タンクローリーがハンドルの自由を取り戻しのたのは、一行が八坂神社の門前を通り過ぎた頃だ。
 だが首なしライダーは、まだレースを諦めない。

「まだだ!まだレースは終わってねぇ!忘れちゃいねぇだろうなあ、花霞!京都駅までに凛子を助ければお前の勝ち!それより早く俺が京都駅につけば俺の勝ち!お前はまだ凛子を助けてねぇ、そうだろうが!」
「うん」
「へっへっへぇ、残念でしたぁ、そのタンクローリーな、ブレーキ壊してあるのよ。どぉだ、絶体絶命だろうが、大ピンチだろうが、ええ?!助けてくださーいって言えば、考えてやらないこともねぇぞこら!」
「お前こそ、忘れちゃいないか。京都駅にはオレの百鬼が待ってる」
「……ケッ、そ、それが何だってんだ、ふかしやがって!」

 東大路通をさらに南へ、七色の壁は彼等を導くように続く。
 東山五条のあたりで大きく右に曲がった拍子、タンクも大きく揺れて凛子が悲鳴を上げた。
 すぐに手を伸ばしてこれを抱き寄せたリクオは、サイドブレーキを目一杯引き上げるが、ご丁寧にこれも壊してあって効き目が無い。
 仕方なし、ハンドルを操って横転を避けたものの、タンクローリーはふらふらと尻を振りながら、五条大橋を渡る。
 惰性のみで動いているはずが、重量がありかなりの速度が出ていたため、早々には速度を落さない。
 鴨川にタンクを落とし、飛び降りることも考えたが、身一つならまだしも、凛子が居てはこれも無理だ。

 五条大橋を渡り終えれば、京都駅から真っ直ぐ北へ伸びる烏丸通もすぐに視界に入ったが、このとき、スピードメーターはやや落ち着きを取り戻していた。
 橋の起伏が上手い具合に減速を手伝ったのだ。
 余裕が生まれたところで、さらにリクオは南の空からこちらへ真っ直ぐ飛んでくる、大鴉の姿を目に止めた。

「さすがは凛子、白蛇の《強運》は、万事を平らかにしてくれるもんだ」
「え、何?ごめん、ごめんねリクオくん、私、何も役に立てなくて……」
「その反対。万事は良い方を向いてる、何とかなるさ。お迎えだぜ凛子」

 京都駅まで百鬼を導く役目を終えて、タンクローリーの中へ危なげなく舞い降りたヤタガラスは、主の意を受けて凛子の肩を危なげなく掴んだ。

『リクオさん、次は貴方ですからね』
「この乗り物、放って行くわけにはいかない、とりあえず京都駅までは操るさ。北口にはバス向けのロータリーがある、止まれなくても円を描いてもう一度走り出すくらいは、できるだろ。凛子を頼む」
『では凛子さんを安全なところまで運んだ後、京都駅に着く直前に、お迎えに上がります』
「聞き分けの無い式神や。縁者の化身っつーのも考えモンやな」
『聞き分けの無い子は貴方の方です。ああもう、お願いですから、これ以上の無茶はなしですよ。今だって貴方も《あの子》も、こんなに速い乗り物に乗ってるなんて、危なくって、見ていられないんですから』

 ヤタガラスが凛子を掴んでタンクローリーを離れた瞬間、勝敗は決した。

「畜生ッ!」

 ライダーが忌々しげに舌打ちする。
 しかし、二代目との熾烈な一位争いに関しては、勝敗の行方はまだわからぬとあって、ブレーキをかけるどころか、さらにグリップを廻した。
 フルスロットル。

「こうなりゃ、奴良組二代目、てめぇにだけでも勝ってやる!」
「しぶとい奴だねー!いい加減諦めておうちに帰んな、そろそろジャムおじさんが新しい顔を焼き上げる頃だぜ!」
「うっせぇぞおっさん!いい年こいて本気出すな、大人げねぇ!」
「おれの心はいつでも十六だ!何百年生きようと一度きりの人生、今本気出さねーでいつ出すよ!」
「ただのアダルトチルドレンじゃねーの、馬鹿じゃん!」
「馬鹿って言ったほうが馬鹿なんだぞ!やーいばーか」
「なにこのおっさんすっげーむかつくんですけど!」

 唾を飛ばしながら、さらにアクセルをかけて、烏丸通に差し掛かったところで左へ曲がる。
 内側となった二代目には、少し不利だった。
 ハイスピードで差し掛かった交差点には、まだ人通りも車通りもなかったが、乗り捨てられた乗用車や自転車、瓦礫などは散乱している。洛中に行けば行くほどこの傾向は顕著となり、二代目が乗りこなすハーレーは妖化もさせていない、ただの人の乗り物だ、横転を防ぐために僅か減速したところで、追い抜かれた。
 すかさず追いかけるが、あとは直線。
 挽回する場所は無い、ように思われた。

「よっしゃあッ、俺の、勝……へぶゅッ!」

 嬉々とした声は、突如として真正面から襲い掛かった、真昼の太陽のごとき光の波動に容赦なき接吻を浴びせられた、悲鳴にとってかわった。あわれ巻き上げられたライダーは、街路樹へ勢いよく押しつけられて無様な悲鳴をあげたというわけだ。
 首なしライダーの車体もライダースーツも、ひしゃげてへろへろになり、その場にずるずると落ちて、動かなくなった。
 この脇を、二代目がゆうゆうと通り抜け、タンクローリーが追い、さらに雪女を後部座席に乗せた猩影が、「ナンマンダブナンマンダブ」と適当な経を上げて続く。

 京都駅はもう目の前。
 京都タワーが、滑稽な悲劇を見下ろしていた。


 京都の街を駅から鞍馬まで貫いた、破邪の光こそ、花開院家に伝わる秘伝・式神《破軍》の力を借りた、花開院ゆら、会心の一撃であった。


 どうや、と、ロータリーの真ん中に陣取ったゆらが胸を貼るその脇を、二代目が危なげなくゴールイン。続いて猩影が、そして。
 ゆらも、そして彼女が率いた陰陽師たちや召喚に応じて集った百鬼たちも、これに続いてやってくるタンクローリーが、全く速度を落とさないのを見て、異変を悟った。

「ブレーキがいかれてやがんだ、外から止めるしか手はねぇ!」

 二代目に異変の理由を知らされたものの、ではどうやって止めれば良いと言うのか。
 壁を作ればこれにぶつかり炎上しよう、急激に凍らせても燃料タンクが傷つくだろう、そのようにあれこれ考えている間にも、見る見るタンクローリーはこちらへやってきて、ついにロータリーに入ってしまった。
 人も妖もなくはね飛ばす勢いなので近づけず、真っ直ぐ京都駅へ突っ込むかと思われたタンクローリーだが、段差に乗り上げたときの傾きを利用してくるりと円を描き、ロータリーに沿って走行する。
 見ればここまで来ても、リクオがハンドルを億劫そうに操っているのだった。

 凛子をゆらの側に送り届けたヤタガラスが、息つく間もなく飛び去って、開け放された座席へと飛び込んでいくが、大鴉がどんなに必死に三本足で主の腕を引っ張っても、羽ばたくたびに羽が散るばかりで主は身を任せようとしない。
 何か言い争っているらしいのは見てとれたが、そのうちに、大鴉は紙の形代に戻り、ぺらりと地に落ちた。
 所作一つで紙に戻る、式神など主の前では無力なものだ。

「鉤針女、あれを絡め取れ、少し速度を落とさせるだけでも構わん!」
「はいな!」

 このままでは、タンクが再び京都の街へ飛び出してしまう。
 百鬼を従えて備えていた玉章が、配下の女怪に指示を出し、己もまた多くの木の葉の束を操りタイヤにかませて減速を試みる。
 鉤針女の髪が、タンクローリーのドアやライトやグリップ、引っかけられるところには取りあえず引っかけて、長く伸びた髪を手洗鬼がむんずと掴む。
 鋼の強度の髪を、西日本一の剛力を持つ鬼がたぐり寄せるので、ここでようやく、目に見えてタンクローリーは減速し、ちょうどロータリーをぐるりと一周すると、来た道を戻りかけたところ、首なしライダーが今も目を回している街路樹から、もう一つ二つ、街路樹を越え、大きく傾いた電柱にフロントガラスをガツンとぶつけて、ようやく止まった。

 ほう、と息をついたのは何も、乗っていたリクオばかりではない。
 見守っていた者、皆が息をつき、ゆらも式神を仕舞うのもそこそこに駆けだした。
 今までいつだってこうやって、リクオのところへ真っ先に駆け出すのは、ゆらだった。

 通っていた小学校の放課後も、何度も一緒につとめた陰陽師の仕事を終えた後も、今も、そのはずだったが、今回ばかりは彼女より先に駆けだしていた者があった。
 雪女だった。
 かなり無茶な運転と扱いをしたのだ、これから爆発炎上するかもしれない、危険には違いないのに、炎への恐怖など微塵も感じさせず、まっしぐらに駆けていく。
 しきりに着物の裾を気にしながら、ちょこまかちょこまかと走りゆくので、ゆらが大きく駆ければ追い抜いてしまえたろうが、そうしない方がいいのだろうなと直感して、ゆらは彼女の背を見送ることにした。

 理屈はともかく、直感で正しい方向を見分ける才能にあふれた、花開院直系の娘は、この時も正しい選択をした。
 雪女は白い着物が汚れるのも構わずに、疲れきった様子で降りてきた彼女の弟を、まずは両腕で抱きしめ、迎えたのである。
 続いた緊張の糸が切れた途端、全身の力が抜けたらしい。
 その場に座り込んでしまいそうなリクオに、優しく寄り添い肩をかしながら、顔をのぞき込む彼女に、ゆらは、うん、ええな、と思った。
 どこかに擦ったらしい頬の傷や、咳の奥から溢れた赤い飛沫がシャツに散っているのを見るや、もう今にも泣きそうな顔をするくせに、強い口調で叱る雪女を、忙しい奴だなとリクオは笑うのだが、言いながら彼女を見る目が実に眩しそうである。
 恋をしているのだなと、一目でわかった。
 それは後でからかう材料に取っておくとして、まずは相手を見定め、あの娘なら、ええわ、と、ゆらは判じた。
 人か妖かなど二の次だ、リクオの相手になるならば、まず第一にリクオの大事を考えてもらう必要がある。
 連れ立って歩けば自慢ができそうだの、生活力がありそうだの、優しくしてもらえそうだの、己のために選ぼうとする女など、同じ家に連なる兄弟として願い下げなのだから。
 その点、あの娘なら。あるいは、と。

 空は淡い桃色に染まり、月も白んできた。
 朝の早い鴉たちが、さっそく、空をゆく。

「無茶苦茶よ、一週間死体やってたくせに、寝起きにこんな大立ち回り」
「するつもりはなかった。本当だよ」
「平時まで無理を美徳とする奴じゃない、なんて猩影くんが言ってたけど、全然当てにならないわね。それとも京都では、毎日が非常時なのかしら」
「嫌味なこと言ってくれるなよ。……まあ今日は、たいした供も連れないで外に出た、オレが悪かったのは確かだ。平時ならともかく、今はもう少し気を配るべきだった。抗争が終わったと言っても、まだ落ち着かないところであんな馬鹿げた祭りをする奴がいるとは、流石に思ってなくて」
「アンタ、大将なんでしょ。だったらお供に一人なんて足りないわよ、だいたいどうして私を置いて………あらやだ、ちょっと、気分悪いの?座る?どうして笑うのよ」
「いや、甘やかし方が絶妙だと思ってな」
「んもう!ふざけてるんじゃありません!」

 くつくつと笑ったが、足が萎えて己で立っていられないのは本当なので、リクオもそれ以上口答えはせず、雪女が差し出した腕を支えに寄りかかりながら、その場に腰を下ろした。

「もう、夜が明けるな」
「そうね。……お説教は次の機会になるわ。始末は皆に任せて、お眠りなさい」
「眠るの、何だかもったいねぇや」
「何を子供みたいな駄々をこねてるの。たくさん夜更かししたでしょうに」
「月の下じゃなく陽の下で、お前を見たいと思ってた。だから、もう少し、目を開けていたいんだがな……ああ、朝がくる……」

 白んでいた東の空から、一条の光が京都駅に投げかかるや、リクオは太陽の腕に妖気を預けてしまうと、光の粒を花弁のごとく従えて、その中で一人の少年と面影を重ねるのだった。

「眠い。眠りたくない。……もったいないな、ボク、もう少しだけ、起きて、つららを、見て、いたい」

 月光のような銀色の髪を、陽光に照り返る稲穂の色へ、妖しい瑪瑙の瞳を、静謐なる琥珀のそれへ、それぞれ変じたリクオは四肢もまた一回り小さな人の少年へと変わると、もうこれ以上は重みに耐えられないとばかり瞼を閉じ、こてんと雪女によりかかり、すうと安らかな寝息をたてた。



+++



 男姿から少年へと変じるや、姿だけでなく声すらも、どこか頼りなげな線の細さを匂わせ、そうなると雪女は、あれほどお会いしたいお声を聞きたい、目を開いて己を見ていただきたい、と願っていた愛しい守子の若様が、思いがけず、隠れたままだった草むらから飛び出してこられたような心持ちになって、己のそばを離れた無粋と無茶に拗ね、あれほど周囲を困らせた悋気が嘘のように消え去り、かわりに、ああ、やっぱり若様はここに隠れていらした、己を求めて下さったと感じ入り、そっと袖を濡らすのだった。
 同時に、それぞれが全く違う御姿ではあるが、眠り際、色を変えても雪女を見つめる若様の瞳にあった、焦がれるような恋慕の光はそのままであり、残念そうに呟くお声もまた、言葉の途中で変じられたので、これまではもしや二つの魂が一つの器に宿っているのではないかと疑っていた雪女も、一つの魂が二つの御姿を持っているのであろう、ではやはり、花霞大将もまた若様であるのだと、受け入れることができた。そうなると今度は、これまでの己の物言いや振る舞いが、若様に対して相応しいとは思えない雪女は、氷のおもてに椿のような赤みをぽっと差し込ませ、しかし一度抱いてしまった想いを捨てることも忘れることも、まして今更勘違いであるなどと己に嘘をつくこともできず、途方に暮れてしまう。

 ともかくここでは傷も癒せぬからと、猩影が軽々と若様を抱き上げ、祭りの始末は陰陽師どもにまかせて妖怪どもが伏目に引き上げる最中も、若様が再び床について、肌に霜を落として安らかな眠りの中、ゆっくりと傷と疲れを癒しているのを見つめている間も、これは変わらなかった。
 ただ一つ確かなのは、花霞大将に恋を告げられた嬉しさと、若様に欲されて嬉しく思えた己と、今はどちらの気持ちも優しく混じり合い、どこであろうと、この御方の側にありたいと願う想いである。
 不思議なことに、いとしい、恋しいという気持ちは、それぞれ別なもののようでいて、二つとも同じ方向を向いているものらしい。

 しかし。

 安らかにお眠りになる若様の側に侍りながら、雪女はここ数日何度もしていたように、視線を落とす。

 己は、奴良組の女怪。
 若様は自ら、己は既に奴良組の嫡男ではないと仰せになり、新たに生まれくる和子さまへの気配りすらしておられた。
 奴良組への義理がある以上、奴良組がこの御方を家に迎えるを諦めるかやめるかしてしまえば、そこで雪女と若様の縁は途絶える。考えたくもないことだが、あの宝船の上で花霞大将が言ったように、二代目と山吹さまとの間に新たな跡継ぎがお生まれになったなら、雪女はその守役をせよと命じられるかもしれないのだ。

 ぶるり、と、どれほどの氷雪の中でも単衣一枚で歩き回る彼女が、己の思考に寒気を覚えて細い体を己で抱き寄せたところで、声がかかった。

「つららちゃん、あんまり根詰めないで、ちゃんと休めよ」
「え、あ、二代目……、いつから、こちらへ?」
「いつからって」

 背後の声に慌てて振り向き、いそいそと若様の足下へ下がって畳に手をつけば、雪女の目の前で、二代目は見慣れぬ洋装に身を包み、腹を抱えて大笑いされておられる。
 己は何かおかしなことを申し上げたろうかと不安になりつつ、下から目線だけを上げて、花開院とのお話し合いはもうお済みなのですか、若様のことはどのようになりますでしょうとおそるおそるお伺いすると、笑いはさらにひどくなった。

「あの……二代目、私、何か粗相をいたしましたでしょうか」
「いやいや、粗相ってほどじゃねんだけどな、つららちゃん、さっきまでの京都半周レースにおれも参加してたこと、知ってたかい?」
「あら、いつからいらしていたんですか?」

 二代目の御姿が不意に見えなくなることも、居ないと思っていたところに御姿をあらわされるのもよくあることなので、あまり驚かず、ただ、いつ頃から見られていたやらとそれだけは恥ずかしくなったものだからそのように答えたのだが、それにもまた、大笑い。

「あのぅ……私、確かにあまり行儀は良くなかったように思います。何か、お目汚しな点、ございましたしたでしょうか」
「ぶふっ、くくくくくッ……気にしねぇでくれ。たいしたことじゃない。そうだな、帯をほどいておいて何だのと、あんな大声で言うところは、嫁入り前なのに関心しねぇな。その他は別に、さしたる問題でもねぇさ。………ぷっ、く……くくく……」
「え?あ、え?……やだ、本当にいつから」
「いやぁ、つららちゃんの迫力、久しぶりに雪麗姐さんを思い出したよ。ガキん頃、イタズラしては、このクソガキ!って怒鳴られて、追っかけられたもんだ。こいつを大事に想ってくれて、ありがとうよ」
「いえその、私、とんでもないところをお見せしたみたいで、大変失礼いたしました」
「うん、つららちゃんもああいう顔できるんだねぇと思えば、感慨深くなったよ。まだまだ弱い雪娘だと思っていたが、立派な姐さんもつとめられそうだな。安心して任せられるってもんだ」
「任せ、られる、ですか?」
「おう。そいつのこと、頼むわ。おれは一度、関東へ戻る。鏖地蔵に内応した者どもの沙汰もあるし、これ以上関東を空けるわけにもいかねぇ。花霞への沙汰は、そこの大将殿が起きあがれるようになり次第、関東へ来るっていうところまでは、花開院の当主もここの副将殿も頷いたが、それ以上はどうも駄目だ。
 確かに、羽衣狐は討ったが、十年前に若菜とそいつを追った内応者が誰かってとこまでは、まだつきとめきれてねぇ。幹部衆の誰かじゃねぇかって話もある。そこへリクオを引きずっていき、今度は命を取られましたなんてことになったら、洒落にならん。そいつにとっては、今はここが一番安全なんだろう。自慢の百鬼も、頼れる兄貴やかわいい妹も……むこうはリクオを弟だって言ってたけど、とにかく、たくさん兄弟がいるみたいだし、十年も待ったんだ、捜し当てられたんだから、関東の内憂をどうにか片づけるまであと少しくらい、待つとするさ。
 それまで、つららちゃん、リクオを頼む。
 十年分、たーっぷり、甘やかしてやってくれ」
「私………関東へ、帰らなくて、よろしいのですか?」
「帰ってきてくれねぇと困るぜ。関東をもう少し落ち着かせて、そいつを奴良屋敷に呼び戻すときには、一緒にな」
「……はい、はい!もちろんです!もちろんその時には、リクオ様のお側に!ああ、ありがとうございます、二代目、本当に、本当に、ありがとうございます!」
「頭なんて下げるなって、前にも言ったろう。雪女、お前になら安心してこいつを任せられる。たとえそいつが、うちの若様なんぞに戻りたくねぇと言っても、おれの息子にかわりはねぇ。これからも、守ってやってくれないか」

 十年前、一晩中、声を枯らし頬を涙で濡らしながら若様を探した雪娘は、今度は嬉しさに伏したままぽろぽろと霰のような涙をいくつもこぼしてしながら、膝をついた二代目の前で、何度も頷き、きっと、きっとお約束しますと、己の言霊に全ての力を注いで誓うのだった。

「お約束します、きっとリクオ様をお守りいたします。未来永劫、お守りいたします ――― !」





 雪女は、京都に残る。
 これを聞いて喜んだのは何も、雪女本人ばかりではなかった。

 花霞一家の小物どもは、「やっぱりお嫁さんだったんだ」と無邪気にはしゃいだし、大物どももまた、頼れる御方ではあるものの、それこそ花の霞のような儚さがつきまとう己等の大将に、好いた女が一人在る事、これが相思相愛であるらしき事にまずは安堵した。
 彼等は、これまでともかくも大将の悲願でもあった羽衣狐打倒を目的に、その先を考えぬようにしていたが、そうこうするうちにあの宝船の上、己等の大将が目の前で喪われようという瞬間を迎えてしまったのは記憶に新しく、これからは例え大将本人が無用だと仰せになられても、大将が少しでも何かを欲されるのであれば、それで大将を此方の岸に繋ぎ止めておけるのであれば、世界の果てまででも行って手に入れてこようと総意で決めている。けれど彼等の大将は、決して自ら、あれを手に入れたいともあれを側に置きたいとも仰せになっては下さらない。
 大将の慈愛や思慮深さには深く感じ入るものの、彼にとっては生も死もとっくに受け入れられて等しいものだったとしても、百鬼どもにとっては天と地ほどに違うものである。できればもう少し、生きて、彼等の目の届くところで笑っていてほしいと思えばこそ、あんなにも執着の薄い大将が淡いながらも確かに色づく想いを寄せる女が、側に居続けて大将の世話をしてくれるという成り行きを、諸手を挙げて歓迎したのだ。

 一家の副将二人も当然に、安堵し、歓迎し、続けてさっそくこそこそと何事かを企むのである。
 企みとはもちろん、花霞二代目がどうのという、あの事だ。

「つららの姐さんがしばらくこっちに居てくれるなら、これからリクオとイイ仲になる機会もたっぷりあるだろ。昼間は寝てても、夜は起きれるようになったんなら、これからこう、ぐぐっと親密に」
「そうなってくれなくては困る。にしても猩影くん、彼、本当に言ったんだろうね、側にいたいと」
「側にいたいってほど強くは……なんだっけ、一緒にいたい、違うな、ああそうそう、『見ていたい』だ。リクオの奴、つららの姐さんにそう言ってた」
「リクオくんにしては、上々か。奥手にもほどがあるな」
「で、次はどう手を打つのよ、玉章。流されるままに二代目作戦は全く駄目だったぜ」
「うちの大将がそんなこと、本当にできると思うのかい。たいした期待はしていなかったよ。むしろ周囲に誤解を与える方こそがあの作戦の本意」

 うちの大将と書いて、うちのコ、と、玉章は呼んだ。
 副将同士の密談であるし、もし誰かに聞かれたとしてもこれを副将にあるまじき態度とは誰も思わないだろう。
 一家で最年少はたしかにリクオにほかなら無いのだから。
 いかな小妖怪とて、リクオよりは遙かに年経ている。

「そうか?明王の方ならとっくに成人してるし、祇園でもきゃいのきゃいの言われてるぜ」
「対して、本人はまだ十四歳だの一点張り。だいたい、『見ていたい』って、側にいてほしいでも、恋人になってほしいでもないじゃないか」
「あいつの執着が薄いのはいつものことだろ」
「そこなんだよ。何が何でも手に入れたいとか、欲しいとか、手中におさめたいとか、物にしてやりたいとか、自分のものにならないのならばいっそ死ねとか、彼にはおよそ欲というものが足りない」
「最後の方の物騒なこと考えるのは、てめェくらいのもんだよ。にしても、最初はそんなモンだろ。あいつの場合は特に中学もろくに行ってないんだ、同級生とかとそういう話にもならなかったろうし、体も呪いでそれどころじゃなかったんだろうし。これからはきっと、自分のことだって考えるだろ」
「そうだといいんだけどね。もしかしたら彼、自分が彼女に好かれてるとは思っていないかもしれない」
「へ?そりゃあねえだろ、あそこまで熱烈に追いかけられまくって」
「世話を焼きたがる、守女の未練とでも思っているかもしれない」
「まさかそんな」
「君の楽観的思考を生み出す脳味噌が、時折羨ましくなるよ。あの雪娘の背を押して、押しかけ女房くらいにはなってもらわないと、今はまだうちの大将、あの娘にはどうせ別に好い男がいるだろうくらいにしか思ってないように、僕には思えるんだ」
「あー……」

 言われてようやく、猩影は思い当たる。

 確かに、御大将は自らの初恋の女だとは言っていたし、今も憎からず想っている様子であったが、ただ一人で侍っていた女に良くない噂が立つことを気にしていたし、屋敷を出るときも、追いかけられるなど考えもしていない様子で、言伝一つ無かった。ただ、起こさないでやってくれ、とだけで。
 加えて、あの暴走レースに追いついたときには、何故雪女が怒っているのか、心底わからぬ様子でとぼけた受け答えをしていたではないか。

「まさか……いや……ありうる、かもしれねぇ」

 きっと相思相愛であることに、御大将も気づいて嬉しくこそばゆく想っているのだろうと勝手に考えていたが、よく思い返してみれば、雪女は御大将に、好いているとも何だとも、告げていないのだ。そうして、告げられてもいない想いに余計な懸想をするような、つまり何かに期待をしたり、与えられてもいないものを己のものだと思い込むような展開に、御大将ほど縁遠い御方もない、ということに気づき、猩影はぽつり呟いて青ざめた。幼い頃から奪われることに慣れた身では、逆に与えられることには全く慣れていないはずなのだから。
 周囲から見れば、お互い想い合う恋仲同士にしか見えなくても、当事者たちにとってはまだそこまで行きついていないのかもしれない。

「いわば、これからが正念場だ。ともあれ、リクオくんがそんな風に、自分から何かを望んでくれたのは喜ばしい。猩影くん、君、あの雪娘と知り合いなんだろう、大将には直接言わないと通じないってこと、よくよく言い聞かせておくれね」
「おう、わかった。玉章、てめェもリクオをちゃんと焚きつけるんだぜ」
「そこは抜かりない。既に鬼童丸にも話は通してある。『孫を抱く、か……』と、結構乗り気だったから大丈夫だ」

 そこで、閉ざした襖の向こうから、鈎針女が「お二方、そろそろおいで下さりませんと」と、声をかけてきたので、二人ともすぐに行くと応じ、こつんと最後に拳を打ち付けあって、密談はお開きとなった。

 再び眠りについたとは言え、御大将が一度お目覚めになり、花霞一家の百鬼たちもほっとしたのだろう、屋敷のあちらこちらから笑い声が聞こえ、三味線を奏でて踊る者まであるようだ。京都半周レースの挙句、引き上げてきた妖怪たちに、奴良組二代目と、遅れてやってきた側近たちも交えて、宴会を始めているのだと言う。
 副将ならば官軍の将を迎えて当然。今はそれだけでなく、眠り続ける花霞大将のかわりに、奴良の若様を今もなつかしく思う奴良組二代目の側近たちが、これまでの大将の様子を知りたがっていることもあり、二人が会場へ足を踏み入れると、宴はさらに活気付いた。





 伏目屋敷で夜明けから始まった妖怪たちの宴がたけなわとなる頃、花開院本家にも、京都レースの顛末は知らされ、二十七代目は髭を撫でながら何度も頷き、最後に祖父の顔に戻って優しく笑った。

「凛子ちゃんも、京都駅も無事か。ついでに以前から街を騒がせていた怨霊も調伏したとなれば、残った人々も安堵して夜を過ごせよう。雅次の結界も見事。他の者たちもよく動いてくれた。兄弟ならではの連携と言えようか。よくやったな。葉月ちゃんも伏目明王さんに助けられたとご機嫌じゃったわ、あやつめ、ご近所のお稲荷さんの不興を買わんといいがのう」

 深夜から早朝まで働きづめであった封印鎮護の陰陽師たちは、本堂に集って当主の笑みを見てほっと力を抜き、彼等もまた顔を見合わせて小さく笑った。

「そんで、おじいちゃん、リクオはどうなるんや?やっぱり奴良組のひとたち、関東に連れていきはるん?」
「いや、我等が懸念するところ、つまり、関東においての羽衣狐への内応者の件、二代目は理解してくれたようだ。元々、これまで手紙の一通、連絡の一通が無かったのを不思議に思ってもいたらしい、嘘だと言われることはなかったよ。関東を少し落ち着かせてから、改めると言うておった。話のわかる男じゃ。いや、若く見えてもワシより年上じゃからのう、当然と言うべきかもしらんが」
「それはよかった。無理に連れて行こうとされたなら、力尽くでも阻まねばと思っておりました」
「お前の口から力尽くとはな、綺麗ごとには飽きたか、秋房」
「リクオくんの無事を思えばこそだ。竜二、お前こそ何かこそこそ企んでいたじゃないか。放水車を用意して一体何に使う気だったんだい」
「言言は量に比例して威力が増すんでな」
「……これ以上京都がとんでもないことにならずに済んでよかったよ、本当に。お前は一体何を考えてるんだ」
「お前もあの、へらへら笑った男に首を握られてみたら俺の考えてることがわかるんじゃないのか」
「相変わらず仲悪いのな、お前等。どうせブラコンシスコンなのは皆一緒なんだから、仲良くしようぜ、俺達」
「………雅次、お前………」
「………まさか、すごく変態なセリフなのにまともに聞こえるなんてな………」
「いや、俺、ノンケやで」
「ならば俺はノンケの意味を世界に問いたい」
「………まことに残念な兄ちゃんたちや、うちがしっかりリクオを守らなあかんな。にしても、良かったわ。手紙一つ、連絡一つ取ろうとしただけで、あんな強烈な刺客や呪いを放ってくる輩がまだ潜んでるかもしれんのに、そんなところへ行かせるなんて狂気の沙汰やし、それに、いいお嫁さんも見つかりそうやし、姉として一安心やなぁ」

 リクオが兄か、ゆらが姉か、その問題は幼い頃から繰り返されてきた末に、それぞれが自分の方が上であると主張し続ける関係として定着した。お互い背伸びして相手を守ろうとする二人の可愛らしい諍いなど、子猫同士が戯れているようなもの。
 ゆらの場合は、守られる者ではなく守る者になるのだという強い意志から、少年のように髪を首までに切り揃えた気合の入れようで、少しばかり優しさが過ぎるリクオを困らせる輩は、男と言わず女と言わず追い払ってきた。その彼女があの娘ならまあええわ、と続けたのだから、他の兄たちも噂にだけは聞きこそすれ、詳しくは知らぬ相手が気にならないはずはない。

「確か、雪女だったかい。あの決戦の日、リクオくんを助けてくれたと聞いたけど、信用できるんだろうか」
「二代目は、奴良家での守役だとか言ってたぜ。妖怪だし、若く見えても結構なババアなんじゃねーのか。いいのか、それで」
「人間の女でも、心ん中で何考えてはるかなんてわからんモンやろ。きゃあきゃあ煩く騒いで取り入ろうとするこんじょわるな女より、元々リクオを知っててくれたひとの方が信用できると思う。人間の方は、自分のためにリクオが何かしてくれるのを期待するこすい女しか、今まで近づいて来ぃへんかったし、まぁ、うち等の年ならそれで普通やしなぁ。ただ、リクオにだけはそれってあかんやん?あいつには、若菜さんみたくあいつのわやを叱って、いつもは甘やかせるひとが似合いやと思う。それからなぁ、竜二兄ちゃん、女はいくつになっても女なんやで。その物言い、減点」
「うん………ゆらの言うことも、一理ある。妖怪は黒で人間は白と、二元論ばかりに凝り固まっていた以前の花開院の教えなら、ならぬ、と断じていたところだろうけれど、リクオくんを受け入れてからはそうも言えなくなって来た。でも、ちょっとその、お嫁さんって、早いんじゃないかなぁ。リクオくんはまだ十四だし」
「妖怪どもの成人は十三からだって言うぜ。だからあいつ、将来の学費稼ぐのに異界祇園でバイトしてただろ。妖怪どもにも妖怪どもの秩序があるらしい。ま、昼の生活もあるから今すぐにとは言わんが、あいつが、その雪女がいいというなら、ちょいと無理にでもくっつけておいた方がこの際、いいかもな。張り合いがある方が、呪いで受けた傷も治りが早かろうし、あいつが自分から誰かを気に入るのは珍しい」
「だからって、その、子供が生まれちゃったりしたらどうするのさ」
「うわぁ、秋房、突っ込んだなぁ。別に今、竜二はそんな話してなかったのに。祝言挙げるイコール初夜と、そうきましたかぁ。えっろ」
「雅次!いやそうじゃなく、私はそういう間違いがあってはならないからと。……当主!この不届き者になんとか……当主?」
「………………………曾孫かぁ」
「………………………当主」





 もちろん、雪女のみが京都に留まるのを、喜んだものばかりではない。
 奴良家の若様が元服したあかつきには近侍となることが決まっていた、こちらも幼い頃の相手役、青田坊と黒田坊の嘆きときたら大変なものだった。

「わがぁ……ぐじっ……ざぞがじ、ざぞがじ、ご苦労ざれだんでしょうねぇ……ぐすっ、……うおお、おおん、おおん」
「みっともないぞ、青。涙と鼻水を拭け。……にしても、若様、見事な大将ぶりであらせられましたなぁ。あのやんちゃな若様がと思うと、拙僧も感慨深いものがございます。そんな若様を京都に残していくのは、本当に心苦しい。……くっ、若、若、しばし、もうしばしご辛抱なされよ、拙僧が関東へ帰って、不埒者どもをことごとく、刀の錆にしてごらんにいれますからな。それまで、ごゆっくりとお休みくださいますように」

 夜明けから昼近くまで続いた宴も終わり、奴良組一行は屋敷を辞す前に、屋敷の大将の寝所へ特別に入ることを許された。
 そこでは、夜の艶やか華やかな美しさとは裏腹に、まるでただの人の子のような頼りなさながら、その姿であれば確かに若様の成長された御姿だと納得できるその御方が、宴の騒がしさにも全く目を覚ます気配なく、苦痛を感じることのない氷の棺の中で、眠り続けているのだった。
 一行が入ってくる前まで、眠る若様の側で優しく子守歌を歌っていた雪女が、二代目を筆頭に側近たちが入ってくると、これをやめて恥ずかしそうに袖で口元を覆い、若様の足下に下がって伏したが、誰一人からかう者は無い。
 むしろ、良かったなぁ雪女、と、誰も彼もが、片時も若様を忘れず探し続けた彼女に共感を示した。
 中でも、青田坊黒田坊は若様の発見に雪女と同じく喜び、彼女がここに残るのにも一応の納得はしたものの、自分たちも残りたくて仕方がないといった様子である。
 若様が今の奴良組に帰るに帰れぬ理由を、花開院当主や花霞の副将からしっかり聞かされて、もう無理に連れ帰ろうとはしないものの、悲しさ悔しさに違いは無い。

 話の中には幼き日の若様が花開院において厳しい修行をつとめた上で、どのようにして妖の力にお目覚めになったか、その時どのような扱いを受けたのか、挙げ句に母君をいつ亡くされてしまったのかといったところもあって、聞いているうちに、さぞかしお辛かっただろう、さぞかし胸が痛んだ事だろう、その時にお側にあれずして何が近侍かとまことに悔しく思い、涙したのだった。

 今も、涙が乾いていたところへいざ若様のお顔を拝見すると、二人してしんみりと涙がわき起こってくる。
 この後、自分たちは関東へ発つことが決まっているとなれば、尚更だ。

 ふと、とある事に青田坊が気づいて首を捻る。

「お小さいとは思っていたが、あれから十年だろう。十四の男子となりゃあ、もう少し大きくてもいいんじゃねえのかい」
「聞いていなかったのか、青。若様は羽衣狐の呪い、花開院へ向けられた早世の呪いを一身に受ける、身代わりの形代の御役目を自らお引き受けになっていたのだ。普通の子供と同じように飲み食いできたはずもなかろう。不憫なことよ」
「ぞ、ぞんな……わ、若ぁ………おいだわじい……ッ」

 大きななりで一番に涙を溢れさせる青田坊に苦笑しつつ、毛倡妓は隣で同じく庭を望んでいた首無に、ねえ、と声をかけた。

「気づいた?庭のこと」
「ああ。……似ている。奴良屋敷に」
「あの枝垂れ桜の若木、ここの小物たちが見つけてきたんですって。茶釜狸が胸を張ってたわ、詳しく言われなくても、御大将が本当に望むものを差し上げるのが我等の役目ですから、当然のことです、だって」
「……悔しいな、余所者に、そんなことを言われるとは」
「そうね。でも、ここでは私たちの方が余所者なのよ。若様の十四年の人生の、半分も知らないんですもの」
「だから、何だって言うんだい。これから十年、私たちが側にいれば、人生の半分以上を知っていることになるじゃないか。気長にいくさ。気長にね」
「ふふっ、年とっちゃって」
「焦ったって仕方がない。……でも二代目、本当にいいんですか、若様にもう一度、会っていかなくて。昨晩会ったって言っても、また騒動の中でしょう、たいした事は話せなかったのでは?」
「うん、まぁな」

 今は《畏》の一文字が袖についたジャケットを肩にかついで、洋装にはややそぐわぬ煙管をふかした二代目だが、昨晩花開院の屋根の上で同じように煙管をふかしたときよりも、少しさっぱりしたお顔をしていらした。
 少なくとも、ここ連日、思い詰めるような顔をしていたのが、いつもの、へらりとした笑みを浮かべているように、側近たちには見えたのである。

「捜し当てた後、言うことはこの十年、たーっくさん考えてあった。時間かかってごめんなって言って、連れて帰ることばっかり考えてたからよ、詫びもいらねぇ、恨みもねぇ、ついでにこれは母さんの形見だから持っていけなんて、さっぱりした顔で言われるとは流石に思ってなくて、ちょいと落ち込んだけど」

 庭に面したこの部屋で、息子は何度、あの桜の花を見たのだろう。
 何度、雨音を聞いたのだろう。
 何度、月を、星を見て、何度、笑って、泣いて。

 そんなことを考えてみると、言いたかったはずの何かは、そんな当たり前の毎日の積み重ねの前で、まるで無力であると、二代目は気づいた。
 けれど言いたかったことも当たり前の事ならば、過ぎた季節の中にも、これから訪れる季節の中にも、ちゃんと潜んで囁いてくれるものだろう。

「今更面と向かってお涙頂戴の再会芝居もしゃらくせぇ。どうせ一緒に住んでたって、たいした事を話せないのは同じだし、けど、そういうたいした事を話さなくていい毎日ってのが、家族の縁を作るんだとしたら、今の状況で何を言ったって、こいつに気を使わせるだけだよ。けどよ、何があったって、おれはこいつの父親だ。そんなこたぁ、それこそ今更言うほどのことでもねぇし、確認する必要もねぇだろう。ともかく今は、こいつが安心して帰ってこられるように、関東平定につとめる。そう思ったら、なんかふっきれた」
「アンタの場合、少しくらい落ち込んでくれてた方が、大人しくてこっちは嬉しいんですけどね。そういうことなら、まあ、わかりました。
 鬼童丸については、どうあっても納得いきませんが」
「こらこら、そんなこと言ってやるなよ、首無」
「二代目は、信じられるとお思いですか」
「ああ。信じよう。伊達や酔狂で背骨折ってまでこいつを守りはしねぇだろう。奴さん、本物だよ」
「改心したと?あの男が?馬鹿な………」
「長く生きてみるもんだねぇ、まさかと思うことに出くわすと嬉しくなるよ」
「あの男と、何をお話になったのです」
「んー……そこは、お父さん同士のナイショ」

 いつものようにまた、へらりと笑う二代目に、首無はまた何か口を開きかけたが、やめた。
 見かけより、二代目の瞳が笑えていないと気づいたのだ。
 笑うよりも、本当なら今は、一人どこかで、空を仰いでいたいのかもしれない。

 細い雨が降っていた。
 枝垂れ桜の葉が、ぽたりと水滴を落として優しく揺れる。

 ひたり、ひたりと雨が大地に染み込んでいく音を聞きながら、二代目はその内緒話を思い出す。
 これから己もこの音を、あの男が語ったように思いながら聞き続けることになるのだろうと、思った。

 これからどんなに永く生きようと、この雨音は決して忘れないだろうと、思った。