太陽の光は、鬼童丸を滅したりはしなかった。
 人も妖も、数多の命を奪ってきたのだ、もしも神や仏があって改心を迫るなら、闇に沈んでいた彼の罪状を次々に照らし出し、であるからしてこのままならばお前は地獄へ落ちるぞ、振り返ってみるがいい、お前が築き上げてきた屍の山と血の池をと、さぞかし呪詛に満ちた道のりを指さすに違いない、ならばその時は喜んで宿願のため地獄に落ちようぞと鼻で笑っていたものだが、そうもしなかった。

 彼の前に現れた太陽は、あたたかさに焦がれ優しさを求めて近づいてきたのを、心から喜んで手を伸ばし、血にも泥にも汚れた鬼童丸の手を疎まず取って引いた。

 光は、美しき世界を、照らしだしただけだった。
 世界は鬼童丸を拒みはせず、ただ、黙してそこに、あっただけだった。
 失ったものを嘆く心を癒すばかりで、あたたかいばかりで、むしろ鬼童丸を苛んだのは、彼自身の心だった。

 罪。咎。

 そのようなものは、お前はこれこれこういう罪状だからこの罰がふさわしいなどと、誰も決めてはくれず、ただただ、あらかじめ事実だけが転がっていて、これを己の心に刺す棘と見るのも路傍の石と見ぬふりをするのも、彼自身の心次第だった。
 路傍の石だったものが、何かの拍子に心の臟を貫く棘になった。
 つまりは、そういう次第。
 闇の中に在る妖の者が太陽を疎む理由を、千年生きた末に、鬼童丸は思い知ることになった。

 知らなければよかった。
 何も知らなければ、このように思い悩むこともなかったろう。
 だが知ってしまった。
 知ってしまったからには、もう後戻りはできない。
 目を開けてしまったからには、もう知らぬ振りはできない。

 鬼童丸が招かれた伏目屋敷には、他にもそういう輩があって、各々何らかの痛みや傷を抱えながら、優しく日々を重ねていた。
 そう、日々は優しかった。
 太陽は彼等を暴く忌々しきものではなく、寒さに凍えそうな彼らを明るく柔らかく照らす、愛しきものだった。

 太陽の名を、花霞リクオと言った。
 この小さくも愛しき太陽が、大人びた言葉を手繰って優しく己等の心を撫でるのも良いが、皆が楽しみにしているのは、彼が年相応の表情で、ぱっと明るく笑う瞬間だ。
 例えば前触れなく病院から外泊しに帰ってきた母が、学校から帰った彼を「おかえりなさい」と、小物たちと一緒に玄関で微笑んだときなど、あっと言う間に甘えん坊の子供に戻ってしまって、驚き戸惑い母の体を気遣い、ひとしきり驚き終わると、あとは始終母の後をついてまわる。
 リクオの昼の姿は、この母親によく似た面差しである。

 鬼童丸を初めて見たときにも、「まあ、今度はずいぶん大きなお友達ね」と、動じず笑ってすませた御母堂は、これまたにっこりと優しく柔らかく笑うので、こちらと屋敷の大将が二人並ぶと、空に太陽が二つあらわれたようなめでたさ、あたたかさだ。

 かつては、闇淀む場所こそが何をするにも都合の良い場所であったのが、秘密を持つようになって以降、どうしても性に合わなくなってしまった鬼童丸、招かれた伏目屋敷の青い畳の上、あるいは視界の先に木漏れ日降り注ぐ縁側などがどうにも居心地良く、笑う母子を見ると胸のあたりがほかほかとするのはいいのだが、この母親の顔が四年前に見たあの女に間違いないので、いよいよもって棘は深く刺さり、しくりしくりと深いところを痛ませた。
 こればかりは、花霞童子に優しく気遣われても、人なつこい猫又に酌がてら顔をのぞき込まれても、沈黙を守るしかない。

 何度か、心苦しさのあまりに行方をくらましてしまうかとも考えたが、早朝から陰陽師の修行に勤めに学校に、昼過ぎからは陰陽師として依頼人の元を駆け回り、夜は年を誤魔化して異界祇園でバイトをしつつ京都の見回りなどをして、夜明けまでには帰るという目まぐるしい毎日を健気に繰り返している童子を見ていると、己ばかりが重荷を捨て去るわけにもいかないと思えて、それもできない。
 相変わらず、童子は生き肝を狩るのをやめず、これを持って鬼童丸は、何食わぬ顔で羽衣狐の元へ行く。
 童子が何故まだ羽衣狐にこだわるのかはわからないが、その役目ばかりは、屋敷の他の妖が行うわけにもいかぬし、この母子を捨てて自分だけが何かから逃れたとしても、棘は消えて無くならないことを、鬼童丸は知っていた。





 さて桜も盛りを過ぎ、風が吹けば花吹雪。
 ある日、黄昏が近くなった頃、童子が陰陽師の任に赴くというので、それではどの護法がついていくかといつものように屋敷の妖たちが相談しかけたところ、童子は、いや今回は独りでいい、と言う。
 これもままあることだったので、置いて行かれる妖たちも、そうかと納得して主を見送った。
 こっそり後を付いていこうとする者が過去になかったわけではないが、彼等の主は幻術にも陰陽術にも長けているので、そんな真似をしてもいつの間にか見失ってしまう。だから今となっては皆が屋敷で、風呂を沸かしたり心地よい寝床を用意しておいたりしながら、じっと主の帰りを待っているのだった。

 ただ一人。

 鬼童丸は、己がこの屋敷に居座るようになってから幾度かこれが繰り返されたので、童子がただ一人で何をしているのか、知っていた。
 ただ一人で赴き、戻った後、童子は鬼童丸に例の如く、荒縄で縛った小さな瓶を手渡すのだ。

 今日の夜、あの童子はまた、生き肝を狩る。
 そう思うといてもたってもいられず、童子が屋敷を出たのを追って、山を下りたところで追いついた。
 後を追っても、おそらくはまた見失うだろう。
 こっそりと後をつけるのを諦め、その場で呼び止めると単刀直入に、鬼童丸は切り出した。

 まずは、人でありながら、妖でもあり、陰陽師でありながら、妖を統べる一家の主でもある、この童子が何故まだ生き肝を狩るのか、どうしてさらに羽衣狐に仕えようとするのか、問うた。
 己の方にこそ、言わねばならないことを秘めていながら秘密を明かせと迫るのだ、言いたくなければ言わなくても良いのだがと、後ろめたさからまずは断りがついたのは当然だった。

「何故、いまだ生き肝を狩る。いくつ備えようと羽衣狐はお前が外道へ墜ちるまで満足せんぞ。お前の目的は、いったい何だ」
「それなら、前にも言ったじゃないか。ボクは花開院の陰陽師だよ」

 だから役目は一つ。
 京都を、護ることだ。
 かつて聞いた言葉を今一度、同じ人の姿で、童子は繰り返した。

「羽衣狐の陣営に加わるには、まずは百の生き肝が必要なんでしょ。満足とまではいかなくても、一応の約定を交わす材料にはなるはず」
「陰陽師のお前が、羽衣狐の下について何をしようとする。討つための隙を見つけようと、潜り込むつもりか。深入りすれば、逆にからめとられよう。甘く見るな」
「腹心になろうとは思ってないけど、せめていつ封印破りを始めるのか知らされる程度にはなるつもりだよ」
「知って、どうする。何を企んでいるにせよ、前にも言ったが今のお前の力があれば、奴良組に渡りを付けるのもたやすかろうに、何を躊躇う。よもや妙な意地を張っておるのではなかろうな」
「……連絡なら、何度だって取ろうとした。でも、だめだったんだ」

 陽が、落ちた。
 人通りの無い細道にも、電信柱の明かりが点いた。

 童子は大人びた溜息をついた。

 あたりに立ちこめた陰の気に何者かが潜んでいやしないかと警戒した鬼童丸が、ほんの僅か、周囲を見回して再び視線を落とすと、そこにはしろがねの長い髪をなびかせ、瞳を紅に変じた童子が居た。
 纏っている衣は陰陽師のもの、しかし出で立ちは同じでも、纏う妖気、振る舞い、表情、声、何を取ってもまるで別人である。

「アンタも来るかい、オヤジさん。どうせまた羽衣狐のところに生き肝を運んで貰わなくちゃならねえし、それに ――― 行く途中でアレを見てもらった方が、説明するより早いや」

 言うが早いか、童子はふわりと吹いた夜風に足をかけて、するりと駆けた。



+++



 人目を避け、異界や山を通り抜けながらたどり着いた先。
 そこはとある焼け野原だった。

 高い壁で囲い、さらに厳重に幾重もの金網で巻いて人の出入りを禁じる物々しさがそれだけでも人を遠ざけている。
 花霞童子の後を追って鬼童丸はこの囲いをふわりと越え、中に降り立ってみたが、なんともいえぬ異臭、色濃く漂い視界を覆うまでの呪詛に、思わず顔をしかめた。

 しかし、漂う妖気、鼻をつく異臭、足元で今もぼこりぼこりと泥から気味の悪い油の泡が沸き、草の根すら枯れて虫の一匹の気配すらないこの場所が、ただの焼け野原でないことは、妖の身でなかったとしても、ただらぬ場所であると判っただろう。
 現に、少し歩けば民家も立ち並び電車が通る場所だと言うのに、ここに近づく人影は無かった。
 いまだにこの地に残る、強烈な呪い。
 これを放ったのは誰であるのか、鬼童丸が問う前に、答えはあった。

「薬品倉庫だったからな、表向き、不審火が元の火事ってことになった。しばらく草木も生えないだろうって言われてて、それも、薬のせいだってことにできたらしい。ここの持ち主の薬品会社の人間は、汗だくになりながらそんな薬は使ってなかったって最後まで言い張ってたって、当主が言ってた。
 申し訳ないことしちまったよ。手頃な広さがあって、あたりの森に被害が行かなさそうな場所は、ここしか無かったんだ。伏目からここまで、そう遠くなかったろ?ここを抜けられたら、あとは伏目までまっしぐら。伏目の山の木々も水も全てこうして腐ったろう。あそこは水源もある、水は人も獣も飲む、その生活がたちゆかなくなる。
 奴良組の刺客は、ここで迎え撃つしか無かった」
「奴良組の、刺客、だと?」
「連絡を取る手段は知ってた。あの屋敷にも電話が引いてあって、ちょいと変わったかけ方すると、つながるんだ。母さんも知ってたはずだ、なのにずっと使わなかったのは、その線の先に繋がる二代目と、オレたちとの間に立ちふさがるものを、ちゃんと《視》てたからなんだ。
 オレが連絡を取ろうとしたらな、あちらさん、二代目は今留守だからとか適当なことを言いやがって、すぐにこちらに迎えを寄越すと言った。で、来たのは毒の羽を生やした、三つ目のでけぇウシオニが一匹、オレを黄泉に送り届けるための迎えだと笑って、そう言った。屋敷の奴等が奮起してくれたし、騒ぎを聞きつけて兄弟たちもすぐ来てくれて、皆で何とか倒したが、奴め、最後に毒霧の呪いを吐いて ――― それからオレを庇って、秀爾という兄が一人、死んだ」
「今や二代目までがお前の敵だと言うのか」
「そうじゃない。人が多くなりゃ、色んな考えが生まれる。オレは花開院の陰陽師で、多くの兄弟たちや当主は母やオレによくしてくれるが、それをよく思わぬ輩もある。奴良組だってきっとそうだ、オレが二代目に連絡を取るのを、良く思わぬ輩がいるんだろうよ。二代目がオレを殺そうとしたんじゃない、それはわかった。だってもし、二代目がオレを遠ざけようと、殺そうとしているんなら、もっと目立った大勢が来るはずなのに、そうじゃなかったから。目を盗むようにして、一匹だけが来た ――― それは逆に、二代目はまだ母を、オレを、忘れてはいないってことなんだと、思えた。
 一匹刺客が来たからって、奴良組を敵視するつもりはない。
 ……秀爾兄のオヤジ殿は、妖の血を引くオレを疎んで花開院から追い出そうとした先代の伏目稲荷鎮護の陰陽師だったが、秀爾兄はオレを守って死んだ。人は、人の想いは、いいや妖だとしても、それぞれなんだ。そして、奴良組の中でオレを疎む何者かは、網を張ってオレが引っかかるのを待ってる。そんな感じだ。ここでの戦いのときは、事前に当主に相談して、屋敷の場所は知らせないように、ただ京都に居るって話だけにしたし、連絡を取る前に結界を張って、こちらの居場所がわからないようにもしたから、それ以上の追っ手はこなかったけど、同じ危険は犯せない。そんなことして、もしまた同じことが起こったら、秀爾兄の教えも無駄になる。
 今はまだ、二代目の手は、借りられない。
 けど、母さんを助けられるのは、二代目しか居ない。
 羽衣狐の中に居るあのひとがそう言うのなら、今のオレにできるのは、来るべきときへの準備だけだ」
「羽衣狐の中にだと?馬鹿な、依代の意識などとうに無い」
「無いはずならば、あんな言葉、オレに聞かせなかったろう。《癒しの通力》が二代目に受け継がれているなんて、羽衣狐は知ってたのか?」
「いいや ――― しかし、まさか ――― 」
「知ってたとするなら、母の前に二代目の妻だったという、妖の女。今の依代しかない。生きてるんだよ、想いは、今も。そして彼女も、愛するひとの迎えを待ってる。きっと二代目も京都へ来る。愛するひとを迎えに来る。機会があるなら、そのときだ。そのときまで、母さんを生きながらさせる方法を試しながら、凌ぐしかない」
「 ――― お前は、どこまで、知っておる」

 いくら聡いとは言っても、大人びているとは言っても、十を数えるより前に、己の父が母ではなく違う女を妻にしていたことや、その二人が今もまだ情を交し合っていることなど、知識として知っていたとしても納得できるものではないだろうに。
 父や母は子にとって、己の父や母なのであって、一人の男や女として誰か他の男女を愛するような生き物ではないだろうに、淡々と、どこか他人事のように己の父と一人の女のことを話しながらも、母のこととなると表情は途端に幼くなり頼りなくなる不安定な心の動きからは、だが、父への恨みや妬みといったものより、父のかつての妻への戸惑いというものより、ただただ、母が失われることへの恐怖しか感じ取れない。

 面白がって誰かがこの幼い童子に、父とかつての妻の事を教え込んだかと苦々しい気持ちで問うてみると、童子は少し口ごもって、悪さを叱られた子供のように鬼童丸を上目遣いで見上げて、打ち明けた。

「……ずっと前から、奴良屋敷に居た頃から、母さんに言い聞かせられてた。二代目は妖との間に子が成せない呪いがあって、そのせいで、相愛だった妻に去られてしまったんだって。母さんは二代目を好いて、でも母さんは人間だからそう長くは生きられないだろうから、母さんが死んだ後、そのうちいつか、そのひとが戻ってきたときには、そのひとのことをちゃんと、母さんって呼ぶのよって。子供がいれば解決する悩みなら、きっとそのひとは、リクオが居ることで戻ってきやすいでしょ、って。
 それでいいのって。父さんが母さんじゃないひとを好きになってもいいのって訊いたら、それでいいって笑ってた。元々母さんは、二代目と、そのひとの事をちゃんと知ってて、それでも二代目を好いて、二人のためにもオレを産みたいと思ったって、そう笑ってた。
 母さんがいいなら、オレもそれでいい。
 この先二代目が誰を妻にしても、誰を守っても、母さんがいいなら、それはそれでいい。
 だけど、このまま母さんを守れずに死なせてしまうのは ――― それは、嫌だ」

 だから待つのだ、と、童子は結んだ。

 今の京妖怪たちの中でも、羽衣狐たちに味方したい者ばかりではない、中には静かに暮らしていたい者、巻き込まれたくない者もあるのだ、そういった者たちを守護するにも、羽衣狐たちが螺旋の封印を破らんとするそのときに、花開院の義兄たちを封印から遠ざけるための知らせをするにも、羽衣狐の配下であるのは都合が良い、だから生き胆を集めてでも何でも、懐に喰らいついてやるのだと、瞳の紅にちらちら燐光を帯びさせながら。

 失いたくないという気持ちを、嫌と言うほど思い知らされている鬼童丸としては、童子の気持ちは痛いほどよくわかる。
 屋敷の妖ども、もとい、護法たちが童子の母を童子もろともよく守ろうとする理由にも合点がいき、尚も生き胆を運ぶ役目を続けることにした。





 足りぬ分は己で補おうかと当初は考えたのだが、花霞童子がするように、美味なる生き胆を選ぶ自信は無かったし、一度見て、これならば童子の手を汚すというより、明王の本来の役目であろうとも思え、時を遡ること五百年前には、人間どもの将もまた、一晩で百や二百の人間を斬り殺していたことだし、このまま百を数える程度ならばよかろうかと、思えたためであった。
 美味なる生き胆の主は、皆が皆、咎人と言って差し支えない人間どもであったから。

 浅慮だったとは、後で知ることとなった。

 姦淫、不義、暴力。
 弱き者をさらに痛めつけて暴利を貪り、法の網目を掻い潜って笑っている高利貸し。
 親を親とも思わぬ子、子を子とも思わぬ親。
 親の威に隠れ、法に裁かれぬからと胸を張って女を犯す少年もあれば、男を利用し金を騙し取り、次の男に前の男を始末させる少女もあったりなどして、こういった者どもが、異界の住人に罪をなすりつけて逃げ回った結果、異界の者の仕業であればと陰陽師に仕事が舞い込み、童子の耳に入る。
 昼の陰陽師の顔の間に調べをつけておき、これ以上、野放しにしてはならないといったところで、明王が、動く。

 ところが、すぐには命を奪わない。
 明王はその人間を、三日の間、見定める。夜の枕元に立って、警告をするのだ。
 今すぐ悔い改めてカタギになれ、さもなくば ――― と、幼くも艶やかな妖を前にして、ほとんどの人間はこれを嘘だ、夢だと思い ――― 今までと同じ悪行を重ねた末に三日後、明王の沙汰が下る。

 その三日の間、明王は悩む。
 本当に命を取らねばならぬほど、その人間は救いようが無いか、否か。
 此の世の底辺を見るには無垢すぎる、早すぎる、幼い瞳で、しかと見定める。
 悩み、見定め、本来ならば見定められている人間こそが己について深く考えるべきであろうに、代わってこれを為す。

 三日後の夜、大抵の人間は、伏目の山奥の古びた御堂で目を覚まし、幽玄の霧の中から現れた明王の前で、三日前の夜のあれが夢ではなかったことを悟り、今更になって許しを乞い、額を土に擦りつけ、泣き叫び、半狂乱になり、中には失禁までして逃げようとする者もある。
 どうして己がこうなってしまったのか、親が悪い、子が悪い、環境が悪い、子供の頃に金に恵まれなかったのが悪い、ああしていればこうしていれば、ああされていればこうされていれば、様々な理由を申し述べて明王の許しを請い願い ――― 己が悪かったと言う者は、ほとんど無く、たいていは明王が操る花霞の幻の中に、勝手に己が犠牲にしてきた者たちを呼び寄せ、その者たちに絡め取られるようにして憤死する。
 こうした者たちは、突然ある夜に姿を消すので、皆、こう言われる。
 《神隠し》にあった、と。

 後に残るのは、業と欲にまみれた生き胆の苗床が一つ。
 一つの念にまみれた人間というのは、忌み深く美味くなるのだ。
 妖が憑き易くなる人間は、つまり、美味なのだ。
 悪に染まれば悪に染まるほど、味の深みは増す。

 この童子に木刀を渡してやったとき、難しいと零していた理由を、鬼童丸はここでようやく知った。

 善きものであれ、悪しきものであれ、しかし選び取るというのは、大変に難しい。
 明王を名乗るのならば尚更に、救えぬことこそが力不足。

 生き胆を取られた人間たちは、伏目山の御堂の側で荼毘に付され、丁重に葬られる。
 伏目屋敷の護法たちも、うっすら知っているからこそ、誰も主の影をうっかり踏んではならないと思って、決して近づかぬ。
 誰も居ないその場所で、朝になって童子は泣く。
 己の力不足ゆえの心苦しさのせいでもあり、あれほど警告をしたにも関わらず、この土地を離れず己を変えることがかなわなかった、《神隠し》にあった者たちのためでもある。
 力示せば鬼神、省みた際に見せる慈悲はまさしく仏。
 だが、悪人たちが《神隠し》にあったことで、救われた人間が居ることもまた事実であり、そういった者たちはどこからか、しろがねの髪の伏目明王の噂を聞きつけ、一言御礼にと伏目山を訪れて来る。
 もちろん、そんな社も寺もない。
 だから救われた者たちは、有名な紅鳥居をくぐりぬけ、伏目稲荷へ手を合わせて、ご近所に伏目明王様という方がいらしたら何卒よろしく、などと申し上げていく。
 伏目稲荷の使いが伏目屋敷にやってきて、これは伏目明王の取り分であると、幾らか小銭を置いて行く。
 こうして伏目明王の名は高まり信仰を集め、京都の夜に蔓延る人も妖も、派手な悪事はここではまずいと息を潜めるようになる。

 陽の下で、お天道さまに背くようなことをせずに生きていられるカタギの人間たちにとって、そういった、畏れ多くも勇ましい、悪事を許さぬ御方が姿を見せずともおられるらしいというのは心強い。

 だが、悪人を狩るたび明王は悩む。如来は手を合わせる。童子は泣く。
 泣きながら生き胆を抉り取って、鬼童丸はその末に、狩った生き胆を羽衣狐の元へ、運ぶ。
 羽衣狐は、明王の憂いや悩みや、如来の涙や、悪人の欲にまみれたその生き胆を、いかにも美味そうに喰らう。

 早く、早く、その《刻》が来て、関東と関西の抗争が起こり、ぶつかるべき力同士がぶつかり合い、二代目がここに来てこの童子を見つけてくれぬものか、この童子の小さな背が負っている不釣合いな重荷ごと、抱き上げてくれぬものかと、鬼童丸は思う。

 思い、想い ――― 人どもがするように、初めて、手を合わせた。
 祈る相手が誰かもわからぬまま、お救いくださいと、手を合わせるしか、なかった。

 そのようにして生き胆を狩る場に居合わせるようになってから、胸がきりきりと痛むばかりだったので、供物の残り数が十を切ったとき、あと少しでこの小さな背から少しは荷が下りるかと思えばいくらか胸が軽くなった。
 軽くなった直後、重さは今までのものよりも、さらに増した。

 思い当たったためだ。

 最後の一つ。稀有な通力を持つ姫か御子を一人。

 これを、あの童子はどうするつもりなのか。





 いてもたってもいられず、童子が学校から帰った後、休息も取らずに例の御堂へ花をそなえ経をあげにいくところへ供をして、いささか急きながら、問うた。
 真正面から問う他に、鬼童丸には手段が無かった。

「……九十九までの生き肝は、わかった。だが、百個目の生き肝は、どうするつもりだ」
「それは、最初から心当たりがちゃんとあるから。心配しないで」

 これまで、己の所業への後悔ばかりが先立ち、思い至らなかった不安だった。
 そこは抜かりない、ともかく百の生き肝を羽衣狐の元へ届けることだけは頼みたいと念を押す童子が、いつものように無垢に笑んでいるのが、余計に不安を煽る。

「神通力を持った悪人にでも、心当たりがあるのか」
「……神通力かどうかはわからないけど、変わった力を持ってる咎人になら、ちゃんと心当たりがあるよ」
「誰だ、それは」

 これまで、どれほど醜い性の人間、どれほど救い難い人間を前にしても、花霞童子は最後まで、この人間にもう少しだけ時間があったなら、自ら道を外れたるを悔やみ、正しい道を歩み始めるのではないのか、ここで己が手を下すのは、可能性の芽を摘むそれこそ外道に他なるまいぞと悩んでいたのに対し、この時にはやけにはっきりと、それが咎人であると言い切る。
 誰だと訊いて、彼奴の顔でも思い出したか、きゅっと唇を噛むのだった。

 花開院に連なる陰陽師であれば、確かに通力をいくらか持っているだろうし、皆が皆善人でもあるまい、それどころか、中には悪人もあるだろう、そうであるかと訊いても首を横に振る。
 ではやはり陰陽師の依頼人からつながって、そういう輩が目に入ったか。
 首を横に振る。
 それでは学校とやらにそういう輩があったか。
 違うと言う。
 ならば母がいる病院で見つけたか。たしかに医術は異能だ、通力と呼んでもよいかもしれぬ。
 これにもやはり、違うと言う。

 ではそれほどまでに、この童子に疎まれるのは誰か。
 今まで九十九人の、悪と定めた男、女、子供。
 それすら、最後まで本当に悪であるのかを迷いながら定め、調伏してきた明王が、こやつこそは相応しいと定めた者は、一体誰だというのか。

 言いたがらぬ童子を宥めながら何度も重ねて尋ねても、口を噤んで言わぬので、言わぬのならば羽衣狐のところへ運ぶのをやめるぞと、半ば本気で脅してやったところ、誰とは言わぬが罪状を吐いた。



「そいつが居なければ、母さんは呪いを受けずに済んだ」



 息を止めた鬼童丸にも気づかず、童子は言葉を重ねた。



「そいつがもっと早くに力に目覚めていれば、母さんは家から追い出されることもきっと、無かった。そいつを庇って呪いを受けることもなかった。追い出された後だって、逃げずに大人しく一人で死んでいれば、母さんもどこか違う場所で、違うように生きられて、幸せになれたかもしれないのに、そいつは命惜しさに逃げ出して、今でものうのうと生きてるんだ。
 報いを受けるべき、百人目にふさわしい生き肝の持ち主だと、そう思う。
 だから、百人目は決まってる。大丈夫だよ、そいつは闇の中ならそれでも生きていられるんだ。
 でももし間違って死んでしまったら、鬼童丸さん、最後のお願い。みんなと一緒に、母さんを、守って」



 言葉が出なかった。

 御堂で手を合わせ、勤めを終えて踵を返した童子を、追うこともできなかった。

 此の世のあらゆる悪に対しても、きっと救いがたきを救いたもうと手を伸ばすに違いない、幼き明王であるのに。
 此の世のあらゆる業に対しても、きっと救えなかった者をあわれの心で包むに違いない、幼くも尊い如来のごとき慈悲の持ち主であるのに。



 己に向けられた厳しい眼差しにあったのは、嫌悪などを遙かに越えた、憎悪、そのものだった。





















 このままでは、失う。また、失ってしまう。















 己で己の生き肝を抉り取る真似を、この童子ならば間違いなくするだろう。
 そうなる前に何とかしなければならない、だが童子は自らの護法たちに、己が人の生き肝を狩る姿を見せていないし、知っていたとしても口にしないのは伏目屋敷でのルールだ。

 誰にも話せぬまま、残りの生き肝の数は、あと四つ、三つと減っていく。

 もう手段は選んではおれぬ、母子二人を無理矢理にでも京都から連れ出し、あの二人を関東で迎え討とうとする輩がいるのならば、それをくぐり抜けて二人を奴良屋敷まで送り届ける他に、方法は無い。
 いよいよ九十九の生き肝も、残り一つとなったとき、鬼童丸は決心して、童子の母が一年のほとんどを過ごす病院へ足を向けた。





 奴良屋敷へ二人を連れ帰ることを決めたと切り出すと、童子の母は少し戸惑った様子で、しかしあちらの方角では、自分たち二人を見つけようと、目玉や耳が飛び交っていてかなわないでしょうと応じる。
 童子が言った通り、彼女は己等母子が、奴良屋敷では奥方様若様と扱われようとも、一歩外へ出れば二代目をたぶらかした人間の女、二代目の血を引いていながら、何の力も示さぬ役立たずの人間の子として扱われることを知っており、さらには稀有な目で、己等を狙う者どもを見定めていたのだ。

 母子二人だけならば無理な旅路も、己が何としてもそうすると約束すること、おそらく伏目屋敷の者たちも、主のためならば奮起するだろう、犠牲はあろうが、それでも二人を屋敷へ送り届ける手勢にはなろうことを話し、この夜のうちにでもとさらに迫ると、母は息子に譲ったあたたかな笑みを浮かべて、息子を慕って守ろうとしてくれる妖たちを、道具のように使うことなどできない、息子にそれをさせることも許せないと言う。
 かえって、そんなに鬼気迫る様子で、一人己の元を訪れた鬼童丸に、何故そのような事を言うんです、息子が何かわがままを言って困らせましたかと優しく首を傾げるので、鬼童丸はついに逃げられなくなり、せいぜい身を小さくして、打ち明けるしかなかった。

 息子が何をしているのか、何をしようとしているのか、聞けばいくらかでも衝撃を受け、息子を想う母ならば、今すぐ呼び寄せて諫め、涙の一つも流して二度とそのような事はさせぬと、そのような事を息子にさせるこの京都を捨てると、決心するだろうと考えてのことだったが、童子の母は全く動じない。

「それは、少し困りましたねぇ」

 このように、少しばかり子供のやんちゃに手を焼く母親といった様子で、微笑むばかりだ。

 鬼童丸、はっとした。

 今ここに在るものを、全て《視》る母のことだ、息子の手が血に汚れていく様も、伏目屋敷のすぐ側の御堂に立ち上る、悪人どもの恨みの念も、全て《視》えていたに違いない。
 屋敷に帰って来たときには息子が隠しておきたがるものに一切触れず、息子の方こそが、己の所業は全て見抜かれているのではないか、この手はもう取ってはもらえないのではないかと怯んでいるところへ、それでも、変わらず母として微笑んでいたに違いない。

「御存知であったか」
「細かいことは、知らないんですよ。私に《視》えるのはあくまで《今》のことだけですから、どうしてそうなったのかはわからないんです。今まで、屋敷に帰るたびに、救いを求めてあの子に伸ばされる手が増えていくのが、少し気にはなっていました。
 あれは、怨みの海から浮かび上がりたい一心で明王さまに縋ろうとする人たち、なんでしょうね」
「やめさせねば。どのような理由があれ、人は人を殺めるを厭うものであろう。……何故、笑う」
「おかしな事を言いますね。まるで貴方の方が人の親みたい。本当にその通り、私はあの子をそうやって叱らなくてはいけないんでしょうね。人を殺めることはいけない、悪いことだって。
 ただの人の子になら、人の親としてそうしなければいけない。けれど鬼童丸さん、私は、ただの人の子を産んだつもりはないんです。あの子は生まれる前から、魑魅魍魎の主の子であることが決まっていたんですもの。私が産んだことで、ただの人の子になったとしても、それはそれで良かったかもしれませんが、そうではない道を選んだのなら、もうただの人の子の枠にはあてはめられない。
 腹をすかせた狼の仔に、獲物を取ってはならない、それは悪いことだと教えられますか。
 翼を持って空を翔る鳥に、飛んではならぬ、お前は人なのだからと教えられますか。
 それだけ、あの子と私は、母子でも、違う生き物なんです。
 あの子が既にその道を選んでいるのに、私がどうしてただの人の分際で、人の道にとどまれと、人でないものに教えることができるでしょうか。しかもあの子は、それが道ならぬ道だと、知っていて手を穢すことを選んだというのに」
「御母堂、お主は、それで、良いというのか。
 怖ろしくはないのか。哀しくはないのか。
 我が子が、人でないものになる。己の、手が届かぬ道へ行こうとする。
 人として生まれ、人として死んでいく道もあろうに、そうではない道でも、それで、良いというのか。
 あの手がこの先、人を人とも思わぬ外道どもとは言え、その血で穢れ続けていくのも、致し方ないと、そう言うのか」
「清濁併せ持ってこその百鬼の主でしょう。
 私は百鬼の主の母ですから、濁りを知らずに、濁りの中に足を踏み入れたこともないままに、濁りの中から何かを救い出せるとは思っていません。
 鬼童丸さん、他ならぬ貴方もまた、あの子が濁りの中に手を入れたから、足を踏み入れたから、出会えたひとではありませんか。今だから、あの子のことを思いやって守ろうとしてくださいますけど、もしあの子が生き胆を得るのに躊躇を見せたりすれば、貴方はあの子を、信用したでしょうか、近づけるままにしておいたでしょうか。あの子が手を穢したからこそ、同属だと思って安心なさったんじゃないんですか?
 責めているんじゃないんですよ。これまで小さな付喪神や、護摩の炎から飛び出した精霊などはお友達にしてきましたけど、あなたのような深い闇を抱えた心へ届くような強い光を持ちえたのは、逆に、それだけ深い闇へ、自らが足を踏み入れたからだと、そう心得ているんです。闇へ近づかなければ、照らしてあげることも、かないませんものね。
 ですから、私が諌めるとすれば、それは人の道から外れることではなく、あの子を慕って集った百鬼を自らの命で縛り、私を護る道具に仕立て上げようとしていることです。あの子を慕う妖たちは、それは、大将の最後の願いとなればみんな、きっと聞き届けることでしょうが、大将たるもの、己の命を軽々しく捨てるなんて、配下を軽々しく見捨てることと同じ。そんな事でどうします。
 百鬼の主なら、それこそ決して、許されないのではありませんか。幼いからなどという理屈など、通じはしないのでは」
「それこそ酷というものではないのか。あやつは、お主をこのような憂き目に合わせた責を感じ、ただひたすらお主を救わんがために奔走しておるのだ。己の存在があったためにお主を苦しめていると思えばこそ、己に力がなかった過去を悔やむからこそ、お主の不幸をどうにかしたい一心なのだ。
 だから、御母堂よ、どうか聞き届けてはくれぬか。他の者たちを道具にするに忍びないとなれば、ワシ一人でも、奴良屋敷までお主等を必ず送り届けよう。任されてはくれぬか。今や、一刻を争う」
「お黙りなさい、鬼童丸。誰がいつ不幸になりましたか。そんなこと、二度と言ってほしくありません」
「 ――― は」

 ただの人の娘だと、少しばかり稀有な力に恵まれているが、他は変わったところのない、のんびりした気性と太陽のような笑顔が愛嬌のある、ただの人の娘だとばかり思っていたところへ、凛とした声でぴしゃりと一喝され、鬼童丸は控えた。
 かしこまり、姿勢を正して顔を伏せてから、己が気圧されたと気づいて、一体この娘は己に何をしたのだろうと視線だけを持ち上げ娘を見たが、そのときにはもう、彼女はいつものようにふふりと笑って、こちらを見つめているだけだった。

「私は生まれてからこちら、不幸だったことなんて、ただの一度も無いんです。あのひとと出会えて、あのひとの子供を産んで、それが故郷を遠く離れても、自分の力だけで立派な百鬼の主になれるところを見せてもらえて、ここまででも充分、幸せなんです。
 欲を言えば、奴良屋敷に帰ってもう一度、あのひとの顔を見たい、もう一度、あのひとに会いたい。
 でも、もし私がここで頷いたなら、伏目に残されたあの妖たち、いったいどうするんでしょう。
 リクオを残して私だけが赴いたとしても、どうにも悪い予感しかしません。もし私が虜囚になったら、それこそ今のあの子は、我が身を投げ打つに違いない。
 大将が居なくなってしまったら、あの妖たちにはあの場所しか、あの子しか拠り所が無いのに。
 そんな妖たちを捨てて奴良屋敷に帰りましょうなんて、私は言い聞かせられません。
 いいえ、あの子がそうしようとするなら、それこそ叱ってやらなくちゃ。
 ……だから今こそ、叱ってやるとき、なんでしょうねぇ」

 ついと視線を外して窓の外を見やった母の瞳は、宝石のように綺羅綺羅と輝いていて、何も知らない者ならば、この女が死に至る呪いを身に受けていて、苦痛に苛まれる日々を過ごしているなど、思いもよらぬだろう。





「通力を持つ、姫か御子の生き胆が、必要なのでしたか」





 その女が、思い出したように、鬼童丸の言葉を繰り返す。
 血の気が引く思いだった。まさか。まさか。





「ふふふっ。私、お姫様になったことなんて、一度もないんですけど、あの子でもいいなら、私でもきっと構いませんよね」





 綺羅と輝く宝石に目を覗き込まれると、全てを見透かされるような心持ちになり、だらだらと冷や汗まで流れてくる。
 この先を言わせてはいかん、決してならぬと思うのに、金縛りにあったように、鬼童丸は動けない。

 ならぬ。ならぬ。ならぬ。

「私は貴方の主ではありませんから、これはお願いになってしまいますね。最後のひとつの運び役が終わっても、あの子の側にいること、ここで約束しては下さいませんか」

 ならぬ、と、全身に力を込めて金縛りを打ち破り、鬼童丸は座っていた椅子を蹴倒し激昂した。

「……御母堂、それは誤った選択だ。ワシを信じるなど、お門違いにもほどがあろう。リクオの後見には、あの花開院の当主もついておる。多くの花開院の義兄妹もある。彼等に対するものと同じ信頼を、ワシに求めてはならぬ」
「ええ、そのつもりです。花開院の皆さんは本当に良くしてくださいますし、リクオを本当の弟みたいに甘やかして、時折きちんと叱ったり、守ってくださる。人の正しい道というものを、あの子はこれからも教えられながら、道ならぬ道を行く苦しみを知りながら、進んで行くのでしょう。
 だから鬼童丸さん、貴方にお願いしたいのは、そういうことではないんです。
 あの子はまだ、九つです。誰かの真似事で生意気な口を利いたとしても、まだまだ子供。誰かの温もりが欲しかったり、一人でいるだけでたいした理由もなく泣きたくなるときがある、子供なんです。伏目の屋敷をいただいた後、私がそこで過ごした初めての夜、あの子、お母さんと一緒に寝てもいいかって、すごく小さな声で訊いてきたんですよ。ささいなことなのに、とても大変な事を望んでしまったかのように。
 花開院の皆さんにはお願いできないでしょう、常に離れずあの子の側に居てやって欲しいなんて。小さくて聞き漏らしてしまいそうな、あの子の寂しさの隣に居て欲しい、なんて。あの子に大事なひとができるまで、寂しさを埋めるだけの縁を紡いで、寄り添い合うようになるまで、いいえそうなったとしても、貴方にこそお願いしたいんです。
 他に縁や家を持たない貴方だから、千年を生きる強い大妖の貴方だから、お願いします。
 後見ではなく、あの子をただ、守ってやってくださいませんか。
 側にいてくださるだけで結構です。
 泣いていたとしても、転んだとしても、聖でも邪でも、見ていてくださるだけで結構です。
 だから、どうか」
「……既に宿願を捨てたとは言え、ワシは羽衣狐の下、大将格であったのだぞ。お主の夫、奴良鯉伴とは何度も刃を交え、首を狙った」
「ええ、知ってますわ」
「宿願のためならば何でもやった。生き肝を一晩に幾百幾千と集めることも、邪魔だてする者を手段を問わず滅しようとしたことも。人質を取って、動けぬようになったところをなぶり殺し、用済みになればその後の人質はその場で滅した。一度や二度ではない、当然の手段であった。
 そうとも、当然の手段であったろう。我等が宿願、鵺の復活を邪魔立てする奴良鯉伴、彼奴めが四百年の末にもうけた一子を、母ともども奴良家から追わせて始末するなど、我等が草を使って行った、当然の策。幼いうちは人のようでも、いずれその子があの男の意志を継ぎ、鵺の復活をさらに邪魔立てするようになるのは必定。ならば幼いうち、それも奴良の手の者が母ともども嫡子を追ったように見せかけて、奴良鯉伴が見つける前に殺してしまえばよいのだと、そう考えるのは我等にとって当然のこと。
 だからな、ワシは。
 ワシは、お主等母子に、呪いを放ったのよ」

 呪いを作ったのは鏖地蔵だが、呪いを放ったのは鬼童丸だった。
 簡単な作業であった。
 手渡されていた壷を、幼子に狙いをつけて開け放つと、壷から無数の羽虫が飛び散り、黒く尖った手を宙に描いて幼子を絡め取ろうとした。
 黒く巨大な手と化した羽虫に身を覆われ、無垢な魂を食われて幼子は息絶える、そのはずだったが、鬼童丸が物陰から見守る前で、幼子を胸に抱き寄せ、伏して庇ったのは、その母。
 目の前で微笑む、若い母だった。

 己こそが、お前たちに呪いを放った当人であるのだぞと、鬼童丸は鼻息も荒く言い放ったが、本来ならばそこで驚き怯えながらも憤怒の顔をするはずの人間の女は、にこりと、笑ってみせた。
 なぜ隠していたと詰りも、それでよくも我が子の一鬼を勤めていると笑いもせずに。

「そうでしたか。でも今は宿願を捨てて、それで、悔やんでくださっているの?」
「悔やんでなど、おらぬ」

 嘘だった。
 千年前からその成就のみを願っていた宿願への義理分だけの、嘘だった。

 千年。
 決して短い季節ではない。
 その間、羽衣狐の妖力のため、幾人幾百幾千もの生き肝を抉り取ってきた。
 細かい数字など記憶していない。幾つかよりも、どれだけ羽衣狐の妖力が増したかが問題だった。

 何が失われたかよりも、成果の方こそが重要だった。

 それがどうだ、今は、たった一つ。
 たった一つが消え去ろうという今、その心の臓が脈打つ刹那の一時さえもが惜しい。
 病に蝕まれた胸の内で、とくりとくりと弱く蠢く生き肝が、どんな風に血を滴らせているのかよりも、これを包んだ細身が、なぜこんな風に尊く気高く強く微笑めるのか、どうしてこんなに強く在るものが儚く消えてしまうのか、これが消えてしまったならあの小さな童子がどれほど嘆き悲しむか、己は一体何をしでかしてしまったのか、そちらの方こそが先立つ。
 もう二度と、人の胸を抉って生き肝を取ることはできぬだろうと思われた。
 これほどの、無量の想い、どれほどの刃でも貫けそうには無い。

 鬼童丸はただ、頭を垂れた。
 彼こそが憤怒の表情で、息も荒く、歯を食いしばり、微笑む母の前で顔を上げていられずに頭を垂れた。





「宿願を求めたことに、悔いは無い。悔いは無いが……何故、お主等であったのだろうと……」





 奴良家に嫁いだのが何故この若い母で、生まれてきたのが何故あの童子であったのかと。
 星の数ほどの人が暮らすこの浮き世において、この母子が生まれてくるところなど、他にも様々な選択肢があったろうに。
 千年前、鬼童丸の主が母を失った直接の要因を作り出した男のように、醜い業を持ち合わせた人間など、今でも溢れているだろうに、どうして呪いを受けたのはそういう蛆虫のような者ではなく、こうした、強く微笑む母であるのかと。

 かつて醜い人間どもが、醜い業ゆえに鬼童丸の主の母、転生前の羽衣狐の命を奪ったが、それでは己の宿願ゆえに、この母の命を奪うのは、当然のことであるのか。

 当然のことと考えていた。
 この千年の間、当然のように、母であろうと父であろうと子であろうと、人ならば命を奪ってきた。
 当然のことであるはずだった。
 人が受けて当然の報いであるはずだった。

 ならばその報いに対する報いも、いずれ、己等は受けるべきだ。

 何という因果応報の螺旋。
 これでは救いなど、宿願の果てなど、決して見えはしない。

 螺旋の形は、螺旋の外に連れ出されてこそ初めてわかる。
 だが螺旋の外へ連れ出されたときに、失おうとしているものはあまりに、大きかった。

「……悔やみなど、持ったところで償いにはならぬ。千年の昔、我が主の母の命を時の権力者が奪い、その報いとして我等は人の命を奪った。お主もその一人。それだけだ。悔やんだとして、何になる。悔やめば、許されるか。悔やむ者をさらに打ち据えるのは忍びないなどと、同情をかけられるのを期待しているようなものだろう。
 わかったであろう。お主が床に伏した原因を作ったのはワシだ。草を入れ、お主等母子が奴良家から追われるようにし向けたのも、ワシ等だ。
 それを信じるなどと、それでも言えるか。
 息子を託すには、あまりに不向きだと、わかるであろう」
「……わかりませんわ、鬼童丸さん」

 戸惑ったように、若い母は首を傾げた。

「今のお話のどこが、貴方を信じない理由になるのでしょう?」
「何?」
「もし、それを隠していたことを指すのなら、私も、隠していたこと、お話しますね。私、リクオが貴方を連れて来る前から、貴方を知っていました。鬼童丸さんが隠れながら私たちに呪いを放ったあのとき、私、貴方を見かけていましたから」
「………なん、だと?」
「昔から、目はいいんです。妖怪さんたちがどんなに上手く隠れても、私、《視》つけちゃうんですよ」
「………知っていた?」
「はい」
「………知っていながら、リクオに何も言わず?」
「必要なら、貴方からお話するでしょう?」
「何故」
「はい」
「何故、信じる」
「貴方が言ったんじゃありませんか。もう生き肝を取ったりはしない、できないって」
「たった、それだけか」
「それ以外に何か、必要なんですか?」
「裏切るやもしれんではないか」
「裏切るおつもりなんですか?」
「裏切らぬ」
「なら、いいじゃありませんか。ね、鬼童丸さん、私がお願いしたいんです。どうか引き受けてくださいませんか」
「……何故……何故」
「はい」
「……何故、恨まぬ。何故、報いを与えようとせぬ」
「だって、私がこうなったのは、千年前に人間が貴方たちの主の大切なひとを奪った、その報いなのでしょう?」
「そうだ」
「だったら、どこかで最後にしませんとね。私がアンカーになりましょう。
 これでも学生時代はリレーの選手で、何度もアンカーを任されたんですよ。
 目と足には自信があるんです。だから、今度も任せてくださいな」





 百年も生きていない女のはずが、変わらず微笑む姿はどうしてこうも深いのか。
 手は華奢で小さく細いのに、包み込まれただけでどうしてこうも心強いのか。
 千年を生きて尚、道がどこにあるのかすら見つけられぬ鬼童丸には、到底理解できない。
 ただ、唸った。
 もう言葉は、でなかった。





「貴方の千年、私が持って逝きます。
 どうか新たな千年、歩んでくださいな。
 それからこれは、私の我侭。あの子を、見守ってあげてください。
 あの子の、影になってあげてください。
 私が見られないあの子のお嫁さんや子供や孫や、そうやって華やぐ幸せを、どうか、見届けてください」