夜明けから始まった宴に、奴良組の側近たちがもてなされ、たけなわとなった頃、二代目は途中で抜け出された。
 向かった先は、同じ屋敷にいながら宴に顔を出していなかった、鬼童丸の元である。

 妖は人とは違い、少しばかり血を多く流そうとも、命に関わることはない。
 帯びる妖力が大きくなればなるほど、その特徴は顕著で、二代目の父君、初代奴良組総大将などは、四百年前、二代目がまだお生まれになるより前に、母君を救い出した見返りとして羽衣狐に生き肝を抉り取られ食われたが、今でもまだピンピンしているほどだ。

 鬼童丸もまた、酒呑童子の子として生まれながらに強大な妖力を持つ妖である。
 背骨を折ったぐらいで生死に関わるのならば、何度も彼と剣を交え《畏》をぶつけ合った二代目も、これまでの戦いでさほど苦労せずに済んだろう。
 案の定、抜け出した宴の席では誰も、二代目が気配を殺して姿を消したことすら気づかなかったというのに、鬼童丸は己の部屋にゆらりと二代目が爪先を踏み入れるまさにその時、視線も上げぬまま、「部屋に入るときにはまず入ると一声かけるものだぞ」と、行儀の悪い若衆に向けるような口調でこれを咎めた。

「休んでるかと思って遠慮したんだよ」
「そろそろお主が来る頃かと思うて、待っておったのよ。今少し待て、これを終わらせてしまう」

 それでも流石に布団に身を横たえて休んでいるかと思ったら、まるで怪我などなかったかのように、窓際の文机の前に座している。
 とは言え書き物をしているのではない。
 脇に鳥籠を置き、文机の上で一羽の鳩の翼に、綺麗な包帯を丁寧な手つきで巻いているのだ。

「先日以来の抗争に巻き込まれて、羽根を痛めているところを拾ってな。飛べるようになるまで面倒をみておる」
「……へえ、優しくなっちゃって、まあ」
「そういう心持は理解できぬが、京都は花霞の懐、そこに落ちているものは花霞のものと思えと、あやつが言うのでな、なれば粗末にもできまい」

 二代目の体躯が竹のようにしなやかな強さを持つそれだとしたら、鬼童丸は年経た楠の巨木である。
 がっしりと安心感のある体に着流しを纏い、それが慣れない手つきで、強面に四角い老眼鏡を鼻にかけ眉を寄せながら、握りつぶしてしまいそうな小鳩の怪我を癒してやっているのだから、二代目でなくともこれを見れば、からかうにもからかえず、奇異なものを見る目を向けただろう。この屋敷でそれをしないのは、百鬼を束ねる幼い主くらいのものだ。

 不器用ではあるが、本人としてはまあ満足できるところに達したらしい、うむと一つ唸ると、鬼童丸は小鳩を籠に戻し、ゆっくりと二代目に向き直った。
 少し動きが緩慢であるが、知らなければ、誰もつい昨夜この男が背骨を追ったばかりとは思うまい。

「背骨折れたって聞いたけど、大丈夫なのかい」
「鈎針女に縫わせた。骨はつながっておる。今これからお主や羽衣狐ともう一度やり合えと言われれば、多少不利やもしれんな」
「 ――― まさかアンタが、リクオを守っているとはねぇ。何はともあれ、礼を言っておこうか」
「その言葉、受け取る必要はなかろう」
「素直じゃないこって。前の時代に会ったときよりも、少しは話せる奴になったような気がしたが、こりゃ勘違いだったか?」

 鬼童丸は押し黙る。
 誰もが知る通り、口数の多い男ではないし、二代目とは何度も剣を交えた間柄だ、油断のならぬ相手を前にすれば尚更に、言葉少なになるのは当然だろうが、この時の沈黙の理由は、そればかりではなかった。
 雨か、と、ぽつり呟いた鬼童丸の声は、二代目が思わず己の耳朶を震わせた声の主を、初めて見るかのようにまじまじと見つめてしまったほど、小さく震えて、憂いと苦々しさに満ちていた。
 まるでこれでは、ただの老年に差し掛かった、男の声だ。

 いつの時代に対峙しても、常に宿願とやらのため、ぎらついた目と、雄々しい声を持った男のはずだった。
 その反面、その目の光は、ありし日のままで凍りついて、他の何も映していないような、虚ろな男のはずだった。
 このように、庭で跳ねる雨粒に耳を澄ませ、物思う雄弁な沈黙を帯びる男では、決してなかったはずだ。

 二代目は待つことにした。
 降り始めた雨に、庭の置き石を穿つ軒先の滴が、障子の向こう側で誰かが足踏みしている様子を連想させる。

 雨戸を閉めようか、と、二代目が気を利かせ、腰を浮かしかけたところで、

「………足音のようであろう」

 遮るように、鬼童丸はぽつりと言った。
 二代目はそのまま、座り直す。
 目の前の男が降りしきる雨を見ていたいような素振りをするのを許し、こちらを見ずに済む理由を、残してやるために。

「雨が降るとな、あやつはこうして雨を見ておるのよ。昼だろうと夜だろうと………夜も明け切らぬ、朝早くであろうとな」

 男はやはり、無口には違いなかったが、二代目は待った。
 待つことには慣れていた。
 目の前の男の沈黙が、以前とは違い、宿願に目を覆われ語る言葉を持たないためではなく、目を開いた世界の色彩の多さに戸惑って、何から口にすればよいものか、戸惑っているがゆえの沈黙であることも、鋭く感じ取っていたので、待つのは苦痛ではなかった。

 しとり、しとり、と、細雨が夜明けの霧のごとく、立ち込めている。
 夜明けはとっくに迎えたはずだが、太陽が薄い膜のような雲の向こうから、雨に濡れる京都の街を照らしていても、二代目は敏感に、この男に全てを語らせなければ京の夜は明けないだろうことも、嗅ぎ取っていた。

「会ったばかりの頃は、何を考えてそうしておるのかなど気にもしなかった、そういうものなのだろうとばかり思っていたことを、縁や情とは不思議なものだな、そんなことをしていては、炎を操る身なれば寒気に体を壊すだろうにと思うようになった。数百年、同じ宿願を追っていた朋輩どもの好みすら、よく知らぬ、さして興味もなかったワシがな、そんな事はやめよと、師匠面で言ったのよ。あやつはわかったと言って、その時はやめるが、また気がつくと雨戸を開けはなって、柱に背を預けて雨に濡れる庭を見ている。理由を聞くと、雨が好きなのだと、そう答えた。ワシもそれで納得し、そのときはそれ以上、踏み込みはしなかった。妖が雨で身を少々冷やしたところで、まあ、死にはすまい、とな。
 ところが、知り合って二、三年して、あやつが狐の呪いに床につくようになった。そうなってからも、同じことをしている。これには流石に苦言を呈した。夜の妖の身なればまだしも、狐の呪いに参っている昼の人の身で寒気に身を任せれば、それこそ命にも関わろう。
 すると初めてあやつは、本当の理由を話した。
 好きなのではない、嫌いなのだと。雨戸を閉じて、目を瞑っていると、足音のように思えて、目が冴えてしまうのだとな。
 誰が来たところで、寄せ付けはせぬから安心しろと言い聞かせても、やはり首を横に振る。
 己の命を狙う者ならば、足音などたてずにやってくること、その頃すでに、あやつは知っておった。あやつが言った足音の主はな、死んだ母であったり、生き分かれたお主であったり、そういう、会いたい者の足音なのよ。
 来てくれたのではないかと、期待してしまうより、雨が止むまで見ていた方が、落ち着くのだそうだ」

 ぴちゃん、ぴちゃんと、激しく不規則に土に跳ねる雨音を、駆けてきてこの屋敷を見つけた父の足音ではないかと。
 あるいは、続く雨と霧の向こうから、優しい母が何かの間違いでやってきて、突然の雨に困って雨戸を叩いているのではないかと。

 期待するより、戸を開けてどこまでも続く誰も居ない景色を見るより、最初から、雨の庭を見つめ続けていた方が、心が安らかを覚える。いつまでたっても諦めの悪い子供の己を律するための策なのだと、己を早く大人にさせた巡り合わせに恨みの一言も漏らさずに、あの頃の、今よりもっと幼かったリクオは、鬼童丸が知るどんな老成した妖よりも人よりも、大人びた顔で、苦く笑った。

「父と呼んではくれるが、それらしい事を何一つ、してやれたとは思えぬ。理由を聞いて以来、やめさせる事もできず、ただ同じようにこうしてな、雨を見るようになった。それを、供ができたと喜んではいたが、それすら、ワシへの方便であったかもしれん。
 それでもな、そんな男を父と呼んでくれるのよ。
 父親など真似事ですらやったことはないが、そう呼ばれている間は、あやつの父はこのワシよ。なれば、当然のことをしたまで。今更お主に、礼をいわれることではない。
 千年。宿願のためにワシは時を過ごした。だがこの十年、たった十年だが、千年の重みに勝る。その重みを、 あやつは一人で背負うておる。背負わせたのはワシよ。背負うた荷を運ぶ道中の地均しくらいは、して当然のこと。
 お主から、礼を受け取る筋合いは無い」
「……父親だってんなら、おれだってそうだ。京都であいつにに会ってからはまだ、一回しか呼んでもらってないけどさ、おれだってあいつの父親、やめる気はねぇぜ。元々、見つけたらその場で連れ帰る気だったんだ、それがどうしてなかなか、立派な大妖になっちまって、計算の狂いっぱなしよ。
 おおとも、この十年、それこそ雨ん中で泥だらけになって探したことだってあらあ。今度こそ二人を見つけて連れて帰るぞって、好物たらふく食わせてやるぞって、思いながらこっちだって何度も裏切られてんだ、帰る気はありません帰す気もありませんと言われて、はいそうですかとお行儀の良い返事してるようじゃ、任侠なんざつとまんねぇ。
 どういう十年だったか知らんが、辛い十年だったなら、これから少しずつ埋めりゃあいい、楽しいこともある十年だったなら、それはそのまま縁を繋いでいりゃあいい、話し難いことがあるなら、ちょっとずつ、話せるときに話してくれりゃあいい。どうあったって、あいつはおれの息子だ。一度、いや、二度失いかけたものが、目の前にあるってのに、どうして手放せる。
 おれはこれから、あいつを散々甘やかすと決めてるんだ」
「どうあっても、父親である、か………」
「当たり前だ」
「何があっても、何を見ても聞いても、そうであると思えるか」
「そういうもんだろ。それともお前さんは、今からほいほいと親父をやめられるってのかい」
「………そうだな、やめられは、せんな」
「だろう。おれだってそうよ」

 雨は降り続く。
 あの日のように降り続く。

 あの日、慟哭を覆い隠した雨は、同時に一切の光も雲に遮り、世界とはこれほど暗いものだったかと、鬼童丸は初めて目を開いたような戸惑いを空へ向け、濡れそぼっていた。
 雨が止む頃、深い嘆きも慟哭も、何もなかったかのように姿を現した息子は、やはり鬼童丸を、父と呼んだ。


 ……ずっとここに居たの、父さん。
 風邪、引いちゃうよ。帰ろう。
 それから。
 昨夜の話、父さんとボクだけの秘密にしよう。
 だからもう、誰にも言わないで。


「沈黙を約束したとき、あやつは、父と己の秘密だとそう言った」
「おれだって、あいつの父親だよ。だからな、その秘密ってやつ、おれにもお裾分けしたらどうだい、鬼童丸さんよ」
「何があっても、か」
「何を聞いても、だ」
「お主の息子は最近、伏目に住まう明王と評判でな。業魔や外道を調伏し、これほどまでに明るくなった平成の世においても霊験あらたか、信仰すら集めておる。そうなった所以、聞いたか」
「いいや、誰も話しちゃくれなかったが」
「そうであろう。表立って知る者は、ワシぐらいのものと、そういうことになっておる」
「花開院のじいちゃん、当主は何か知ってる風だったが」
「それもそうであろう。何も知らずに受け入れる凡愚ではない、あの御仁は」
「何を、隠してるのか、話してくれるんだろう?」

 雨を見つめ続けていた鬼童丸は、やがて眼鏡を取り懐に仕舞って、

「……散歩に付き合え、二代目」

 両腕に力を込め支えにして、立ち上がった。
 ここで話す気は無いらしい、気を持たせる奴だと呆れながらもついて行くと、鬼童丸がゆっくりとだが歩くところを廊下で見かけた小物どももまた呆れ顔で、「鬼童丸さま、ご無理したらまたリクオさまに叱られますよ」「一体どちらへ行かれるんです?」などと、あれこれかしましくするのだが、鬼童丸が一言、御堂へ行くとだけ言うと、しんと静まり返ってそれ以上は何も言わなかった。
 忌み深き場所らしい、それだけで怯えた様子を見せる者もあった。

 鬼童丸の案内に従って勝手口から山に入り、傘を差して小半時も歩いたろうか、その先で、二代目は小物どもの怯えの理由を知る。

 伏目屋敷の目と鼻の先に、夏だと言うのに木々が痩せ細り枯れ果てた場所がある。
 そこに、粗末ではあるがたしかに御堂らしきものが、ぽつんと立っていた。

 ぶるりと、寒気がする。

 もう夏だというのに、足元から、這い上がってくるような何かがあった。
 雨のせいではない。
 京都に再び螺旋の封印を敷いた今では、全ての祟り場が払われていることだろう、ここも例外ではないから、枯れていた木にもほんのりと緑に色づく新芽が宿り、ぬかるんだ泥もあちらこちら固まって、新しい草の芽が見えてきているのだろうが、ではそうなる以前、ここはどういう場所であったのか。
 間違いない、ここは怨嗟の声が満ちた祟り場であったろう。

 怨嗟の声の中心は ――― 御堂だ。

 その堂の前に立った鬼童丸は、そこで、足を止めた。
 あの日そうしたように、御堂の観音扉を見つめながら、立ち尽くす。

「 ――― 男から三十三人、女から三十三人、子供から三十三人。そして、稀有な通力を持つ姫か御子を一人」
「なに?」
「何の供物も捧げずに、羽衣狐が花霞大将を配下に加えるを、よしとしたと思うか。四百年前、今少しと言うところで宿願の邪魔をした、お主の父ぬらりひょん。それと瓜二つの忌々しい艶やかな顔をしたリクオを、何の疑いもなく手勢に加えたと思うか。ワシとて、近づいてきたこやつを怪しみこそすれ、最初から下ろうと思うたわけではないのだからな。
 今言った数の、生き胆。
 それが、花霞大将が羽衣狐の配下に加わるために用意せねばならなかった、供物よ」

 この男に語らせなければ、どんなに太陽が高く昇ろうとも、夜は明けない。
 そうして、夜明け前というのは、一番に暗いのだ。

「聞くか、二代目」

 今一度、鬼童丸は問い、

「何度もしつこいぜ」

 躊躇無く、二代目は応えた。