「……色々、あったのね」
「京都はここ数年、抗争に続く抗争でしたからね。そりゃ、色々ありましたよ」
「猩影くんは、これからどうするの?その……お父さん、奴良組にいるでしょ」
「親父は親父、俺は俺です。こんな形で京都にいるってことはばれちまったから、そのうち、とりあえず生きてるってことを報せに行くかもしれないが、俺はここで生きていきますよ。兄貴たちもたくさんいるし、あっちは跡目にゃ困らないでしょ」

 目の届く場所に若様がなかった空白の時を、話せと言ったのは己のはずなのに、空白がちっとも埋まらず、逆に話されれば話されるほどさらなる余白が目立ってくるので、雪女は全く満足できない。
 そんな中からの悔し紛れの呟きに、気づかない猩影に誇らしげに胸をはられれば、話し手に非はないと知りつつも返す言葉を見失い、これまでの色々の中に、己の姿が全く無いのを悔しく思って、余計に心がささくれ立った。

 これからの色々の中にも、もしかしたら己の姿は無いのかもしれないと思うと、不安にも、悲しくもなった。

 迷わず、ここで生きていくと言い切れる猩影の真っ直ぐさが、羨ましくてならなかった。

 会話の中に落ちる沈黙の影の理由に気づいてか気づかずか、黙りがちになって己の指先をしきりにこする雪女に、猩影は思いもかけぬことを言った。

「氷麗の姐さんも、このままここに居たらいいじゃないですか」
「え……?」
「奴良組に居たのは、若様の守役としてでしょう。生まれた家が奴良組の配下だとか義兄弟分の家だからって、何も自分までそれに従わなくちゃならないって理屈もねぇでしょうが。ね、そうしましょうよ」
「そんな、簡単に」
「簡単なことじゃないですか。手前でここに居たいと思った場所に、いればいいだけの事です」
「猩影くん、リクオ様が奴良組の若様だってこと、忘れてるわよ。この先リクオ様が奴良組に帰って、三代目をお継ぎになることだって、あるかもしれないのに」

 捨てろと言われて、はいそうですかと言える縁ではない。
 雪女の母は、奴良組初代総大将の側近を勤めあげた女傑だ。

 二代目の奥方が身ごもられたとき、この縁を頼って、ご隠居されていた初代がわざわざ富士山麓の雪屋敷へ赴き、まだお生まれにもなっていない若様かお嬢様の守役に良い者はないだろうかと仰せになられた。

 この時に、行儀見習いも兼ねて、雪屋敷のお嬢様として育てられた彼女が本家へ仕えることとなり、それから若様がお生まれになるまでの半年間、雪女はどんな可愛らしいやや子であろうかと、毎日毎日楽しみにしつつ、どうか無事にお生まれになりますように、お母上様もどうか安産に終わりますようにと、目覚めては手を合わせ、眠る前にも手を合わせしていたものだ。
 若様が追いやられてから、守役など不要であったろうに、賄い役としての任も兼ねつつ、若様のお帰りを本家で待つのを許されたのは、二代目の奥方や若様への強い想いの他にも、守り育むものを奪い取られて半狂乱になった、雪娘への憐憫も多少あったに違いない。

 それを、このまま京都に残りたいなどと言うのは、十年も守子が不在のまま、彼女を守役として置いてくださった、奴良組と二代目への恩に仇で返すようなことに他ならない。
 奴良組あっての守役なのだ。
 守子を連れ帰る力添えこそすれ、どうして逆にここに居残りたいなどと申し上げられよう。

 抗争が終わった後も、京都の上空に宝船が漂い、二代目率いる奴良組の精鋭たちが花開院本家に在るのは、まさにこの問題のためであるのに、今この時にどうして雪女ごときが、そうしたい、などと言えただろう。
 こうしている間にも、花開院家では、奴良組から二代目と首無が、花霞一家からは副将の玉章が、花開院当主を間に、関東と京都の間で起こった抗争の手打ちについてなどと銘打って、その実、他ならぬこの一件を、事情を知る者同士で話し合っているに違いないのだから。

 若様を連れ帰る以外の選択肢を用意していない奴良組と、認めない花霞一家、両者を宥めながらも、リクオの後見人の立場から、一度母子を命の危険にさらした家へ、今度は子一人で帰すのを良く思わぬ花開院の三者が、それぞれの主張を述べながら全く譲らぬのを、話し合いと呼べるのならば、だが、ともかく結果が出るまでの間、雪女は念願の守役として若様のお世話を任されたが、軽々しくこのままここで暮らしていたいなど、冗談でも言えはしないのだ。

「三代目、ねえ。リクオにその気がありゃ、とっくに正直な名乗りをあげてたと思うけどな」
「……うん。そんなこと、わかってる。わかってるけど、今ここで認めたくはないし、ちゃんと、本人から答えを聞きたいの」

 答えは、既に聞いていた。
 花びらが掠めただけの唇を、無意識に指先でなぞりながら思い出す声はしかし、花霞大将のものだ。御姿も、立派な大妖のものだ。
 どこを探しても見あたらなかったと、己の胸を指して言った花霞大将からは聞いたが、それでも、まだ、認めたくはない。

 雪女の中で、若様は依然として、己がいつの間にやら施したらしい、氷の棺の中で、いとけないお顔で眠っていらっしゃる。
 幼い頃の面影を残した昼の御姿で、きちんと瞳を開いて、お声を聞かせて下さらなければ、どうしても納得がいかないのだった。
 もしかしたら、全く違う御姿なのだから、全く違う想いを抱いていらして、そちらのお声では、この守役と一緒に浮世絵町へ帰りたいと、仰って下さるかもしれないではないか。

「本人かぁ。……そういや、遅いっすね。墓参りだけなら、そろそろ帰ってくると思うんだけどな」

 猩影がさすがに訝り始めた頃、玄関の方から、出かけていた者たちが帰りつく賑やかさがわいわいと聞こえてきたので、「噂をすれば帰ってきたかな」と、腰を浮かして廊下の向こう側をのぞいたが、目的の大将の姿は見られない。
 ここら一帯の後始末をすっかり終わらせた面々は、さっそく風呂場へ向かったが、その中の一人を捕まえて大将の行方を聞いてみると、

「大将なら鬼童丸と祇園に行ったぜ。バイト先の様子見てくるってよ」

 そのまま見送ったが何かまずかったかと、逆に猩影に尋ねた手洗鬼は、ひんやりとした冷気が座敷から漂ってきたので、肩をすくめてすごすごと風呂場へ向かった。

「……まさか姐さんほったらかしてどっか行っちまいはすまいと思ってたんだが、ウチの大将、考えてたより、もっと朴念仁みてぇだ。すみませんね姐さん、あいつのバイト先、案内しましょうか」
「花霞一家の大将のお相手をするひとは大変ね。後朝にはすっかり姿を消されてるんじゃ、さぞかし頼りない心持ちでしょうよ」
「そんな風に唇尖らせて意地悪なこと、言わんで下さい。別にバイト先にそういう女がいるからとか、そういうんじゃありませんって。お相手もなにも、浮いた噂の一つもありゃしないんですから」
「本当かしら。信じられたものじゃないわ。見れば女怪もそれなりにいるみたいだし、元服も済んでるのに、今まで一人もそういう女が居なかったなんて、信じられるわけないじゃない。いいのよ別に、居るなら居るで、私には関係ないことだもの。好きにしたらいいじゃない。私のことなんて気にせずに、命が助かったなら好きな女のところにまっしぐら、向かって行ったらいいじゃない」
「だから、誤解ですってば。そういう奴だったら、俺たちだってこんなに気をもみませんよ。ね、確かめるためにも行ってみましょう」

 可憐な唇を、蕾のように尖らせてしまった雪女は、もう悋気を隠そうともしない。
 己の虜だと自ら宣言したくせに、己以外のものを気にしてふらふらと出歩く男を許せず、そうなると彼が奴良組の若様であるとか、一家の大将であるとか、かつては守子であったとか、お行儀の良い理屈がいっさい取り払われて、ただただ、もう一度その男を目の前にして、お前は私のものではないか、なのに許しもないままどうして目の前から消えるのかと、指を突きつけてやらなければ気が済みそうになかった。
 本当なら呼びつけてやりたいところだが、このまま畳ばかりを凍らせていても埒があかない。
 大柄な体を小さく縮めて女の悋気のとばっちりに耐えている副将が、おっかなびっくり差し出した手を、繊細な氷の手でそっと掴み、憤然と立ち上がった。

「いいわ。確かめてあげる。あんな盛大な口説き文句口にしておいて他に女なんて作ってたら、二度と私に黙って消えられないように、五臓六腑全部氷付けにしてやるんだから」


+++



 異界祇園に位置するモダンバー《PlatinumSnake》の戸口の鈴が音をたてると、中の者達は店員も客もいっせいにそちらを見やり、姿を現したのが彼だと知るやすぐに歓声があがった。

「リクオ!無事だったんだ!」
「おいおい、京都守護職花霞大将、直々のお出ましとは痛み入るねぇー。大怪我だったって言うけど、大丈夫なのかよお前」
「見た見た、私見てたよ!あの大きい船がぎょうさん妖怪どもを積んで弐條城に突っ込んでいったとき、花霞さんの姿、ちらっとだけど!」
「これこれおまえさんたち、リクオも疲れているんじゃから、そうあんまりうるさくしはるんじゃないよ。リクオ、抗争でずいぶん手傷を負ったと聞いたが、もういいんかい」

 囲まれて騒がしくされたとしても、己を歓迎してくれる者を、どれほど疲れていても邪険にするようなリクオではないので、彼の性分とはそろそろ長い付き合いの白蛇は、活気づいた店の者たちを注意して宥めようとするが、中には別の理由から彼の元を離れない者があって、そういった者たちは勝利の言祝ぎもそこそこ、むしろ彼にすがるような眼差しを向けてくるのだった。

「リクオ、俺の知り合いが羽衣狐の方についちまってたんだけど、あの通り負けちまっただろ。奴良組の残党狩りを避けて、あっちこっち渡り歩いたんだが、どこでも嫌がられてさ。もう絶対に大人しくするって、とにかく生まれ育った京都を遠く離れたくはねえって言ってるんだ、どうにか奴良組や陰陽師の奴等にとりなすことって、できねぇかな」
「うちは、母方の祖父母なんだけど、同じなの。お願いできないかな。もちろん、必ず御礼はするから」
「その、僕も」
「俺も」
「私も、従兄が」
「これこれ!」
「ああ、わかった。伏目まではこられそうかい、それならオレの屋敷に来てくれれば迎え入れるし、どこかへ隠れててそれができそうにないなら、誰か迎えを寄越そう。
 大丈夫だよ、店長。たいした傷はないんだ」
「……なら、何か食べていけるんじゃろうね」

 探るような視線の前で、実は腹の中がまだぐずぐずとどこか落ち着かないリクオとしては、下手なものを口に入れれば吐いてしまいそうな気もしたので、いやここには様子を見に来ただけで他にも行く場所があるからと、やんわり辞そうとしたのだが、

「目覚めてから、どうせ何も口にしてはおらん。店主、何か柔らかいものを与えてやってくれ。ワシは酒だ」
「おい、オヤジさん」
「はいよ。それじゃ、《幸い》朝早く仕入れられた豆腐でもあっためてやるとしようかのう。ほれ誰か、支度を頼むぞ。リクオ、せっかく顔を出したのじゃから、少しばかりゆっくりしていけ。あちこち見て回るつもりなら、ワシ等とて抗争が終わってからこの一週間、ここで京都を見守って来たんじゃ、大抵のことはお主に話してやれるだろうよ」

 連れの鬼童丸の方がさっさとカウンターの端に陣取り、さっそくグラスを傾け始めたのでは、リクオも固辞はできない。
 さあさあと同僚たちが席を勧めてくるのもあって押し切られ、鬼童丸の隣に腰を下ろした。

 幕末の動乱を生き残った強運の家屋を内装したバーは、今日の抗争をまたも生き延びたらしく、普段たいして動きもせずにのっそりとカウンターの中で座して、くるくる動き回る店員たちを見守っているだけの白蛇の、《畏》の強さを物語っていた。
 天井には霞がかかり、天井の向こう側の満点の星を映し出し、煌めきは今日の動乱を生き延びた妖たちが、さっそく酒を求めて集う様子を見守っているかのようだ。

 京都だけではない、関東までもを巻き込んで、日ノ本を震撼させた抗争であったというのに、店の客たちはさっそくこれまでの己の苦労や今後の勢力図予想を肴に酒を飲み、《強運》で守られたか店員たちも見る限りでは知った顔が減っておらず、店にはいつものようにしっとりとしたジャズがBGMに流れているので、仮にも京都守護職を名乗る花霞大将は、ここにあの抗争の日々を迎えるより前の日常を見つけて、安堵した。
 さっそく運ばれてきた、豆乳出汁の絹豆腐が、口当たりよく、久しぶりに腹の中をあたためたのも手伝って、最初は座ったままうとうとと、目を開けているより閉じている時間が多くなっていた程度だったのが、次に白蛇が気づいたときには、真新しい新聞を広げる鬼童丸の隣で、リクオはすっかり少年の顔に戻って、テーブルに突っ伏し腕を枕にすうすうと寝息をたてていた。

「騒がしい間は立派な大将ぶりじゃったが、こうしていると、年相応じゃのう」

 鬼童丸の手元で空になったグラスに、器用に口でくわえたボトルからブランデーを注ぎ足し、白蛇が顔を少しのぞき込んでも、目を覚ます様子は無い。
 この背中に、無言で己の上着を着せかけてやった鬼童丸を、冷やかすようにチロチロと舌がのぞいた。

「すっかり父親役が板についたもんじゃ。鬼童丸さんよ、アンタさんと知り合ったのは幕末の頃だったが、あの頃からは考えられん顔をしとるぞ。あの頃は、物静かなだけでその瞳ときたら奥の奥まで宿願とやらに狂う悪鬼羅刹に違いなかったが、今のアンタさんときたら、旅の聖だと言われても全く違和感がない」
「つまらん世辞は、言われて喜ぶ客に言え」
「昔のお前さんなら、今のを世辞とは受け取らなかったじゃろうよ。剣客ではなく坊主と間違えるなんぞ、恥だと言ったじゃろうな」
「うるさい奴だ、ワシは忙しい」
「新聞広げて忙しいとは」
「外の人間どもが今の京都をどう見ているか、どれほどの規模で被害が及んだのか、人間の世の方もこやつは欲深でな、何かと知りたがる。報告するにしても情報は必要だ」
「変われば変わるものよ。羽衣狐の方には、いや、鵺の方には、もう全く未練など無いかい」
「………貴様には、関わりの無いことだ」

 未練。
 問われた後の僅かな間は、むしろそれが全く無いことへの、戸惑いであったかもしれない。
 千年もの間、宿願のために寄り添い続けてきたはずの相手であるのに、不思議と、羽衣狐の存在が失われて悔しいとも、悲しいとも思えず、逆に千年もの間、何らかの言葉を交わしてきたはずなのに、何を話したのか、どんな情を交わしたのか、どれほどの縁を紡いだのか、全く思い出せぬ関わりであったことを、残念に思いこそすれ未練は無かった。

 かつては感じていたはずだ。
 鵺への未練。
 鵺が作るはずだった、光と闇が調和する世界への未練。
 鵺がまだ、陰陽師・安部晴明と呼ばれていた頃に、側近である鬼童丸にそれを語った、あの素晴らしい一瞬への、未練。
 最後の一つが、何より大きな未練であったのだが、今はもう、あの一瞬は決して帰ってこないことを知っている。
 単純なことだ。
 半妖・安部晴明は死んだ。
 光と闇の調和を求めた陰陽師は、母を人間に奪われたそのときから、人間であることをやめ、妖としての完全な復活を願う鵺となった。
 鬼童丸が求める一瞬は、決して、帰ってはこない。

 美しい都だろう、鬼童丸。
 そう、牛車の中から指し示された、平らかで安らかな京。
 主を乗せた牛車を先頭に、空を駆けた百鬼夜行。

 あの一瞬はもう、二度と。
 取り戻したかったのは、あの一瞬だったはずなのに、そのために、数多くの一瞬ずつを無駄にしてきたことこそを、今は未練と思う。


 貴方の千年、私が持って逝きます。
 どうか新たな千年、歩んでくださいな。


 たかだか二十年と少し、生きただけのはずの人の娘が失われた、己が失わせた、それこそを、未練と思う。

 今は眠る明王に、己が背負うべき業を背負わせんため、九十九の人の命を奪わせた過去こそが、悔やまれてならない。

「まあ、どういう縁にせよ、アンタさんの前ではこうやって年相応に弱くなってくれるから助かるよ。そろそろ背負うなり抱きかかえるなりして、家に連れ帰っておくれ、オヤジさんや。どうせまたこの子、無理してここまで来たんじゃろう」
「つい数時間前まで、一週間眠り続けておった」
「おいおい、そんな子をこんなところまで連れて来はったらいかんじゃろうに」
「言い聞かせて納得するようには見えなかったのでな。頭ごなしに叱りつけて聞き入れるような奴でもなし、倒れたならその場で担いで帰ろうとも思ったが、ここにきて、やっと日常を見つけ、安心したのだろうよ。そろそろ連れ帰る」
「父親も大変なもんじゃのう。とはいえ、羽衣狐を下して京都もいよいよ安泰、ほっとできるところではないかね、ん?」
「安泰、か」

 そうであってほしいなどと、らしくもない楽観的観測を持ちたがる己の心持ちこそを、鬼童丸は鼻で笑った。
 京都を覆う暗雲が晴れたとしても、母子を奴良組から追った羽衣狐の内通者はどこかで息を潜め、もしくは何食わぬ顔で事の次第に驚いて見せたり二代目の勝利を言祝いでいるのやもしれぬ。
 いかに鬼童丸が鵺の腹心、羽衣狐の信頼をある程度得ていたとしても、奴良組の誰が内応していたかまでは、流石に把握していない。そういった企みは全て、鏖地蔵の役割だった。

 抗争の果てに今こうして訪れた平和に首を傾げているのは、己だけでなく、本来の父親もそうであろうと思えば、皮肉な笑みを浮かべずにはおれなかった。

 ともあれ、今はまだ父親の真似事をする必要がありそうだ。
 息子の寝息が深いので、そろそろ本気で担いで帰ろうかと、席を立ちかけたところで、慌しく数人の猫又たちが駆け込んできた。

「た、大変だ、マスター!骸輪車の残党が!」
「なんじゃ、騒々しい。静かにせんかい」
「凛子ちゃんが、人間の子供と一緒に連れ去られたんだよ!」
「な、なんじゃとッ?!」
「あいつ等、無人の街で我が物顔に、走り回って狼藉してやがるんだ。な、なあ、花霞サンに頼むわけにはいかねーかい!」
「む、むぅ……」

 ぴくり、と、明王の指先がふるえ、閉ざされていた目がゆるりと開く。
 やれやれと、鬼童丸は諦めきった吐息。



+++



 まさか長年の宿敵である鬼童丸に思いやられているとは露知らず、奴良組二代目はまさにその頃、花開院本家に滞在しながら、煙管をがじりと噛んでぼんやりと、星灯りを見つめていた。

 花開院本家、本堂の屋根の上である。
 人も妖の気配も周囲になく、忘れられたようにただ一人、二代目はそこに寝そべっておられた。

 二代目が京都を去らない理由は、雪女や奴良組本家の者どもが心得ているように、抗争の最中で見つけた若様について、話し合うために他ならない。
 本家の中でも側近どもに絞ってしか本当のところを知らせていないので、多くの者どもには、抗争の後始末として、京都で一家を構えていた花霞への沙汰の取り決めや、最後に寝返って羽衣狐側についた者どもへのケジメを、花開院とともに行っているなどと知らせており、ほとんどの者はそれで納得して、抗争の間奴良組に加勢していた者たちは、帰り支度が整ったものから少しずつ京都を離れていた。

 もちろん事の次第は、そう簡単ではない。
 いや、最初は実に簡単そうであったのだが。





「山吹さまがお側に戻られ、若様も生きていらした。奴良組の大勝利ですな、二代目!」
「本家でお待ちのご隠居も、若様をお連れしての凱旋ともなれば、きっとお喜びです。是非先に、カラスどもを遣わせておきましょう!」

 幼い若様の遊び相手であった青田坊、黒田坊は、あの日、夜明けとともに姿を変じた花霞大将を、成長した若様であるとただちに悟り、抗争の中では敵として相対したからこそ、見事な成長ぶりに唸り、どんな経緯があったにせよ、ともかく生きていらしたのだからと喜んで、そのまますぐに関東へ飛んでいきそうな勢いであった。
 立派なしろがねの大妖から、人の少年の姿に変じるや雪女の業に凍り付いた、そのひとが何者なのかわかっていない周囲の者たちに、わからぬのか、覚えておらぬのか、若様ではないかと喜びのあまりに吹聴して、前を遮る群をかき分け、十年求めていた若様の面影に近づこうとした彼等の前に立ちはだかったのは、しかし、まさにその若様がつい先ほどまで引き連れていた百鬼の群れ。

「控えていただこう、奴良組の。敗軍の将とは言え、ここにおわすは一家の主。京都守護職花霞一家の御大将だ。見ての通り手傷を負い、前後不覚の有様にて、今すぐに今度の抗争に関わる申し開きもできない。後日、傷が癒え次第、二代目の御前にお伺いすることは、この副将玉章がお約束しよう。ここは引いていただけないか」
「な、なにを言う。その御方は、我等の、奴良組の若君ぞ。十年お探し申し上げていたのだ、申し開きもなにも、このまま関東へお連れし、養生ならばそこでしていただけばよいこと」
「いかにも。玉章とやら、今まで若君のお側でご苦労であった。だが、以後は我等がお守りする。任されよ」
「妙な言いがかりをつけて下さいますな、お二方。ここにおわすは一家の主、御大将だと申し上げたはず。それを若様だ、だから連れ帰るのは当然の権利だなどと仰せになって、連れ帰った先、我等の目の届かぬ場所で切り刻んでおしまいになるおつもりかもしらぬが、そうはいかない。御大将の傷を癒すならば、我等一家の屋敷がある。そちらへお連れする」
「な、なにをぅ?!」
「こやつ、無礼な!」
「無礼はそちらだ、我等の大将を今この場で連れ去ろうとするなど、狼藉甚だしい。人の姿になったからとて侮るな、我等百鬼こそが大将の力だ、無理にでも連れ去ると言うならば、我等が大将の剣となって阻むが、如何か!」

 羽衣狐を打ち破り、京都の闇が払われたと思ったも束の間、今度は宝船の上で奴良組と花霞一家の手勢がにらみ合い、緊張が走った。

「やめろよ、お前等、みっともねぇぞ。あちらさんの言うことも、もっともじゃねぇか。手打ちだ沙汰だのは、こういう場所でやっつけ仕事にするもんじゃねぇ。そうだろう?」

 その場を収めた二代目の一声で緊張は解かれ、花霞大将こそが奴良家の若様だったという話も噂以上にはならず、二代目は僅かな側近とともに、伏目屋敷への同行を許された。

 奴良組の大勝利。
 万々歳の大団円。
 奴良組の百鬼たちが謳うように果たしてそうであったのか、いいや、決してそんな甘い勝利でなかったのだと思い知らされたのは、不動能面を取って身分を明かした猩影に、息子の枕元より先に屋敷から少し離れた墓地へと招かれたときだ。
 御影石の立派な墓には、花霞家の文字。
 大勝利の陰で、いつの間にか失われていたものの大きさは、あの小さな肩が背負った重荷や悲哀と同じであったろう。

 幸せだったってさ。

 あの時かけられた言葉は、物言わぬ石の前でうなだれる男を、見越しての一言だったのだろう。
 形見だと言われ、そのまま持ち去るなど心苦しく、凍り付いて眠る息子の細い腕に数珠を返してから、いまだ見えぬ事の次第を問い正すために花開院の本家へ赴いた。
 簡単そうであった事が難しくなり始めたのは、そこからだ。

 花開院の当主は、十年前の冬の朝、母子が花開院の門前にたどり着いた日から今日までを二代目に物語った。京都に残っていた人々の様子を見たり、世話をしたり、母子に縁のある場所へ二代目を案内しながらであったので、これだけで三日ほどかかった。
 事細かに肩ってくれた当主だが、全てを語り聞かせたわけではない。中には、当主の胸にだけ仕舞われている、人の目のあるところで語るには何かしら不都合な真実もあったに違いない。
 それでも表向き、当主は二代目をリクオの父として歓迎もしてくれたし、連れ帰りたいと願う気持ちにも理解を示してくれた。

「帰郷はすべきじゃろう。リクオも浮世絵町の屋敷を何かと懐かしがっておった。帰れるとなれば喜ぶじゃろうのう、しかし……」
「そちらへ伺うのは、花霞リクオとして。花霞一家の大将としてだ。奴良リクオの帰参ではないと心得ていただきたい」

 当主が言い淀んだ言葉の尻尾を、象牙色の妖姿から、小生意気そうな黒髪の少年へと姿を変じた玉章がつかまえた。
 妖姿より一回り華奢な少年の姿だが、言うことに容赦が無いのは全く同じ。
 彼が言うには、幼き日に過ごした屋敷を懐かしいと思う気持ちはあれど、若様として今一度認められたい戻りたいと思う気持ちは、我等の大将にはすでに無いというのだ。

「そんな事が何故わかる、副将ごときが知ったような口をたたくな」

 花開院の当主を交えた座敷で、玉章に食ってかかったのは首無だった。
 宝船において、他ならぬリクオ自身に、その話は金輪際するなと口止めされていたのが、逆に火をつけたが、不安を材料にして燃える火など、そう大きくなろうはずもない。

「おや。大将と直にお話する機会があったと思っていたが、違ったかな」
「話なら……した」
「大将はなんと?」
「……二代目と山吹さまの間に和子さまがお生まれになったとき、跡目が二人いれば抗争の火種にもなる、と」
「いかにも。この話、なにも我等の都合ばかりを考えてのことではない。だからこそ、京都守護職花霞一家の大将こそが、かつて奴良家を追われた若君であったという話、どうかこれ以上広めないでいただきたいのだ。
 ……僕としては、奴良組の身代を手に入れれば京都だけではなく、それこそ日ノ本に轟く威光ともなろうから、広めてもらって大いに結構、過去に彼と御母堂を追いやった者たちをせいぜい怯えさせてやるがいいと言いたいところだけどね、その辺りはきっちり言い含められている」




 その辺りから、話がややこしくなってきた。

 花霞大将が、奴良の若君であったことを伏せるなら、奴良組にとって、花霞一家はあくまで最後まで日和見していた京都の弱小一家だ。雪女を通じて様々に報せは寄越してきたが、それも奴良組と羽衣狐と、どちらに付いた方が都合が良いかを推し量っていただけとも取れるし、事実、奴良組の中ではそう見ている者の方が多い。
 生き残った一家を傘下に加えるか、何かしらの沙汰を与えるかしなければ、周囲にも示しが付かない。
 この沙汰の部分を、大将が目覚め次第でなければ何とも言えぬと玉章が言うので、ではお目覚めになるまで奴良組が預かろうと首無が返し、それではまるで人質ではないかとさらに玉章が鼻で笑い、首無が冷静に怒りしながら、今日で七日。

 本人が居ないところで話も何もないものだ、二代目は途中から馬鹿馬鹿しくなって、沙汰の取り決めなどは側近に任せ、自分はこうして空を眺めながら、何か言い足りないような気がしてならぬのを、何であったかなあと腕を組んで思い出そうとなさっているのだった。

 ところが、この静かな夜をかき乱す音が近づいてくる。
 ぱらりらぱらりらと調子外れな音をたてて、京都駅の方角から御所へ向かってまっしぐら、土煙を立て、派手な色に染まった人魂や鬼火を共に走り回る一行があった。抗争は終わったというのに、いや終わったからこそ今度は我等の出番とでも勘違いしたのか、そういった輩が集団で、人の気配がすっかり少なくなった京都の街で狼藉しているらしい。
 仕方ねえ奴等だ、行ってとっちめてやろう。
 決めて、屋根の上からひらり舞い降りた二代目、遠く走る一行の先頭に、まさかと思うものを見つけて、着地しそこね、一歩、二歩、前へつんのめったついでにそのまま駆け出した。

「あのクソガキ、病み上がりで何やってやがる!」

 狼藉集団の先頭、首なしライダーと激しく切り結んでいたのは、他ならぬ、花霞リクオに違いなかった。