平穏とはなんだろうか。平和とはなんだろうか。

 退屈に鬱屈した出口の無い日々が、延々と続くだけが平穏で平和な日々であるのなら、それが平成の世の四国に望まれた日々であるというなら、何故、隠神刑部狸の八十八番目の嫁の八番目などと、何の地位も望めぬ序列に生を受けた仔が、隠神刑部狸の神通力を仔等の中で一番色濃く受け継いだのか。
 いっそのこと、兄たちのように、たいした力もないままなら、牙をもがれた己等の身の丈に合った暮らしが一番に良いのだと、多くの兄たちの大合唱にも頷けたろうに、そうはできなかった。

 八十八番目の嫁の八番目の仔ともなれば、曾孫玄孫ほどの年の離れもあり、その上、我が仔等の中で一番の通力を持つと、生まれたときの産声が玉章の葉を舞い上げたことでわかってもいたので、隠神刑部狸は玉章と名付けたその仔を、いたく可愛がった。可愛がってしまった。
 欲しがれば与え、知りたいものを何でも教え、危険からは遠ざけた。
 今の世は妖が住むには明るすぎる、狭すぎる世なれば、人に紛れて暮らすのが一番に安全な道であり、人の中でも目立たず騒がず、決して通力など見せずにおるのだよと、ことあるごとに言聞かせた。

 どうして、何故、と、玉章が訊いていたのは幼いうちだ。
 やがて訊かなくなったので、父親の隠神刑部狸も、玉章も兄たちと同様、分をわきまえたのだと考えていた。
 もちろん、違う。
 玉章は、知ってしまったのだ。
 父が語り聞かせた、父自身の負け戦。多くの同朋が死に、以来、人間が我が物顔で、四国に住み、妖の存在など忘れて、今に至ること。
 玉章は、配下の者どもが怖れているように、己にも他にも厳しいが、厳しさは優しさの裏返しでもあった。末っ子として甘やかされ育てられてきた玉章は、決して父を嫌いではなく、かえって、「お前がもっと早くに、そうさなあ、三百年ほど早くに生まれてきてくれていたら、あの戦では負けなかったかもしれぬなあ」と大笑いしながら言う父に、どうして三百年早く生まれてこられなかったのかと、自分を責める気持ちさえ生まれるほど、好いていた。

 お前の目はギラギラしすぎている。そう相手をにらみつける者ではないよ。
 事あるごとに言聞かせてきたのは、多くの兄や姉たちだった。
 でも、と玉章が言い返そうとしても、口が達者な兄たちに、すぐに封じられてしまう。
 何かの拍子に、お前の通力が知れてしまったらどうする。
 何かの拍子に、我等の住処が知れてしまったらどうする。
 何かの拍子に、人間どもが我々を思い出し、駆逐しようなどと考えることだけは、避けなければ。



 ねえ、だから玉章、そんなにも通力を持って生まれてきたお前は可哀相だけれど、お願いだから、あの昔話の鶯のように、口を閉じていてちょうだい!



 でも ――― でも ――― でも ――― 。
 でも ――― 嗚呼、息苦しいよ、父さん、母さん、兄さん、姉さん。



 幼い人間が、鬱屈した日々の中で、心の中に瘧のようなものを溜め込んでいくのと同様、玉章もまた、兄たちから押さえつけられたものが、父を見て寂しげに感じたものが、人の中に紛れて感じる違和感が、溜まりに溜まっていった。
 何かの拍子に、と兄や姉たちはよく言ったが、その拍子がどういうものなのか、深く考える必要はなかった。

 いつの世にも、どんな場所にも、妖たちは住んでいて、己と同じニオイがするぞ、あいつは何奴だと思うと、ちょっかいをかけたくなるものなのだ。
 玉章が初めて、彼を隠神刑部狸の仔と知らぬ無礼な妖とまみえたのは、彼が七つになった頃。
 小学校に上がったばかりの年だった。

 夕暮れ時の帰り道、一人てくてく田圃の畦道を歩いていると、後ろをついてくる者がある。
 つけられているなとわかったが、そのままのペースで歩いた。
 帰り道を一緒に歩いていたクラスメイトが二人いたが、喋るのに夢中で、つけられているのには気がついていなかったらしい。

 後ろをつけてくる者は、早足で三人の背に追いつき、「草履をくれ」と声をかけ、するとどうだ、玉章の足はぴったりと糊でくっついてしまったように、動けなくなってしまった。怪異に見舞われて、へえと思ったものの、驚きも泣きもせず、ただじいと足元を見やった玉章の周囲を、蛇の尻尾のようなものが生えた小鬼のような輩が、「草履をよこせ」「靴よこせ」「どうだ泣くか」「泣け、泣け、泣かぬか」などと囃し立てながらぐるぐる廻った。
 これだけで、玉章と一緒に歩いていた子供二人は腰を抜かし、小便を漏らしてわあわあと泣いたが、玉章はそうはしない。
 己の目の前ではやし立てる小鬼をぎろり、睨みつけ、べしりと裏拳で払いのけた。
 うひゃあと声をあげてひっくり返った小鬼は、そのまま一目散に逃げて行き、田圃の畦や、草陰に消えて、後には嘘のように、夏の夕暮れ時、ぬるい風が通っていくだけだった。

 一緒にいた子供等も、夢でも見ていたのかと疑ってぽかんとしていたが、玉章がさっさかさっさか先へ行ってしまうのを慌てて追った。
 玉章を離れると、また先ほどの小鬼が戻ってやってくるのではないかと、恐怖したのだろう。
 以来、その子供等は玉章の後ろにつき従うようになった。
 加えて、あの小鬼のようなものどもも、一匹二匹、時折玉章に、御用はございませんでしょうかと、ご機嫌伺いにも訪れるようになった。

 あの小鬼はどういうものなのでしょうと、父の隠神刑部狸に訪ねると、父はたいそう驚いた様子で、「それはノヅゴだ。靴を投げ捨ててやると消える妖怪でな、なに、小物の部類よ。しかしそれを払ってしまったとは、さすがはワシの可愛い玉章。先が楽しみなこと」と誉めながら教えてくれた。
 そうかああいうのが妖怪であるのか、面白いことだと味をしめた玉章が、この後、鈎針女や手洗い鬼、崖涯小僧などといった大物どもも配下に加えるようになると、「遊び相手は選ぶんじゃぞ」と心配し始めたが、後の祭りだった。

 鬱屈していた毎日が、妖怪を交えるようになると、途端に面白いものになる。
 野山を歩いて強い妖怪を探し、勝負の末に調伏し我が物とするのもおもしろければ、ちょっとばかり通力を見せて、人間どもから尊敬と恐怖が入り混じった視線で見つめられるのもおもしろかった。



 ねえ、だから玉章、そんなにも通力を持って生まれてきたお前は可哀相だけれど、お願いだから、あの昔話の鶯のように、口を閉じていてちょうだい!



 ――― なんだ、兄さん、姉さん、あんた達はただ、通力を持って生まれてきた僕が羨ましかった、それだけじゃないか?



 平和がなんだ、平穏がなんだ、そんなもの、全く面白くもなんともない。
 人間の中で通力を見せずに隠れて生きる、そんなの、息苦しくて嫌になる。
 人より優れていて何が悪い。人より何でもできるのを、何故見せるのがいけない。

 見ていろ、僕は既に四国を平定した。
 あなた達ができなかったことを、僕はしてみせる。

 十六を数える頃、玉章は、四国のあちこちで好き勝手に、しかし分をわきまえながら時折人間を驚かせるだけだった妖怪たちを纏め上げ、一つの勢力とした。
 いよいよ四国だけではおさまりがつかず、瀬戸内海を挟んですぐ対岸、中国地方の土地神たちと、頻繁に事を構えるまでになり、若い妖怪たちはこれが面白くて、玉章について行けば喧嘩ができるぞと、仲間は増える一方でった。
 対して、中国地方の土地神は、人々の信仰も細り、玉章を抑えるほどの力は無い。
 怒涛のように四国の勢いに飲み込まれ、消える ――― はずだった。
 しかし、そうはならなかった。あろうことか、中国地方の土地神たちに、加勢する者が現れたのだ。

 それは、京都守護職・花霞一家。
 プライドばかり高い中国の土地神たちが、まさか京都に頭を下げるとはと玉章は驚いたが、斥候の犬鳳凰が言うことには、頭を下げたのは京都の方らしいと言う。

「どういうことだ」
「あの花霞一家というのは変わった連中らしい。関東から奴良組を迎え撃たんとするこの時に、背後に憂いがあるのでは困る、神々にしてみれば妖どもなど取るに足らぬものとは思うが、小心者の杞憂と思うて受け入れてくださいませなどと言って、加勢に『加えさせてもらった』らしい」
「プライドの塊の中国連中も馬鹿だが、京都連中も相当馬鹿だな。本気か?何を企んでいる?」

 思い返せばこれが、玉章と花霞リクオの第一戦目であった。
 結果は引き分けである。
 瀬戸大橋を挟んでにらみ合い、戦況は膠着。
 場もしらけるというもので、互いに書状のやり取りをし、休戦となった。

 妖怪たちは、今までになく興奮したなどと言って面白がったが、玉章は、面白くなかった。
 行こうとした場所が、阻まれた。そんな気がした。
 幼い頃に感じた、押さえつけられるような息苦しさを、再び、感じた。

 再び中国を手に入れるため、今度は京都へ斥候を向かわせた。
 そこで聞こえて来る花霞一家の評判は、ぬらりくらりとしていてどれが真実であるものか、わかったものではない。

「羽衣狐の数多くの配下の、その内の一つだとも。いやしかし、若い妖のようで、名が知られるようになったのはここ五年かそこらだと。玉章さまと同じく、案外若いのかもしれませぬな」
「大将はしろがねの毛並みの、見事な美丈夫だとか」
「あれ、俺は陰陽師のガキだって噂を聞いたぞ」
「お前が聞き込んできたのは飲み屋だろうが」
「青白い陽の炎を使うと思えば、夢幻に彷徨わせる術を使い、人間のように術を使うとも」
「いいえ、私は剣術がすさまじいと聞いたわよ。鬼の頭領・鬼童丸を師と仰いでいるとか」
「鬼童丸は羽衣狐の側近の一人。だとすると、やはりあの花霞、羽衣狐の ――― 」
「にしては、腰が低いんだよな。中国への言い分とか、羽衣狐が許すと思うか?」
「ぬう ――― 」

 正体が見えぬ敵を前に、玉章の八十八鬼は臆した。
 それでも、

「なに、どちらにしろ、僕たちの敵には違いない。京都には羽衣狐が居ると言うが、まだ封印の力が強くて出られないんだろう?その封印の中で多少暴れさせてもらったところで、まどろんでいるお姉さんはわからないんじゃないかな。
 京都守護職・花霞、この隠神刑部狸・玉章の相手として不足はないじゃないか」

 彼等の主が、何処で手にいれたか『魔王の小槌』を手にして言うので、そうかと、従うしか無かった。



 ねえ、だから玉章、そんなにも通力を持って生まれてきたお前は可哀相だけれど、お願いだから、あの昔話の鶯のように、口を閉じていてちょうだい!



 大丈夫だよ。ほらごらんよ、この刀を。
 三百年の昔、妖を殲滅せしめたという、この刀を。
 この刀さえあれば、こんな風に、押さえつけられ、追いやられ、平和と名付けた退屈と鬱屈の中に、溺れながら暮らさなくていいんだ。



 ああ、でも玉章、その刀は、お前の通力とは違うじゃないか。
 そんな刀を捨てて、あの昔話の鶯のように ―――



 彼等を止めようとした兄や姉たちにいくらか怪我を負わせたが、その傷がどれほどのものだったか、気に留めることもなく、玉章はまっしぐら京都へ向かった。
 途中、中国地方を通った。
 自分たちが襲われたときには京都からの加勢を受けたというのに、八十八鬼夜行が京都へ向かって素通りしているのは見てみぬ振りで、京都へたどり着くまでの間、追っ手一つかからなかった。
 全て玉章の計算通りである。
 今の中国地方に、そこまでの力は無いと見越して素通りしたのだ。
 しかし、その先に、花霞リクオは待ち構えていた。
 まるで、玉章がその日京都へ攻めて来ると、知っていたかのように。
 いや、事実、中国地方の土地神たちは、己等の土地を往く八十八夜行を見るや、すぐに京都に知らせたのだ。

 西から京都へ向かった玉章等八十八夜行は、待ち伏せを受けた。
 本陣ではない、斥候であるとわかったので、本陣にて大将首を討ってやれと果敢に攻め入った。
 普段は熟慮し姦計を張り巡らせて敵を落とす策士だが、いざ戦場となれば自ら先陣を切る猛将となるのが玉章であり、しかし猪突猛進かと思えば途中で先発隊の後ろに下がる腹積もりも見せる。
 戦上手は、あと数百年昔に生まれていれば重宝されたろうに、平成の世にあっては宝の持ち腐れ。
 それでも、この京都に戦いにおいて、玉章と相対した花霞一家も、やりにくそうに歯噛みするのは、四国連中としても気持ちの良いものだった。
 もっとも、待ち伏せしていた奴等など、一ひねりしてやるつもりが、たいした戦果もなく逃れられたのは、他の者にとってはどうあれ、玉章にとっては口惜しいことだった。待ち伏せていたのは深灰の毛並みをした、赤い直衣の大猿であったのだが、これが強い。まさかこれが大将かと思って誰何したほどだが、あちらは応えず、鼻でフンと笑ったきりだった。それにもまた、心があわ立った。

 拮抗していた力が、じりじりと四国が優勢になり、場所が東へ移ったところで、それは起こった。
 大将を狙え、大将はどこだと探し求めた挙句に、八十八鬼たちは、深入りしすぎた。

 時は深夜、丑三つ時。
 場所は五条大橋、橋の上。
 辺り一帯、妖どもの気に満ち溢れ、川からは霧が立ち上り、ゆらゆらと霞が視界を幾重にも覆って見えぬようになってからもまだ、玉章は誘い込まれたことに気づかず、大将らしき男の姿を、探し求めていた。

 ――― そこへ、笛の音が、届いた。

 玉章にだけではない、全ての妖たちに、届いた。

 横笛の音だった。
 風情ありながら、どこか物悲しい気持ちにさせる、美しい音に誰もが感じ入り、その笛の主は誰であるかと辺りをみやるが、霧が濃くて見えない。
 もみ合い押し合い切り合いしていた連中の手を止めさせるほどの、《畏れ》。

 その主は、間もなく、現れた。

 からり、かつり、下駄の音をさせて、五条大橋の向こう、妖しの赤い光を幾つも連れて。
 霧の向こうの人影は小さく、また薄絹を被っている様子から、女だと、誰もが思った。
 それも妖気を纏わぬ女だ。人の女だ。着物を着ている、薄絹を纏った、細い首、細い手足、ああ旨そうだと、血を浴びて興奮した四国の妖怪どもは、そう判じた。
 はやった四国連中の先発隊が、人間が迷い込んできたぞと嬉しそうに叫んで飛び掛る。
 あわや、女は瞬く間に組み倒され、がぶりがぶりと喰らいつかれて腸を引きずり出され息絶える、かと思われたが、そうはならない。

 飛び掛った人ならざる者どもは、悪鬼も怨霊も等しく、見えぬ壁にぶつかったかのように、空中で制止した。
 ――― 笛の音は、止んだ。
 かわりに、笛はそっと空中に持ち上げられ、それに触れてもいないのに、飛び掛った者どもは、苦悶に満ちた表情で呻き ――― 笛がくるりと廻されると、巨人に投げ飛ばされたかのように、玉章の足元に転がってきた。

「なんだ、なんだ、あやつは」
「人間ぞ、人間ぞ、人間のニオイがする」
「女だ、女ではないのか」

 何者かと、うろたえているのは四国の妖どもばかり。
 周囲の様子を把握した玉章は、知らず、冷たい汗が流れるのを感じていた。

 相対する、京都の妖どもは、この人間を誰かとも問わず、何者ぞとも問わず、当たり前のように彼が通る道を開け、彼の言葉を待っているかのように控えているではないか。
 薄絹を被ったその向こう、笛を奏でていた桜色の唇が開くのを、今か、今かと。

 今か、今か、と。
 待っているのは、京都の妖怪だけではなかった。

 玉章すら、全ての動きを止め、魅入られたように立ち尽くしていたのだ。

 一振りの、呪われた刀を、握り締めたまま。

「四国八十八鬼夜行、隠神刑部狸・玉章殿とお見受けいたしました」

 凛とした声だった。人の声だった。耳朶に心地良い、まだ子供の声だった。
 男か女かはまだ判別かつかず、さらに何者であるのかも計れなかった。

 狩衣姿で薄衣を被ったその人間は、握った笛で、ついと玉章が握った『魔王の小槌』を、これでお前が魑魅魍魎の主となるが良いと、ある日現れた男に手渡された宝刀を、指した。

「貴方が握られているその、『魔王の小槌』。危険な品物です。それを砕かせていただく」
「馬鹿なことを。みすみす渡すと思うか」
「貴方は頭が良い御方だ。この場所ではその刀が無力になること、わからぬ貴方ではありますまい」

 覆っていた薄衣をばさりと取り払うと、そこに居たのは一人の少女。いや。

「近き者は目にも見よ、遠き者は音に聞け。ボクは花霞リクオ。京都螺旋の結界が八、伏目鎮護の陰陽師だ。そのような呪われた剣で、この京を、穢させはしない。この場所は五条大橋、刀に溺れる者は負ける場所 ―――― 玉章、どうだい、貴方の刀はそれはもう、重く重く ――― そぅら、大変だ、そのまま握っていたら、手首が、腕が、千切れてしまうよ」

 少女と見紛う、少年だった。
 少年が、美しい琥珀の瞳でまっすぐに玉章を見る。
 無垢でいながら、此の世の全てを知る老人のようでもあり、玉章の心の中まで見透かすような、嫌な目だった ――― びくり、と、玉章は一瞬、その目の前で、臆した。

 妖の戦いは、《畏》の奪い合い。

 ならば、勝負は既に、このときについていたはずだ。
 玉章は、白い大狸に化生した己の胸ほどにも満たないその少年の目に、臆したのだから。

 しまったと我に返ったが遅い。
 次の瞬間には、言われた通り、手の中でずしりと刀は重くなった。
 嗚呼だめだ、これ以上握っていては、手が千切れてしまう ――― !
 からりと刀は橋の上に転がり、すかさず少年が素早く動いて、玉章の足元から背後の己の手勢等の方へと、刀を蹴飛ばしてしまった。アスファルトの上を滑った刀を、茶釜狸がふぬといかめしい顔をして踏んづけ、ひょいと持ち上げると、ぱかり、ぐらぐら煮立つ茶釜の中に、刀を隠してしまったのである。

「貴様、何をする ――― !」
「言ったはずだよ、玉章殿。『魔王の小槌』は砕かせていただくと。さあ、改めてここからは、妖の時間だ」

 四国の妖怪たちは、玉章も含めて目に見えて狼狽していた。
 目の前に現れた京妖怪たち、それを統べるのが陰陽師で、それも年端のいかない少年であり、それが言った通り玉章は手から刀を手放してしまった。
 全く正体が見えぬ相手を前に、気圧されたのは四国妖怪どもの方であったのだ。
 そのままなら、お互いの百鬼夜行をぶつけ合うこともなく、戦いは終わっていたかもしれない。

 しかし。

「 ―――― ウッ……ゴホッ、ゲホッ………ガハッ ――― 」

 余裕に溢れていた少年の顔が、玉章のすぐ目の前で歪み、そのまま口を押さえて咳き込んだので、玉章は我に返った。
 はっとしてみれば、すぐ目の前に、敵の大将首があるではないか。
 『魔王の小槌』が無くとも、得物ならば他にもある。
 まだ呆然とする下僕どもから奪うようにして刀を得ると、玉章は言葉もないまま、目の前の少年の首を刈り取ろうとした。

 それだけ、目の前の少年が、怖ろしく見えたのだ。

 理由はわからないが、その少年が胸を掻き毟ってうずくまり、咳き込んだところからは血の臭いをさせているとあれば、好機となるは当然。

「怯むな八十八鬼夜行!京妖怪など殲滅してしまえ!」
「お、おおぉぉぉ!」
「そうだ、そ、そうとも、陰陽師がなんだ!魔王の小槌がなくともなんだ!」
「玉章さまに続けえええぇぇぇ!」

 玉章の一喝で誰もが我に返り、乱戦が始まったと同時、玉章は少年の頭を片手で鷲掴みにし、いよいよ首をはねようとしたが、

「きったねぇ手で、リクオに触ってんじゃねぇよ、田舎狸!」

 真横から殴られて、吹っ飛んだのは玉章の方だった。

 衝撃で、捕まえていた少年も握っていた刀も落とし、玉章は大橋の橋桁にしたたかに背を打った。
 犬神が彼のもとにかけつけ、引き戻していなかったら、そのまま川に落ちていたかもしれない。
 それぐらいすさまじい風圧をともなった、拳の一撃だった。
 あいつだと、玉章は即座に悟った。
 ここに来るまでに相対した、緋色の直衣、深灰の大猿 ――― 不動能面をしたその姿が、目の前にあり、玉章の手から離れた少年陰陽師を壊れ物のようにそっと抱いて、まだ苦しげに咳き込む背を、撫でてやっている。

「だから、リクオ、そっちの姿じゃもう無理だって言ったろうが。後ろに下がって休むか、明王になっちまうか、どっちかにしてくれ。『魔王の小槌』とやらは砕いたんだろ?それじゃあ、陰陽師の役割ってのは、もういいじゃねぇか」
「だめ、まだ ――― ゲホッ ――― まだ、『魔王の小槌』に憑かれた仔を、祓ってない ――― ゲホ、ゲホッ……」
「はァ?お前、あの田舎狸を祓ってやろうって?放っておけよあんな奴。喧嘩したくて田舎から出てきたんだから、とっととのして追い返してやりゃあいいんだよ」
「猩影くん ―――― お願い、力を、貸して」
「はいはい、御大将の仰せのままにいたしますよ。文句は言うが言うことはきいてやる。だから、無理とかするな。いいな。で、なんだ、つまりはあの田舎狸を一回ボコって、お前の言うことを聞く状態にすりゃあ、いいんだよな?」
「あんまり、酷いこと、しないであげてね」
「はいはい、わかってるってぇ。お前がされかけたように、首を毟るようなこたぁいたしません、よ、っと!」

 語尾のあたりでは既に、大猿は背後の京妖怪たちに少年を預け、玉章に飛び掛ってきた。