夜は花霞童子と稽古の真似事を行い、それを終えれば行方を追うが、いつも同じように見失う。
 昼に花霞童子を見失った場所へ赴いてみれば、幼くも高位の陰陽師が、従えた百鬼たちと楽しげに戯れるところへ出くわし招かれて、流されるままに同席する。
 これが何度も続けば、流石に鬼童丸も何かがおかしいと思い始めるが、ならばそれを誰に尋ねたら良いというのだろうか。
 仮に陣営を同じくする同格の妖たちに話せば、やはり花霞童子は怪しい奴よ正体を暴いてやれと、嬉々としてとっつかまえ、何かを聞き出す前に乱暴して滅してしまうやもしれぬ。

 そうなっては、少し困る。いや、今となっては、大いに困る。

 何故困るのか ――― 何故どうして ――― 理由は相変わらず、闇の湖面に沈んだ白石のまま。
 それでも波紋はたつ。何によって立った波紋であるのかはわからずとも、波紋は確実に鬼童丸の心に立っている。

 話せぬ、と、鬼童丸は断じた。
 決して話せぬ。彼奴等に知られてはならぬ。
 知られては困ることになる、ならば断じて、話すわけにはいかぬ。

 鬼童丸は、秘密を持った。
 そうなると、今まで慣れていたはずの場所の座り心地が、非常に悪くなった。
 岩の上に何年でも座っていられる男である。どだい、座り心地、居心地、そのようなものを気にしたこともなかったはずだ。
 ところが、潜伏場所として用意された、闇の気配籠もる洋館の一室ときたら、調度品などが舶来の良い品であるのはわかるのだが、座っても立ってもどこか落ち着かない。仕方なくここに居るときは部屋の片隅で、刀を抱えて壁に背をつけているのだが、己がこの部屋の主だとはまるで思えないままだ。

 何故。どうして。何故。どうして。何故、何故、何故。

 そればかりをぐるぐると考え込んでいたために、うむと一言返事をしてから、そうであった、鏖地蔵のよもやま話に付き合っていたのであったと思いだし、今の己の返事が適切ではなかったように思えて、聞き返す。

「……いや、なんだと?」
「じゃから、四年前、本当に奴良組の跡取りは死んだのであろうなと、そう訊いたのじゃ。いつまでたっても花霞のねぐらを暴いたと言うてこぬから、しびれを切らしたわい」
「またその話か、お前もくどいな。呪いを仕組んだのはお前ではないか、鏖地蔵。人なれば悶絶し苦しみ抜いた挙げ句、死に至る。妖の血に目覚めたとしても幼いうちなら数百年は身動きが取れまいと、そのうちに捻り殺してやればよいと、他ならぬ、お主がさも楽しげに自慢しておったのだろうに」
「そうじゃ、お主に備えさせた石化封印の呪い、お主は確かに放ったのであろうな」
「ああ、放った」
「そして確かに、あの跡取りは死んだのであろうな」
「死んだはずだ」

 鬼童丸がいつものように静かな声で淡々と述べるので、鏖地蔵も目の前の宿願に狂った男が、よもや嘘を言っているとは思わない。また、鬼童丸も決して嘘は言っていない。肝心なところを、問われていないのだからと、話していないだけだ。

 放った。死んだはずだ。
 そのどちらも、本当のことだ。
 だが。

「まこと、奴良組の跡取りは呪いを受けたのであろうな?」
「……そうだ」

 これは、嘘だった。

「ふむ……なれば、花霞童子の八つという年、あの顔、そして母の呪い……もしやと思うたが、ワシの思い過ごしであるのかのう」

 嘘だったが、宿願の前で嘘を言う男ではなかろうと思われているところへ、それほど気になるのであれば己で行けば良かったではないかと、腹の底から響く声で脅してやれば、鏖地蔵など例のごとく額に汗を浮かべ、にたにたと笑って、そう気を悪くするなとなだめるしかなく、さらに疑ってはこなかった。
 もしも四年前、すぐに同じ問いを受けていたのであれば、鬼童丸は違う答えを述べていたろう。





 あの日。

 追っ手が迫る闇の中、風の中に不審な気配を見出した鳥が、森の中でギャアギャアとうるさく喚き、野犬がしきりに吠えていた。
 粉雪降りしきる森の中。
 母親は息子を励ましながら手を引き駆けていたが、足元おぼつかぬ幼子のこと、慣れぬ山道に転んだ。
 幼子を抱き上げ、母親は息を切らして駆けるが、風の速さに人の足が何故、勝てよう。
 子供を抱えているとなれば尚のこと、無駄なあがきだ。
 鬼童丸は母子を追う者どもにまぎれ、呪いの箱を開く、ただそれだけでよかった。

 黒い風が疾る。
 小さな羽虫のような呪いの種が、禍々しい牙を描いて母子に迫る。

 ただの女ならば、呪いが迫っていたとしてもこれを見ず、なす術もなく、我が子が腕の中で昏倒してから、何事かと泣き叫ぶしかなかったろうが、ただの人間の女と侮っていたところ、なんとこの娘、遠くから迫る呪いを《視》て、目を見開くではないか。
 そう、娘には見えていた。
 追っ手の妖怪たちの手を、ここまで逃れてこられたのは、運に助けられただけではなかったのだ。
 しかしそれも、ここまでだった。
 いくら天眼を備えていようと、他に何の力も技も持ち合わせていない身では、呪いに抵抗するすべはなかった。
 ただ一つ、身をもって我が子を庇う他には。

 母は強く子を抱き寄せ、その場で地に伏した。
 黒い小さな羽虫どもは、地に伏せた母と子に砂糖に群がる蟻のごとく襲いかかると、次にはあっと言う間に四散したが、しばらくたっても、母親は起きあがらなかった。
 もぞもぞと動いたのは母の身の下の幼子の方で、苦しげに母の下から顔を出し、反動でごろりとその場に仰向けに倒れた母にすがった。
 急に動かなくなってしまった母を揺さぶり、不安げな声には、涙が混じり、起きて、起きてよお母さんと話しかけていたものが、やがて、母を呼ぶだけの悲鳴に変わり。



 お母さん、お母さん、お母さん、お母さん、お母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さん。



 呪いを受けたのは、母親の方だった。

 しくじった。奴良組の跡取りなれば、すぐに楽にしてやるなど生易しい、まずは存分に苦しませた方が羽衣狐さまもお喜びになろうと鏖地蔵が言うので、そういうものかと思い、呪いの運び手を引き受けたが、やはり最初からこうしておけばよかった。

 思いながら、一度は鯉口を切った鬼童丸、柄を握った指を、ゆるり、離した。

 母子に追っ手が迫っていた。
 大所帯となった奴良組の中には、人間の母子など、二代目の息がかかっていようと何するものぞ、後で美味そうな女を数人見繕い届ければよかろうなどと単純に考える者たちもあり、彼奴等はまず間違いなく、二人に追いついたならその命を奪うだろうと思われた。
 けたたましく吠えていた野犬が、キャインと情けない悲鳴をあげた後、しんと黙った。

 涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、幼子は母の腕を己の首にかけ、顔を真っ赤にしながら、一歩、一歩、よろよろ歩き始める。
 一歩、歩んでは膝をつき、また一歩踏み出しては転び、涙も拭かずに母を背負って逃げようとする幼子から、鬼童丸は視線を逸らし、抜きかけた刀をおさめ、去ることにした。

 追っ手はすぐそこに、迫っている。
 じきにこの二人を囲み、喰らうかどうかするだろう。
 なにもそこまで、確かめる必要もあるまい。
 あと僅かな時間しか触れ合っていられない母子を、己の手で引き剥がす必要もあるまい。
 明日の朝には二人とも、冷たくなっているには違いないのだ、何もその時を早める必要も、あるまい。

 例えばあと一歩分、もう一歩分、母の息遣い、子の体温、互いに感じていられる時間があるのなら、それくらいは邪魔をする必要もなかろう。
 ――― 慈悲などではない、気まぐれだ。誰も見ていないところで起こした気まぐれを、誰が咎められようか。





 鬼童丸はだから、奴良家の跡取りと人の母が、その後どうなったのかを、知らない。

 これが四年前であれば、よもやあの時の子が生きながらえているのか、この京の都で生きて我等が宿願を妨げんと何やら企んでいるならば、己の手で引導を渡してくれようと刀を取ったろうが、今、鬼童丸の胸に生じた懸念は、全く違う方向を向いていた。

 埒も無い、杞憂にすぎぬ。
 そう否定し続けてきた、できるならば今後も否定を続けたかったことがら。
 花霞童子こそが奴良の跡取りではないのかという疑いがもたらした懸念は。

 あの童子、己こそが母を苦しめる呪いの運び手であったと知ったなら、一体どんな顔をすることか。

 実に小心な、身勝手な懸念であった。





 花霞童子の年ならば知っていた。元服前。出会ったときには八つだった。
 一つ年をとって、今は九つだと言う。
 人間の母があるのだという。
 石化封印の呪いを受けた母を、どうにかして救いたいのだと言う。

 この符号。
 四年前の母子にぴたりと一致する。

 初代ぬらりひょんの落胤だと言う名乗りが嘘だとすれば、花霞童子こそがあの、四年前に鬼童丸が見逃した童子ではないのか。

 あの童子は、母を苦しめる呪いを放ったのが誰かを知ったとき、その者をどんなふうに睨むのか。
 考えても考えても、波紋が増えるばかり。
 しまいには、考えたくないと、鬼童丸は思考に蓋をしたくなる。
 何故。何故考えたくない。

 怖いからだ。

 何が。何が怖い ――― 答えはいつも、闇の湖面に沈んだ先。
 今も、ちらとも見えぬ。

 それにしても解せないのは、羽衣狐ともあろう妖が、花霞童子を必要以上に疑わなかったことだ。
 母性をくすぐられたとは言え、監視もつけずにあえて泳がせておくのは、何故であるのか。

 これの答えは、問う前にあちらから教えてくれた。

 鏖地蔵を視線で追い返し、そろそろ夜回りの時刻かと腰を上げたところで、華奢な少女の姿を借りた羽衣狐が、のう鬼童丸、花霞童子はまだ次の生き肝を持ってこぬのかと声をかけてきたのだ。

「あやつの持ってくる生き肝は癖になる。はよう持てと伝えておけ。はよう持てと」
「申しつけておきましょう」
「のう鬼童丸、あやつはあの小さな手で、どのように生き胆を抉っておるのかのう」
「 ――― と、申されますと」
「妾はのう、これを機会に少しでも、あやつが生き肝を抉り取るその行為こそを楽しむようになれば良いと思うておる。あやつの魂が闇に染まり外道に堕ち、まこと京に相応しき妖となるまで、お主、目付けをいたせ」
「………それは、いかなるおつもりでしょうか」
「あやつ、そなたにもねぐらを明かさぬらしいな」
「………」
「そなた、あやつが本当に、初代の落胤だと思うか」
「まさか………」
「妾はな、アレが四年前の、奴良組から追われた小僧であれば楽しいのではないかと思う」

 にた、り。

 獲物をいたぶるのが楽しくて楽しくて仕方がないといった様子で、女狐は笑った。
 鬼童丸でなければ、心中を見破られていただろう。

 まさしく、鬼童丸はそうであろうそうに違いないと思いはじめ、しかしこれを失うのが怖くなり、それ以上に、もしそうだとしたなら、あの幼子の母が失われようとしているのはまさに己の所業のためではないかと、らしくもなく悔いている最中であったから。

 鬼童丸の沈黙を、九尾の狐は先を促すそれだと、上手いこと勘違いしてくれたらしい。

「あやつの母が奴良鯉伴の人間の妻だとしたら、あやつは四年前に奴良組から追われた若様ということになろうのう。それが、妾のために手を汚して生き肝を手に入れてくる。
 何故か。
 母の呪いを解く方法を、人の世界では見つけられなかったため、妖の世界に頼らざるをえなかったため。だから嘘をついてまで、おそらく己で修羅の道を歩まんとしている。誰にも言わず、己の小さな胸に秘して、こっそり、こっそり、少しずつ、少しずつ、手を汚しているのだとしたら、嗚呼、嗚呼、鬼童丸よ、なんと甘美なことだろうのう。それでも先には母の死、絶望しか待っておらぬ、なんと愛らしく、切なく、狂おしく、無惨な童子であろうのう。
 絶望を知り、憎悪に狂ったあやつが、妾は見てみたいのじゃ。
 母を失ったとき、あやつは世界を恨み、憎悪し、初めて晴明の心を知るであろう。妾を失ったときの、晴明の心をあやつは理解し、そのあやつが奴良に牙を向ける。
 二代目はどんな想いで、あやつを斬るのであろうなぁ。
 斬らねば二代目の命もそこまで。斬れば、二代目がその先どんな綺麗事を申したとしても、何の意味も持たぬようになる。どちらに転んでも、ああ、のう、鬼童丸よ、あの花霞童子、かわゆうてかわゆうてならぬ駒よのう。あやつが望むなら母上と呼ばせてやってもよい。今度来たなら甘い菓子を取らそう。そう伝えておけ。
 鬼童丸よ、あやつをよう妾の元へ連れて参った。礼を申すぞ」

 幼子への母性と狂いとが等しく混じり合いながら、尚も一つの駒として童子を見ている羽衣狐に、内側に波紋が波立つ以前の鬼童丸であるなら、流石は女狐、簡単に信じはせぬかと、己等を率いる主の名代として頼もしくも感じたろう。
 実際にこの時も、表向きは今までと同じように、かけられた言葉に深く頷き、上機嫌で踊るようなステップを踏みながら部屋を去った彼女の背を見つめていただけだったが、誰にも知られぬ心の内側では、全く違うことを彼は考えていた。

 行かねばならぬ。

 立ち上がり、さっそく部屋を出た。

 向かう先は、鞍馬山。
 花霞童子は伏目のあたりでいつも消えるが、鬼童丸を探すときは、折り目正しく、師と初めて出会った山に訪ねてくる。

 今日会ったなら、あの女狐の疑いがかかっていることを、知らせてやらねばならぬ。
 知らせてどうする。
 知れたこと、警戒させるのだ、忠誠を誓うつもりの無い相手に、決して絡め取られるなと。

 同時に、焦りも生まれた。  生き肝を抉る真似など、やめさせねばならぬ。
 死肉を漁っているのか、違う手段で見繕っているのか、手段は知らぬが、あの手はそんな事に使うべきではない。

 母を救う術を羽衣狐から引き出せなかったのなら、さっさと姿を隠すべき。
 今宵、もしも己の元に来たのなら、そう言わねばならない。
 妖の身で、己で命じておいて、今更何を言うと誰もが笑うかもしれないが、それでも言わねばならない。


 ――― 何故? ――― 失いたくないからだ。
 ――― ならばこちらに、引き込めばよいではないか ――― それはならぬ。
 ――― 何故? ――― 笑わぬあの童子など、見たくはないからだ。あるいは狂い笑うあの童子など、見たくはないからだ。
 それは失うに等しいからだ。



 あの手を、これ以上はもう、汚させてはならぬ。

 あの手は、もっと無垢であるべきだ。



 ――― 嗚呼。



 腰の刀ではない、懐に仕舞ったままだった水晶の数珠を、鬼童丸は無意識に探って強く握った。



 ――― かつて失ったものを取り戻さんと欲し、己は一体何を、しでかしてしまったのだろうか。



+++



 花霞童子は三日とあけずに生き胆を携え鬼童丸の元へ通ってきたが、この夜、鬼童丸が羽衣狐の実に妖らしい狂った企みを童子に打ち明け、母の命を救う術を得んがために近づいてきたのならもう良かろう、本格的に絡め取られぬうちに、ひっそりと姿を消すが良いと、懐いてきた仔犬に言い聞かせるような少々残念な気持ちで話してやると、流石に少し考え込んだ。

 母のことがあってこそ、恐怖を乗り越えて千年の大妖と対峙しようなどと考えたのであろう、四年前は、母に庇われるばかりであった幼子が、母一人背負えないでいた幼子が、ここまで成長したのかと思い、鬼童丸は言葉を重ねる。

「他の者どもは、鏖地蔵までもがそろそろ初代の落胤だと言う方を信じてきたが、そろそろ白状せぬか。お主、四年前に奴良組を追われた、二代目の方の一つ種であろう」
「 ―――― 今更その答えを聞いて、どうするんだい。オレが羽衣狐に与することには変わらない。母のことを諦めるつもりもない。それだけで、充分じゃないか」
「羽衣狐さまは、お主の魂が穢れに絡め取られることを望んでおる。百の数が終わったとしても、外道へ堕ちる道のりにキリなど無い、終わりなど無い、一度踏み入れれば、我等の宿願への道のりとともに螺旋を描いて堕ちて行くだけよ。お前のような子供でも、遊びではすまされぬのだぞ」
「しみたれたこと、いわんといて。今更子ども扱いもあらへんわ」
「扱いもなにも、お前は子供だ」
「しょーもない。昔は赤子の生き胆かき集めてたっちゅう鬼はんが、今更なんや。子供の妖一匹、自分から外道に堕ちようっていうのを、今更なんで止める」
「そこ等の赤子とお前とは ――― 違う」
「何が違う」
「お前は ――― なにやら違う ――― 数で、片付けられはせぬ ――― とにかくお前は、もう生き胆など集めずとも良い。足りぬ分はワシが適当に補っておく、母を連れてどこへなりと消えるが良い。それこそ、それほどの力を得たのなら、一度はお前を追った奴良組でも、母と二人、お前を丁重に迎え入れもしよう」

 説得など、回りくどいことをしなくとも、剣を抜き脅して、とっととどこへなりとも消えてしまえと言えばよかったろうに、慣れぬ言葉など重ねたせいで、空は白んできていた。
 それでも、鬼童丸はこの童子に剣を向け、打ち据えるなど、もはや考えもしなかったのである。

 一度は力無き故に追われた跡取りと言えども、ここまで立派に成長した跡取りの凱旋であれば、奴良組の中の内応者どもも、もう文句は言えまい。手放すのは惜しく、考えただけでぽっかりと体のどこかに穴が開いて風が吹きぬけるような気がしたが、そうまで言っても、童子は目の前から去ろうとしない。
 少し俯き、拗ねたように片足で小石を蹴りながら、

「そうなったら、アンタはどうするんだ?」

 不安そうに問うてきた。

「アンタも、羽衣狐の元を去るのか?」
「ワシは去らぬ。宿願がある。元の通りに、この京都で生き胆を狩りながら、封印が最も弱るその時を待つ」
「またそれか」
「世の秩序を、調和をもたらすためだ。ワシはこの千年、そのために追ってきた。生きてきた」
「それは生きてるとは言わない。漂っていただけだ。かつてあったものを、失った哀しさに。
  ――― せっかくその手、少し綺麗になったんだから、また生き胆を狩るなんて言うな。
 秩序と、調和が、ある世界なんて ――― そんなもの、追い続けたって、戻ってきやしないんだ」

 言われて、鬼童丸は己の手に目を落とした。
 人の血に、月の下ですら赤黒く染まっていたはずの手は、今も片方を懐に入れて、例のごとく水晶の数珠を無意識に撫でていたのだが、取り出して眺めてみると、今は白い月に冴え冴えと、どこか穢れが薄れているように見えた。
 花霞童子と会って以来、いつ童子がやってくるかわからぬからと待つようになって以来、鬼童丸は生き胆を狩ることをやめていた。またいつでも狩れるだろうし、彼の狩りの対象は、放牧されている家畜よりも世話がいらないので少しの間、例えばこの童子が元服するまでの間くらいは、忘れていてもよかろうと思っていたのだ。

 だが今、ぞっとした。
 己の手の穢れが、薄れたことにではない。

 ではその分の穢れは、一体誰が担ったのだ。

 そう、目の前の童子に違いない。
 無垢であったはずの手に血をまとわせ、今日も生き胆を狩ってきた手に、死臭を漂わせ。
 その穢れは、本来なら鬼童丸が負うべきはずだった、咎だ。

 愕然としていると、童子の手が鬼童丸の手を、きゅっと握った。
 間もなく夜明けの光が二人を包むと、あれほど妖しく童子を包んでいた蒼紫の妖気がほどけて、鬼童丸の手を握っていた花霞童子は ――― 目の前であの陰陽師の少年へと、姿を変えた。

 月に映える見事なしろがねの長い毛並みは、太陽の光を冠のように浴び、今は首元までを覆う金褐色。

 さらに愕然とし、言い知れぬ《畏れ》に、どっと冷や汗が出た。
 哀しげに目を伏せた陰陽師の少年は、声すら涼やかなそれへ変えて、花霞童子の言葉を続けるのだ。

 初めて出会ったあの日感じた、眩しすぎる光。
 それは確かにあるはずなのに、鬼童丸を焼き払いはしなかった。



 清らかな蓮は、汚泥の上に咲いていた。
 清濁を併せ持つ蓮の上の存在は、眩しい言葉を一つずつ丁寧に、目の前のそのひとこそが世界の中心であるかのように、心から語りかけるのだった。



「秩序とは、調和とは、何でしょうか。
 かつて在ったものを、無理矢理奪い返し、取り戻すことでしょうか。
 閉じた輪廻を、前世の苦しみを引きずりながら、永劫に巡ることでしょうか。
 管理された世界の中で、生きることでしょうか。
 妖の手で作り上げた箱庭の中で、無理矢理人を生かしたとしても、きっといつかはそれも、壊れる。

 寄せて返す波を操れはしないように、光と闇の調和は、何者かの手で紡げはしない。

 ボクは。

 今の世界が好きです。
 今の京都が好きです。
 綺麗なところだと思いませんか。
 ちょっと足を伸ばすと、まだこうして山の中、溢れる自然があって。
 人はその中で、文明を築き、時々古き良き物を壊しながら、闇を追いやってしまったりもして。
 きっといつかは、ボクがこうして愛した世界も、壊れる。
 きっと今までもそうだったように、築き上げた文明は、時の果てに埋もれて消えるのでしょう。
 ボクが伏目に作り上げた、ちょっとした妖怪たちの楽園も、いつかは、壊れてしまうのかも。

 でも、形あるものは壊れたとしても、同じ想いを、誰かが持ち続けてさえくれれば。
 きっと、同じ秩序は、調和は、また別の時代に、甦るんですよ。
 これこそが完全な反魂の術。
 紡がれる想いは、消えはしない。
 だから尊い。

 鬼童丸さん、貴方がかつて好きだったもの、壊れてしまったものは。
 今の世にはもう、全く見出せそうも、ありませんか?
 巡る季節や、吹き渡る風や、芽吹く木々や花や、森の奥のせせらぎは。
 かつて見ていたものと、全く違うものですか?

 守りたいものは、ありませんか?
 見つけられそうにも、ありませんか?

 ボクでは、そのお手伝いも、できそうにありませんか?」



 花霞童子よりもさらに華奢で小さなその手など、払った瞬間にどう傷つけてしまうことかと思えば、払うに払えず、しっかと握り締められたまま、鬼童丸はよろりと体を傾けて、畏れをもって少年を見上げた。
 少年など、鬼童丸の腰までも届かない。
 見上げられるはずはないのだが、とにかく、鬼童丸はその大いなる存在を、見上げていたのだ。



「貴様何を ――― 陰陽師め、貴様、最初からこのワシを調伏するつもりで近づいたのか……!」



 この少年は、最初から自分を謀るつもりで近づき、調伏するつもりで心に何か術をかけたのだ、そうであればこれまでの自分自身の心の波紋も合点がゆく。
 そう思い込もうとして、剣を抜いた。
 しかし、少年は夜明けの光を燐光のように身に纏わせながら、伏せていた瞳を、開く。

 血に濡れた瑪瑙が消え、憐れを担う琥珀へと、瞳の色は変わっていた。

 尚も剣を手にする鬼童丸を哀しく穏やかに見つめながら、少年は是とも非とも言わなかったが。

「この先、二度と人間の生き肝を穫らないと約束してくださるのなら、今ここでボクの生き肝を差し上げてもいい。でもその代わり、貴方が生き肝を狙うのは、ボクで最後にしてほしい」
「その取引に応じたとして、ワシは何か得をするとでも言うのか。お主の生き肝はもらう、だが他の人間どもの生き肝を狩るのもやめぬと、そういう選択肢もある。そちらの方が余程、魅力的であろうが」

 答えながら、嫌な汗が鬼童丸の背を伝う。

 是とも非とも応えぬ代わり、陰陽師の少年は懐から剣も呪符も捨て、あの言いしれぬ《畏》だけで彼を包み込まんとし、鬼童丸は全身に気迫を漲らせて跳ね返すのだが、千年の大妖の全力の抵抗すら、穏やかな微笑みはやんわりと包み込み浸食してくるのだった。
 この一年のうち、いつの間にやら鬼童丸の心に、花霞童子が入り込んでいたように。



「……ワシの前で無防備な姿を晒したこと、黄泉で後悔するが良い」



 面倒な因縁など断ち切ってしまえばよい。
 鬼童丸は童子の頭を片手でつかみ、石榴のように握りつぶしてしまおうとしたが、どうしてもここぞというところで力が入らない。
 ならばと、今度は刀で細首を斬り落としてやろうかと思ったが、振りあげた刀をどうしても降ろせない。
 童子は印も結ばず、真言も紡がず、ただ鬼童丸を見つめ返しているだけなのに、視線が、重い。



「何故だ、何故、お前を斬れぬのだ。さてはワシに妙な術をかけおったな」



 何度も斬ろうと試みたが、時間をかければかけるほど、刀も腕も重くなり、体は金縛りに合ったように動かなくなっていく。胸の奥にもじわりじわりと痛みが広がり、その痛みを妙な術であると鬼童丸は決めつけた。それ以外に、痛みの原因に心当たりを得られる生ではなかったために。

 斬られた後の童子を想像するたびに。

 あるいは、今まで生き肝を抉られた人間どもが等しくそうだったように、目を見開いたまま動かなくなった童子が、瞼の裏にちらつくたびに。
 鬼童丸は焦りを感じた。
 腕であたりを払っても払っても、この原因は消えず、まとわりつく。

「何なのだ、これは。何だ、何だというのだ。知らぬ。このような術は、このような恐ろしい術を、貴様、いつの間にワシにかけた」
「ボクは、術なんてかけていません」
「嘘を申すな」
「嘘なんて言ってない」
「何をした、ワシにどんな術をかけた」
「術もかけていないし、嘘もついていません。本当は、貴方と知り合ったとき、いつかは敵になる相手なんだって自分に言い聞かせてました。こうやって、いつかはお互い決着をつけなくちゃならないって。その時は、ボクの全ての《畏》を魅せて、貴方を調伏するつもりだった。でも、貴方が優しいから、刀や術を向けるのが嫌になっちゃった。貴方がボクを大事に思うようになってくれてから、ボクも貴方を大事に思うようになっていた。だから、父さん、貴方がそれでもボクを斬って宿願を果たそうと言うのなら、貴方にとって必要なことなら、生き肝くらい差し上げようと思ったまでなんです」

 これを聞いたときに、今までにない恐怖が鬼童丸の全身を包み込み、言霊から身を守るために耳を覆った。
 もちろん、手にしていた刀など足下に放り捨てて。



 一つしかない命を、投げ捨てる ――― !



 やれと言えば自ら生き肝を抉ってこちらに寄越しそうな童子を、鬼童丸は畏れた。
 そんなことをすれば。
 そんなことをしてしまったら。
 今のお前は人間だ。どう見ても人の仔だ。なれば。



 生き胆など抉ったなら。



 死んでしまうでは、ないか。



 嗚呼………。



 膝をついた。
 ひどい目眩がした。
 今まで、ろくに数えてこなかった人間ども。生き肝を抉った後、血反吐を吐いて倒れ動かなくなった人間ども。そのどれもが、今思い出してみるとこの童子と同じ顔をしていたような気がしてならない。
 いくつも、いくつも、何度も、何度も、数えきれぬほど、鬼童丸は息子の生き肝を抉ってきていた。そう思い知らされたのだった。

 あれ等は、自分の息子ではなかった。
 だが、誰かの息子だった。誰かの娘だった。

「もう二度と、ワシに生き肝は取れまい。恐ろしい術があったものよ、何だこれは、貴様は、ワシの生き肝に何を刺した」
「いいえ、何も」
「ならば何故、これほど痛む。キリキリ、キリキリと、仁王がワシの心の臓を握りつぶそうとしておるぞ」
「それは多分、失う痛みです。鬼童丸さん」

 彼の息子は、小さな体で、倒れ込もうとする父の身を正面から受け止め、支えて、嬉しそうにこう言った。

「そして、これが生きてるあたたかさだよ、父さん」

 その小さなあたたかさを、どうして打ち捨てられただろう。
 鬼童丸は、己が調伏されたのを知った。



 波紋が ――― 鳴る。
 乱れに乱れて波立ち、粟立ち、やがて、正体が現れた。



 夜に会う童子は、一目ではっと視線を引きつける美しさを持っていたが、こちらの童子はそうではない、笑うと愛くるしいが、ただの童子。見惚れるような艶やかさとは無縁なのだが、花房の下でくるくると変わる表情を、別れた後で不思議と思い出す。
 いつしか目で追ってしまう、そんな魅力を持った童子であった。
 それが今は、静かな双眸で己を見つめている。



 二人の姿はいわば月と太陽であった。
 月はそのものを美しいと思わせる。世界を照らすほどの光を持たないがゆえに。
 太陽そのものを美しいとは誰も言うまい。指さす世界が悉く輝くゆえに。



 あの春の日、花を指さし、童子は笑った。

 綺麗ですね、鬼童丸さん。



 かつての主に重なった。

 美しい都だと思わないか、鬼童丸。



 才ある陰陽師であった主は母を失い、哀しみに狂い狂って鬼道に堕ちた。
 鬼童丸にとっては、それでも主は主であった。
 だからこの千年、失われた主を取り戻さんがため、羽衣狐の転生を追いかけてきたのだ。

 取り戻す。

 何を。

 失ったものを。



 そう。鬼童丸は主を、失ったのだ。



 光と闇が認め合い、背中合わせで暮らし微笑み合う、その世界を見つめるあの眼差しを、失ったのだ。



 なのに怖い。何が。失うのが怖い。いや既に失っている。ならば何を失うのが怖い。



 主は失われた。いいや、取り戻そうとしている。
 そのための宿願だ。怖れるものなど、今は無いはずだ。
 だが。取り戻そうとしてきた千年の果て、鬼童丸が感じているのはどうやら別のものを失う怖れであった。



 もう己に嘘はつけなかった。
 どうやら己はこの童子を、失いたくないと思っている。

 激しく波立っていた波紋がぴたりと止み、ついに探り当てた小石の正体を、鬼童丸は知った。

 小石は、花霞童子の姿をしていた。
 小石は、陰陽師の少年の姿をしていた。



「何故 ――― 何故、無垢な手を汚した。何故。何故そのようなことをした」



 生き胆を狩る。
 人同士の殺生は、それも真言を紡ぐ身なれば、泥にまみれる事に他ならない。

 小石の正体を知ってしまって、幼子に支えられながら、鬼童丸は喉につかえていたものを吐き出した。



「何故、拒まなかった。何故、逃げなかった。その手の穢れは永劫にお主を苦しめように」



 己の胸の波紋の主を、鬼童丸はそのまま腕の中へ、大切に仕舞った。