雨は、降り続いた。
 天があの日を思い出してもらい泣きをしているかのように、優しく木々を土を包むような、雨だった。





 語り続けた鬼童丸はそこで黙したが、ここまでの話でその先を、奴良の二代目は理解してしまった。





 花霞大将は、羽衣狐の傘下として認められ、陣営に加わった。
 そのとき、自ら集めた生き肝は九十九。
 羽衣狐が受け取った生き肝は百。
 最後の一つが、当初の予定通りリクオのものであったなら、昼の姿で動き回ることも、話すこともできなかったはず、それこそ闇夜の中だけに棲む、完全な妖として生きるしかなかったろう。
 しかしそうはなっていない。
 
 だから、最後の一つは。



「最後の一つの生き肝を喰らったとき、羽衣狐は格別の喜びようであった。執念、執着、妄念、怨念、そういったものに満ち満ちていた九十九の生き肝が濃厚な美味であったなら、最後の一つはその味とは全く違う、清らな甘露のそれであると言ってな。
 数百年前に一度、徳の高い尼僧を喰ったときにもこれほどの美味はもう味わえぬと思ったが、それをもう一度味わえた気分だと、そう笑っておった。
 ……あの女狐め、笑いおったのだ」



 憎々しげに言う目の前の男は、もう二度と、それが男でも女でも子供であっても、生き肝を抉りとる真似はできぬのだろうと、二代目は思った。
 四百年の末に己は子に恵まれたが、この男は千年の彷徨の末に、光を手に入れたのだ、どちらがどうとも言えないが、己があの娘を、あの娘が産んだ子を、いとしきと想うように、この男もまた、あの娘の死を悼み、あの子を護ろうとしてくれるのだろうと、心から信じることができた。

 守れなかったのは己も同じだ。
 ところがこれを負い目に思おうとすると、思い出の中であの娘が、唇を尖らせて叱るのだ。



 私は守られたいんじゃないよ、鯉伴さん。
 鯉伴さんを、守りたいの。



 守られている。そう感じた。
 この雨の中に、光の中に、木々の中に、静けさの中に、極彩色の世界の中に、愛した娘の気配を感じた。



「……山吹がな、言うのよ。自分一人では、あの淀んだ真っ暗なところから、浮かび上がってはこれなかっただろう、子を産みたいと願う羽衣狐の強い執着は自分もまた感じていた願いで、だからこそ絡めとられ、もがいてももがいても抜け出せなかったのだから、って。
 おれも拍子抜けしたんだよな。あいつがあんなに簡単に、ちょっと大声で名前を呼んだら目を覚ますなんて、そんなにこっち側に近いところまで来てたなんてさ。もう一騒動覚悟してたってのに、それがなかった。
 山吹の奴が言うには、暗いところに漂って涙を流していたら、知らぬ娘がとことこやってきて、あちらに行けばおれが居るって教えてくれたんだとさ。己から別れた身ではとても姿など現せない、どんな顔をして会えばいいのかわからないってまた泣いてたら、あかんべえでもイーってしてやるんでも、噛みつくんでもひっぱたくんでも引っかいてやるんでも髪を毟ってやるんでも何でもいいから、気持ちを伝えてやればいいって、ぐいぐい手を引いてくれたって、そう言ってた。
 ああいう大人しい女だからさ、娘の言い分にびっくりして、涙なんて引っ込んじまったそうだ。
 まさかと思ったが、そうか、そういうことか。
 あいつ、羽衣狐の中で、山吹を捜してくれたのか。転ぶたびに小銭見つけてたもんなぁ」



 そうか、と、天を仰いで二代目は笑った。
 傘をさすのをやめて天を仰げば、火照った頬に雨が優しい。
 雨が降っていたから、笑うことができた。
 頬を伝うのは雨なのだと、思えることができた。

 鬼童丸がそれ以上語らなくても、あの娘がどういう道を選び、この男がそれに従って運び手をつとめ、あの息子が覚悟していなかった母の喪失と命をもった諌めにここで一晩、泣き叫んだ様子がありありと思い浮かんだ。
 そうしてこの男はその間、ここで立ち尽くしていたに違いない。

 二代目は、目の前の男の手際をよく知っている。
 この男は肌に傷をつけず、五臓六腑を鷲掴みにして外に取り出すことができるほどの手練れであるのを知っているから、きっとあの娘は肌に傷跡一つつけることなく、綺麗な姿のまま、眠りについたのだろう。
 妖の術を使い、苦しませずに、僅か一瞬で、命を抉り取ったに違いない。
 外傷の無い姿だけを見れば、まさか生き肝を抉られて息耐えたとは思えぬ綺麗な姿であれば、元々弱りきっていた女である、自然死であると思われたに違いない。

 事実、花開院の当主は、本心から信じてはいないにせよ、呪いのためにあの娘は死んだのだと二代目に話したのだし、疑いようの無い事実として、誰にも受け止められている。

 知っているのは、目の前のこの男と、この男に母を奪われた、息子だけだ。

 だから父と子は秘密にしたのだ。
 母の犠牲を、母の命を賭けた諫めと慈しみを、二人だけの秘密にしたまま、今に続いている。



 雨は降り続く。優しく全てを包み込んで、降り続く。



「……リクオの元服の日、ワシは残りの全てをあやつに話して沙汰を貰うことにした。
 この老いた妖こそが、母の生き肝を抉ったばかりではない、十年近く前、母子に呪いを放った張本人であるのだと。羽衣狐の企み、鵺の復活の宿願、鏖地蔵や他の配下どもが、今やすっかりリクオを初代の落胤と信じ、そちらの線で利用しようとしている事、あわよくば寝首をかこうとしている事も含めて、全てをだ。
 猩影や玉章は目を丸くしていたが、ワシが副将におさまらず若いあやつらこそをと推した理由はそれだと、納得したらしい」
「義理堅いオヤジさんだね。そのまま黙ってりゃ、ばれなかったかもしれねぇのにさ。それで、あいつは何て?」

 訊いたのは、答えを知りたかったからではない。
 答えはとうに出ている。

 二代目が知りたかったのは、この男が、その答えをどう受け止めているかだ。



「……赦すと、笑ってくださった。盃まで下された。そこで初めて、護法になるという意味を、知った気がした」



 聞かずとも、容易にその様子は目に浮かんだ。

 伏目屋敷の妖たちが、我等の主がようやく実生の年になられたぞと喜び、言祝ぎ、座敷に祝い酒や馳走を用意し、そこへしろがねの妖が陰陽師の出で立ちのまま、やれやれようやく花開院家の堅苦しい元服の祓いから解放されたと肩を叩きながらやってくると、御大将のお帰りにさっそく小物たちがクラッカーを鳴り響かせ、わく屋敷。
 その中を、猫又に手を引かれ背を押されしながら大広間の上座に御大将が座るや、さっそく賑やかな宴が催され、血に縁らぬ大勢の家族から、一つ一つ、心のこもった贈り物を受け取って、中にはきっと何に使うか首を傾げるような可笑しなものもあったりなどして、皆で笑い合ったに違いない。
 夜遅くまで続いた宴もだいたいの者が酔い潰れた頃、宴の主役は同じ年頃の副将二人と月など愛でながら、あるいは気持ちの良い驟雨の音を聞きながら、大広間から縁側に席を移して、杯を重ねていたかもしれない。
 そんなときに、畏れながら申し上げ候と、この律儀な男は辺りを憚りながら、庭に膝をつき頭を垂れた姿をあらわしたに違いない。

 元服を迎えるまで、師として父として幼子を庇護し、時には年長の妖として幼き明王の力及ばぬところをよく援けてきた大妖が、畏まり申し述べたこと、この場で斬られてもいたしかたないと思うほどの後悔も、それまで胸に秘してきた苦しさをも、成長して元服にいたった明王は全て聞き届け、そうして。

 それでも、護法の一鬼であるを、赦すと、笑って言ったのだろう。
 御師さん、オヤジさん、そんな風にこの男を呼んでいた明王が、この男の名を己の配下として呼び、鬼童丸、側に在るのを赦す、と。
 これまでご苦労であった、盃を取らせる。これからもよく仕えよ、と。

 花にも月にも影が寄り添うもの、光が増せば寄り添う闇はさらに濃くなろう。
 この男は、花陰となり、月影となりて、あの西方願寺の決戦まで、女狐の懐で息を潜めていたのだろう。


 やはり京都は、護られなければならなかった。
 護られてよかった。
 あの人の娘が、命を賭して守り抜いたものが、ここに息づいているのだから。



 だが。それでも。だが。それなのに。



 これほどまでに、あの娘を、この世界の全てに感じるというのに。



「あんた等の間で沙汰が終わってケジメがついてんなら、そこはおれが口出しする話じゃねぇな。
 それで全部かい、鬼童丸さんよ」
「さて、な。ワシはお主のように口が上手くない。だが、知っていることは全て、話した」
「そうかい。……あーあ、若菜の前で『遅い!』って言われて土下座させられんの、楽しみにしてたのになー」
「あのような慈悲深き女子がそのような事をするか、馬鹿者」
「知らねぇだろう、にっこり笑ってやることやるんだぜ。おれをあんなに引っ叩いた女は、この四百年で若菜だけだ」
「信じぬぞ。お主は口が上手い」
「へえへえ、どうせ信じちゃくれねぇだろうよ」
「……ワシは行くぞ。お主は、もう少し雨と戯れてから来るがいい」
「あんたもずいぶん、口が上手くなったんじゃねえの?」



 これにはフンと鼻で笑っただけの好敵手が、二代目に気を使ったのは瞭然としていた。



 雨の優しさに甘えて、へらへらと笑っていた二代目は鬼童丸を見送った後、天を仰ぐ。



「……死んだって?」



 誰にともなく。



 雨は降る。ぱたぱたと、土に雨粒が跳ねる。
 ぱたぱたぱた。ぱたぱたぱた。
 あの娘が屋敷の廊下を小走りに駆けて己を探していたように。
 ぱたぱたぱた。ぱたぱたぱた。



 二代目、声を上げて笑った。まさか。馬鹿言うな。

 そう呟いて、笑った。



「信じられねぇよ、おれはお前の亡骸なんざ、この目で見てねぇんだから。
 あんな墓石見せられたって、その中にお前がいるなんざ、信じられねぇよ。
 だから出てこい、いい加減、意地悪すんなよ。
 かくれんぼは終わりだ。おれの負けだ。出てこいよ、若菜。出てこいって」



 形見だと言われたそのときからここまで、まさかの気持ちが大きくて、実は皆で口裏を合わせて妻を隠しているんじゃないか、前妻を助けに来た己と前妻を取り持つために、わざと妻の方から姿を隠しているんじゃないか、悲しみだの後悔だのよりも、そんな疑念ばかりが先だっていた二代目である。
 けれど雨は降り続くばかり。
 その向こうからは、誰も、二代目に笑いかけはしない。

 この世界の、どこまで歩いていったなら、あの明るい笑顔をもう一度見られるのだろう。
 いいや、もう、どこにも。

 どこまで歩いたとしても、もう二度と。



 嗚呼。










「 ――― 会いたいな、若菜。会いたい。今すぐ。ごめんな。待たせすぎたよな。
 謝るからさ。何度だって謝るからさ。だからそろそろ、出てきてくれよ。
 意地悪すんなよ。いいじゃねぇか、お前だけ人間のまま律儀に死ななくたってさ。
 化けて出ようがなんだろうが、会いたいんだよ。今すぐ、会いたいんだよ。」










 会いたい。会いたい。会いたい。










 雨音の向こうから、駆けて来てはくれぬだろうか。
 木陰からこっそり、こちらを覗いてはいないだろうか。










 いいや、居ない。
 どこにも、居ない。




















 目を瞑れば笑う娘がありありと瞼に浮かぶのに、この世界のどこにも、あの娘は居ないのだ。
 これほどまでに、あの娘の明るさと優しさで世界は守られているのに、あの娘は居ないのだ。




















 会いたい。会いたい。会いたい。










 ついに俯いた男に、雨は尚も降り続く。
 顔を伏せた男の足元に、ぽたりぽたりと。

 もう天を仰いではいないのに、いくつもいくつも、雨粒が頬を伝って落ちていく。