人の相知ること、必ずしも対面して久しく語るに在らず。 ――― 遍照発揮性霊集 巻第二 心暗きときは即ち遇う所悉く禍なり。 眼明らかなれば則ち途に触れて皆宝なり。 ――― 遍照発揮性霊集 巻第八 何者かの爪や牙が、小さな陰陽師の柔らかな身に食い込むのを。 無理や無茶を、体が悲鳴を上げても繰り返すのを。 昼の姿で床につく時間が、次第に長くなるのを。 咳き込むたびに血を吐くようになり、量もまた、その小さな体のどこに、それほど入っていたのかと思うほどであるのを。 目にするたびに、足場が抜けてなくなるような、そのまま世界を突き抜けて虚無へ堕とされてしまうような頼りなさ、心許なさを、覚えるようになってしまった。 宝船の決戦後、まさにその小さく尊きものが腕の中で目を閉じ末期の息をつこうとしたときには、すぐに追ってやるつもりだったからか、そうかようやくこやつは眠れるのかと、悲しさよりも先だって、これ以上苦しみも痛みも悲しみも、息子は感じずに済むだろうことに、安堵さえした。 その奇妙な心持ちを、鬼童丸がいつから持つようになったのか。 思い返してみても、この時だと言える何か決定的な瞬間や思い出深い出来事には思い当たらない。 強いて言うならば、元服すら迎えていない年若い妖に、剣の稽古をつけてくれとつきまとわれ、これが半年近くも繰り返された頃。 鬼童丸は手頃な枝を拾い、二人分の木刀をこさえたが、弟子など取らぬ、必要無いと言い続けてきた彼が、日々繰り返された手合わせの挙げ句、うっかり真剣で本気になって、峰打ちではあるものの幼い妖の肩を砕く一撃を放ってしまった後、すぐにそんなものを用意した己に、何をしているやらと我に返りもしなかったのだから、その時にはもう、何かしらの縁や巡り合わせを感じていたのかもしれない。 羽衣狐が配下に加わるのならばと命じた百の生き肝を納める遅さも、その時にはもう感じておらず、むしろその日は木刀作りに集中していたので、いつものように突然、目の前にゆらり、と現れた小さな童形の妖が、 「やっぱり、難しいな」 言うつもりはなかったことを、つい口を滑らせてしまったらしいのを、何のことか、一瞬判じかねた。 ばつが悪そうな表情をして、誤魔化すように小さな手が荒縄で縛り上げた小さな瓶を突き出してきてから、鬼童丸は生き肝の供物がまだ約束の数に達していないのを、はたと思い出したのである。 「……腑分けならば、早いうちに済ませてしまうことだ。死んでからしばらく放っておいたのでは、死肉がかたくなってやりにくくなる」 難しい、と言った意味など、当然に腑分けのことであろう。 瓶を受け取りながらの鬼童丸の答えに、しかし童子は小さく首を傾げ、微笑んだだけだった。 「それ、なんだい」 「稽古用の木刀だ。これならば打ち込んでも少しはマシであろう」 「アンタが作ったのか?へえ、巧いもんだ」 「何を他人事のように感心しておる、お主の分は既にできておるのだぞ、どれ、握ってみろ。あとのよくないところは、己で好きに削れ」 「オレの?」 「他にどんな酔狂な者が、ワシに剣の習いを求めて打ちかかってくると言うのだ。真剣で打ちかかられては、ワシとてつい本気になる」 稽古をつけてくれと言われて、もちろんすぐ得意げに頷くような鬼童丸ではない。 最初は、この小さな妖が勝手に斬りかかってくるところを、振り払ったり組み敷いたり、あしらってやっているだけだった。 彼が本気を出せば、たいていの妖など、一撃で消し飛んでしまう。 童子に対して、何故そうしなかったのか。 そうするまでもない、と判じる程度の力しか、幼い妖は持っていなかったのだ。 ところが、最近ときたら鬼童丸の一撃をかわすようになった。 斬ったと思っても手応えが無く、湖面の月のように揺らめいて、次には背後に姿を現し二度目の一撃を放ってくるようになり、突きを放っても、ふわりふわりと蝶のように舞って全く当たらない。 つい先日、鬼童丸はついに手加減を忘れて、蝶の羽根を縫い留めるように、この妖の肩を砕いてしまったのだった。 吹き飛ばされて気を失った妖を前に、鬼童丸は取り乱した。 誰かが見ていたとしても、彼は常にそう在るようにこの時も冷静で、そうは見えなかったと言うかもしれないが、吹き飛ばされた童子が鞍馬の山に絡む根を砕きながら地面を滑り、受け身を取らぬまま大木に身を打ちつけたところへ、鬼童丸は自ら駆け寄り怪我の具合を確かめ、童子がううんと唸り死んではいないことを確かめるまで息を詰めてしまっていたのだから、彼にとってはひどい取り乱しようであろう。 己がそのようにみっともない姿をさらすのはもちろん、また本気にさせられたついでに、今度は首をはねてしまってはかなわない。 鬼童丸は考え、手頃な枝を拾って、またそのうち己の前に姿を現すだろう童形の妖へ、面倒な仕事を増やしてくれたものだとぶつぶつ文句を呟きつつ、木刀をこさえていたというわけだ。 鬼童丸のものよりも一回り小さな木刀を放られて、きょとりと童子は眼を丸くした。 「……アンタのより小さい」 「お前に大太刀など、まだ早い。太刀の長さは己の手首から肘までの長さ程度の刀身と、握り拳二つ半ほどの握り。それくらいの長さのものから扱えるようになれ。その小さな体では、大太刀など持っても振り回されよう」 「うん、これ、ちょうどいいな。ぴったりだ。アンタ、オレの腕の長さなんて知ってたんだ」 「目分量だ。少し長めにしてあるが、それぐらいはすぐにお前の背丈も追いつくだろう。元服前の妖は成長が早い」 ついでに言えば、能力も鍛えれば鍛えるほどに増す。 だから今のうちに鍛えられるだけ鍛えておけ、と付け足そうとして、やめた。 このところ、この童子と己がよくこうしているのをどこで知ったやら、しょうけらに、いつの間にやら取り入られたものだと笑われたのが、癪に障っていた。 そこへこれではまるで、弟子の先を楽しみにする師ではないかと思い当たったのだ。 「ありがとう、大事に使う」 童子は鬼童丸の複雑な心中など、知る由も無い。 素直に木刀を受け取り礼を言った。 不思議なことに、それだけで鬼童丸の内側でとぐろを巻いていた黒い気持ちは霧散した。 同時に、何故しょうけらにそんな嫌味を言われたのかを思いだし、口にする。 「……羽衣狐が、またお主を誉めておったぞ」 「え?」 「お主の供物は一度の量が少ないが、やはり質が良いそうだ。たいそう味が良い、こう何度も続くのならば、まぐれではないのだろう、大儀である、とな」 「…………そうか」 今までも何度か与えられた、鬼童丸を介してのお褒めである。 憎きぬらりひょんの血を引くらしき童形の妖が、陰に追いやられた妬み憎しみから、今の総大将を名乗る奴良鯉伴との抗争を前に陣営に加えてほしいなどと言ってきたのを、最初こそ嫌悪もあらわに相手にしなかったところが、今では花霞の供物が届いたと聞くと、紅も差していないのに紅に染まった唇を、ぺろりと可愛らしく舐めて微笑むほどだ。 鬼童丸はもちろん羽衣狐も側近たちも、花霞の口上を最初から信じてはいなかったが、こうまで尽くされると可愛く思えてくるものよのうと主が言えば、側近たちとて少しは見直す。 もしかしたら落胤というのも本当かもしれない、どこかで遊んだ女にはらませた子が、迷い込んできたならば利用してみるのも一興やもしれぬと、打算計算はあるにしても、それを嘘とは思わずに、少しずつ受け入れ始める。 しょうけらもまた、颯爽と現れ敬愛する聖母の寵愛を横取りした花霞を妬んで、寵児を連れてきた鬼童丸に皮肉の矛先が向いたのかもしれない。 ところが、肝心の寵児はそれほど嬉しそうではない。 「そうだろうな、美味そうな生き肝を選んでいるから」 「ほほう。……先刻の、難しいというのは、もしやそれか?お主、生き肝を選別しておるのか」 「ああ。だから、七日に三つがせいぜいだ。今までで、ようやく半分てとこじゃないかな」 「うむ。先日の供物で、まさに半分となった」 「そりゃあ、めでたい」 何を言っても、こうして淡々と応じるだけだ。 だが、さすがに次の言葉には目を丸くした。 「ついては、お主に拝謁を許すそうだ。かねてよりお主が言っておった、呪いとやらへの問いにも答えようと言うておられる」 「…………いつ?」 「次の供物を捧げる折にでもと。これからでも構わんだろうが、来るか」 「行く」 答えは、すぐにあった。 +++
花霞と名乗る童形の妖の目的が、羽衣狐に取り入ることではなく、羽衣狐と敵を同じくして戦うことらしいのは、鬼童丸もここまでの付き合いで理解しているつもりだった。 鬼童丸が羽衣狐自身ではなく、彼女が産み落とす鵺にこそ伏して仕えるように、誰も彼もが羽衣狐自身に伏して陣営に下っている者ばかりではない。この幼い妖のように若ければ、他になにがしかの目的や理由があり、そのために陣営に新たに加わろうともするだろう。 この童子が、羽衣狐への謁見を希望するのもまた、理由の一つのためであるのを、鬼童丸は知って手引きをしてやったのだ。 奴良鯉伴と戦うのが目的だと当初は聞いたが、戦う理由というものは一本の糸のように真っ直ぐ垂れ下がっているばかりではない、他にも様々な理由の糸とよりあわさって、一本の綱のように頑丈な理由にもなろう。 花霞童子の、もう一つの目的。 それを、鬼童丸も最近になって知った。 解きたい呪いがあるのだと、言い難そうに、童子は口にした。 蛇の痣が肌に現れ、これが次第に這うように、心の臓へ進んでいく。 蛇が這い進んだ場所は石のように硬くなり、動かなくなってしまうのだと。 呪いの詳細を、連れてこられた洋間で、童子は事細かに申し述べた。 顔を上げることなど許されず、膝を突き頭を垂れてもまだ頭が高い、薄汚い血を引く小僧めがとしょうけらに難癖をつけられ、面白がった茨木童子に頭を踏みつけられて額を床に擦りつけながら、しかしこの屈辱も唇を噛んだだけで堪え忍び、童子が子細を申し述べたところ、それまで、眠りにつく前の軽い余興を目にするばかりのつもりだった羽衣狐、艶やかに笑んでいたところでふと真顔になり、 「花霞よ、それは誰が受けた呪いじゃ。お主の縁者かえ?」 少女の声を借り、古式ゆかしい言葉で問い。 これに花霞は、一瞬、黙った後で、 「……オレの、母だ」 おそらく真実を、答えた。 陣営に新たに加わろうとするは、まだ母親の乳が恋しいやや子であったかと、しょうけらはここぞとばかりにせせら笑ったが、他ならぬ羽衣狐に黙れと一蹴され、恨みのこもった視線を花霞童子に浴びせたものの、小賢しい口を閉じるしかなかった。 「嘘偽りを申すでないぞ、花霞」 「嘘ではない。オレの母がその呪いにかかっている。解く方法をあちこちで調べ、あれこれ試してみたが、呪いの進行を遅くさせることはできても、完全に解くにはいたらなかった。羽衣狐、千年以上を生きる貴女であれば、この呪いを知っているのではないかと思う、だから訊きたい。呪いを解く方法、あるや、なしや」 この時、花霞童子は茨木童子に踏みつけられた頭を、首の力だけでぐぐりと持ち上げ、すがるような視線を、漆黒の衣に身を包んだ少女へと向けていた。 踏みにじられたしろがねの髪を乱したまま、紅瑪瑙の瞳で必死に訴えかけてくる童子など、常の彼女なら、やはり憎き仇のぬらりひょんと同じ顔、爪の一つや九尾の一撃を食らわしもしたろうに、この時彼女が取った行動は、違った。 寝所一つ手前の書室の奥、玉座のように意匠をこらしたカウチに寝そべりながらこの話を聞いていた羽衣狐は、つと、裸足を大理石の床に下ろし、半分眠りの中にたゆたっていたような体を持ち上げて、ひたひたと自らの足で花霞童子に近づいたのだ。 やがて、再び頭を踏みつけられて床に頬をこすり付けられた童子の視界に、羽衣狐の、闇の中にぼんやり白く浮かび上がる爪先が入るまで近づくと、元服前の幼い妖は、この華奢で美しい足が己を蹴りつけるかどうかするのであろうとばかり、睨みつけ、しかし己よりも強い妖どもに囲まれては手も足も出せずに、己の意志とは裏腹、床についた小さな両手を恐怖に小刻みに震わせているのだった。 「茨木童子よ」 「………は」 「その足を退けよ」 「………は?」 茨木童子が聞き返すが早かったか、それとも華奢な少女の身から放たれた九尾の鉄槌が、茨木童子の体を殴り飛ばすのが早かったか。 「二度も言わせるでない」 「………は、申し訳、ございませぬ………」 花霞童子を踏みつけにして、恐怖や屈辱の震えを感じ取ってはおもしろげに笑っていた茨木童子は、天井に叩きつけられた上に自重で床に落ち、そこからまだ立ち直れぬまま、己が仕出かした不始末が何であったのかすら理解できぬまま、主の不興にそれこそ床に額を擦りつけて詫びた。 羽衣狐はこれを一瞥すると、今度は少女が貝殻を拾うような所作でしゃがみ込み、傷一つ無い陶磁器のような指先を、花霞童子の頬に、ついと伸ばす。 びくり。 矜持を上回って、本能的な恐怖が幼い妖を震えさせ、あろうことかこの場で最も位高き大妖を前に、童子はきゅっと目を瞑ってしまったが、無礼な奴めと不興を買うどころか、羽衣狐は己を恐怖し震えるこの所作に大層気を良くして、慈しむような目を童子に向け、先ほどまで床に押し付けられていた頬の汚れを、何と己の手で拭ってやったのだった。 優しげな手つきときたら、いつもお側にあって寵愛を受けている狂骨娘が、カウチの脇で柔らかな頬を膨らませて拗ねた表情を見せたほどだ。 「お主のその顔で怯えられるというのも存外に心地良いものじゃが、おおよしよし、そのように、怖がらずとも良い。なぁに、取って喰いはせぬ。そなた、花霞と言うたか、そうか、母が。母を想う一心で、このような怖いところへやってきたか、愛い奴、そして不憫な奴よ。 そなたの母が受けた呪いから、そなたの母が逃れる術があるとすれば、それはなぁ、死する以外に無い。下手に呪いの進行を食い止めようとすれば、苦しみが長く続くだけじゃ」 「呪いを解く方法は ――― 無い、と?」 「あらゆる呪いには、解く方法が必ず存在する。呪った者を滅すれば解けるものもあり、恨みを晴らしてやれば解けるものもあり、時間が経てば解けるものもある」 「なら ――― それなら、母さん……母も、母の、呪いも」 「お主がぬらりひょんの血を引いているのなら、お主の母は人であろう。なに、驚くことはない、あの男に妖との間では子を成せぬ呪いをかけたのは妾じゃ。ならば、新たに生れ落ちたお主の母が、人であるのは当然の理屈。 妾たち妖にあって、人に無いもの。それはな、過ぎ去るのを待つための時間じゃ。 苦しめば苦しむほど、人は弱る。抗おうとする力を失う。時間が経てば花のようにすぐに萎れ、さらに力を失う。 お主の母が受けた呪いは、放っておけばやがて消える。 じゃが、消えるまで待つ時間は、短く見積もって百年、いや二百年。千年続くやもしれぬ。お主の母は、そうなる前に寿命で死ぬであろう。若いうちは耐えられた痛みや苦しみに、老いれば耐えるもかなわなくなる。 人の身に百年の呪いなど、永遠に解けぬ呪いに等しいであろ?妖なれば全身石にされても生き続けられようが、人なればそれも、かなわぬであろ? だからな、逃れる術があるとすれば、それは死すこと、それのみじゃ」 「 ――― そんな ――― 他に、他に何か ――― 」 「ああ、ああ、そのような辛そうな顔をするな。母のために泣く子を見るのは妾とて辛い、他に方法があるのなら教えてもやりたい、そうさな、代わりにもう百ばかり質の良い生き胆を取って参れと戯れも言えたろうが、それもできぬ。めぐし子よ、しかし母が先に死ぬのは順番というものじゃ、恨みは強みになる、憎しみもまたそなたを強うしてくれる。強うなれ、強う。ありとあらゆるものを恨み妬み憎み強うなれ。血の涙を流して強うなれ。母を奪われたなら奪ってやれ。そなたの行く先に光明が見えぬのなら、他の者ども、全ての者どもから光明を奪って闇の世界にしてやるがよい。 そなたの母の苦しみ痛みを決して忘るるな、忘るるな。 ――― いや、待てよ。ただ一つ。 そう、《癒しの通力》持つ、珱姫ならば。 いやいやあの娘は既に此の世にない。 ないが ――― その力、その息子の血脈に、受け継がれている、やも ――― 」 最後の一言は、羽衣狐にとっても予期せぬ声であったらしい、己の口元をぱっと抑えて、心なし青ざめた顔色でやおら立ち上がった。 周囲に侍る側近どもが怪しむ隙を見せぬ、ほんの小さな呟き声であったので、そこだけが涼やかな鈴の音のごとく清涼な声を、この腕に抱かれていた童子だけが、聞いた。 羽衣狐は少しの間、飲み込もうとしたものが喉につかえているようなそんな表情をしていたが、ふるふると頭を振り、また元のように尊大な主の表情で、花霞を見下ろす。 「花霞よ、大儀であった。下がって良い。これからも、あの味の良い生き胆を期待しておるぞ。そなたが捧げる生き胆は、馬鹿の一つ覚えのように量ばかり持ってくるどこぞの羽虫のそれとは全く違う。 執念が、妄念が、憎しみが、ぎゅうっと濃く詰まっておって、何度食しても飽きぬ。 褒美じゃ、これを取らす」 黒いワンピースの上に羽織っていた、これも黒い絹の肩掛けをぱさりと童子の頭に落とすと、いつもならば踵を返した途端に後ろに置いてきた妖のことなど忘れてしまうだろうに、珍しく、今一度童子を振り返った。 彼女もまた、母であったのだ。 千年の昔に産み落とした我が子の幼き頃と、目の前で伏す童子が、重なった。 「下がりゃ。妾はもう休む」 「 ――― 今宵は、拝謁のお許し賜り、嬉しゅうございました。洛中において御用向きございますれば、何卒、何なりとこの花霞にお申し付けくださりませ」 「うむ、妾をもう一人の母と思うて仕えるが良い。元服前のやわな身なれば、今宵の寒さなどはこたえよう、母のことを想うは感心じゃが、そなたも、体をいとえよ」 火の気のない部屋。冷たい床の上。 そこに、かぶせられた肩掛けを頭の上から払いのけもせず、幼い妖は、部屋から己以外の気配が消えてなくなるまで、伏したままでいた。 この童子のために痛い目を見た茨木童子や、恥をかかせられたしょうけらは、最後に童子の手元に唾棄し、あるいは睨みつけてからその場を去ったが、童子は動かず、ただ、伏したままでいた。 鬼童丸が声をかけなければ、夜が明けるまでそうしていたかもしれない。 それほどまで、童子は呆然とした有様だった。 この童子を置いて行こうかどうしようかと、鬼童丸は悩みすらせず、立てるかと問うた。 そう、以前の己ならば何も悩まず、哀れな童子などこの場に捨て置いて、朽ちるに任せていたろうに、そうはしなかった。できなかった。 誰に声をかけられたのかすら判然としないまま、虚ろな目をぼんやり己の方へ向けた童子にあわれと、そこはかとない後ろめたさを感じ、今日くらいは少しばかり甘やかしてもよかろうと己に言い訳をして手を貸してやると、童子はおずおずと手を伸ばしてきて ――― その手を握ってしまったときに、胸が痛んだ。 後ろめたさの、正体を知った。 しょうけらや茨木童子の所業を止めさせようとした己自身に、あの時、何故庇い立てする、弱い妖などあのような仕打ちをされて当然、今までも何度となく折檻される小妖どもを見てきたではないか、それをどうして今更止めようなどとするのだと、不思議に思って問いかけ、後はむかむかと気に障る二人の所業を見ているしかなかった、己に対しての後ろめたさだった。 鬼童丸以外に、童子の味方はこの場に無かった。 やはり止めに入るべきだったと、後悔した。 羽衣狐が茨木童子を薙ぎ倒さなければ、あの二人のこと、もっと増長していたろう。 きゅ、と己の指を握ってきた手。 初めて触れた童子の手は、あまりに、あまりに小さすぎた。 己の涙を受けるにしても、これでは溢れて使い物になるまいに。 それにしても。 今まで何も感じず見てきた光景を、この童子相手ならばどうしてむかむかと心がおさまらぬのか。 どうして後ろめたさなどを感じたのか。 何故、ここからすぐに去ろうとは思わなかったのか。 何故、別れ際まで、その手を離せずにいたのか。 何故、あの童子がいつもどこへ帰っていくのかを、気にするようになってしまったのか。 今まで感じたことの無い痛みを、どうして、何故、感じるようになってしまったのか。 いつの間にやらとしか言えぬこれを、縁、と呼ぶらしいと鬼童丸が知るのは、もう少し後の事だ。 +++
己の中に生じた疑問や、母の絶対的な死を宣告された童子の心中いかばかりかが気がかりで、鬼童丸は鏖地蔵が眉を寄せて言い放った懸念を、すぐには呑み込めなかった。 一瞬何を言われたのかすらわからず、次によくかみ砕いて、苦虫を噛み潰したような顔で、馬鹿な、そんなことがあるかと一蹴すらした。 「埒も無い。鏖地蔵よ、そのような事を羽衣狐に言うてみよ。母を想う子の気持ちには敏感なあの方の事、貴様は茨木童子のように丈夫ではなかろう、その自慢の目玉を潰されたいのか」 「そうはなりたくないから、まずお前に言うておるじゃろうが、鬼童丸。あの小僧、貴様が子飼いにしていると言うからあの場では黙っていたが、今にしてあのぬらりひょんが、人間の女に子を生ませ、放っておくなどあまりに出来過ぎていようが。もしやするともしやして、あの小僧、嘘をつき取り入って、羽衣狐様に仇成すつもりやもしれんぞ」 「何だ、何故そうなる。羽衣狐の寵愛を横取りされて悋気するような年でもあるまい、落ち着け」 「これが落ち着いていられるか、鬼童丸!忘れたか、あの小僧が言ったあの呪い、石化封印の呪いは、四年前、奴良家の跡継ぎに向けて放った呪いではないか!」 唾を飛ばし、しゃがれた声でいきり立った鏖地蔵に、鬼童丸は気圧され、よく思い出してみれば、なるほど確かに、奴良家を内側より崩すからくりの一環として、幼く妖力を発揮しない跡継ぎと、その母を家から追わせていたことに思いあたり、愕然とする。 今まですっかり忘れていた。 いや、鬼童丸がこの千年の間に、強く心を揺さぶられたことなどあったろうか。 世界は虚ろに在るばかりで、時は緩慢に過ぎゆくばかりで、過ぎ去ったものをあえて記憶にとどめておくような心持ちを、鬼童丸はこれまで持っていなかった。 忘れていて当然だった。 当然だったが、思い出したとき、鬼童丸は即座に否定した。 否定できる材料は、全くなかった。 なのに、否定した。 己の考えに一番戸惑っているのは、鬼童丸自身であったが、剣の道一筋にこだわってきた剣客なれば己との対話は慣れたもの、己は否定できるから否定したのではなく、信じたくない事柄でるために否定したのだと正しく己の状態を把握して、表情には出さないが混乱した。 あの童子が絡むと、何故、何故、何故、そればかりだ。 「しかしあれは、奴良の跡継ぎはただの人間であった。ろくな妖力を持たず、呪いに抵抗する術などなく、逃げるにしても母に抱かれている有様だった。杞憂にすぎぬ」 「何故そう言える。聞けば鬼童丸、貴様、あやつのねぐらを知らぬと言うではないか。そこでどんな企みをしているかもわからんというに、何故そう言い切れる。どこの馬の骨で、あのように美味なる生き肝をどうやって仕入れているのかも、貴様は知らぬ存ぜぬじゃ。父親面をするのであれば、どのように生まれどのように暮らしているのか、子細を知ってから物を言え」 「なれば、あやつがどこをねぐらにしておるのか、それを調べれば良いではないか。わざわざ、ワシに聞くな」 「もう、やったわ!あやつめ、流石はぬらりひょんの落胤を名乗るだけの事はある、手勢を使って追わせても、ふわりとその名のごとく、霞のように消えおった。むしゃくしゃとする!だからこそ貴様に言うておるのじゃ。良いか、貴様が招き入れた小僧じゃ、貴様がどうにかせい!」 「……致し方あるまい、引き受けよう」 花霞童子は、奴良家の跡取りではない。 悔しいが鏖地蔵の言う通り、鬼童丸はそう言い切れる材料を持っていない。 埒も無い、杞憂にすぎぬと否定したのは、鬼童丸自身が最も信じたくない事柄だからだ。 何故信じたくないのか ――― 。 その先の答えは、水に放り込まれた石の波紋は数えられても、水に沈んだ白石の行方が定められぬように、鬼童丸自身にもわからない。 己の心の内で何が起こっているのか定められぬなど、千年生きて初めて見舞われた気味の悪さであるが、そうは言っていられない。ともかく、鏖地蔵の言うことは一理ある。信じる信じないはさておき、見た目は妖そのものであるとしても、それもまだ元服前のほんの幼い妖だとしても、間者であるかもしれぬと疑うのは当然だ。 半年近くも思い当たらなかった、のではない。 まさかこのような小さな妖が、よもやこのような弱く幼い妖がと、思い当たるたびに、否定してきたのだ。 何故、否定してきたのか ――― 。 心には波紋があるばかり、小石の行方は知れず。 鬼童丸は元々、間者向きではない。 どちらかと言えば、正面から出向き、正面から脅し壊し、正面から出てくるのをよしとする妖だ。 剣の道一筋に狂うように進んできたため、武人として在ることを息するように体中で顕す男であるので、他の側近どものように軽々しい振る舞いをしないことから、談判の使い役などをよく任されるが、忍び寄るだとか、後ろをつけるだとか、草の真似事などならば、そこ等の付喪神どものような、小物連中の方がよほど上手くやるだろう。 そういう男であったので、鏖地蔵が言うように、次に童子が剣の稽古を求めて姿を現した際、童子の居所を突き止めんと決め後をつけたまでは良かったが、剣の腕前の方はともかく、隠れる、気配を消すといった術については、彼の弟子の方が上手であった。 鏖地蔵が言ったように、童子の姿は、ふわりと目の前を桜の枝が過ぎったと思い目を奪われてこれを視線で追ったところ、次に視線を前に戻したときには、消えてしまっていたのである。 はたと我に返り、冬の今に桜もなかろうと枝に目を戻してみれば、先刻まで見事な花をつけていたはずの桜の枝は、何事もなかったかのように、冬枯れの一枝として沈黙していた。 苛立ちに任せて剣を抜き、その枝を絶とうとしたところで ――― やめた。 切っ先は、枝の僅か一寸ほど上のところで、止まっていた。 剣を、おさめた。 苛立ちを感じたのは、ほんの一瞬。 次には、なんとも上手く化かすものよと感心こそすれ、怒りは微塵も無く消えていた。 冬枯れの季節に桜の幻とは、花霞とはよく言うたものと思えば、花陰の向こうで、あの童子が悪戯っぽく笑って舌を出しているように思え、少し笑った。 この枝も、次の春を迎えればまた、幻ではなく真の花をつけるであろう。 なれば、今ここで断ち切ってしまうのも、何だか気が、引けた。 思わず目を奪われた幻に勝る花房を、この枝がつけるかどうか、あの童子とともに次の春、確かめにここに来ても良いだろうと思えば、断ち切らずにいた枝の元を去るのが急に惜しくもなり、刀の鞘の飾り緒をほどいて、枝にゆるく結びつけた。 このような事が何度かあって、冬も盛りとなり、年が明け、節分を迎えて、もうすぐ童子と知り合ってから一年が経とうと言う頃。 梅にも桜にも早いと言うのに、一体何を思ったか。 いいや、鬼童丸の千年はあって無きが如し、うつろう季節のいつ頃にどんな花が咲くのか、これまで気にもしたことがなかったのだから、そう言えばあの枝はどうなったであろうと思い出しただけ、まだましであったろう。 思いだすと熱病のようにいてもたってもいられず、常は昼日中にうろつく男でもないのに、その日に限ってその場所へ赴くことにした。 まず、場所が悪かった。 螺旋の封印の一つ、伏目稲荷を抱く伏目山に、その一枝はあったのだ。 封印の聖なる空気が鬼童丸の妖力を弱めており、しかも一度訪れただけの場所をしかとは憶えておらず、散策のつもりで伏目山を歩いていたところへ、運悪く居合わせた陰陽師どと鉢合わせてしまったのだ。 普段ならば、それほど多くの陰陽師たちが詰めていることはなかったろうが、節分、鬼祓えの季節である。 鬼童丸は追われた。 犬のように追われ、呪符を投げつけられ、いくらか手傷を負い、しかしそれでも千年の大妖である。 手首に巻きつく呪符を編み込んだ鎖を引きちぎり、退魔刀で斬りかかってきた数人を斬り伏せ、憤怒の表情での大立ち回りの末、一度は己を取り囲んだ陰陽師どもの一角を崩して、そこから脱した。 風のように駆け抜けるが、なにせ時と場所が悪い、どこへ駆けても目の前に次々と新手が現れる。 次第に、鬼童丸にも疲れが見え始めた。 忌々しい太陽の光が、すとんと西の地平線に落ちてさえくれれば、鬼童丸にも分があったろうが、睨みつけてもこちらを光の矢で射抜くばかり。 眩しさのあまり目を背けてしまうのは、鬼童丸の方だった。 太陽という奴は、鬼童丸の眼光に身を竦ませるどころか、黙って睨まれてもいないのだから、世界で最も相性の悪い相手であったろう。 放たれた破魔の矢を幾本か背に受け、式神に浴びせられた一刀が額をかすめ、おのれ、と思いつつも、鬼童丸はさらに駆けた。 その場で少しでも多くの陰陽師を道連れになどとは、思っていなかった。 何故か。 宿願こそが、彼の目的であったから ――― では、なかった。 少なくともその時の鬼童丸の目的は、例の一枝を確かめることだけが目的で、剣を腰に差してはいても、抜こうと思って訪れたわけではなかったのだ。 天高く上った太陽に妖力も気力も削がれ、息を切らして山を駆け、後ろから追ってくる陰陽師の気配を感じなくなって一息ついたところへ、木陰から目の前に現れた、一人の陰陽師があった。 鬼童丸は飛び退き、腰だめに剣を構えた格好のまま、その陰陽師を睨みつけるが、ついと額に脂汗が浮かんだ。 纏っている狩衣の藍、首からかけた水晶の数珠。 指先は袖に隠れて見せないが、既に印を組んでいる。 目の前に立ちはだかった陰陽師が、追ってきた数まかせの陰陽師たちに比べ、遥かに高位の陰陽師であることを、鬼童丸は一瞬で嗅ぎ取ったのである。 一年前の鬼童丸なれば、即座に抜刀し、強敵のまずは指を斬り落とし、次に喉をかき斬ってやっていただろう。 弱っていても陰陽師一人に遅れを取る男ではない。 だがこの時の鬼童丸は、それをしなかった。 ただ一人、彼の前に立ちはだかったのは、それもまたほんの小さな、童子であったから。 ちょうど、己のところに遊びに来る、あの童子と同じ年頃であろうか ――― 。 そう思ってしまうと、にわかに、腰の剣が重くなった。 抜かず、ただ睨みつける。 そのまま睨み合い、どれくらい、時が経ったか。 陽はまだ高いままだ。 やがて、童子がにこりと笑った。 「……もしや、お探しものでしたか?貴方の剣の飾り緒は、どうやら一本足りないようだ。あの枝に結びつけて何かの目印にしたのは、貴方ですか?特に術をかけた様子もないし、妙な力は感じなかったので、そのままにしておきましたが」 琥珀の瞳を細めると、太陽の日差しが祝福するように童子の稲穂色の髪を撫で、後光のように照り輝く。 得体の知れない、言い知れぬ何かに、鬼童丸は一歩、下がった。 下がってから、気圧されたと、気づいた。 童子は微笑んだだけなのに、袖の中で結んでいた印を解き、ただ、ついと華奢な指を出して、あちらの枝を、示しただけなのに。 ちら、と視線だけを童子の視線の先にやれば、確かに、己が結んだ朱色の紐が、枝先に揺れている。 ああ、あった。 何故か安堵し、鬼童丸は剣から手を離した。 「今日は鬼祓えの日です。そんな時に昼日中、大きな妖力をお持ちの方に来られては、こちらもいささか難儀いたします。どうか大人しく、お戻りいただけないでしょうか」 「そうか、鬼祓え ――― 道理で陰陽師どもの数が、多いはずだ」 「まさか、ご存知なくてここにいらしたんですか?仮にもここは、螺旋の封印の八、始まりの一つ。厳重に祓うのは当然です。それで、鬼祓えの祭祀を壊すのが目的でないのなら、一体何をしにこられたのです。答え次第では容赦はいたしませんよ」 「 ――― 桜をな」 「桜?」 「見たいと思うて、来た」 「桜って……、まさか、あの枝の?」 鬼童丸が悪びれもせず頷くと、童子は一瞬呆気に取られたような顔をして、次に声をたてて笑った。 「あっきれた!桜だって。まだ二月なのに!」 くすくすくすと笑う姿は、大人びた物言いから離れて、ただの子供である。 気圧されるような得体の知れぬ《畏》は失われ、鬼童丸は我知らず、肩から息をついた。 「そう笑うな。季節など、あってなきがごとしが妖という生き物よ」 「それじゃあどうして桜が見たいなんて思われたんです。あってなきがごとしなら、桜を探してわざわざ節分の日に封印の御山をうろつくドジもしないでしょうに。もう、しょうがないなあ、はい、これあげる」 鬼童丸に恐怖もせず、何の気負いもないままとてとてと、間合いの中に踏み込んできた童子に目を白黒させているうちに、鬼童丸は何やら四角い紙切れの束を渡されていた。 「今年のカレンダー。社務所で売ってるやつだから、本当は三百円もらうんだけど、おじさんにあげるよ。今度は間違えないように、四月になってから来るんだよ。その頃なら、きっとこの辺り、見頃になっているから」 「 ――― 何故 ――― 」 「え?」 「何故、お主は、ワシを滅しようとせぬ」 「だって、おじさんは花見をしに来ただけなんだよね?」 「お主は、陰陽師ではないのか」 「陰陽師だよ」 「ならば、何故 ――― 」 「それじゃあおじさんは、どうしてボクを見て、剣を抜くのをためらったの?」 「 ――――― 」 「きっと、同じ答えだったはずだよ、ボクたち」 懐の中で見上げてきた童子に、いつくしみ深く微笑まれて、ざわりと。 ざわりと、身の毛がよだった。 己で己の顔から血の気が引いたのがわかった。 即座に踵を返し、逃げ出した。 そう、他の陰陽師たちに思ったように、ここで本気を出すのは面倒であるとか、有象無象としたものを払いのけるのには骨が折れるだとか、おそらく勝てるだろうと思える相手の前から駆けたときとは、わけが違った。 勝てぬ。と。 思った。 童子に懐に踏み込まれ、握ってやればそのままひしゃげつぶれてしまいそうな優しい手に、無骨な手を取られて微笑まれたとき、はっきりと、少年の足元に清廉な蓮の花を見たのだ。 ふうわりと開いた蓮の花の上に、小さな童子は立って、こちらに手を伸ばしていたのだ。 手を取れば、闇に穢れたこの身など、太陽の光に焼かれ焦がされ瞬く間に灰になってしまうに違いないのに。 逃げて、逃げて、逃げて、どこまで逃げても、あの少年の小さな手の平の上にまだ己が居るような気がしてならなかった。 己はいつの間にかあの忌々しい不遜な存在の足元にいて、あの童子は両手で花弁を掬い取るように、鬼童丸の心を己の手中に納めようとしたに違いなかった。 あなや忌々しき、あなや忌々しき。 太陽が己の味方であったことがあったろうか。否。否。否。 しかし ――― しかし ――― ああ、ああ、ああ、あれはなんと、神々しく尊く。 なんと、あたたかいものなのか。 +++
季節は巡り、桃の節句が終わり、梅の香が森に立ち込めた三月も過ぎて。 四月。 鬼童丸は再び、伏目の山を訪れた。 またも、昼日中である。 夜ではせっかくの花房が良く見えぬなどと理由をつけたが、後々考えてみれば、同じ場所に行けばまたあの陰陽師の子供に会えるのではないかと、僅かな期待が背を押したに違いなかった。 かくして、二人は同じ枝の下で再会した。 あちらでもこちらでも、枝という枝がいっせいに芽吹いて、山は桜色に染まっていた。 その中の、朱色の紐をぶら下げた枝の下で、少年は鬼童丸を待っていたかのように振り返り、やはりあの時のように、笑った。 「そろそろ来る頃じゃないかと思って」 「罠でも張っておったか」 「ああ、その手があったっけ。うっかりしてた。それはまた次の機会にするとして、用意してたのは罠じゃなく、お酒だよ」 はい、と袖の中から出てきたのは、湯呑ほどの透明な瓶に入った酒である。 「ワンカップじゃ風情が無いとか何だとかは、言わないでよね。ここまで持ってくるの、面倒なんだから」 言うが早いか、陰陽師の方はさっさとそこらの座り心地の良い岩を見つけちょこんと座り、自分はパックの林檎ジュースにストローをさして美味そうに飲んでいる。 こんな小さな童子に、先日は何を気圧されていたやら。 鬼童丸は受け取った酒の蓋を開け、ちびりちびりとやりながら、目印の紐がついた枝を、眺めやった。 二月待った枝は、昼と夜の違いはあれどあの時見た幻そのままに、いやそれ以上にも美しく花をつけ鬼童丸の目の前に、はらり、ひらり、一つ、また一つ、薄紅色の花弁を降らせるのだった。 「綺麗だね」 「……うむ」 「その枝だけ見てるの、勿体無いよ、おじさん。こっちおいでよ」 まさか己を人と勘違いしているのではなかろうかと思うほど、童子は人であるのに、鬼童丸をまるで怖れなかった。 腰掛けるに具合の良い岩の上、並んで腰掛け桜を眺めている間に、鬼童丸の巨躯が素早く動き、少年の首をへし折る隙など、いくらでもあったろう。そうされるのではないかと、しかし少年は勘繰る様子さえ見せず、同じ趣の持ち主との、隠れた会合を楽しんでいるらしい。 己は一体どうしてしまったのか、つい一年前の己ならば、いずれ敵になるだろう者と、このように隣り合って座るなど、決してありはしなかったろうに。 流石に鬼童丸も己で己が不思議に、それよりも怖ろしくなり、この恐怖の元はいずれから来るのであろうかと探すが判然としない。 ならば隣り合った少年を今ここで斬り捨ててしまえば ――― そうだ、陰陽師の子供の生き胆であれば、さぞかし美味であろう、羽衣狐の供物を集める、あの花霞童子にくれてやるのも良いかもしれぬと思いついて腰をさぐってから、そうであった、花見に刀は必要あるまいと思って、今日に限って置いてきたのであったと思い当たった。 愕然とした。 千年、眠るときにすら抱えていた剣を捨てて、こんなところに何をしに来たのか。 花房を見上げていた視線が次第に地に落ち、心が落ち着かなくなったところで、そっと目の前に差し出されたのは、水晶の、数珠であった。 「お手持ち無沙汰なら、これをどうぞ」 「何を ――― 」 「腰の得物を探してるみたいだから、置いてきたはいいけど、今更落ち着かなくなられたんじゃないかなーと、思って。違った?」 「貴様、千里眼か?」 「あはははっ、当たった!」 「数珠など、何の役にたつ」 「法具です。ボクにとって、それは武器だよ。心を守るのに、とても役に立つから」 後々どぶ川にでも捨ててやるつもりで、苛立ちまぎれに奪うように手に取ったが、するとどうだろう、確かに常に刀を撫でていた方の手で大粒の水晶を撫でてやると、いくらか気が紛れる。 そうだ、花見に来たのだ、腹が膨れているときは、獣も獲物を追わないではないか。 今一度、地に落とした視線をついと見上げて、花房を確かめる理由にはなった。 上を見上げる勢いが強すぎて、やや上を見すぎたらしい。 己の真正面までしか視線を上げずにいた鬼童丸は、そこで初めて、桜の枝が羽衣のように折り重なったその奥、さらに続く蒼穹の空を見て、嗚呼と声を上げた。 そこには、世界が色づいていた。 「綺麗だね」 「……うむ」 先ほどと同じ問いに、先ほどと同じ言葉で、先ほどよりも多くの意味を込めて、鬼童丸は頷いた。 胸を打った桜と蒼穹の空を、邪魔が入らなければ二人は日暮れまで眺め続けていただろう。 そこへ、がさりと繁みから飛び出した狸が、心地よい沈黙を破った。 狸であった。 それも、ただの狸ではない、茶釜から頭と四肢をにょっきり突き出した、小物ではあっても妖怪であった。 ところが、この茶釜狸、陰陽師の童子を見ても怯えるどころか、「お探ししましたよう、御大将!」などと、甘えるように叫んで、むしろ、童子の隣に見慣れぬ客が在るので、そちらの方にこそびくりと体を震わせ立ち止まった。 「どうしたの、茶釜狸。屋敷で何かあった?」 「い、いいえ、違いますけどぉ……御大将、どっか行っちゃったまま帰ってこないから、心配したんです。いつも、お帰りになったらすぐ、宿題とかお勤めとかしてるのに」 「それで探してくれたの?ありがとう。ボクはちょっとね、おやつにジュース飲みながら、お花見してたんだ。君もどう?」 「お花見だったら、言いつけてくれたら色々準備しましたのにぃ。それに、そのぅ……」 「この人は大丈夫。怖い顔してるけど、今はただの花見客だよ。おいで、茶釜狸」 つまりはこの狸、童子に甘えに来たらしい。 よじよじと岩にかじりつき、背負った茶釜が重いので、童子にひょいと抱き上げてもらってようやく念願の童子の膝の上にたどりつくと、ふうやれやれとどこからか取り出した手ぬぐいで額の汗を拭いている。 童子はそんな狸の喉元や頭や耳の辺りをよしよしと撫でてやっているが。 「……なんじゃ、そやつは」 「うちの小間使いです」 「妖怪ではないか」 「ボクの護法ですよ」 「嘘偽りを申すな、そやつは」 「護法ですよ。言うなれば使い魔です。ね?」 「ねー」 「何故、人間と妖怪が、ともにおる!」 「もう。お花見の席だよ、おじさん。妖怪とか人間とか、どっちだっていいじゃない。ね?」 「ねー」 鬼童丸、愕然とした。 何故、陰陽師と妖怪が、まるでお互い警戒せずにじゃれあっていられるのか、理解し難かった。 信じがたかった。 違う。 信じたくなかった。 何故。 そんなことができるのは、できるのは ――― 《晴明さま》くらいのものだと、信じていたからだ。 光と闇の調和と秩序を此の世にもたらし、妖の楽園を此の世に築いて下さるのは、晴明さまだけだと信じ、だからこそ晴明さまの復活を宿願として、千年、生きてきたのだ。 ところが目の前の童子は、見事に茶釜狸を飼い慣らしている。 それだけでは、なかった。 日暮れが迫り、茶釜狸を追ってきたのか、あちらこちらから、猫又が、山鳩たちが、付喪神、おっかむろ、双頭蛇がどろりと取り囲む有様は。 「あれ、みんな、来ちゃったの」 「ひどいですよ御大将、一人だけ抜け駆けなんて」 「お花見♪お花見♪甘酒もって来ましたニャー♪あるじさまぁ、のみまひょー♪」 「わわ、こら一路猫、お前もう酔ってるだろ!」 「なぉん♪」 まさしく、百鬼夜行。 「貴様 ――― 陰陽師のくせに、何故、何故、百鬼夜行など率いておる。何を企む。何をしでかそうとしておる!」 もはや童子の隣になど座していられず、鬼童丸は飛びのいた。 忘れた刀のかわりに、渡された数珠をきつく握り締めて。 「百鬼夜行?違います。全部、ボクの護法たちです。何をしでかそうとしてるって、そりゃあ、ボクは花開院の陰陽師ですから、役目は一つ、京都を守ることです」 鬼童丸の主。羽衣狐が産み落とそうとしている鵺もまた、かつては陰陽師であった。 陰陽師、安倍晴明もまた、人でありながら、妖たちを愛してくださった。 宴の様相を見せてきた花見の席を、鬼童丸はそっと立ち去ろうとした。 かつては己もその輪に加わっていたはずが、ここでは己はただ一匹のはぐれ妖であるのが、まことに残念でならず、心は千々に乱れていた。 しかし、彼のかつての主がそうだったように、この伏目の小さな主も、道に迷いそうな顔をした妖を、一匹のまま立ち去らせるようなことは、決してしないのだ。 何を浮かない顔をしておる鬼童丸、こっちに来て月でも眺めぬか。 なに剣の稽古?やめておけ、今宵は夜半から雨が降る。 「どこへ行かれるんです、こちらにいらして、一緒に宴会でもしましょうよ。たまには賑やかなのも、きっと楽しいですよ。ね」 立ち止まったのは、可愛らしく小首を傾げた少年の向こうに、千年前に失ったはずの主の面影を僅かに見たからだ。 |