「凛子って、何」

 誰、ではなく、何、ときた。
 雪女の機嫌が氷点下の世界で、さらに凍えそうなほどの温度に下っているのは間違いない。
 彼女の周囲にオーロラの幻を見た男たちは震え上がった。

「凛子ちゃんてのは、店長の曾孫さんですよ。八分の一しか妖の血が入ってないから人間の世界で暮らしてるんで、学校とか、あいつと一緒で」
「ふうん、同級生ってこと」
「猩影さん、今の逆効果っす!」
「え、あ、そうか、えっと、姐さん、同級生って言ったってそんな、何でもないんで。あいつときたらあの通りの朴念仁で、浮いた噂の一つもなくって。ともかく落ち着いてください」
「そうじゃのう。たまに下足箱に入っておる手紙なんぞも読まずに捨ててるとか、凛子が言っておったわい。そこがまたいけずだが好いそうじゃ」
「マスター、店内の温度が摂氏マイナス三十度に!」
「ヒーターが凍り付きそうです!」
「やれやれ、嫉妬深い娘さんじゃのう」
「嫉妬したくてしてるんじゃないもの、私だって嫌よこんなの!」

 花霞大将の姿を探してやってきてみれば、探す男は異界祇園のバーを発った後。
 起きたばかりの体でほっつき歩いているだけでは飽きたらず、狼藉者に浚われた女を助けに行ったなどと聞いては、周囲を猛吹雪に巻き込むほどに、雪女の機嫌は急降下した。
 誰より彼女自身が、これほど暴れ狂う氷雪の力を持ち合わせていたことに戸惑い、涙声である。
 唇を噛んで耐えようとする姿が意地らしく愛らしいが、吹雪に巻き込まれる側としては、少々迷惑な愛らしさではある。
 もっとも、流石に店の主は長寿の白蛇。
 雪女の悋気ごときでは慌てず騒がず、とぐろを巻いていた座布団の下から器用に傘を取り出し、尾で支えて雪を避けているのだった。

「雪の娘さんや、まぁ落ち着きなさい。アンタさんの《虜》だと言うのなら、どこへ行ったって男はアンタさんのところに帰ってくるしかないじゃろうよ。もっと堂々としておったらどうじゃ」
「そんなの、わからないじゃない。またどこか遠くに行っちゃったら……また、会えなくなっちゃったら」
「マスター!猫又たちが動かなくなっちまった!」
「……むにゃむにゃ……今日のごはんはぁ、うわぁ、マグロだぁ♪……」
「寝るな!寝たら死ぬぞ一路猫おぉぉお!」
「うわあぁぁヒゲが凍り付いてるうぅうぅ!」
「外に運び出せ!氷を溶かしてやれ!」
「呆れたもんじゃのう。《虜》と言うより、それではまるで恋煩いではないか。男を籠絡して弄ぶ冬の女怪が、己の《虜》に恋煩いとは」
「笑えばいいじゃない!しょうがないでしょ、好きになっちゃったんだから!」
「いやぁ、笑わんよ。あの子にはアンタさんくらい気合いの入った女子の方が、きっと似合いじゃろうからな。しかしそろそろ泣きやんでおくれ、店の中をこれ以上氷付けにされてはたまらん」
「止め方わかんないもん!」
「ここで泣いておらんで、追いかけたら良いじゃろう。おい猩影や、《幸い》ここに、たまったツケの支払いとして置いていかれた単車のキーがある。どうせワシにゃ乗れるもんじゃないからのう、そのうち売り払おうと思って裏に放っておいた。娘さんを乗せて、リクオを追いかけてやりなさい」

 そうなると現金なもので、あれほど店内で荒れ狂っていた吹雪がぴたりと止んだ。

「リクオと鬼童丸が追ったが、相手は集団。リクオが百鬼を喚ぶのも時間の問題じゃ。……凛子と人間の子供のことも気になるしのう。奴等は今の京都を己等のサーキットと呼んで自在に巡っておるとか。頼まれてくれんか」
「そういう事なら、請け負った。凛子ちゃんはあれでいて我慢強い子だから、大丈夫さ、店長。
 行きましょう、姐さん」
「うん」

 慌しく出て行った二人連れを見送り、店内に残された氷雪の山に埋もれた店員たち、誰からともなく呟いた。

「あれがリクオの嫁か」
「どんな女にも靡かなかったはずやわ、あれじゃ後が怖い」
「なんかすげぇ」



+++



「ギャハハハッ、来やがったか花霞ィ!頭の言った通りだ!」
「お前、この前の抗争で大怪我したらしいじゃねぇか。バッカじゃねえの、本気になっちゃってさァ」
「そーそー、あんなの、古いジジババ妖怪どもの好きにさせときゃいいんだよ。首突っ込むから痛い目みるんだぜ、いい気味だよ、なあ?」
「違いねぇ、ぶわはははッ」
「ま、俺たちにとっちゃ、うるせぇおめぇを叩きつぶす絶好のチャンスってわけだ。おめぇ、目に見えて弱ってんじゃねぇか」
「そーんなーんで、カワイイ凛子ちゃんを助けてあげられんのーぉ?」

 式神・ヤタガラスは伏目の手勢に報せに遣わせ、手元におらず、供には剣を封じた鬼童丸のみ。
 リクオの手にあるのも、妖を紙のように斬り裂く《鶯丸》ではない、常に懐に忍ばせている独鈷杵の柄を伸ばした杖と呪符。
 彼奴等があざ笑いながら、次々投げつけてくる火炎瓶は、とっさに紡いだ真言と呪符がいくらか防いだが、どこもかしこも本調子でないのは悔しいながら彼奴等の言う通りで、げほりと一つ噎せ込むと、次から次、激しい向かい風に肺が悲鳴を上げて、真言どころではなかった。

 ひしゃげた標識を通り過ぎ折れた電柱をくぐり抜け、暴走集団は調子外れな音階を奏でながら街を駆け抜ける。リクオは借り物の二輪でもってこの先頭にしっかりと並んでいるが、顔には出さないものの、こういったものの扱いには猩影の方が慣れているので、連れてくればよかったかと今更ながら少し後悔もする。どうやら誘い出されたらしいとなれば、尚更だ。

「出直すべきだ、リクオ」

 今一度投げつけられた無数の火炎瓶を、後部座席の上に危なげなく立ち上がった鬼童丸が袖の一振りで払いながら、小声で囁く。

「今はあまりに分が悪い」
「オレもそうしたいところだがな、仕切り直すまであちらさんが待っててくれるとは思えねぇ」

 けほりと一つ、朱色の咳。
 七日眠って黄泉から生還したとは言え、それで全ての傷が癒えるものでもないと自覚はしていたし、無理をするつもりもなかったが、状況は待ってはくれない。

 星明かりだけが頼りの闇のサーキットに響き渡る、無数のエンジン音に、小さな泣き声が紛れていた。

 リクオの視線の先。
 スピード命の百鬼夜行の中心に、四台の二輪が前後左右を固めたさらにその真ん中、無人のタンクローリーの座席から声を枯らして、小さな少女が叫んでいるのだった。
 人外のものに連れ去られ、どこを見てもにたにた笑う骸や骸骨、腐乱しかけたライダースーツのお化けでは、後で夢とするにも心に傷を負うだろう。
 ママ、ママ、と、涙声で呼びながら、窓からのぞき込んでくる不気味な妖どもから目を逸らし、己を強く抱く、一回り大きな少女に抱きついて。

 しっかりと子供を抱きしめている少女の方も、恐怖に身をすくませ涙を滲ませながら、しかし人間にはろくに視界が利かぬはずの闇夜の中で、しっかりとリクオを見つめていた。
 瞳は、人にあるまじき金褐色。
 これの端に、肌をほんのり覆う白い鱗。
 人の血が濃い少女だが、抜けるように白い肌と、ところどころに現れた光る鱗、そして闇夜を見通す視界は妖のもの。

 必ず助ける。

 唇の動きだけで語りかけると、しっかりと頷き、子供を抱く両手に力を込めた。

「凛子の力じゃ、《運》だけで二人分の身を守るにも限度がある。次の曲がり角で仕掛けて、あのタンクローリーに近づく。オヤジさん、無理を承知で頼むが、近づいたところでドアを開けてくれ」
「全く無茶を言う。素手ではいささか骨が折れそうだ」
「次、曲がるぞ」

 暴走集団の動きを読んで、無人の交差点を左へ大きく曲がった拍子、リクオは曲がり角度をやや外側に円を描くようにして、乱暴に集団の中へ分け入った。
 ヘルメットとライダースーツだけの亡霊や、あちこち部品をぎしぎし言わせながら何も乗せずに走っていた二輪、骸輪車の下についていた古い牛車や駕籠などが、鬼童丸の腕に薙ぎ払われ、あるいは手加減の無い呪符と印で根こそぎ滅されると、流石に集団にもどよめきが走る。

「は、花霞、てめぇッ、レースのルールも聞かずにクラッシュ狙いたぁ、やることえげつねーぞ!」

 先頭の首なしライダーの背中の模様が、後方に転がっていく手下どもと、弱っているくせにいつになく鬼気迫る様子の大将の視線に睨まれて、言ってからごくりと背骨あたりを動かした。模様からして、ちょうど喉仏のあたりだ。
 この背中に、にたりと、リクオは笑い返した。

「どうせまたしょうもない出来レース考えはったんやろ、そんなん付き合いきれへんわ。二人、返してもらうで」

 タンクローリーに横付けにすると、すぐ横を走っていた二輪の後輪に勢いよく独鈷杵を投げつけ、哀れ独楽のように空へ舞い上がった二輪亡霊は、後続の二輪を巻き込んで背後へ消えた。

「しかも全然元気だし!弱ってるフリなんざ、卑怯だぞ!」
「人質の上にいちゃもんか。卑怯はどっちや、このすかんたこがッ。知っての通りこっちは手負いやから手加減できへんで、手負いの虎の方が怖いいうこと教えちゃる、今日こそ泣かす!」
「だ、誰だ、今なら花霞が弱ってるって言ったの!」
「頭っス!」

 真言を紡ごうにも、朱色の息では払いより穢れが先立つ。
 それどころか途中で噎せこみ、ろくに紡げたものではない。
 呪符を投げようにも足場が悪く、踏み込みが甘い。よって、捕縛よりも滅を宿した呪符が飛び交う。
 もしも人質がなかったら、人の気配が絶えた夜の京都を疾走する暴走集団など、今はあえて追うこともあるまいと目こぼししたに違いないが、カタギを巻き込んでいるとあっては、花霞大将として黙っているはずもない。
 今までも、年若い主を据えた百鬼夜行集団同士として、何かと花霞一家を目の仇にしてきた首なしライダーであったが、今このときに歴然とした格の違いを己で悟った。悟らざるをえなかった。一睨みされて眼光に射すくめられ、ああ呑まれた、と思った瞬間に、相手の姿を見失っていた。

「消えた……?」
「ば、馬鹿、消えるわけがねぇだろう、いつものヤツだ、ぬらりくらりと!」
「さ、捜せ、どこだ」

 乗っていた二輪も、そこに立っていた鬼童丸も、彼等の目からは全て消え、おろおろしている間に、タンクローリーの片側のドアが、木の皮でも剥くようにべろりと落ちた。
 かと思うと、僅かな足場に片足をかけた鬼童丸が、凛子から少女を受け取っている。
 奴はどこだと首なしライダーが ――― 正しくは、ライダースーツの背中の模様が、せわしなく視線を移してリクオを捜し、そして見つけた。
 人質を奪い返すため、タンクローリーに移った鬼童丸を守り、周囲の二輪や四駆の亡霊どもを威嚇し、杖を大きく振りかぶった姿が目に入り、今だと思ったところで、とっさに掴んでいたものをその脇腹めがけて投げつけてやった。
 吸い込まれるようにそれが刺さったところで、己はナイフを握っていたらしいと気づいた。
 目を見開いたのは、投げた方も投げられた方も同じ。
 違ったのは、笑ったのが首なしライダーの方だったということだ。

 一瞬止まった時の流れが、次には疾駆する風に押し流され、リクオは法具を取り落とし、ほんの一瞬遠のいた意識に、ハンドルを放した。

 人の目に留まらぬ速度で疾駆する列から投げ出され、アスファルトに叩きつけられては、妖の身とて無事では済むまい、そのままリクオは脳天から落ちて動かなくなるかと思われたが、そうはならない。

 すぐさま鬼童丸が身を翻し、地上に叩きつけられる前に浚ったのだ。
 何度か転がり勢いを殺したが、最後はへし折れた電柱に背中を打ち付けて、さすがに一声、むうと呻いた。

「や、やった、のか……?!」
「すげえ、頭!」
「頭がやった!花霞の野郎に勝った!勝ちましたぜ!」
「どーだ花霞!クックック、カワイイ凛子ちゃんはまだこっちだぜぇ!」
「どうしよっかなァ、そうだ、こっからもう一周、京都レースなんてどーよ?」
「そりゃあいい、京都駅に突っ込んでやるか!」
「火の海!火の海!」
「魔女凛子ちゃんの処刑だァ〜♪」

 鬼童丸が両腕に抱えたのは、一人の少女と、リクオだけだ。
 最後の一人、凛子を腹の中に抱えたまま、瞬く間にタンクローリーは暴走集団に守られて遠のいていった。

「ち、くしょ……」

 脇腹のナイフを引き抜き、鬼童丸の腕から抜け出て立ち上がりかけたが、そこでリクオは膝をつき、ひどく噎せこんだ。
 体は万全ではない。
 一度癖づいた咳は肺や胃の腑深く苛み、たまっていた血を何度か吐いた。

 七日、眠り続けた末に寝惚けて起きたようなところへ、無理に体を動かしているのだから、当然の結果だ。

「リクオ、ここまでだ。手勢が来るのを待て」
「でも、凛子が」
「乗っていたばいくとやらも、あの通り動かぬ。……ワシもしばらくは無理のようだ。今ので背骨が折れた」
「………アンタはここで、休んでてくれ。その子を頼む」

 転がり落ちた拍子に気を失った幼子を、主の命に忠実に守り抱きながら、鬼童丸は尚も問う。

「足はどうする。走って追いつく相手ではないぞ」
「京都を一周するって言ってただろ。先回りして、京都駅に突っ込む前に何としても止める。最悪、凛子だけでも助け出す。駅の方も、できれば守りたいけどな」
「その、捻った足でか」
「まだくっついてるし、動く」
「やれやれ、こやつときたら、万事においてこの通りよ。連れて行くつもりならば、二呼吸早くに襟首を引っつかむつもりで行くのだな、奴良鯉伴」
「え ――― 」

 口元の血を手で拭い、跳ねる胸をその手で抑えたリクオが、鬼童丸の視線を辿ってようやく気づく。

 捲れ上がったアスファルトの上にそぐわない、磨き上げられたハーレー・ダビットソンが一台。
 ジーンズに詰め込んだ長い足を片方、行儀悪く銀色のハンドルの上に投げ出し、その上に頬杖をついたTシャツ姿の男が一人。
 何の冗談か、羽織った黒いライダースジャケットの袖には《畏》の一文字。

「よう、花霞くん。お困りなら、乗ってく?」

 花開院本家に詰めているはずの、奴良組二代目がそこで、にたりと猫のように笑った。



+++



「僕がリクオくんに……花霞大将に下った理由だって?
 妙なことを聞きたがるんだねぇ。休憩中に親睦を深めようとする話題としては趣味が悪いと思わないか、僕だって四国では八百八狸を率いる隠神刑部狸として、夜行の先頭をつとめる主の血族だ、それがわざわざ他者に下されたときの話を喜んでしたいと思うかい」
「いや、気に障ったのなら謝る。貴殿の一属の話は古くから聞き及んでいるし、貴殿自身が夜行の主の風格であるのも理解できる。副将の座におられるのも当然だろうが、私はその、何故貴殿ほどの妖が、副将に甘んじておられるのかと、それが気になった。花霞大将に一度下されたのだとしても、わざわざ京都に残り、副将を勤めているのは不自然な気がしたまでだ」
「フン、僕が花霞大将の、つまりはあなた方の大事な若様の寝首を掻こうとしているのではないか……素直にそれを心配していると言ったらどうなんだい、首無殿。
 安心しなよ。そんな事、しやしない。どっちかと言えば僕は、今の奴良組の中に彼を放り込む方がよほど危険だと思ってやめさせようとしている身分だからね。まったく、本当にらしくないよ。どっちかと言えば相手の寝首を掻く算段をしている方が性に合ってるのに、逆の心配をしなくちゃならないんだから。まあ、おかげで、相手の出方がだいたい読める。寝首を掻こうとしてやってくる輩を逆に罠にかけるのも、逆手にとって入ってきた草に偽の情報を与えるのも、守りを固めるのも、敵が僕と同じくらいかそれ以上の策士だと仮定して備えればいいから、将棋のオンライン対戦みたいで、それはそれで面白いからいいんだけど。
 僕がいなかったらそれこそ、花霞大将の首は今頃、羽衣狐の一派に討ち取られていたんじゃないかな。花霞大将と花霞リクオが同じ人物だというのも、花霞一家と花開院の繋がりも、全部隠し通せたからこそ今日の勝利があったんだ。大将だけでも出来なくはなかったろうが、ここ数年、昼の如来姿があの調子で、考えることもままならなかったし、もう一人の副将はおよそ謀略の類には向かないし。
 それに狐との化かし合いはなかなか楽しかったな、狸の方が上だとこれから数百年は自慢できるしね。
 僕が副将ごときに甘んじているのは不自然だと貴殿は仰せだが、逆に、花霞一家の副将は僕くらいじゃないと務まらないよ」

 玉章は象牙色に輝く見事な毛並みを今は人の身に隠し、今は三つ揃いのスーツ姿で膝にはノートパソコン、傍らには携帯電話が三つ。
 清潔感を感じさせる程度に切り揃えた黒髪の奥に、油断ならない眼光が二つ。その脇の泣き黒子が女の視線を誘う。
 彼の妖姿も美しく見事な大狸であったが、こちらはまさに良く化けたもの、彼の前にあると首無は、自らが人間の街に紛れ込んだ場違いな妖怪に思えてくるのだった。
 奴良組との付き合い以外にもやる事は多いんだ、と自らが言った通り、彼は花開院当主を交えた話し合いの場以外では、こうして忙しそうに、膝のパソコンで株価とやらを見たり、かと思えば「空売り」だの「買い」だのといった電話をあちこちにかけ、折り返し違う電話からかかってきた電話を取っては愛想よく応対し、ほんの少しの休憩時間も精力的に働いている。

 何もかも、一人で賄えるだろう彼が、副将におさまっているのを不思議に思い、花開院当主が外した僅かな時間にふと理由を問うたのは、まさに、玉章が指摘したとおり、首無の中に、もしかすると副将の座から大将首を狙っているのではないかなどと、若君の身を案じるあまりの懸念が生じたからに他ならない。

「僕は、全部自分でやらないと気がすまないんだ。だから花霞一家の大将には向いていない」

 かかってきた電話の対応を追え、ぱちんと携帯を折りたたんだと同時、玉章は首無の強い視線を真っ向から受け止めた。
 自分以外の存在を目下に据える玉章の性格からして、そこで鼻で笑わなかったのも不思議だった。

 今は副将に甘んじているが、これからはどうなるかわからないと、油断のない光を称えた切れ長の瞳が、無言の中でそう語って弧を描けば、口では何と言おうとこいつはやはり腹に一物あるらしいと首無は納得できたろうし、そのつもりならばやはり、害される前に若君を何としても取り戻さねばと舌鋒も鋭くできたろうが、そうではないのが不思議で、だから調子が狂う。
 目の前の男が、見た目通りの自信家で自己陶酔の気質があるらしいのは、艶やかな見目に花開院の女陰陽師たちがこそこそと噂していても見向きもしないところや、ここ数日の話し合いの席で見せられた交渉カードの切り方から、見抜くまでもなく思い知らされている。
 相手を出し抜き己の力を見せ付けるのを好むらしい男が、己の大将の話となると、瞳の表情が変わる。

 変にへりくだって、いやいやあの大将は僕など足元にも及ばないなどと言えば、やはり何か企んでいるなと思えたろうが、そうではない、あの大将はいまいち頼りないから、僕がついていてやらねばならないのだ、と、弟の子守に疲れた兄のような溜息をつくのだ。
 そしてその溜息をついた後、なんとも甘く微笑む。

 己で口元が緩んだのに気づいたらしく、ティーカップに手を伸ばし、喉を湿らせる所作でごまかしたが、しかし瞳に落ちた、どこか幼いあたたかさだけは嘘をつかない。

 首無が考えていたよりも、目の前の男はもっとずっと幼いようだった。
 博学であるし、妖力も類稀なほど強い、しかし名を馳せた様子は無い、だとすればせいぜい幕末か明治あたりの生まれだろうかとあたりをつけていたのだが、己の大将を想ったときの、一瞬のやわらかさは、もっと幼い純粋な光だった。

「僕は自分で完璧、と思うところまでやらないと気が済まない。逆に言うと、下僕たちの仕事が実に雑に思えてね、誉めたことなんてほとんど無いよ。大将というのはそれでいいと思ってたし、実際、四国ではそれで良かったし、これからもそうするだろう」

 ところが、花霞大将の下では、それでは物足りなくなったのだと、玉章は言う。

「物足りなくなったとは、どういう?」
「大将ってのは、何をやっても誉められない。成功して当然、失敗すればそこまでの存在だと、僕も思っていた。勝って当然、負ければ離れて行くのが百鬼夜行の下僕たち。世間一般に妖とはそういうものだろう、主が強いから従い、命令をきく。怖ろしいから従い、命令をきく。でも、リクオ君は違う。もちろん僕は彼をおそろしいと思い、だから彼を大将だと思う。だが彼は、僕と百鬼夜行をぶつけ合った戦い以降、一度も力でねじ伏せようとしたことはないし、そういう意味で僕は彼を恐怖したことはない」
「妙な話だな。たった今、花霞一家の智略は自分が担っていると嘯いた貴殿が、力以外に恐怖したとは」
「彼ね、誉め上手なんだ」

 これもまた、真顔で言う。

「これまで一度も人に化けたことがなかった仔狸が、人間の子供に化けてお使いができたと言っては手放しで誉め、尻尾を仕舞い忘れた失敗には気づかぬ振りをする。おだて上手とは違うな、本気ですごいと言ってるようだから尚悪い。
 彼はこう言うんだよ、自分は自分以外の何かに変化したりはできない、だからこの仔はすごい、ってね。しかもその理由がお手伝いをしようと思い立ってだったんだから、ちょっとぐらい失敗しても何てことない、むしろ嬉しい、と。誉められるのに慣れると、不思議なもので皆、誉めてくれる人がいないと物足りなくなるらしい。いつの間にやら僕も、僕の夜行の下僕どもも、大将の術中にすっかりはまっていたわけだ。まったく、してやられたよ。居心地がいいのがさらに悔しいがね。
 これが彼の手口だと知っていれば、負けた後の手打ちの条件だとしても、京都・四国・安芸の三国同盟なんて組んだりはしなかったのに、今となっては後の祭り。
 もちろん、彼の懐に入った後ですぐ、そんな事を感じさせられる前に彼の命を狙おうと考えた奴がいなかったわけがないんだが………僕の下僕ではないよ、あの通り、彼はあっちこっちから頼られれば迎え入れてしまうから………そういうのは大抵、彼に近づく前に袋叩きだ。大将の側にはたいてい、賑やかなだけの仔狸だとか仔猿だとか犬だとか猫だとか鳩だとかの小物どもが侍ってかしましくしているんだが、そんな奴等など一蹴してやろうと思っても、小物とは言えそれぞれ皆立派な妖怪だ、彼等が阻んでいる間に大物が駆けつけるか、大将自身に捕縛されて、おしまい、というわけ。
 皆が奮起するのは、僕と同じおそれを、大将に感じているんだろう」

 二年前、五条大橋の決戦で京都守護職花霞一家に破れた、四国八十八夜行の主は、何かを思いだすような甘い視線をティーカップへ注いでいたが、ここで、部屋の片隅に羽音も高く舞い降りた三本足の鴉に気づき、双眸に燐光を燈らせ身構えた。
 鴉は、しっとりとした女の声で、たおやかに鳴いた。

『玉章、主がお喚びです。ならず者どもが、人間の少女を人質に取って京の都を疾走しています。彼等は無人のタンクローリーに少女を乗せ、京都駅にぶつける気でいます。主はあなた方に、京都駅での集合を望んでいます』
「 ――― 大将が目覚めた?で、何だって、どうしてその報せより早く、召集の報せが来るんだい」
『散歩がてらに面倒ごとを抱え込むのは、あの子にとっていつもの事。お忙しいところ、本当に心苦しいのですが、行ってはもらえませんか、玉章』
「それは勿論。お目覚め直後に、ぶり返すような真似をしてたらキツク叱ってやらなくちゃならないからね。ご苦労だったヤタガラス。他の手勢にも報せを頼む」
『わかりました。どうか急いでください』

 大鴉が漆黒の羽を広げると、風切り羽のあたりから尾にかけて、少し白く色づいている。
 花霞大将が連れていた式神であるのは知っているが、これほど間近に見るのは初めてで、首無が目を凝らしているうちに、大鴉は彼に会釈をするような所作をすると、再び天井の暗がりを抜けて飛び立ってしまった。
 白く色が抜けたところがまるで桜の模様のようにはためき、打掛を纏っているかのようだ。

 見惚れている間は無い、ともかく危急の報せである。
 二代目にもお報せして加勢をと考えた首無の前で、すっくと玉章は立ち上がり、例の見事な妖へと姿を変え、

「貴方はゆるりとしているがいい。京都の騒ぎは、我等花霞一家に任されよ」

 表情の伺えぬ面の向こうから断って、合わせた手の平から溢れ舞い上がる木の葉に身を隠す。

 またも、カッと熱が上がりそうになるのを、首無は必死に抑えねばならなかった。
 癇に障る物言いではなかった、ただ、首無の立場を理解した上での言葉だったはずだが、それが逆に悔しかった。
 あの見事なしろがねの妖を主に戴いて、夜行を往くのは、若様があのまま奴良屋敷で日々を過ごしてさえいれば、自分であったかもしれないのに。

 だがそこは、ぐっと堪えて、首無はただ、強く玉章を見つめる。

「若を ――― リクオ様を、頼む」
「言われるまでもない。僕達が《おそれ》ているのは、何より、彼を喪うことだ」

 木の葉に隠れて玉章が行ってしまってから、首無もすぐに部屋を出て、事の次第を続きの間の陰陽師や妖怪たちに告げたり二代目の姿を捜したりと走り回ったが、そうしている間中、あの立派な大妖を、あるいは夜明けと共に見えた華奢な少年を、奴良の若様として迎え入れることはもう無いかもしれないと、思わされるのだった。
 彼の危急を聞いてすぐに駆けつけられる彼の下僕たちと、自分たちと、今現在、どちらが彼の頼りにされているかを考えてみれば、自然と答えは出た。



+++



 羽衣狐の恐怖が払われたとしても、今も京都の夜は闇に閉ざされている。
 逃げ遅れて僅かに残った人々は、ただでさえ寺社などに集まり身を寄せあって、闇夜に響く人外の者たちの哄笑や、静まり返った夜を舞う鬼火人魂の類にすら竦み震え上がる日々を過ごしているというのに、今日の夜ときたらこれに加えて突風旋風がすさまじく、戸をガタガタ言わせたと思ったら風が通り過ぎたところでは火の手が上がり、かろうじて残っていた土塀や垣根が見る影もなく打ち倒されているので、いつにも増して妖しく過ぎる夜にただひたすら、気配を殺し、息を殺して、昨今では遠のいていた神仏への祈りを拙く思い出しては、両手を合わせて慈悲にすがるのだった。
 帰る家を失い京都の街を出るにも間に合わず、妖しの者たちの争いの間、花開院家に身を寄せていた人々も例に違わずで、宿坊にしつらえられた寝床で身を震わせているのだが、こちらでは少々、違う騒ぎも起こっていた。

「お願いします、行かせて下さい。きっとあの子、家に戻ったんやわ」
「落ち着いて下さい。今、外に出たって真っ暗で何も見えませんよ」
「……何の騒ぎですかな」
「当主、こちらの女性の娘さんが、夕方から姿が見えないそうで、我々も手分けして探したんですが」
「ご当主さん、外に探しに行かせてください。あの子、前から家に帰りたいって、家に忘れ物してきたって言ってたんよ。こないに真っ暗な中で、きっと怖い想いしとるわ。ここ一週間、空鳴りだとか不気味な光だとかも落ち着いてたから、大丈夫や思って外に出たんに違いないもん。でも今日またこれやろ、早く行かんと、きっと泣いとるわ」
「敷地内は全部探したのかね」
「はい、普段使っていない蔵や床下なども、全部」
「ふむ……」

 花開院に避難していた若い母親が、己の娘が見あたらないと騒ぎだしたのが夕暮れ時。
 そこから、世話役の陰陽師たちも手伝って敷地内を探したのだが、娘は見つからないのだと言う。

「見つからないのは、その少女だけかな」

 実を言うとこの時、当主の耳にも、京都の街を疾走する暴走集団と、無人のタンクローリーの話は入っており、この中から一人の幼い少女が助け出されたのも、もう一人、孫たちの同級生が取り残されたのも、これを目覚めたばかりの孫息子が追っているという事態をあらかた把握はしていたので、京都駅炎上を食い止めんがため、後ろに孫たちを従えて先を急いでいたのだが、逸る心の内側など微塵も感じさせない。
 ゆるりとした調子で母親に視線を合わせる祖父に、孫たちの方こそ後ろで顔を見合わせ、しかし人前で当主を急かすなど礼を失するわけにもいかない、仕方なく意味深げに足音をたてない足踏みをして、待つ。

「いや、凛子ちゃんもいねぇんだ。きっと一緒にいるんじゃないかと思うんだけど」

 探すのを手伝っていた男が一人、その名を出したのが決め手だった。
 当主は何度か頷き、母親に笑いかける。

「なるほどのう、では、娘さんの名前は葉月ちゃん。七歳かな」
「そ、そうです」
「なら大丈夫だ、たった今、その子を保護したと、花開院にゆかりある者から連絡が入った。直にここへ連れてくるから、大丈夫。安心なさい」
「ああ、よかった……よかった、ありがとうございます、ありがとう、ご当主さん」
「御礼なら凛子ちゃんに、それから守ってくださった神仏に申し上げるといい。さ、安心したのなら、宿坊へ戻って」

 ぺこぺこと何度も頭を下げる女が見えなくなってから、二十七代目当主はがらりと表情を変えた。
 温厚な好々爺ではない、妖しの者たちとの戦場において最前線で戦う陰陽師のものへと。

「雅次、その後、リクオからの連絡は」
「伏目明王が《鹿金寺なう》って呟いてたのが五分前ですわ。御所抜けて鹿金時ってことは、本当に洛中一周して京都駅に行くつもりなんかも。次は龍炎時とあたりつけてますけど」
「けど妖怪なんぞ、途中で飽きたらその場からどう動くかわからへんよ。京都駅まで待たんで、どっかにタンクローリーぶつけはってどかーん、なんてことだって、あるんとちゃうの?なんかいい策あるん、竜二お兄ちゃん?」
「それまでにタンクローリーから凛子を助けられればよし、だが今だにそれに至らず。なら、ゴールを京都駅にせざるをえないようにすればいいだけの話だ。福寿流ならそれができる」
「あーあ、羽衣狐との抗争で、こっちはまだ心のADSLが癒えてないっちゅーに、迷惑な話や。可愛い弟と凛子ちゃんのためやから、しゃーないけど」
「………それ言うならPTSDじゃないのか」
「あ、それそれ。流石は竜二、俺の言いたいことよくわかっとるわ」
「三文字目しか合ってないで、雅次義兄ちゃん」
「なるんだな。お前、心が傷つくとADSLに。下り50Mとかになるんだな。なってみろ、今すぐ」
「まーまー、ツッコミの暇があったら君たちもあれだ、さっき渡した要石、置きに行って。秋房も破戸も、もうみんな位置についてんだから。あとは知恩院と、最後の京都駅に置けば、金屏風には及ばないが、ま、レーシングコースを作るぐらいなら充分な結界ができる。怪我するのが嫌なら、京都駅まっしぐらに走るしかなく……」
「京都駅では、リクオの百鬼とうちが待ちかまえてるって寸法やな」
「そういうこと」
「流石は雅次義兄ちゃん。結界のことにきたら右に出るものはないわ」
「せやろ、せやろ。もっと誉めてええよ」
「流石は雅次。引きこもりが高じて金屏風結界を作り出しただけのことはある」
「そこ、うるさい」
「準備が整っておるようで、何よりだ」

 すっかりいつもの調子に戻った孫たちに、当主も僅か相好を崩した。

「妖しの者どもに追いつくのは妖しの力を持つ者に任せる他無いが、出来うる限りの力添えはするように。一切を、お前たちに任せる」



+++



「あーぁ、せーせーしたーぁ」
「全くだ、ざまぁ見やがれ花霞め、いつもいつも優等生ぶりやがって」
「うちの頭よりちょっとモテるからって」
「うちの頭よりちょっと頭いいからって」
「うちの頭よりちょっと強いからって」
「うちの頭よりだんぜん顔がイイからって」
「お前等、いい加減やめねーと怒るぞ」
「にしても頭、最後の一撃はすごかったっすねぇ!」
「そうそう、ちょっとした隙に、ビシッと決まったじゃねぇスかぁ!まぐれとは言え、すげぇっス!」
「ば、ばっかお前等、アレはまぐれじゃなくて、狙ってたのよ」
「マジでぇ?!」
「すげぇ!ぱねぇ!」
「だろぉ?!そうだろうそうだろう!いいぞお前等、もっと言え!」
「あのー、頭ォ」
「ウヒョヒョヒョ、それほどでもあるけどよォ」
「頭ってば!何か後ろから追い上げてきやすぜ!」
「そーそー後ろからって、なァにぃ?!」

 当初、花霞大将をついに下したと馬鹿騒ぎしながら疾走していた暴走集団たちだが、バックミラーに映る一つの影に気づくいたときの慌てようといったらなかった。最初は点でしかなかった影が、鹿金寺へ向かう広い二車線コースでぐいぐいと追い上げてきたと思えば、やがてはっきりと風に舞うしろがねの髪が見えるようになったとなれば、尚更だ。
 元々、人の身では走れぬような道である。
 妖の者どもの争いで、あらゆるところがぬかるみ、へこみ、隆起しているところを、まともな場所を走るにしても恐怖でしかない速度で駆けている彼等を追いかけ追いつくなど、誰ができようか。

 さらにはその影が、一瞬わき道に逸れたのかそれとも己等の方が早かったのか、見えなくなったと思ったら、すぐ脇の家屋から、倒れかけた電柱を伝って飛び降り列に加わったとなれば、怒号悲鳴が上がるのも当然であった。  ただ一人、その二輪を操っていた男だけは風を切る感触に上機嫌で、ゴーグルの向こう側の目を綺羅と輝かせ、少年のような奇声と笑い声を上げていたが。

「ナビは任せろなんて、言うだけあるねぇ、花霞くん。さっすが京都っ子、近道抜け道お手のモンだ」
「アンタもな、二代目。正直、こんなに早く追いつけるとは思わなかった」

 互いを労いあったのは、二輪を操る漆黒の影と、後部座席で片膝立ちの白銀の影。
 再び、先頭を行く首なしライダーの隣に並んだ彼に、ライダースーツの背中模様は器用にムンクの叫びそっくりの顔を浮き出した。

「は、花霞ィッ?!」
「……と、え、あれって奴良組の、じゃね?」
「ウッソ、マジ?!俺、こんなに近くで見んの初めて」

 ざわつく暴走集団に、ハーレーの後部座席から涼しい顔の花霞リクオが、手にした仕掛け独鈷杵をわざとらしく一振りさせ、長い杖にしてムンク模様の鼻先に、静かに最後通牒を突きつける。

「凛子を返せ。暴走するだけなら今は大目に見る。火事や破壊の類は困るがな」
「な、なにをぅう……クソ、クソ、てめーこそ、その忌々しい杖を引っ込めやがれッ。こうなったら京都駅もクソもねぇ、凛子ごと、手頃なところにぶつけちゃる!おいお前等、ぼーっとしてねぇで、こいつ等を叩け!引きずり降ろせ!引き離せ!」
「おぉ、やっぱそう来たかぁ。若いっていいねー。どうするの、花霞くん。この子たち、花火上げるの、京都駅まで待ってくれないかもよ」
「そこは支援を頼んだ」
「支援?」

 極道者なら、意味ありげに懐に入れた手には匕首が握られているものだが、涼やかに笑んだ花霞大将の得物は反対の手に握る独鈷杵の杖であるし、薄いシャツ一枚に、さらなる武具を隠す余裕があるはずもない。
 リクオが手にしていたのは、胸ポケットの携帯である。
 ちらりとディスプレイに目をやって、望んだ結果が得られたらしく、用がすんだ携帯をポケットに戻した。

「ぴったりタンクローリーに張り付いててくれ、もうすぐ終わる」
「終わるって、何がぁ?」
「サーキットの整備」

 その声が合図になったかのようだった。
 集団が駆け往く道の両脇に、七色に光る壁が燃え上がるように走り、遥か先までの一本道を指し示したのである。
 暴走集団の端っこについていた骸輪車の一人が、うっかりこの壁にひっかかって、「へぶぅ!」と奇声を上げ、哀れ瞬く間に後方へ消えた。向こう側の景色が透けてはいるが、この七色の光そのものが、何より硬い壁 ――― 結界であるのだ。

「て、てめぇ、何しやがった、花霞ィ!」
「酔狂に付き合うてやると言うてんのや。京都駅までに、凛子を取り返せば、オレの勝ち。そういうことだろ?」
「にゃにおう!そんじゃてめェ、てめぇが負けたら ――― 負けたら ――― てめぇ、俺のチームに入れ!そうだそうしよう!」
「はァ?何言ってんだ」
「こんな妙な術で誘導すんだ、どうせ京都駅にはお友達がぞろりって寸法だろうが!凛子ちゃんはどっちにしろ無事と、そういう魂胆だろう、え?!」
「……さすがはそろそろ長い付き合い。ようわかってはる」
「それじゃあ俺は勝っても負けても何の得もねェ!いいか、京都駅に先についた方が勝ちだ!」
「んー……まァ、ええよ」
「よっしゃあああ、やる気出てきたーーーァッッ」

 ムンクの『叫び』だった背中模様は、輪の中から勇ましいライオンがガオウと唸る色合いに変わり、ぐん、と、先頭のスピードが上がった。
 頭についていこうと後続もスピードを上げるが、ちょっとしたカーブが命取り、先ほどまでは気にもしていなかった壁の存在を忘れて引っかかり、さらなる後続を巻き込んでドミノ倒し。
 凛子が乗ったタンクローリーの守りも、これだけで半分ほど手薄になった。

 あわや巻き込まれそうになったところを、減速ではなくとっさの加速で潜り抜け、冷や汗のかわりに口笛をもらした二代目、己の背中を軽く掴んでバランスを取るリクオに、風に負けぬように問いかける。

「いいのかい、花霞くん、そんな約束しちゃってさ」
「ああ言っておけば、凛子のこと、しばらく忘れてくれるだろ。助けやすくもなる。あとは、花霞一家の運命、アンタのハンドルさばき次第じゃないかな。預けたぜ、お父さん」

 くすりと焚きつけるような笑みを耳元で聞かされて、黙っていられる二代目では、決してない。
 断じてない。ゆめゆめない。

「て、てめ、対外来種特務機関の鯉大佐をナメんなよ。あんな高度成長期も知らないバブルな若造に負けるかゴラァ!」

 二代目が前に出る、首なしライダーが追い越す、二代目がさらに加速し車体一つ分前に出る、首なしライダーが悔しげに追い上げる。
 一体一のレースなら、二代目に分のある勝負であったろうが、相手ときたらルールなどあって無きがごとしの無法者どもだ。己等を京都駅へ導く両脇の忌々しい結界が破れぬと知るや、今度は数に任せて車体を次々ぶつけてきては、二代目が操る二輪のバランスを崩そうとするのはもちろん、あわよくばそのまま七色の壁に押しつけようとするから始末が悪い。
 度重なる争いの末に荒れ果てた道、転がる障害物やこうした狼藉者の嫌がらせを、二代目は慣れたハンドルさばきでかわし、囲まれたかと思えば後部座席のリクオが杖を一振りして突破口を開き、二人の姿ときたら、まるで音速を駆ける一体の妖獣のようであった。

 初めて共闘する相手とは思えぬほど、息が合う。
 二代目が次の一手をかわすのか受けるのか、言葉がなくとも彼の息づかいと、ほんの少しの二の腕の緊張でリクオは読みとれた。
 不思議なものだと思ったのは、ほんの一瞬。
 今、頼っている背を、リクオは知っていた。
 幼い頃にしがみついた背と同じではないかと思って、そこで初めて、ああこの男は、十年前まで己が甘えていたあの父親なのだと、己が何度も助けを求めようとしたあの頼れるひとなのだと、懐かしい思い出の中の面影と重なった。
 様々な想いが去来するのを、今は考えぬように努めて、僅か後方、タイヤホイールから火花を散らして引きずられるように走る、タンクローリーを見やる。

 次第に数を減らしていく暴走集団の向こう側、片方のドアが剥がれたタンクローリーの座席に、激しく左右に揺れ上下に揺れる車体から飛ばされまいと、必死にしがみつく凛子がいる。

 タンクローリーは無人である。
 運転席には誰もおらず、また、他の二輪や四駆がそれぞれ妖化しているのとは違い、人の世に見られるそのままだ。
 ということは、己の意志で走っているのではない。
 何かが、誰かが、外から動かしているに違いないのだ。
 襲い来る妖どもの攻撃を防ぎながら、タンクローリーを操る糸を探していたリクオは、ふと思い立って、二輪が右回りに急なカーブをきったついで、低い姿勢を保ちながら、タンクローリーの車体の下をのぞき込んだ。
 すると、車体の下をのぞき込んだリクオと目が合ったそいつが、黄色く濁った目を細め、くつくつと笑うではないか。
 首なしライダーの、首から上の部分。
 フェイスカバーに目を描いたヘルメットが、車体の底に逆さにへばりついて、タンクローリーそのものを己の体として操っているのだ。

「いた」
「何がいたって?」
「タンクローリーを動かしてる、操り糸の主。あれの底にへばりついてやがる」
「そいつを退治してタンクローリーを止めるにしても、このスピードで操り糸を無くしたら、それこそどこに突っ込むかわからんぜ。厄介なこった」
「……オレがあっちに乗り込んで、ハンドル握る」
「退治してからじゃ遅い。乗り込んでから退治しねぇと、ハンドルきるにしたって間に合わねぇよ。おれはハンドル切るので手一杯だし、さすがに妖怪退治しながらこのスピード維持は難しい注文だ」
「あと一人居れば、そいつが乗り込んでから退治もできたんだがな。仕方ない、タンクローリーの操縦は諦めて、凛子を助けて飛び降りるか」
「お、おいおいおいおい。そいつぁ賛成できねぇぞ、少年」
「鬼童丸ができたんだ、オレだってやれるだろ」
「背骨、折ってたでしょうがッ。あのおっさん超強ぇんだよ、何回も戦ってっからおれ知ってるよ、それが背骨だよ、重大さがわかってんのか、お前ぇは」
「背骨に加えて肋骨の二、三本は覚悟しとく」
「待て。待て待て待て待て、待ちなさい、おいこらリクオ!お前、病み上がりだろうが、このクソガキ!」

 ついに他人を装う余裕も失った二代目の制止などどこふく風、リクオは後部座席を足場にして、開いたままのタンクローリーの座席めがけて飛び移る機会を計った。
 近くなり遠くなりするあちらの岸とこちらの距離を、少しでも見誤れば、堅いアスファルトへと転がり落ちる。妖の者でも気後れするだろう高速の世界で、リクオは捉えたほんの一瞬を逃さなかった。

 トン、と軽く座席を蹴り、危なげなく、タンクローリーの座席の中へ、着地。
 いや、着地とまではいかなかった。
 恐怖で身をすくませていた凛子に、覆い被さるように飛び込んでしまったので、目を閉じて震えていた凛子はそこで可愛らしい悲鳴をあげ、目を開ければそこで己に覆い被さったリクオが、「ちょっと失敗した。かんにんな」と甘露を含んだように笑って片目をつぶっていたので、今がどういう時と場所なのかなど忘れ、女らしい戸惑いに視線を泳がせてしまったのだった。

 さらに、二代目の息子の身を案じる想いが天に通じたか、ちょうどこの時、七色の壁に僅かに、おそらく故意的に開いた隙間から、列のやや後方へ合流した、一台の二輪があった。

 予想していなかった新手に、残り少なくなっていた暴走集団からさらに一台、わけがわからぬまま氷の薙刀の餌食になった骸輪車が脱落した。

「加勢するぜ、リクオ!」

 そう、祇園方面から東山へ抜けて合流した、猩影・雪女の二人が乗る単車だったが、これは本当に良いタイミングであったのかどうか。

 猩影が操る二輪の後部座席には、慣れぬ乗り物に苦心しながらしがみつき、さらに薙刀を振るう雪女の姿があったが、彼女の視点から、タンクローリーはやや前方にあった。
 加えて、そこから男の足がにょっきりと生えており、さらに猩影が速度を上げてタンクローリーと並んだところ、この足の主は間違いなく彼女が探していた男のものであったのだが、その男はタンクローリーの座席に、一人の女を下敷きにしていたのである。
 飛び込んだばかりのところであったので、致し方ない。ないが、男に下敷きにされて困ったように視線を逸らした年頃の少女の困惑顔と、こちらに気づいて肩越しに振り返った、求めてやまなかった男の顔を見た途端。

 ヒュオオオヲヲヲヲヲォォォ………。

 雪女の周囲が瞬時に氷河期と化すには、充分すぎる場面であったからして。

「頭!いきなり路面凍結っすううう!」
「だめだ、カーブにたえられねぇえええ」
「サーキットには魔物が棲むって、この事かあああ!」
「頭、勝ってくだせぇ!京都のシューマッハとはアンタの事だ!」
「え、シューマッハってF−1じゃね?!」

 ともかく、暴走集団の数をことごとく減らす結果になった。
 気づいてみれば走っているのは、アイスバーンに耐えた首なしライダーと二代目、それからタンクローリーと猩影が操る二輪のみであったのだ。
 流石に、前置きなしで突然凍り付いた路面には冷や汗をかいた二代目が、体勢をたてなおしたついで、

「おいおい頼むぜつららちゃん、凍らせるなら今から凍らせるって一言………いえ、何でもないです、どうぞご存分に」

 彼女の事だから、驚いたか何かした拍子についうっかり力を解放してしまったのだろうと、いつものおどけた調子でからかったが、ぎろりと逆に睨まれ、あろうことか気迫負けした。

「なんだよ加勢か花霞ィ!女の力を借りねぇと俺に勝てねえとは、やっぱりお前は腑抜け腰抜けだ、ご自慢の仲間がいねぇと何にもできねぇと来たもんだ。いいんだぜ、いくらでも助けを呼べよ、この速さについてこれる奴がどれほど居るかしらねぇけどなぁ!
 おい姉ちゃん、怪我したくなかったら大人しく………いえ特に何も用はないですすみませんでした」

 同じように、文句をぶうぶうと垂れていた首なしライダーも、二代目の隣で大人しくなり、レースの先を急いだ。
 結果、勝ちを争う二人は全く同時に雪女の気迫に負けて前を向いた。

「奴良組の二代目さんよ、なんだいありゃ」
「見ての通り雪女だよ。余計な事言うんじゃねーぞ、とばっちり食らうのが関の山だ」
「うへぁ、花霞の野郎も厄介な女を相手にしちまったもんだ。見目が綺麗でもああなりゃ鬼女じゃねぇか」

 最後の方は、後方から投げつけられた大きな氷塊が背骨のあたりに綺麗に当たり、悲鳴に変わった首なしライダー。それでもハンドルを離さないあたり、小さくともせこくとも、暴走集団を率いる頭なのであった。
 しかし、痛いものは痛い。
 悶絶するライダーを横目に、こっそり二代目は呟く。

「おっかね。やっぱ雪麗姐さんの娘だわ」

 主にガン付けとは無礼千万。
 常の彼女がそんな己に気がついたなら、恥じ入って二日はまともに顔を上げないだろうに、今の雪女にとっては、己と己が見据えた男の間に割って入る声も姿も全て邪魔でしかないらしい、申し訳ないの一言もない。
 今の彼女にとって前後のいきさつはどうあれ、追いついた男のすぐ側に女の姿があることこそが一大事である。

「ちょっとアンタ、起き抜けに私の帯までほどいておいて、挨拶もないまま今度は同じ夜に別の女を押し倒してるってどういう了見なのよ?!」
「うん?あれ、つらら、起きたのか。おはようさん。なんで怒ってはるん?」
「おはようさん、じゃないでしょッ。寝ぼけるんじゃありませんッ。か、かわいく小首を傾げれば許されると思うんじゃないわよ、ええ、許しません、許しませんともっ。いいこと、可愛さだけで此の世を渡っていけると思ったら、大間違いなんですからね!その女は一体何!」
「これ、凛子。同じ中学の同級生でこのレースの賞品。あのな、オレ、京都駅までにこいつを助け出せなかったら、あの首なしライダーのチームに下ることになった」
「はぁッ?!あの趣味の悪いダサくて臭そうなライダースーツの下につくですって?!正気?!アンタ正気なの?!わかった、まだ熱があるのね、とっとと引きずり下ろして家に連れて帰りますからね。無茶しないで言うことききなさいよ、さっきまでアンタ、死体同然だったんだから!」
「そろそろ眠いから、俺もそうしたいんやけど、その前にこいつを助けないと」

 話している間に、リクオが凛子の上から身を起こし、ハンドルを握ったので、雪女は下敷きになっていた少女の着衣の乱れがないと確かめると、少しばかり冷気を緩めた。
 同じ二輪に乗っていた猩影は、ガチガチと歯を打ち鳴らしていたところだったので、あからさまにほっと息をつく。
 今から先の心配をし過ぎるのも捕らぬ何とかの皮算用というものだが、この先このひとが花霞の姐さんになったならと思うと、少なくとも厚手のセーターとダウンジャケットを一枚ずつ、用意する必要がありそうだ。
 今週末にでもユニクロに行こうと決意する猩影である。
 夏にそんな真冬の品物を売っているわけがないだろうと、常に適切なツッコミをくれる玉章は今この場に居ない。

「助けるって、どうしようっていうの。まさか飛び降りる気じゃないでしょうね。そんな危ないこと、絶対に許しませんよ!」
「そのつもりだったけど、お前等が来てくれたからそうしなくても良さそうだ。猩影、つらら、このクルマの下にヘルメットが一匹、びったりへばりついてはる。そいつを剥がしてやれねぇかな。そいつが居たんじゃ、ハンドルも利きやしない」
「そのつもりだったって、んもう、無茶はやめて!ああ、考えただけでも怖ろしい!それに、下にへばりついたヘルメットって、そんなものをどうやって相手にしろって言うのよ。滅茶苦茶じゃないの」
「そっから、どうにか届かへんかな」
「そりゃ無理だぜリクオ、俺じゃあクルマごとぶった斬っちまうし、お前の火や姐さんの吹雪でも、クルマに害が及ぶ。ちょいと厄介だ。どうする」

 二代目と先頭を激しく争うライダーが、背中の模様だけでにたにた笑いながら、手をこまねいている彼らを嘲笑った。

「そうだぜぇ、下手にクルマを傷つけちゃ、うっかり積んだ燃料に火がついちまうかもしれねぇよなぁ。クルマの下のヘルメットだけ狙い撃ちなんぞ、流石の伏目明王さん、花霞大将と言えども無理な話だろうが。いやいや、しゃーないだろう、お前だけじゃねえって、どんな神様仏様、風神さま雷神さまでもこればっかりはなぁ、うえへへへへッ」

 神経を逆撫でする声色に、猩影や雪女ばかりでなく、人質になった凛子ですら目尻を釣り上げて、卑怯な奴だとライダーを罵るも、おそらく首なしライダーが一番に、悔しがる顔を見たかっただろう花霞大将は、ふむと一呼吸考え、次に手を打った。
 悠々と座席に座ったまま、携帯で目当ての誰かに連絡を取りつつ、凛子をすぐ側に呼び寄せいつでも飛び出せるよう、着々と何かの準備をしているらしい。

「雷神さま………なるほどな、ええこと聞かしてもらったわ、ほんまおおきに。敵に塩を送るとは、なかなかできることやない」
「え?へ?なに?」
「つらら、そのヘルメット野郎に、目印になるような長い氷をくっつけてやれないか。威力はなくていい、燃料タンクの上に、端っこが出るような、そうだな、アンテナみたいな長いやつ、くっつけるだけでええから」
「そんなことなら……狙えば、できなくはないと思う」
「頼むわ。知恩院が見えてくるまでにな、急いで。
 ………あ、もしもし、竜二兄、オレやけど。……はいはい、怒鳴らんでも聞こえとるわ、説教やったら後でなんぼでも聞くから。魔魅流もそこにおるんやろ、二人に頼みが………いや、人助けやってば、人助けはええことやって、竜二兄、いつも言うてはるやん。んでな、今からそこを通るタンクローリーが、避雷針みたいの伸ばしてるから、兄ちゃんの言言と魔魅流の雷で、それを伝って………うん、下んとこにべったりくっついてて取れんのよ、頑固な汚れが。ほな頼んだ」

 油汚れと同じ扱いをされたヘルメットは、たいした威力のない氷の矢を横っ面にくらい、ふるふると顔を左右に振って振り落とそうとするが上手くいかない。
 手足は先頭を行くライダースーツの方にしかなく、そちらが本体ゆえにヘルメットは助けを求める声も出せないものだから、されるがまま、氷の避雷針をくっつけて、フェイスカバーに情けない顔を浮かべつつ成り行きを待つ。

「こ、こらてめぇ!まだ助けを呼ぶつもりか!それでも大将かお前!」
「いくらでも呼んでええんやったな」
「いや、そうだけど、確かに俺もそう言ったけど!」

 ヘルメットのかわりに、ライダースーツの背中が烈火のごとく怒りの表情を描き、声を枯らして叫んだ。
 一行はそろそろ知恩院前に差し掛かり、道はいよいよ細い。
 府道143号線を知恩院前までやってくれば、もうそこは、出発地点の祇園の目と鼻の先。
 暴走集団を追いかけて、リクオは京都市の上半分を一周したことになる。  緩やかなカーブを描く道をさらに南へ抜ければ、京都駅まで間もなくのはずだ。
 そこまでに、タンクローリーを止めて凛子を助けだせなければ、あるいは先に首なしライダーがゴールすれば、花霞大将の負けが決まる。

 だと言うのに、焦っているのはむしろライダーの方で、リクオは頼むことだけ頼んでしまうと、激しく車体を揺らして駆けるタンクローリーの座席に、深く沈み込んで欠伸までしてみせた。

「寝るのかよ!」
「眠いとゆーたやろう、まだ本調子とちゃうんやから、かんにんせえ」
「この状況で、どんな神経してんだてめぇ!」

 暴走するタンクローリーを止める術はなく、ライダーと二代目は激しく先頭を争い、追ってきた女は鬼女のごとき形相で彼を叱りつける。
 そんな中、どこか見目に不釣り合いな幼い所作で目をこすっていた明王ときたら、我関せずとのんびりを決め込んでいるのだから、この時ばかりはライダーの一喝に誰もが同意を示したであろう。

「せやかて、昔からよお言われとる。昔の人が言うことは、守るモンや」
「そんな都合のいい故事があるなら言ってみろ!」
「果報は寝て待て」

 訊かなければよかった。
 やっぱりこいつ嫌いだ。

 もはや罵倒の言葉すら出てこずに、ライダーの背中模様がギリギリと歯ぎしりしていた時、一行が一澤信三郎帆布の店舗に差し掛かったところで、





 ――― カッ!

 一条の光が走った。





 まさに青天の霹靂。
 走った光は続いて大音響を引き連れ、大気をばりばりと引き裂いた光が過ぎ去ったときにはもう、タンクローリーの下にへばりついていたヘルメットは跡形もなく霧散していた。
 僅かな一瞬のうちに、氷のアンテナに狙いを定めた射手が、高所から雷を放って打ち抜いたのだ。

 妖どもが生まれながらに身にそなえた妖しの力ではこうはいかない、針に糸を通すにも、目を凝らして指先の慣れが必要なように、鍛錬の上に鍛錬を積んだからこそ叶うこと。
 この術を放った者たち、竜二と魔魅流は、連なる店のとある一つの屋根の上から、タンクローリーの運転席に向かって軽く手をあげた。

 うっすらと東の空が白んできた中で、二人はあっと言う間に通り過ぎたタンクの中から、リクオが手を振り返したのを確かに見た。

「よかった、リクオ、元気そうだ」
「元気なのか無理をしているのか夢うつつなのか、わかったものではないがな、洗濯の仕方は寝ぼけながらでも覚えてるものらしい」
「頑固な汚れはイオンの力で落とす。学べよ、リクオ!とか、昔、かっこつけて教えてたもんねぇ、竜二。ぷっ、リクオがちっちゃい頃、竜二の写真の眉間のしわ、擦ってたこと思い出しちゃった。ねえなんでこれ取れないのーって、本気で取ろうとしてて、かーわいいの」
「魔魅流、お前ちょっとここに屈め」
「え、なに?」

 ゴチ。

「痛いよ竜二!どうしてわざわざ頭?!」
「縮め!」
「嫌な呪いかけないで!」