たかが一人の少年を、それも陰陽師であるらしいのを、京妖怪たちは皆が皆、大猿が彼等の群れへ預けると、己が盾とならん己が剣とならんと四方を守りながら、ぐったりとした少年の背を支えたり、冷たいアスファルトに敷物を敷いてから座らせたり、くつろげるように良い香のする茶まで供して少年に弱々しくも笑われたり、まるでそこだけが切り取られた空間のようだ。
 すぐそこに敵の大将首があるのに、四国の妖怪どもの誰もが拳をふるい、炎を吹きかけ、咆哮して狂ったように突進し、鈎針の髪を伸ばして引きずり倒してやらんとするのに、少年の体に届く前に、拳は逸らされ炎は相打ちになり鈎針の髪は鋏ですっぱり切られてしまった。

 中でも、玉章がこれが大将ではないのかと誤認した、あの不動能面の大猿。
 この活躍がすさまじい。
 玉章はもっぱら、これを相手に立ち回らなければならず、すぐそこに居る少年の細首になかなか手が届かぬ歯痒さ、少年が身を休ませていながら、なにかしら口の中で唱えているらしいのを見ているしかない焦燥、およそ勝ち戦には無いものを浴びるほどに感じていた。
 引き返すには遅く、しかし勝つとはとても思えない。
 玉章ははたと、自分が何故こんなところで、こんな者どもを相手にして立ち回っているのか、わからなくなった。



 ねえ、だから玉章、そんなにも通力を持って生まれてきたお前は可哀相だけれど、お願いだから、あの昔話の鶯のように、口を閉じていてちょうだい!



 ――― それは嫌なんだよ。どうして僕だけが、口を閉じていなくちゃいけないの。
 ――― どうして声を上げちゃいけないのさ。どうして鳴いちゃいけないの。
 ――― ねえ、こんな面倒な僕は、貴方たちの仔として弟として、生まれてきちゃ、いけなかったっていうの?



 そう、ここに来たのは。認めさせるためだ。
 玉章の手に力が篭る。
 大猿にのしかかられ、二度、三度殴られるままだったのが、ひょいと顔を交わしてそのまま頭突きで相手を怯ませ、ついでに腹を蹴り上げて上から退かせると、形成逆転、今度は己が馬乗りになって、腹立たしさを全てぶつけた。
 昔から呼ばれてきた名前。たまずさ。
 名付けられたそのときから、お前は鳴いてはならぬと。

 どうして。どうして。どうして。
 それじゃあ、何のために、僕は。

 だから、玉座を得んとした、たまずきと、名前を変えて。

 今、玉章が殴っているのは、目の前の大猿ではない、がむしゃらに殴っているのは、鬱屈した何かだった。
 退屈?平和?平穏?
 それ等はこんなにも、心をかき乱すものなのだろうか。
 退屈とは、平和とは、平穏とは、なんと荒唐無稽なのだろう、その中で心乱され苦しむ者は、己の生きる意味を求めて、己が生まれた意味を求めて、鳥籠を壊すしかない、戦乱を望む魔の申し子になるしかないではないか。



 ねえ、たまずき、きみは、ぎょくざをのぞむの?



 ――― ああ、ああ、そうだとも。望んでやろう。そうすれば皆がついてくる。



 そうなんだ、たまずき、きみは、みんなのために、ぎょくざをのぞむの?
 ねえそれじゃあ、きみののぞみは、なぁに?



 ――― どうして僕だけが、口を閉じていなくちゃいけないの。
 ――― どうして声を上げちゃいけないのさ。どうして鳴いちゃいけないの。
 ――― 僕だって精一杯力を使ってみたいし、兄さんや姉さんみたいに、ちょっとばかり人間を驚かせて喜んでもみたい。けど僕がそうすると、兄さんや姉さんは困るんだ。人間が驚くばかりじゃない、びっくりしすぎて ――― 妖を思い出して、山狩りを始めてしまうだろうって。
 ――― ねえ、こんな面倒な僕は、貴方たちの仔として弟として、生まれてきちゃ、いけなかったっていうの?



 たまずき、きみは、ちからをつかいたいのかい。
 ちからのかぎり、いきてみたいたいと、そうねがったのかい。



 そうだ。僕は、声の限り、鳴いてみたいんだ。
 昔話の鶯みたいに、声を封じるとしたって、そんなのはまだ先でいい。
 生まれながらに声を奪われる身に、なってみてくれよ!



「そうか、わかったよ ――― 君の真名、《視》つけたよ ――― たまずさ ――― 君の願い、ボクが叶えよう」



 答えのないはずの、己の中にたまったヘドロのような、鬱屈したものの中に、凛、と、涼やかに響くものがあった。
 波紋のように、鈴の音のように、広がったその声は誰の者であったのか。
 己の中では見つけられなかったものが、そこにある。

 何を殴っているのかもわからなくなった頃、玉章は、闇の中に一人になっていた。

 ここは五条大橋のはず、いやしかし、あれほど溢れかえっていた妖怪たちの姿が無い。
 前も後ろも、右も左も無い。
 ひたすら闇だ。闇ばかりだ。
 その中で、玉章の象牙色の毛並みが、輝いていた。

 振り返っても誰もいない。
 ざばり、と、己を中心にして波紋をたてていた水面から、飛沫があがるばかり。

 先ほど、たしかに誰かが己の鬱屈に答えを下したはずなのに、その姿も無い。

 いいや、鬱屈はまだここにあって、何も晴れてはいないのだ。
 力の限りもがいて進んで玉座を求め、争いに明け暮れた先にはきっと己の心の平穏があると思っていたのにと、玉章は、落胆した。
 殴り続けていた手が痛かった。
 こんなとき、あの犬神ならすぐさま玉章の孤独を察して、とことこやってきて、でかい図体で傍にどっかりと座るに違いないのに、それもない。

 ただ、ヘドロのような水面があるばかり。
 己の姿すら見られず、人影一つない闇の中で、玉章は、独りだった。

 否。



 クク ――― クククククッ ――― 。



 独りきりになった玉章を、嘲笑う声が、あった。

「だ、誰だ ――― 何者だ。貴様か、僕をこんなところに呼び寄せたのは!五条大橋にいたはずなのだ、さっさと戦場へ戻せ!」
『そう怯えるなよ、たまずき。僕は君を、玉座へ導く者だよ』
「な、に?」

 誰もいないはずのその場所に、声が、響いた。

 背後。振り返る。誰もいなかったはずのその場所に、玉章を見返してにたりと笑う者があった。
 少年だ。先ほどの陰陽師ではない。
 それよりも、玉章をどきりとさせる姿だ。
 切りそろえられた、絹糸のような黒髪。切れ長の目の端に泣き黒子。覚えのある学生服。
 人に紛れる玉章の姿、そのものだった。

「貴様は ――― 」
『僕は君だ。君は僕だ。君は、僕の言うとおりに動いていればいいんだよ』
「な、なに?」
『さぁ、拾え。魔王の小槌はまだ砕かれちゃいない。君が心底玉座を望むなら、声に従って戻って来る。さあ、拾え。拾え。拾え。拾え。拾って君の下僕どもを斬って斬って斬り尽くせ。刀は怨念を、呪詛を、吸って吸って吸い尽くす。宴はこれからだ。君は全ての者どもを、斬って斬って斬り尽くすまで、止まるわけにはいかない!』
「馬鹿な。そんな事をすれば」
『すれば?どうなるって?煩い父も兄も姉も、みぃんな斬り捨てて、ついてくる下僕も斬り捨てて。君は、僕は、こうして一人きりになるのさ。それでいいだろう?どうせ君の声なんて、聞く者は無いんだ、居なくったって同じだろう?こうやって、たった一人になったって、同じさ。同じさ。おんなじさ』

 落胆し、絶望し、その果てに、玉章は愕然とした。
 声を轟かせようと選んだ手段は ―――― 声を聞く者を殲滅せしめるものだったと、初めて、気付いた。

 呆然と立ち尽くす玉章の前で、もう一人の玉章は、機嫌悪そうに目を細め、ポケットに手を入れたままざぶざぶと水面をかき分けてくると、

『聞いているのかい、たまずき。拾え。そう言っている。そら、足元だ』

 玉章の首の後ろをぐいと掴み、無理矢理に水面を覗かせた。
 そこにあるのは、水面一面、無数の顔、顔、顔。
 苦悶に歪み、血反吐を吐き、皆が一様に玉章を睨んで恨み憎しみに満ちた視線を、決して玉章から外さない。

 ひっと息を呑んで後ずさっても、視線はぎろりと追ってくる。

「よ、よせ ――― やめろ ――― そんな目で ――― 」

 下僕としてついてきた、犬鳳凰も、手洗い鬼も、鈎針女も、犬神までもが首を水面に浮かばせ、言葉もなく、ぎろり、ぎろり、玉章を睨んでいる。彼等ばかりではない、地平線まで続く絶え間ない恨みと憎しみと死の連鎖の中には、兄も姉も、父も、母も ――― 。



「 ―――― ウワアアアアアアアアァァァアァァァァァァッッッッ ―――― !」



 助けて、助けて、お願いだ、助けて。誰か ――― 。



 下を見れば恨みの視線、前後左右を見てもかがみ合わせの己が蔑んだ目で己を嘲笑う。
 ついに玉章は天を仰いで、何に祈れば良いかもわからぬまま、助けを求めて手を伸ばし ―――










「助けよう。求めてくれるなら、何度でも」










 答えなどないと思っていたところに、答えはあった。

 仰いだ天に桜吹雪が巻き起こり、黒一色だった世界が瞬時、春の宵へと姿を変えた。
 足元を埋め尽くしていた死に顔を、花弁は瞬く間、覆い隠して、水面ではない、薄紅色の絨毯へと。
 ちいと舌打ちした目の前の自分にさえ桜吹雪は襲い掛かり、それを腕で庇うが庇いきれず、あっと言う間もなく、目の前の、人の姿をした玉章は、べろりと皮を剥がされたように、赤黒く焼けた皮膚から腐った臭いをさせる、肉の塊へと姿を変えてしまった。
 肉の塊 ――― 既に人の、動物の姿すらしていない、肉の塊。
 ぐずぐずと蠢く塊は、桜で覆い隠した憎しみ恨みを吸って、若木のようであったのが途端に大樹になり、四方八方目がけて世界樹のように枝を伸ばた。
 玉章もあわや、これに巻き込まれて肉の一部となり果てるかと思われたが ―――

 立ち尽くしていた玉章を、横から掻っ攫った者があった。

 見えたのは、長く伸びたしろがねの髪。
 根を生やし枝を伸ばして暴れる肉の世界樹を遥か遠くに見る場所で玉章を降ろした、その後ろ姿は、平安の男君のように凛々しく、清らである。現実の世界で少年陰陽師が纏っていたのと同じく、藍色の狩衣を纏い、首からかけた水晶の数珠が、綺羅綺羅と輝きながら降り積もる、花弁に照り返った。
 美しい妖だった。玉章は一目で魅了された。

「なぁ、たまずさ」

 しっとりとした、耳朶に心地良い声で彼の名を呼び、肩越しに振り返った、その瞳は紅瑪瑙。
 さぞかし力ある大妖であろうに、何故か少し疲れた様子で、声には力が無い。
 それでも、玉章の心に、言葉は染み入って来る。

「お前は声を轟かせたいという。己の嘴を玉章の葉で封じた鶯の気持ちを知るのは、まだ先でいいと言う。それなら、お前がそういう気持ちになるまででいい、その力、どうか貸してはもらえぬだろうか。この先近いうちに起こるだろう、大戦に勝つために」
「大戦?」
「敵は、千年魔京の主、羽衣狐」
「 ――― ッ」
「臆したか?お前が本当に日ノ本の主にならんとするなら、避けては通れないはずだぜ」
「臆してなどいるものか。そうとも、もとより、そのつもりだ」
「わかっているんだろうな。先程見たのは幻だが、奴に負ければ、あれが本当になるかもしれない」
「……………」
「怖いかい」
「………こんなところで、嘘をついてなんになる」
「ははっ、嬉しいな。あれを怖いと思ってくれる奴でよかった。………オレも、怖い。怖くて怖くてたまらない。オレが負ければ、後ろについて来てくれる奴等があんな風に首を斬られ、腐るまで晒されて、目を閉じさせてももらえないかと思うとな、正直、いつも怖い。
 オレはアンタが気に入ったよ、たまずさ。あんな妙なモンに付け入られなければ、隠神刑部狸どのの末子の思春期騒動で済んだろうに、今回はご愁傷様やったなぁ」
「なんだい君は。さっきから、名乗りもせずに人の真名をズケズケ呼んで、失礼な奴だな。名乗りたまえよ」
「あれ。さっき橋の上でちゃんと名乗ったんに。もう忘れはったん?そらなんぼでもひどおっせ」

 二人、言葉を交わしている僅かな間に、巨大な世界樹に育った肉の芽は、目や手足を生やしてそれぞれに武器を持った巨大な根を地表に走らせ、二人に地割れが迫った。
 危なげなく二人は跳躍し、玉章も、そして彼を助けたしろがねの大妖も、この根の上に着地して、まっしぐら悪しき世界樹の本体へと向かう。

「にしても『魔王の小槌』め、アンタの心にずいぶん根深く食い込んだもんだ。もう少しで手遅れだったな」
「あれが、『魔王の小槌』?!いや、でもそれはさっき、橋の上で」
「物質ばかりが妖じゃあない。いや、物質精神、両方あわさって効果を発揮するもんだが、祓うんなら両方祓わねーと、どうしょうもない。あれは、アンタの心に巣食って不安と不信の種を撒き、鬱屈した気持ちを養分に吸って、さらに鬱屈した気持ちを撒き散らかす、魔剣だ」
「 ――― 僕が妖怪に憑かれてたって、そう言うのかい」
「人も混じってるだろう、アンタ」
「 ――― 」
「恥じる必要はねーよ。京都じゃ、結構多い。猩影もそうだし、オレの同級生にも一人いるし。今度紹介するわ」

 根は一本ではない。次から次と襲い来る根を、しろがねの大妖は独鈷杵の杖で払い、札を飛ばして方向を逸らし、背後からせまった根は玉章が木の葉の綱で縛り上げ、いつしか二人、息を合わせて世界樹の麓までまっしぐらに駆けていた。
 いよいよ根元についたとき、そこではあの肉の目が洞の中で、どくりどくりと脈打っており、それはあの、不遜な表情をした玉章の姿を醜く模っていたが、もう玉章は驚かなかった。

 しろがねの大妖が、己の杖を振り下ろすより先に、玉章は駆け抜け様、己の姿を模った肉の目を、力の限り、拳でぶん殴った。
 全ての鬱屈も、退屈も、苛々とした気持ちも、この自分が放っていたものだ。
 自分を苦しめるのは自分しかいない。自分を救えるのも自分しかいない。

 しろがねの大妖は、玉章を、傍でそっと見守っていただけだった。

「 ――― お見事、玉章殿」

 たまずさ。

 ずっと封じていたはずの、両親の真心の名で呼ばわれて、それでも嫌ではなかった。
 一体この大妖は誰であるのか、いい加減名乗ってもらいたいと、崩れていく世界の中で振り返る。

 あれほど駆けたというのに、あれほど広い世界へ閉じ込められたというのに、いざ世界樹が根元から腐り落ちて世界がほどけていってみると、二人は五条大橋の真ん中に、向かい合って立っているばかりだ。
 二人があの暗闇の中に居た間、その場は誰も干渉できぬ異界と化していたらしく、京妖怪も四国妖怪も争いをとっくにやめて、黒い球体に包まれてしまった二人をなんとかしたいが何もできぬと、見守っていたらしい。玉章の姿を認めて、四国妖怪たちはほっと息をついた。良かった、ご無事であった、などという声を耳にして、玉章は心から、彼等に申し訳ないと、思った。
 魔王の小槌は、彼等の命を吸って、力に変えるものであったのだ。
 もしあの少年が魔王の小槌を奪っていなければ、玉章は背後の彼等を全員、皆殺しにしていたかもしれない。

 しろがねの大妖は、京妖怪を背後に従え、玉章は四国妖怪を後ろに従え、初めて邂逅したように。

「 ――― 僕は、隠神刑部狸・玉章」

 たまずさ。自らそう名乗るのは、何年ぶりであったろうか。
 名乗ると、目の前でしろがねの大妖は、我が事のように嬉しそうに笑った。

「君は ――― 一体 ――― 」

 夜明けが近かった。しろがねの大妖の背後から、朝日がなげかけられる。
 その光を浴びると、どうだろう、あれほど見事な大妖だった彼の姿が、するり、糸が解けるように、一人の少年に変じたではないか。

 玉章の問いに答えはなく、力を使い果たして目を閉じ、苦しげに咳き込んで倒れかけ、これをすぐに抱えたのは、後ろに控えていた、あの大猿だ。
 今は緋色の直衣ではなく、不動能面も取り去って、深紅のパーカーにデニム姿。
 まるで人間の姿だが、少年をひょいと抱えるほどには長身で、有無を言わさず抱えると、その腕の中で少年は尚も咳き込み ――― 血を吐いた。

 玉章は、倒れかけた少年を支えようとした手もそのまま、固まってしまった。
 目の前の少年は、今にも死んでしまいそうに見えたのである。

「チッ、だから無茶すんじゃねえって言ったのによ。おい四国ども!勝負はついた、ついでに夜明けだ!陰陽師どもが血相変えて飛んでくるぞ!とっとと逃げるか、ついて来るかしやがれ!」

 少年を両腕に抱え上げた、パーカーの青年は、こちらも一家の大将だと言われても納得するぐらいの気迫を持っている。
 それが大声を上げて喧嘩は終わりだと言うし、朝方、奇妙な物音に気付いて人間どもが窓からこちらを見ているのもわかる。妖怪たちは慌てて己等の姿を隠すと、京妖怪たちが風に乗って飛んでいくのを、四国妖怪もまた、追いかけたのだった。