎ、ブラウンシュガーを2、3個、疲れているときは砂糖をもう一つ多めに。
 スチームであたためておいたアイリッシュ・ウイスキーを注ぎ、ステアした後。
 上に生クリームをフロートさせれば、できあがり。

 人が空を使った旅を始めたばかりの、二十世紀初頭、世界がまだ広かった頃に、港の海風に凍えた旅人たちを迎えた飲み物は、しっとりと冷えた体を温め、知らず知らずのうちに詰めていた息をっほっと吐き出させたという。
 地球の裏側まで半日で行けるようになってしまった二十一世紀の今でも、これは同じなようで、オスログラスで湯気を立てる飲み物に、いつ席についたのかすら判然とせぬまま口をつけた猩影は、そこで息をついて我に返った。
 先ほどまで手にしていた大鉈が、いつの間にか取り上げられてカウンターの中、鞘に収まった姿で傘と一緒にたてかけられていたり、いつの間にか周囲に他の客たちの姿も相対していた鬼童丸の姿も憎んでも憎みきれぬ奴等の姿も無く、割れたグラスや壊れて使い物にならなくなった家具を店員たちが片付けたり倒れたソファを起こしたりする中で、猩影はかろうじて残ったカウンターの椅子に座り、目の前に無言で差し出されたアイリッシュ・コーヒーを啜っていたのだった。

「落ち着いたかい、ニイサン」

 カウンターの中から声をかけられて、改めてその少年を見る。
 先ほど、ぶつかり合った《畏》の奥で刀を受け止められたときには、どれほどの大男かと思っていたところへ現れたのが、ほっそりとした輪郭の彼であったので呆気に取られたが、今度はいくらか落ち着いた心もちで見つめてみれば、猩影の手にかかれば両腕なとまとめてへし折ってしまえそうなほど華奢なのだった。

 玻璃でできた、桜の枝細工。
 関東の実家にあった、毒にも薬にもならぬただの置物を、ふと思い出した。

 力の強い乱暴者ばかりのあの家で、奴良組初代総大将が父に授けたというあの宝物は、家宝として扱われていた。
 他の兄弟たちは、刀や価値ある玉などであればいざ知らず、力自慢の己等にただのガラス玉を与えるとは馬鹿にしているのではないか、などと陰で不満そうに言い合っていたが、猩影は、花弁の一枚一枚や花弁を支える緑の丁寧なつくりの万年桜の一枝を、心から気に入っていたので、父がこれを桐の箱から取り出して眺めるときには必ず同席させてもらったものだ。
 これが大事である意味がわかる奴にしか、ウチの組には任せられんなぁ。
 こいつがワシ等にとっての、奴良組なのだもの。
 猩影、お前はワシの息子等の中で、初めてこれを好きだと言うたが、この意味がわかるようになるかな。

 ついでに、胸をきゅっと締め付ける父の言葉も思い出して、猩影は眉を寄せ、目を逸らした。
 いたたまれなさや落ち着かなさとともに、今の気持ちの原因を、いけすかない奴だと目の前の奴への印象に摩り替えることにして。
 とは言え、事の発端は己だ。
 猩影は素直に詫びた。

「………悪かった、店の中、滅茶苦茶にして」
「そういうことは、店長に言いな。ま、《幸い》にして貴重な酒は全部無事だし、あれだけ暴れて《幸運》にも死人どころか怪我人一人いねぇ。壊れた家具も《たまたま》そろそろ取り替えようかって店の中で話してたもんだし、そうお咎めもないだろうが、礼くらい言っておけ」

 謝罪ならまだしも、礼とはどういうことか。
 当然の疑問は、カウンターの下から大きな白蛇がにゅるりと頭を出した瞬間に氷解した。
 桃色の舌をちろちろ見せながら、《強運》の主は血のように赤く美しい瞳をいたわるように細め、優しく猩影に問うてきた。

「敵討ちかい、若いの。初めて見る顔だが、どこから来たね」

 これだけ大暴れした張本人を前にしていると言うのに責めるどころか、長旅に疲れ果てた旅人を優しく迎える店主の気遣いが感じ取れる一言と、父と同じほどかそれよりも年嵩な白蛇の声に安心したこともあり、猩影は我慢がきかなくなって、ぽつり、ぽつりと語り始めた。
 奴良組に関わりがあることは隠しながらも、己が半妖であることや、家との折り合いが悪く人間側の親戚を頼って西日本へやってきたこと、しかしそこにも己の居場所は無かったこと、京都の街の異界の雰囲気がどことなく関東の地元の空気に似ていてふらりと踏み入ったことや、仲間のこと、今回の襲撃に繋がる諍いの話。

「馬鹿馬鹿しく聞こえるだろうが、それでもあいつ等は、ここで俺を受け入れてくれた仲間だった。あいつはその仲間を惨たらしい目に合わせただけでなく、滅した後も辱めにあわせたんだ」
「……京都にも物騒な奴等が増えたからのう。お若いの、嫌なときに居合わせてしまったもんだ。もう少し早くこの土地に来ていりゃあ、そりゃあ平らかで安らかな京があんたさんの心を癒したろうが、あんたさんが今言った通り、ここのところ、羽衣狐復活の兆しがあるとかで、早くも過激な連中が騒いでおる。嫌な想い出を作らせてしまったもんだ、申し訳ない。
 だがね、一つ言っておく。京都に居るのはそういう妖怪どもばかりではないんだ。四百年の昔だって、皆が皆、羽衣狐を崇拝したかと言うと違う。関東ではぬらりひょんを総大将と慕って奴良組が作られたらしいが、そこに属さず自由にこじんまりと暮らしている奴等もおるじゃろう。京都も同じ、そうしてここの飲み屋はな、どこの派閥に属していようといまいと、美味い酒を求めて来る奴等にはそれを出す。どっちの派閥にいたって、哀しいこともあれば嬉しいこともある、飲みたい気分なんてそれぞれさね。だから、そういう奴はみんな、ワシ等の客なんじゃ。
 この店で二度と、このような狼藉をするんじゃないぞ、若いの。そうでなければこの先それこそ末代まで、あらゆる《運》に見放されると思えよ」

 慰められながらも最後はきっちり小言を落とされて猩影は初めて、まだ己が白蛇へ謝罪も礼も述べていないと気がつき、いくらか慌てながら、すまねえ、頭に血が上っちまってたと頭を下げて、店の片付け、俺も手伝うよと立ち上がりかけると、なんのなんのと白蛇は笑んだ。

「もっとも、奴等はちいと煩すぎてな、そろそろたたき出す算段をしていたのよ。しかしたたき出した後で仲間を引き連れて戻ってこられても困る、どうしたもんかと、こやつと頭を捻っていたところだったんでな、かえって助かったわ。《幸運》が転がり込んできてくれたようなもんじゃ」
「それにその図体で狭い店の中を歩き回られても困る、そこに座ってろよ、ニイサン」
「おい、人が折角……!」
「いいから、もう一杯飲んで、あったまっとけ。そろそろ外は寒いし、こっからウチは少し遠いから」
「……ウチ?」

 秋深まる頃、床冷えの季節だった。
 街渡る風は乾き、頬に突き刺さるように冷たい。
 誘われるまま一杯目を飲み干した猩影の前に、例のいけすかない奴がもう一杯コーヒーを置いた後、きっちりとしめていたタイを緩めてこう言った。

「猩影、って言ったか。今の話じゃ、どうせ行くあて無いんだろう。オレの家、伏目にある。他にも行く所の無い奴等が寝泊りしてるから、お前も来い」
「おお、おお、それはええ。若いの、さっきの話じゃ、仲間んところの家を渡り歩いてたとか。その仲間も逃げ帰っちまった事だし、世話になったらええ。この京都で大きな騒ぎを起こせば、その後陰陽師も動き出す。あんたさんは少し、身を隠した方がええじゃろう。リクオのところならうってつけじゃ」

 差し伸べられた手を掴むも振り払うも決められないまま、あちらからぐいと腕を引かれたようなものだった。
 浮き草のように己の身の振り方が定まらぬ猩影は、その夜遅くにバーを辞すると、店員なのか用心棒なのか最後までわからなかった ――― おそらくその両方だろうと猩影は考え、結果、間違ってはいなかった ――― リクオの後をとぼとぼとついて行って、たどり着いた屋敷に与えられた部屋に布団が敷かれると、そこで泥のように眠った。
 関東を出て以来、あちこち泊まり歩いてばかりいたから、畳の上に敷かれた布団の中がとても久しぶりだったし、体を芯からあたためた僅かなアルコールが、安らかな眠りを誘った。

 そこから先は、もうなし崩しだった。
 いけすかない奴だと思いながら、いつかとっとと出て行こうと思いながら、猩影はそうはできなかった。いや、最初は出て行ってやろうと思っていたが、出て行った先の自分が何をしているか、全く想像ができない。今までのようにチームを率いて御山の大将を気取る自分を想像しようとしても、心に虚しい風が吹くばかりだった。
 チームを率いながらこれを大きくし、諍いには諍いで応えながらのし上がっていくのでは、関東の家に居た頃と、全く変わらないではないか。

 なので、陰陽師に臆したわけではないが、タダ飯を食らわせてくれて、タダで泊めてくれるという物好きな男を、せいぜい利用してやるつもりで、伏目屋敷に寝泊りしていた。
 リクオは何も言わなかった。
 いや、最初の一週間、猩影の前に姿すら現さなかった。
 今考えてみると、猩影が異界祇園で暴れたことで、陰陽師の家の方が騒がしかったのだろう。
 異界とは言え、敏感な人間には見えてしまうし、物が壊れていればおかしいと思われる。
 そうなれば、陰陽師たちが動くのは、当然だ。
 ところが猩影はその間、この伏目の屋敷の客間でひっくり返りながら、この先どうしたものか、京都が駄目ならもう少し西へ行ってみようか、いやそれにしても先立つものがねぇしなと、うだうだ考えていた次第だ。ほとほと面目次第も無い。
 ぴりぴりしている猩影に、既に屋敷に住んでいた小物たち ――― 猫又や、仔猿仔狸、山鳩たちなど、たいした妖力を持たない小物たちは怖れて近づかず、しかし不思議に猩影が起きる頃や寝る前には飯の仕度が整っており、すっかり上げ膳据え膳を決め込んでいた最初の一週間が終わり、こうなったら居候として生活してやろうではないかと開き直り始めた頃、とある朝。

 いつものように朝飯を求めて賄い所へ向かい、いつものように唯一テレビが置いてある居間へ膳を運ぶと、既に誰かがテレビをつけている。
 先客だった。
 先客は二人居たが、そのうちの一人の姿には見覚えがあった。
 誰だったかと、目を凝らし首を傾げて、不躾な視線をその一人に向けてみたところ、やがて驚き、持っていた膳を取り落としてしまった。
 ガシャンと板張りの廊下に膳が全てぶちまけられ、二人の先客の一人は何事かとこちらを振り返りすぐに立ち上がって駆け寄ってきたが、猩影が食い入るように見つめる先の一人の方は、目を落としていた新聞から、ちらと老眼鏡の向こうの視線をくれただけだった。
 一瞬わからなかったはずだ、一週間前に出会ったときには老眼鏡も新聞もなかった。そんな姿、想像もできなかった。
 鬼童丸。
 今、居間のちゃぶ台の前にくつろぎ老眼鏡をかけ、新聞を広げて茶をすすっているのは、一週間前、猩影の前に立ちはだかり、視線で射た男であった。

 なぜ、どうして、貴様がここに。

 言うより前に、硬直した猩影の手を、小さな手がそっと握るのが先だった。

「猩影くん、大丈夫、落ち着いて。鬼童丸さんは敵じゃない」
「敵じゃない?……だって、一週間前はあいつらの方に。それにそいつは昔から羽衣狐の一鬼だろう、それが何だ、ここは羽衣狐側の家か、何だ、何だってんだ」

 びくりと体を跳ねさせて視線を落としたところで、猩影はもう一人の先客に気がつき、混乱のまま喚きたてようとした頑なな心が、他ならぬその小さな手の主にとかされるのを感じた。

「大丈夫だってば、ここが中立なのは、あの祇園のバーと一緒なんだからさ。羽衣狐の一鬼かどうかって言うなら、昔っから鬼童丸さんは鵺の一鬼で、羽衣狐の一鬼ではないはずだし。そんな事より、朝ごはんが台無しだ。
 ――― ねえ、誰かいる?悪いんだけど、代わりの膳を持ってきてもらえるかな」

 さして大きくもない一声に、廊下の向こうからたちまち顔を出したのは、賄い所の茶釜狸である。
 そそくさとやってきて代わりの膳を猩影に押し付けるようにして持たせては、その足元に散らばったご飯だの味噌汁だのを片付け、勿体無いとか大将は甘いとか、ぶつぶつ言いながら賄い所へ帰って言ったが、猩影には何がなにやらさっぱりわからない。
 小さな手が導かなければ、不審と戸惑いに足を取られて、そのまま屋敷を出てしまっていたかもしれないが、目の前の少年があたたかく笑って誘うので、わからぬまま席へついてしまった。

 そこでようやく、お前は誰なんだと改めて問うたところ、

「一応、一週間前、祇園のバーから君を連れ帰ってきた本人なんだけど、この姿じゃわかりにくいかな。とりあえずさ、朝ごはん、食べちゃおうよ」

 猩影が呆然とするような事を、平気な顔で言う。
 鬼童丸など何事もなかったかのように、新聞を捲っているだけだった。

 その横でにこにこと己に笑いかけているのは、女と見まごう妖艶な大妖の雛ではない、まるで非力な人間の、童子そのもの。
 妖姿のときよりもさらに小さくさらに華奢な姿で、心を尽くして微笑まれ照らされると、いけすかないだの利用してやろうだの、そういった心もちが何と潔さの無い、卑しく仁義の無いことだろうかと恥じ入らずにはおれなかった。

 ところがそれからすぐに打ち解けたかというと、そうではない。
 妙な意地が邪魔をして、世話になっているくせに、昼は陰陽師で夜は妖に化生するなど怪しい野郎だなどとあれこれ理由をつけて、そのうち出て行ってやるだの何だのと企み、リクオもそれを知っている様子だったが、この企みは今になっても尚、果たされてはいない。
 猩影はただただ、ずるずると与えられた居場所に困惑しながら日々を過ごしているだけだった。

 伏目屋敷では、誰も猩影をこそこそと笑ったり、詰ったりしなかった。
 茶釜狸はしきりに「働かざる者、食うべからず」と、屋敷の掃除をしろ、あれをしろ、これをしろと煩かったが、それだけだ。関東の兄たちのように、日々の中に常に諍いを持ち込むような空気は全く無く、小物たちは競い合ってお役に立とうとするので、常に屋敷の中はぴかぴかだった。
 屋敷の主は昼でも夜でもとにかくリクオで、帰ってこない日もあったが、そういった後に彼が屋敷を訪れると小物たちは嬉々とした表情で玄関に向かい、「おかえりなさい大将」「大将、夕ご飯、僕達が作った田楽があるよ、食べる?」などと、大変な懐きようである。
 屋敷には居心地の良さを感じ、リクオには好感を持ちながら、しかし猩影は素直になりきれず、リクオが帰ってきても一瞥する程度。
 そのまま放っておかれたら、忘れられた頃にそっと姿を消すつもりだった。
 妖の家も人の家も追われていじけた胸の内は、中々変えられなかったのだ。
 もちろん、リクオが猩影を忘れることなど、ただの一瞬もありはしなかった。

 それどころか、あの日、柔らかで優しい顔立ちに、凛とした緊張を漲らせながら、初めて猩影と毅然と向き合ったのは、まさに猩影が屋敷へ転がり込む原因を作った憎い野郎の話題がためだった。

「……猩影くん、君の仲間の仇、骸輪車討伐の命がボクに下った。ボクは花開院の陰陽師として、奴をこの京都から払わなくてはならない」

 常は洋装でくつろぐリクオが、その日は陰陽師の狩衣に水晶の数珠を首にかけ、一家の主として鬼童丸を脇に従え、上座についていたところへ招かれた猩影は、こう切り出されて目を見開いた。
 一度逃がしたとは言え、仲間を惨い目に合わせた野郎どもを、捨て置くつもりは毛頭なかった。
 他人の手に委ねるつもりも、無かった。

「君も、行くかい」

 問いへの答えなど、決まっていた。

「当たり前だ」



+++



 螺旋の封印の一つを預かり、妖怪屋敷を作っても許されている陰陽師など、稀代と言っても差し支えはなかったろうが、猩影はその時、人間側の、それも花開院の事情などまるでわかってはいなかったし、陰陽師としてのリクオの力がどれほどなのか考えようともせずにいた。
 憎き骸輪車に今こそ合間見えてくれると、例の大鉈を担ぎリクオの供をして、遥か鞍馬の山にまで駆けつけ、望みどおりに彼奴めと顔合わせをしたときに初めて、事態が極めて深刻であることを思い知らされた。

 骸輪車は、そこにいた。

 但し、最後にあの祇園のバーで向かい合ったそのときとは比べ物にならぬほど、おどろおどろしい妖力を纏った大妖と化して。

 鞍馬に封じられし魔王尊の力を身に受けて、白いしゃれこうべの頭は並んだ千年杉すら小さく見えるほどにふくらみ、カタカタと顎を鳴らして笑う様がなんとも不気味で身の毛がよだつ。しかも音を鳴らす歯には、ここへ来て彼奴を調伏しようとした陰陽師の成れの果てが、いくつかぶら下がっているのだった。

「 ――― なんだ、お前、そのナリは ――― !」
『しょ、しょ、うえい、かぁあああッ、み、みろ、お、おで、おでははごろも、ぎつ、ぎつね、さまに、おちからをいただいた、ぞおぉッ』
「お力って、そういうレベルじゃねーだろうが、ろくに喋れてねぇし、堅気にまで手ェ出しちゃお前、もう後戻りできねぇぞ、わかってんのか!」

 小さなチームの小競り合いでは、もう済まされなかった。
 篝火に照らされた足元、石段を逸れた脇の竹藪には、ごろごろと物言わぬ肉塊と化した人間たちが、ごろりごろりと転がって、光を失った瞳にぽっかり月を映している。
 数多くの陰陽師たちが、妖力を増した骸輪車を相手にやってきて、なす術もなく殺されてしまったのだ。
 対して、リクオは一人。
 ここでようやく、猩影は感づいた。
 花開院が、妖姿を持つリクオを陰陽師として受け入れている理由 ――― 意志を持って戦う剣として、人間どもは飼い殺している。皆がそう考えているとは限らないが、ほとんどの者は勝っても負けても妖同士の戦として、見て見ぬ振りをするために、こうしてただ一人、贄として死臭漂う鞍馬の山奥に、向かわされたのだ。

 妖力を極限まで高めた骸輪車との戦いは熾烈を極めたが、リクオは決して妖姿に化生しようとしなかった。あくまで呪符と独鈷杵、己の真言で調伏を試み、ここぞというところでとどめを刺さない。

 何度目かに、闇と千年杉の陰に隠れたところで、猩影はリクオに詰め寄った。

「お前、どうして止めを刺さない。できたはずだ。野郎は気づいてねぇかもしれねえが、もう三度は見逃しているだろう。余裕のつもりか、それとも俺を試してやがんのか、どういうつもりだ」
「そういう猩影君は、どうなの。彼とは諍いがあったかもしれないけど、羽衣狐の威光を振りかざしてあいつが仲間を酷い目に合わせる前は、ただ気に食わない奴、それだけだったんでしょう。だから猩影君、君は止めを刺せないんだ。
 ボクは君の一太刀を待ってた。だけど、君こそずっと、ここぞというところで切っ先が鈍る。
 猩影君、君はあいつを、どうしたい。仲間と同じように生き胆を抉って晒したいの。跡形も無くなるまで切り裂いて細切れにしてやりたいの」
「俺はただ、勝ちたいだけだ!勝ちたいだけだった!」
「勝ちって何。今ここであいつを滅ぼせば、紛れも無く、それは君の勝利だろうに、何故それをしないの」
「そんなことをしたいんじゃねぇ!勝ちってのは ――― 勝ちってのは、相手に参ったと言わせりゃ、それまでだ、それでいいんだ!」
「わかってると思うけど、それじゃあ出てきた家のお兄さんたちと、まるで同じだ」
「うるせえ!そうだよ、どうせ一緒なんだ。どこまで逃げたって逃れられねぇんだよ、性分って奴からは!」

 二人の行方を追っていた骸輪車は、大声で猩影の居場所に気づき、ぬうと千年杉の横から大きな手を突き出して、己にとって小さくなりすぎた喧嘩相手を掴もうと手を突き出す。
 リクオに庇われて猩影は突き飛ばされ、石畳にしたたかに腰を打ったが、己の痛みよりも、目の前にぽたりぽたりと落ちた水滴に、青ざめた。

 恐る恐る顔を上げてみれば、己を庇ったリクオは、鋭く尖った爪先に体を貫かれ、顔を歪めているではないか。

「勝ちたいだけなのは、猩影君、君も、この骸輪車も、同じ、だった、はずなんだ。
 競い合うだけだった、はずなのに、それができなく、なったのは、哀しいと、思わない?」
「 ――― お前 ――― なんで」
「競い合うだけで、済んでたうちに、一言、言っておけばよかったね。骸輪車が、追い詰められて、君の仲間を引き裂く前に。案外お前、いい奴かもしれない、って」
「なんで俺を庇う」
「それが、逃れられない、ボクの性分。君だけを庇ったわけじゃない、きっと彼も、君を滅してまで勝ち進もうとは、最初は思っていなかったはずなんだから。……哀しんであげて。気づかない?骸輪車に従う手下たちは、もう、ここに居ない。見限られたんだ。器がないところに妖力を注ぎ込めば、理性が破綻するのは、必至。だからここで、彼と縁があるのは、猩影君、君しか居ないんだ。いつか帰ってこられるように、また、競い合うだけの日々に戻ってこれるように ――― 今じゃなくていいから、三千世界のどこか、三劫の彼方でいつか、赦せるようになるために、哀しんで、あげて」

 肩にも胸にも大きな爪先を食い込ませながら、力を振り絞って千切れそうな腕を持ち上げると、リクオは、己を持ち上げた骸輪車の、いびつにあちこち膨らんでひび割れた髑髏を、いたわるようにそっと、撫でた。
 撫でた場所は丁度、虚ろな眼下の下の辺り。
 涙が伝う場所。

「 ――― 強くなったんだね、骸輪車。がんばったんだね」

 それまで、けたけたと笑うばかりだった骸輪車が、カタカタ打ち鳴らしていた顎を、ぴたり、止めた。

『がんば……った……』

 思いだすように、ぽつり、呟くと、リクオが撫でたところをなぞるように、目玉の無い眼下から、涙がふるりと湧いて溢れてくるのだった。

「痛かったろうに、頑張ったんだね。可哀相に。
 もういいよ、頑張らなくて。こんなに、強くなったんだから」

 陣羽織に包まれた体も、本来の己の妖力以外に蠢くものを御しきれず、ぼこりぼこりとあちこち不規則に脈動させては軋ませていた骸輪車、真言でも呪符でもなく、たったそれだけ囁かれ、リクオが己の身を裂かれる痛みでなく、相対する妖の者の痛みを想って涙したときに、気を失って崩れ落ちた。
 さらさらと綺麗な砂となり、風に運ばれる骸輪車を前にして、自然、猩影は大鉈を取り落とし、母がいつかしていたように、両手を合わせていた。
 破魔矢を体のあちこちに受け、真言に体を痛ませ軋ませ、陰陽師たちの縛呪で指先をいくつか千切れさせた満身相違の中で、尚も笑い続けた骸輪車の最後は、なんとも、あっけないものだった。



+++



「明王姿になりゃあ、傷はあらかた癒える。そん時もその後で、すぐに夜の姿になったから良かったものの、ただの人間じゃあ致命傷だった。そんな傷を受けりゃあ、傷はすぐに治ったとしても、受けたそのときに痛みが無いわけがねえのに、あいつはそういうことを平気でやっちまう。
 妖怪相手だけじゃねえ、人間相手でもそうだ。てめぇを忌み子だ灰色だと嫌ってた連中すら、平気な顔して庇っておいて、後で性分だって笑ってやがる。
 こんな事が何度かあった後にね、何が性分だ、見てる方が疲れる、ふざけんなって問い詰めてやったら、今度は真面目な顔で、そういう力があるんだから、使える幸せをお裾分けしてるだけだとかのたまいやがって、話にならねぇ。たしかに、その傷は黄昏まで待てば癒える。普通の人間なら死ぬような怪我でも、それまで持てば癒える。
 でも、持たなかったら?死んじまうに決まってる。いつか砕けちまうに決まってる。
 とんだ死にたがりだと言えば、今度は怒る。死なない自信があるからやってる、命の使い方は心得てるとか、ガキのくせに偉そうに言いやがる。自分を犠牲にして他人を助けるとか、自己陶酔してんじゃねぇぞと笑ってやれば、欲しいものを手に入れようとしているだけだと笑い返す。欲しいものってのは、そう、あいつが一度懐に抱え込んだ奴等の、なんでもない日常っていうか、そういうくだらないモンだ。ああもうこれは言って聞くような奴じゃねえなってのを、この上ないほど思い知らされた時にもう俺は、あいつを守りたくて守りたくて、たまらなくなっちまってた。
 鬼童丸のおっさんは、そんときもう、リクオの側についてたんですよ。表向き、リクオが羽衣側につくって見せかけてましたけど、内実は逆で、なんでかしらないけど、あのおっさんはリクオに惚れ込んじまってたんだろうな。
 あのおっさん、見た目通り口数が少ないおひとでさ、飲むときも皆から少し離れたところで、静かに飲んでるんだが、話し相手になってもくれねぇかって言うと違う。割と聞き役なんですよね。そのひとが、一回だけ言ってた。
 自分はリクオに剣を教えているが、リクオは自分に道を教えているのだ、とか。
 難しいこたぁ、俺ぁよくわかりませんけど、あのおっさんも多分俺と同じなんだってことは、なんとなくわかりました。
 あいつの前じゃ、かなわねぇって思っちまうんですよ。
 力は俺の方が上かもしれねぇとか、殴り合っても俺が勝てそうだとか、そうは思うんですが、だがかなわねぇ。
 力とか、剣とか、そういうんじゃねぇんです。
 ただ、かなわねぇ」

 力で倒そうとすれば、できるかもしれない。
 一対一で、本気で戦い合えば、猩影にこそ分があるかもしれない。
 だかできない。したくない。
 打ちのめし壊す方がよほど得意で簡単なこの手だが、不器用ながらも守っていたい。
 あの硝子の桜は、刀のように敵を打ち砕く直接の力とはならないかもしれないが、砕けるところは決して見たくはない。
 守ろうと思えばこそ、己の中にさらなる力がわき起こるのを感じる。

「以来、俺は関東大猿会の猩影じゃなく、花霞一家の猩影になった。
 ここは俺が守りたい場所で、帰る家で、リクオは年下だろうがチビだろうが、俺達の大将。
 砕けちゃならねえ玻璃の桜なんだ」