案内された屋敷は、不思議なところだった。 伏目稲荷の紅鳥居の中腹から裏に廻って少し坂を下ると、社とも社務所とも違う、人が住まうような屋敷が見えてくる。 茅葺屋根でなく瓦屋根なのが不思議なくらい、時代がかった造りだ。 いまどき桧皮葺の屋根の門構え、その向こうに瓦屋根の寝殿造りの屋敷があり、見目からするとこじんまりしていて、一家三人か四人が住めばもう手狭といった具合。けれど、玄関を入って長い廊下の向こうを見つめながら、行き止まりのはずのすぐ脇に半歩ずれると別の和室に出るといったように、妖の者が住み良い形に中は造り変えられていた。 流石に四国連中が全員詰め掛けるほどの余剰は無かったので、伏目屋敷の護法が一人、なにやら不機嫌そうな顔をして設計図を睨みつけながら、ぶつぶつ言って部屋を広げたらしい。 作ったばかりの《隙間》の部屋に、真新しい畳を敷き、障子を立てて、屋根のようなものをこさえ、そこが玉章の部屋になった。 すぐ隣や向かいには、側近たちの部屋、その他四国連中の大部屋だのまでしつらえられ、その扱われ方は虜囚と言うより。 「私たちは、貴方たちを友人として歓迎します」 「 ――― そう呼んでくれるなら、もう少しにこやかな顔で歓待を受けたいものだね」 「御大将がそうするように言うから、言ってるだけ。どんなに感情では塩を撒いて追い出したい気分でも、御大将が貴方たちを歓迎せよと言うなら、伏目の護法たちは絶対に貴方たちに危害は加えない」 一通り部屋を作り上げ、風呂はあっち、賄い処はそこ、などと案内を終えた後、己の能力で《隙間》を広げていたらしい少女の妖は、実に不機嫌そうな顔で玉章に言い渡した。 彼等が大将と呼ぶ、あの少年陰陽師は姿を現さない。 代わりに、伏目屋敷に住む妖怪たちは、なにやら忙しげに廊下を走ったり、賄い所に駆け込んだり、血のついたシーツをざぶざぶ洗っていたりと忙しくしており、これを見れば、具合が良くなくて姿を見せられないのだろうと見当がついた。 友人として歓迎する、などと言っておきながら、少女が姿を消すと同時に、これ見よがしに見張りがついた。 あの深灰の毛並みの大猿 ――― 猩影だ。 「君たちの大将は病気なのかい?」 「いいや」 「じゃあ、どうして姿を現さない」 「夜になれば姿を見せるさ。それまで、黙って待ってろよ」 説明するのが面倒だ、と言うかのように、本気で見張るつもりはないのか、猩影は玉章の部屋でごろりと横になってしまった。 玉章が部屋を出ようとしても何も言わない。 玉章もまた、ここまで来て屋敷を抜け出そうとは、考えもしなかった。 向かう先は、側近たちがいる、隣の部屋だ。 玉章が姿を見せると、円を描いて向かい合わせに座っていた四国妖怪たちの神妙な顔が、ぱっと明るくなった。 「玉章さま!」 「玉章、ご無事で……」 「一体奴等、どういうつもりなんでしょうかね?」 「玉章ィ、この屋敷、香のニオイがきっついぜよ。そんで、血ぃのニオイ消し取るがじゃ。鼻ぁ曲がるぅ」 円陣の一方、犬神と鈎針女の間がぽっかりとあいて、そこに玉章は腰を下ろした。 そこで、己についてきた幹部たち ――― 鈎針女、手洗い鬼、犬神、犬鳳凰、ムチ、崖涯小僧、袖モギ様 ――― 七人同行を見回す。 「僕は負けた」 さっぱりと言うと、はっと彼等は弾かれたように顔を上げ、玉章を見て、また俯いた。 「幸い、この屋敷の大将は甘いらしい。僕はともかく、君たちの命を取るような奴ではなさそうだ。これを機に、四国へ戻りたい者があるなら、遠慮なく申し出てくれ」 「なんだ、ほがなこと。俺は玉章と居る」 「玉章さまは、どうされるので……?」 「負けたんだ、あちらの大将に下るのだろうさ」 「下る ――― 玉章さまが?」 「おかしいかい、鈎針女」 「い、いいえ。いいえ、そんな事は。ただ、玉章さまがそのような事を仰せになるのが、少し、不思議な気がいたしまして」 「不思議、ね。僕も不思議な気持ちはするよ。なにせ、負けたのは生まれて初めての経験だ」 涼しげな美男子の姿で、玉章が首を傾げて笑って見せると、鈎針女は主の思いがけぬ姿を見てはっと恥じ入ったように、俯いてしまった。 「負けたからには、相手の大将に下り、あちらの言うことを聞く。それが嫌なら自害という手があるが、生憎、僕にはそちらのつもりは無いよ。ゲームならリセットしてセーブしたところから、なんて事も可能だが、此の世はそうはいかない。運良く甘い大将に当たったと思って、せいぜい利用させてもらうことにしよう」 「なら、玉章よう、あのガキ、花霞と言ったか。それの言うことを聞いてやるってのかい」 「そうだよ、手洗い鬼。そうなれば君たちも自然と、あれを大将と仰ぐことになるんだろう。それが嫌なら、四国へ帰ることだ」 「……嫌だとか、そういう前に、目的がわからんとなぁ」 「敵は羽衣狐。千年の九尾の狐だ。僕としては、面白い勝負だと思ってる。悪い気はしない」 いつの間に、相手の大将と話をしたのかと訝る彼等に、玉章は全てを語って聞かせた。 不思議と、いやな気持ちはしなかった。 心の内に巣食っていた気色の悪い肉の芽を殴り飛ばして以来、玉章をこれまで責めさいなんでいた、あの鬱屈が、すうと消えており、目の前の彼等側近を利用してやれと思いかけていたことさえ話して、素直に詫びた。 己の力のみで日ノ本の主を目指すつもりが、いつからか、魔王の小槌という刀の方こそ本意となっており、その刀の力を引き出すためであれば、どれほどの犠牲も厭わぬと思い始めていたこと、今ではそれを怖ろしいと思うこと、刀の呪縛を祓ってもらった己が、あの少年陰陽師に下るのは口惜しいが正しいことで、しかし恩を売られたと言うよりも、 「 ――― 出会うべき場所で、出会うべき相手に出会えたと、不思議なことに、そう思える」 力を貸してくれないかと、声を封じて慎ましく生きていきたいなどと老成したことを思うようになるまででいいから、力の限りにふるってくれないかと ――― その末に、悪夢に見た、あの地獄のような場所が待っているかもしれないが、それでもどうかと乞われて ――― 己をその地獄へか、それともその先へか、導かんとする少年に、応えてやってもいい、と、今の玉章は思う。 いいや、違う ――― 応えたいと、今の玉章は、思うのだ。 刀の力が凄まじいのは本当だった。 通力だけでなく、あの刀の力を得た後、玉章は瞬く間に四国を統一し、中国地方と事を構えるまでになった。 では刀が失われた今、それで側近たちが「ならばもうついて行く義理はない」と判じるかとなれば、むうと腕を組んで迷うのである。刀だけが、彼等が玉章の背についてきた理由ではなく、力を後ろ盾にして他者を容赦なく打ち据えるような恐怖が、玉章から失われた今も、やはり彼等は去り難いと感じた。 実はそれこそ、玉章が本来持っている、誰も彼もが手を貸したいと思ってしまう、同時にちょっぴり頼らせてもらいたいと思ってしまうようなカリスマ、《畏れ》であるのだが、まだこの時、玉章自身がずっと苦しめられてきた悪夢から目が覚めたような気持ちであるので、自覚が無い。 考えようともしないで寝そべる犬神の頭をぽこりとやって襟首を掴み、きちんと座らせて側近衆たちの輪に引き戻してから、 「とにかく、あちらの大将は夜になれば僕と会うらしい。僕の配下をやめて四国へ帰るとなれば、屋敷から出してももらえるはずだ。夜までに屋敷を出なければ、あの羽衣狐とやり合うことになる。しっかりと考えてくれたまえ」 一人ずつの目をしっかり見て、「いいね」と念押ししてから、玉章は己の部屋へ戻った。 実はこのときの話が、側近衆を再び感服させ、「こういう玉章もいい」と思わせて全員を残らせることになったのだが、玉章は後々になっても、どうして自分の側近たちが誰一人として四国へ帰らなかったのかと、首を捻っていたという。 主と呼ばれるものはどういうわけか、自分への好意に疎い者が多いらしい。 玉章は己の正直なところを明かし、それで側近たちを驚かせたが、その夜、玉章は同じような、もしくはそれ以上の衝撃を受けた。 手打ちの条件として、四国・安芸・京都の同盟を結ぶという条件自体は驚くものではなかった。 黄昏を過ぎた頃に案内された部屋に座っていたのが、悪夢の中で見た、あのしろがねの大妖であった事や、それが花霞リクオと、少年と同じ名を名乗ったのにも驚いたけれど、何より、 「なんだって?」 「せやから、力を貸してくれと」 「そうじゃない、その前だ」 「その前 ――― 『長く引き止めるつもりはないから』のところか?」 「そうだ。なんだいその、長く引き止めるつもりはないから、というのは」 「別に。そのまんまさ。四国の主のご子息を、このままこの屋敷に縛り付けておくことはできないだろう。時が来たら、四国へ帰っていい。いいや、本当なら、帰りたいと思うならすぐにでも帰してやりたいと思うんだが、申し訳ないことにそうはいかない。負けたことを弱味に思ってくれるのなら、一度でいい、羽衣狐を倒すまででいいから、伏目屋敷に留まってくれないか。頼む」 「はぐらかすのが上手いね、君も。僕もそうだから、そのやり口は通じないと思った方がいい。この僕に力を貸してくれという相談をしてるんだ、この際、隠し事はよそうじゃないか。昨日から気になっていたんだけれど、君、どこか悪いんじゃないのかい」 「悪いというか、呪いを受けてる。形代をやっててな、狐の呪いのせいで最近、昼の間は動くのがキツイ」 その事実の方に、玉章は頭を金槌で殴られたような衝撃を受けた。 九尾の狐の呪い ――― 形代 ――― 花開院陰陽師 ――― これだけの符号があれば、玉章にとっては簡単な足し算だ。目の前の存在が、京都の陰陽師たちの身代わりとして、呪いを受けているのは明らかだった。 対して、当の本人は、このリモコンは電池が切れかけていてうまく動かないんだ、とでも言ったような、軽い様子だ。 目の前のしろがねの妖は、寝巻きの上に羽織をかけた簡単な姿であったが、これはつい先ほどまで、床についていたためだろう。 犬神が言っていた血の臭いは、少し離れて座る玉章にも、充分感じ取れた。 真夜中の五条大橋に、薄衣をかぶって現れた、少年の凛とした姿を思い描き、玉章は無言になった。 なるほど、あの少年、弱った様子であった。 周囲の妖怪たちは、少年を守ろうと奮起して、四国妖怪の手は決して、彼に届かなかった。 「 ――― わかった。羽衣狐を倒すため、花霞大将にこの玉章、お力添え申し上げる。約束するよ。僕が力を貸すからには、女狐など化かしてくれる」 「そう、そのお知恵を拝借したいのさ。なにせ昼のオレときたらあの調子で、物を上手く考えられねぇからな」 「それで、花霞大将」 「リクオでいいよ、玉章」 「それじゃあリクオくん」 「何だ?」 「その役目が終わったときでいい、一つだけ、僕の願いを聞いてもらえないだろうか。かなえるかどうかはその時、決めてくれればいい」 「そりゃあ、構わんが、今じゃだめなのか」 「いけないね、羽衣狐を倒すまでは、僕は君に負けて調伏された、その代わりの勤めを果たす身だ」 「そんな、難しく考えんでも」 「ケジメは必要さ」 「わかった。終わった後な」 「聞いてもらわなくちゃ困るよ」 「わかってる。なにがあったって、オレはこの伏目から離れたりせぇへんから。そう決めとる」 腑に落ちなかったが、嘘を言うような相手には見えなかったので、玉章はひとまず、これでよしとした。伏目から離れない、ならば、生きているつもりはあるのだろうと、玉章らしくもなく、先入観をそのままにして。 もちろん、誤認識は、その後すぐに正されることとなった。 その後、一月もしたろうか、大雨の日であった。 なのに、どれだけ降っても降っても、血の臭いが辺り一帯に立ち込めている。 ざあざあと降り続く雨そのものが、先ほどまで空を覆っていたあの大妖の、血飛沫なのではないかと思われるほど。 いいや、腕に抱いた少年が流す血が、天に溢れかえって降り注いでいるのではと、思うほど。 京都から西、中国地方の山中に現れた、人といわず獣といわず、全てを喰らうという、そんな厄介な妖退治に、陰陽師としてたった一人、向かった先でのことだった。 護法を数匹供につけたとは言え、他の陰陽師たちは果たしてどうしているのだろうと玉章は首を傾げたが、まだまだ勝手がわからぬ頃。なあに、どうせたいした者でもあるまいと、若さ故の浅慮が手伝ったこともあって、リクオに言われるまま、まずは偵察のつもりで赴いた。 蓋を開いてみれば、山中を荒らしていたのは絡新婦。女の姿を模る、蜘蛛の大妖であった。 それも、腹に多くの仔を抱えた様子で、手当たり次第、土であろうと岩であろうと喰らう。昼であろうと夜であろうと変わらず活動し、一箇所に腰を落ち着けると動き回る者は全て喰らって、産卵に備えているようであった。 リクオはすぐに屋敷に連絡を入れて、さらに護法たちを呼び寄せたが、それまで谷間で落ち着いていた絡新婦は、周囲に獲物がいなくなったことを悟ったか、これまでの巣を捨て、移動し始めたのだ。 向かう先には、新しく山を切り開き、新たな高速道路を作ろうとする現場があって、多くの人間たちがいた。 針路が逸れてくれればいいがと願いながらも、リクオはその先の現場の人々に警戒するよう先んじて赴き、玉章は絡新婦を追って何とか針路を逸らすように幻術をかけたりもしたが、どちらも上手くいかなかった。 リクオが花開院の名を出して現場の人々にいくら説いても、彼等にとっては突拍子も無い話。 すぐ山の裏手に巨大な蜘蛛がいて、己等を喰らいにくるなど、とてもではないが信じられない。 また、玉章がいくら得意の木の葉の幻術で、絡新婦を道に迷わせようとしても、仔を持った母親の本能なのか、幻さえ食い破って、ひたすら生き餌を求めて、真っ直ぐ、真っ直ぐ、獲物の方向へ向かうのだ。 当然のこととして、工事現場の人間どもは、捕食者に見つかった。 傾いてきた陽を背後に、崖の上に組み付いた絡新婦を、最初に見つけた人間は、「何だアレ」と指差してヘルメットを押し上げたが、そうして目を凝らしている時間が、命取りだった。 崖から、手足八本を広げ、襤褸の打掛を羽のように広げた巨大な蜘蛛が、その場に舞い降りて一番先にがぶりと喰らったのは、その男の頭だった。 たちまち悲鳴が、怒号が飛び交う工事現場で、リクオは即座に護法たちを呼び寄せ、結界をこしらえて人間たちを逃がしたが、獲物を逃がしたリクオに、絡新婦の怒りが向いた。 クレーンを倒し、シャベルカーを喰らい、アスファルトをずたずたに引き裂いて、絡新婦はリクオを追った。 陽が落ち、しろがねの明王へ姿を変えてからでも、戦いは楽にはならなかった。 玉章とリクオ、二人の力をもってしても、人語を解さぬ、本能のみで喰らい生きる絡新婦は、強大な相手であったのだ。 素直に援軍を待てれば一番よかった。 途中、夜明け前に一度、絡新婦は彼等の姿を見失い、彼等は息を殺して物陰に隠れながら、すぐ傍を絡新婦の毛羽立った脚が通り過ぎていくのを待っていたのだが ――― 通り過ぎた絡新婦が、何かを見つけたか、足早に去っていったのを、リクオが訝った。 そっと後をつけてみれば、絡新婦の行く先には小さいながらも人里があり、夜明け前から起き出している人間の姿もあって ――― さらに民間人の犠牲が出るのを、リクオはよしとしなかった。 玉章が止める間もなく里と絡新婦の前に立ち、途端、絡新婦は歓喜したのか、印を切ろうとしたリクオの指を、腕ごと喰らいついて落とした。握っていた独鈷杵の味が気に食わなかったか、ぺっと吐き出したが、次には頭からがぶりとやって、しかしこれは、リクオ自身が片手と脚で絡新婦の上顎と下顎を押し上げ、そのまま頭蓋骨をぺしゃりとされるには至らなかった。 茶釜狸がすさまじく回転しながら、硬い茶釜で絡新婦の横っ面を叩かなければ、絡新婦の舌がリクオの心臓をつらぬいていたろうが、軌道がそれて、脇腹を抉った上、リクオの体は跳ね飛ばされて宙を舞った。 その後は、どう戦ったのか、玉章はよく覚えていない。 夜半から叩きつけるような雨も降り、ひたすら、血みどろの、泥臭い戦いだった。 終わった後、己の体がひどく重く、刀を杖代わりにして立ち上がり、夜明け間近の淡い光を頼りに、絡新婦の骸を傍らに、リクオの四肢を拾い集めた。 拾い集めながら、思い知らされた。 「 ――― 御大将には、ご自分を守る気が無いらしい」 言うと、リクオは笑った。 しろがねの髪は、べったりと自身の頭蓋からほとばしった血に汚れ、片目は潰れ、腕はとれ、脚は膝から下が無い。 散々な有様であるのに、 「オレは、人と京を守るのが、役目だ」 崖の縁で横たわったまま、遠くに見える人里を、自分とは裏腹、無傷で夜明けを向かえた人里を、尊いものを見るように、片方残った目に映して、ほうと息をつく。 玉章は己の疲れなど考えず、肉片をかき集めるようにして、己の着物を破って布を作り、これにかき集めたものを入れて丸め、小物どもに預けると、自分はリクオを抱えるようにして、山中へ消えた。 人間ではおよそ、この怪我を治せるはずはない。 夜明けは近く、リクオの妖としての治癒力のみに頼るには、時間が少ない。 ならば、なるべく夜明けの遅い山陰などに運び、せめて血を止める程度までにしたところで朝を向かえ、その場で動かさずに、次の夜を待つしか、望みは無い。 そうするつもりだと告げると、リクオは腕の中でこくりと頷き、 「 ――― 山を通って来たときにあった、滝。あの真裏に、洞穴があったみたいだよ」 ほとんど、人に戻りかけた声で、意識を朦朧とさせながら言った。 はたして、洞窟はあった。 中にはいくつも、白骨が転がっていた ――― おそらくは、あの絡新婦の巣であったのだろう。 酷い場所だったが、我慢してもらうしかない。 むしろ、少しでも妖気が篭っているのは、この際ありがたいことだった。 おかげでリクオは夜明けを迎えた後も、人と妖の境目をいったりきたりすることができたし、それで取れた腕を無理矢理に縫いつけ、妖の回復力が加わっていくらか出血が止まり、くっついた腕にも血が巡ったのかぴくりと指先が動いたりもした。 玉章は、己の体で外気を塞ぐようにして、リクオを奥に寝かせ、寝ずの番をした。 他の護法たちが疲労困憊した様子なので、交代しながら少し眠ると良いと進め、彼等にそうさせておきながら、自分は決して眠らなかった ――― 眠れなかった。 意識を失ったリクオが、このまま目を開けぬのではないかと思えて。 ひゅうひゅうと苦しげな息が、時折こもってがはりと血を吐けば、もうこの血は止まらぬのではないかと思えて。 玉章は、決して眠れなかった。 流れる滝の音を聞きながら、人の姿でじいとリクオを見つめていると、うわ言か、リクオが寒いと言うので、己の妖姿でならどうだろうと考え、抱えるように寄り添った。 抱いた少年の体は小さく、むせ返るような血の臭いがした。 長い一日だった。時計を見ても、一分一秒が長い。 こんなにのんびり過ぎていては、この子が苦しくて死んでしまうではないかと、天を呪いたくなった。 そんな一日にもやがてまた、黄昏は訪れた。 陽が落ちて、再び明王姿に変化すると、リクオは目を覚ました。 かろうじて四肢がくっついただけの状態で、動くことはままならず、片目も血はとまったが、視力は戻っていない様子だった。 「 ――― 玉章」 呼ばれて、玉章は目を開けた。 ほんの少し、まどろんでいたので、目を開けたときに、すぐ目の前でリクオが瞬きしているのを見て、ぱっと甘ったれたようにほっとしたように笑んでしまい、それから我にかえって、せいぜい、きりりとした表情を作った。 これを見たリクオの方も、とろりと甘い笑みを見せた。 「いてくれたんや……大将のみっともない姿見て……四国に帰っちまうんじゃないかって……ちょっと、不安だった」 「酷いな。僕を信用してくれてないのかい?」 「そうやない。……すまん、いけずやったな。……なんや、滝のせいか……雨音もあってか……嫌な夢、見てな……。でも……よう寝た気がする」 「うん。昼間はずうっと寝ていたよ。また学校、お休みになっちゃったね」 「あかん……宿題……やってへん……」 「悪い子だね。代わりになんてやらないよ。見ててあげるから、ちゃんと自分でやりなさい」 「ちぇ……いけずやなぁ……」 「具合は?」 「……さあ……今すぐ、死ぬことは、無いんと、ちゃうやろうか……」 「それは僥倖」 この時、団子になって眠っていた小物たちが目を覚まし、大将大将とかしましいので、玉章はこれにそれぞれ、水汲み、器になりそうなもの集め、湯沸し、簡単だが食事の支度などを言いつけ追い払い、リクオには、水筒に残っていた白湯を少しだけ含ませた。 「今、君に死なれては困る」 「羽衣狐か?……うん、オレも、いっつも、そのつもりで……おるんやけどなあ……なんや、実際……目の前でああなると……後先考えてられへん……」 「それもあるけど、それだけじゃない。よもや忘れちゃいないだろうね。羽衣狐を倒した後、一つだけ、僕の願いを聞いてもらう約束だよ」 調伏されておいて願いを聞けとは傲慢だが、リクオは気付かないのか、全くそこを突かない。 ただ、ふふりと笑って、「わかってる」と頷くだけだ。 「わかってる……わかってるって……けど、その話……今じゃ、だめなん?」 「どうしてさ」 「……ん……あんな……、あんな……オレ、伏目からは、離れへんつもりでおるんやけど……だから、聞くだけなら、いくらでも聞けると、思うんやけど……」 「なんだい、歯切れの悪い。夜の君らしくないな」 「……あんな……オレ、魂だけになっても、伏目に、居るつもりや。……だから、玉章が、会いにきて、くれるなら……いつでも、あそこに、居る。けどな、……けど、きっとそうなったら、もう、答えはできんと、思う、から……」 羽衣狐を倒した後、四国に凱旋した玉章が、伏目のリクオに会いに行く。 これまでにも、何度かその夢想は、したことがあった。 きっと玉章は四国の父や母や兄姉たちに大騒ぎされて、よくぞやったと大いに誉められ、栄誉を受けるに違いない。父は玉章に身代を譲ることだろう。序列など関係なく、兄たちは当然、玉章に平伏す。 玉章はいつでも、好きなときに、どこへでも出かけられる。だからきっと、京都に赴くこともあるだろう。そのときに、気が向けば、伏目屋敷を訪ねて、リクオの顔を見てやってもいいかもしれない ――― そんな風に、夢想していた。 それが昼のことなら、あの少年の顔でぱっと笑顔を見せてくれるに違いないし、それが夜のことなら、少し驚いたように目を大きく見開いて、その後、とろりと優しげに、笑んでくれるに違いないと。 大きな、誤りだった。 リクオには、そのとき生きているという保証など、まるで無い。 いいや ――― こんな生き方では、保証が無いどころか、確実に ――― 。 甘く優しく笑う花霞リクオの、ぽっかりと開いた心の虚ろを覗いて。 この少年にとって、生と死が全く同意義であるのだと、あらゆる約束は生の上でも死の上でも、彼にとっては果たされるもので、だから、あの約束が、彼にとっては、何の心の楔にもなっていないのだと知って。 玉章は、心底、ぞっとした。 調伏が、心底打ちのめされたことを指すなら、それは五条大橋の上ではない、このときに、玉章は、花霞リクオに下ったに違いない。 それほどの恐怖だった。 花霞リクオの肉体が滅び、二度と、笑顔が見られなくなることを、声が聞こえなくなることを、玉章は、怖れた。 「会いに来てくれたら……、きっと……、嬉しいと、思うん、やけどな……、それでも、そん時に、もう声は出せんと……、思うんやわ。……だから、今、聞けるなら……答えた方がいいことなら……今の方が、ええんとちゃうかと……そう、思った」 「馬鹿なことを心配するより前に、灰悟さんから教えてもらった気功術で、良い気を巡らせる心配の方をしてくれないかな」 尖った声が出たのは当然だった。 リクオは叱られたと思ったらしく、しゅんと萎れて玉章の言う通り、目を閉じて瞑想に入ったが、そのうち、すうと再び寝息になった。 リクオが眠っている間に、護法たちが洞穴に帰ってこないうちに、玉章は目元をぐいと拭い。 二度と四国に帰ることはないだろうと、静かに決意した。 鶯の鳴き声を聞くと、男は故郷を懐かしがって泣くので、その姿を哀れに思った鶯は、己の嘴に玉章の葉を巻いて、二度と己の声が出ぬようにしたのだそうだ。 ねえ、だから玉章、そんなにも通力を持って生まれてきたお前は可哀相だけれど、お願いだから、あの昔話の鶯のように、口を閉じていてちょうだい! うん、ようやくわかったよ。 あの鶯は、己を捨ててでも、その男の千切れそうな心を、どうにかして救ってやりたかったんだ。 けれど、鶯にはどうしてやることもできない。 だからせめて声を封じて ――― それぐらい必死に傍にいてやるぐらいしか、できなかったんだ。 あらためて約束するよ。君が守りたいものを、きっと、守ろう。 この力がその時まで邪魔ならば、無害な振りをして狐を欺いてみせよう。 もしも目が邪魔だと言うなら潰してもいい。声がいらぬというなら、喉を切ってくれ。 ――― 全力で、君を、守らせてほしい。 四国の家族には、四国・安芸・京都の同盟を結んだという事の報告に一通、それから羽衣狐を倒した報告に一通、玉章は手紙を出した。 特に羽衣狐を倒した後は、家族から届く手紙は頻繁になり、両親はもちろん年の離れた兄や姉からも、少々ヒステリックな内容が綴られるようになってからは、返事を出さなくなった。 すると、流石は機微をよく察する父なので、頼りはまた、日をあけて届くようになった。 内容も、「もう帰らないって、どういうことなの?!」という末子を叱りつけるような他の家族からのものとは違い、時候の挨拶、ご機嫌伺い、最近の他愛もないこと、そして本題の玉章の今後の身の振り方をほんの少しだけ気にしている様子、最後は息子の体を気遣う言葉でしめるようなものだ。 こうなってから、玉章は手紙の返事を書くようになった。 花霞一家の副将が性にあっていることや、大将の傍を離れようとはどうしても思えぬこと、玉章の葉で己の嘴を封じた鶯の気持ちが、今はなんとなくわかる気がするといった事を綴って、父に宛てたところ、定期的に土佐文旦やデコポンやうどんがつまった小包を黒猫に頼んで送ってくるぐらいで、「帰ってきておくれ」の手紙は、届かなくなった。 己の顔一つ分ほどもある土佐文旦に、綺羅綺羅と目を輝かせて見入るリクオに、くすりと玉章は笑う。 茶釜狸と一緒になって、ダンボールを覗いている姿からは、とてもではないが、この冬に妻を娶る男君とは思えない。まだ少し線が細いのが手伝って、この冬に嫁入りすると言われた方がまだ説得力がある。 「気に入ったものがあったら、あげるよ。そろそろ食べ飽きてるんだ。リクオくんが東京に行ってた間、毎週届いたんだよ。処理するにも限度があるったら」 「でも、これって高いんでしょう?ボク、伊勢丹に売ってるの見たことあるよ。氷麗と一緒に食べてもいいかなぁ」 「それ以外もほとんど食べ物だろう?茶釜狸、そのまま賄いに持って行っておくれよ。その方が皆の口に入るだろう。……あ、土佐文旦は一つずつ、大将夫婦にご進呈するから」 「やったあ、ありがとう、玉章くん」 「大将、それじゃあこのダンボール、賄いに運びますね」 「うん、お願いね、茶釜狸。たくさんあるけど、大丈夫?」 「平気です。さっき手洗鬼が起きてきましたから。ひとまず、この一つだけ運んじゃいますね。よいしょっと」 「こんなに貰いっぱなしじゃ、悪いなあ。今度、お礼に何かお送りしたいから、玉章くん、一緒に選んでよね」 四国の家族は、花霞一家に気を使ってか、定期的に四国瀬戸内の名産を山ほど送ってくるのだ。 今も、玉章の部屋には、外の廊下にあふれ出すほどダンボールが積まれている。 もらった土佐文旦に頬ずりなどして、「お風呂上りに食べようっと。あ、冷蔵庫で冷やしておいた方が、いいかな?」と呟き、皮にマジックで自分の名前を書こうとしている可愛い生き物を横目に、玉章は、「そう言えば」と呟いた。 「そう言えば、僕との約束って覚えてるかな、大将」 「え?……あ、うん。一つだけのお願いごと?ごめんね、ずうっと後回しになっちゃって」 「いや、それはいいんだ。大怪我してたんだし。だけど、それ、今言ってもいいかなあ」 「うん、もちろん。……でも、あの、こんな風に緊張感がないところで、いいの?」 「構わないさ」 文机の上のノートパソコンを閉じ、畳の上でリクオに向き直ると、リクオも顔を引き締めて、顎を引いた。 お互い向かい合い、背筋を伸ばして。 「花霞リクオくん。折り入って相談というか、お願いなんだけれど」 「うん、なぁに?」 数年来のお願いごとを、玉章はようやく口にした。 「僕と、友達になってくれませんか」 <了>
...友達になってよ... 答えは、破顔一笑。うん、わかってた、わかってた。そういう答えをくれる君だってことは。 |