老婆が石段から落ちたのは、事故ではなかったらしい……という噂、誰がささやき始めたか、次の日から流れはじめて、言の葉のうつろいとは早いもので、その週のうちには浮世絵中学校の清十字怪奇探偵団の耳にも入った。
 正しく言えば、《妖怪ひたひた》の正体が、陽炎に住むとある高校生だったらしい、という書き込みが、清継氏が管理するオカルトサイトの掲示板にあったことと、新聞に小さく、陽炎で事故死と片付けられていたものに、男子高校生が関与していたと思われるといった内容が記載されていたので、《妖怪ひたひた》なるものの噂が、この世から消えたのだ。

 その男子高校生が誰であったのか、という話にもなりかけ、もしやあの少年だったのではと、根拠もなく誰かが言い始めたが、清継氏はその手の話には全く乗り気ではなかったし、何より、いつもふわふわとした笑みを浮かべておられる若君が、

「やめなよ、たいした根拠も無いのに、親切にしてくれた人を疑うなんて」

 と、強く仰せになったので、あのとき一緒した一行は、それぞれの納得をして見せた。
 捜査は私たちの仕事ではないもんね、という、巻の言葉を、ねえねえ、それよりさ……と、鳥居が受けて、また怪しげな噂話を始めたが、その中で、家長カナが小首をかしげている。

「でも、リクオくんの家に迷い込んできた猫さんみたいに、他の犬や猫も、殺されたり、怪我をさせられたりしてたんでしょ?それと、そのお婆さんとの事故が関係してたりしたんじゃないのかなぁ。もし、まだそんな人がうろうろしているんだったら、何だか怖いよ」
「大丈夫だよ、カナちゃん。たしかに、そういう人もまだいるのかもしれないけど、逆に、今回のように、誰も知らなかったことを暴いて、告発しようとする人だっているんだから、悪いことばかりじゃないよ。同じ人間がしていることだったら、ボクたちにもできることはあるはずだし、もしカナちゃんがそんな目に合わされそうになったら、ボク、絶対にそいつを許さないから」

 いつになく強い言葉に、若君の幼馴染はぽっと頬を朱に染めて、心安くしている。
 雪女などは、あの夜の若君を見て知っているから、また元のように優しく微笑んで、人の幼馴染の心を優しくほどいている今の若君を見れば、あの夜にもしも己がついていかなければ、あのような静かな怒りをおぼえられている様子を、誰に見せることもなく、己の罪として咎として、一人で抱え込んでおられたのかと思うと、心配でならない。
 おさなくいとけない、可愛い可愛い若君が、いつしか雪女の腕の中からすりぬけておられる。
 若君の心の内など、いまや、月の無い夜のよう。


+++



 数日後、小物妖怪連中が繰り返し語る若君の雄姿を肴に、夕餉を片付けた大物妖怪たちが一献傾けている頃。

「リクオ様、その猫とお出かけでいらっしゃいますか?」
「おう、つらら、待ってたぜ。今日の勤めはしめぇだよな?悪いがつきあっちゃくれないかい」

 雪女が、明日の着替えや就寝時の枕元の水差しなどを持って、主の部屋をたずねてみれば、主は男君の姿に変じられて、懐にかかえた猫を撫でている。
 窓辺にありながら、いつものようにくだけた寝巻きの格好で酒を飲むでもなく、小袖に羽織まで着込んでいるから、おでかけになるまさにその時に出くわしたかと思ったら、こんなことを申しつけられた。

 腕の中で、ごろごろと喉を鳴らしているのは、あの黒猫である。昼も夜もなく、すっかり主に懐いてしまい、それは主の姿がそれこそ昼のそれだろうと夜のそれだろうと、探し当ててしきりに耳を膝下のあたりにこすりつけるまでの始末。
 目は光を取り戻すことなく、失われたままだったが、それでも何の障りもないらしい。耳と鼻とで主を探し、感じるのだろう。

 それだけならば可愛らしいだけで済むのだが、あの小物百鬼夜行以来、妖気が高まってくると、猫の姿からするりと人型に化けて、同じように主に擦り寄ったり膝に頬をこすりつけたり、しどけない。
 今だって、実を言えば腕の中にいるのは、浴衣をしどけなく着崩した猫又で、機嫌よさそうに足元から生えた二本の尻尾をゆらゆらとさせているのだ。とは言え、姿は女というより童女であり、しどけないというよりも、まだまだあどけなくて、「みっともないから、ちゃんと着物を合わせなさい。夜鷹だと思われ、狼藉者に襲われてしまいますよ」と、雪女の心配も増えるのだった。

 主は昼の御姿でも夜の御姿でも、己は己で、何も変わらぬと言い、そのためか昼と夜とで姿を変える妖怪相手にも何のこだわりもないらしいが、雪女としては、男君が年端も行かぬ娘を愛でている、などと、噂がたってはとなにやら気が気ではない。
 であるのに、猫も猫で、覚えたての人語なのだろう、「あるじ、あるじさま」と舌足らずに男君を呼ぶ様や、雪女の気配に気づくやそちらにも、ぱっと笑顔を振りまき、浴衣の胸元や裾を正してやってもにこにことしていて雪女に抱きつきたがるのが、なんとも愛らくて、雪女の叱る口調にも力がこもらない。

 この猫を抱いた主が、夜歩きの供をせよと仰せになる。
 夜の散歩をされる主が、供を求めるのは珍しいことなので、

「私、ついて参ってもよろしいのですか?」

 首を傾げると、ひょいと肩をすくめて、「来たくないのなら、無理に来なくてもいいぜ」と踵を返される。
 慌てて後を追い、今夜は蛇に乗らずにどちらに行くのかと怪訝に思っていると、あちらの辻とこちらの辻との隙間闇を飛んで、ついた先は化け猫横丁。

 闇たれこめる、酒と賭博の街は今日も今日とて妖しい霧が足元にたちこめ、ひんやりとしていて心地よい。
 大きさ違いの石畳を行きながら、両脇に並ぶ赤い窓枠の二階建ての花店と、その奥で着飾った花魁がにゅるりと首を長くしてこちらの様子を伺いにくる様、その軒先に吊られた破れ提灯が、彼等が傍を通るや弾かれたようにけたけたと笑う様、賑やかであるのにどこか妖しい闇の街に、名も無き黒猫は、目が見えずともその明るさを感じるのか、しきりに耳をぴくぴくさせて、右手は主にしがみついたまま、左手で雪女の手をそっと握った。

「拾ったときに居合わせた縁だ、見送りの時くらい、握らせてやんな」
「見送り、でございますか」
「ああ」
「もしや若、こ、この子を、花町へ置かれるので?わ、若!それはいくらなんでもいけません、若のされることと言えど、それだけは私、応じられません!」

 幼い猫又を主から引き離し、腕の中に隠す雪女に、ぷっと吹き出し、主はお笑いになる。

「猫又になりたての女怪を、あんな店に預ける鬼畜外道にお前は仕えてるつもりなのか?だったらやめとけ、そんな主は早々に見限ってやんな。
 ……良太猫に話を通した。化猫組で預かってくれるそうだ。盲でも、三味線奏者やら按摩師やら針師やら、仕事を覚えりゃ妖として生きていくには事足りるからと、快く引き受けてくれたよ。何かあったときの身元引受人にゃ、オレがなるつもりだ。父親代わりってやつだな」
「……ご自分の元服もお済みでないのに、父親を名乗るのですか」
「文句あるか」
「いいえ、ございません。可愛らしい父子だと、思ったまででございますとも。ホホホホホ」

 他愛もないことを話しながらの道行き、雪女がころころと笑えば、男君もふと微笑まれ、二人の様子に嬉しそうに猫も目をつむったままの笑顔をほころばせる。
 童女姿の猫に、雪女はもうすっかり情を移してしまっていたので、今夜別れるなどとは聞かされていなかったこともあり、少し恨めしそうに男君にお伺いした。

「リクオ様、その、この子、このまま本家においてはいけませんでしょうか?」
「ならねぇ。猫は武闘派じゃねぇし、妖怪になりたての猫の世話なんざ、お前、できんのか?」
「……したことは、ありませんが。でも、人の子のお世話だって、リクオ様をお育て申し上げるまでは、したことなどありませんでしたよ」
「オレのときは、お袋やじじい、それに、親父もいたろう。化け猫の世話なんざ、したことがある奴は本家に一人もいねぇんだ、こいつにとっても不幸にしかならねぇ」
「でも……こんなに可愛いし、よくなついてくれているのに」
「お前の悪い癖だぞ、雪女」
「雪女の性なんですから、仕方ないじゃありませんか」
「その性とやらに、振り回される方の身にもなれ」

 この言葉はほんの少しばかり、鋭利に過ぎて、男君も言ってしまってから己の口元をつとおさえられたが、言葉を重ねられる様子は全く見られず、あとは前だけ見て歩みを進められる。
 童女猫が二人の様子に心配そうに、二人の手をそれぞれ小さく引いたので、「どうかしたか」「どうしたの」と、二人一緒にそちらを向いて、同じことを言ったので、けたけたと童女猫が笑い、二人おやと顔を見合わせ、視線で微笑み合った。
 あとは二人、何も言わず、化猫屋の鴨居をくぐった。

 座敷に通されると、良太猫が出てきて、男君はこれと二言三言交わされる。
 童女猫も、男君によく言い聞かされていたのだろう、恩人でもある主と離れるのを、寂しそうにしているが、嫌がる様子はなく、しゃんと背筋を伸ばして座している。

「それで、お前はなんていう名なんだい」

 童女猫と呼ぶのもおさまりが悪い、今まで主にすら名を明かしていなかったのも不思議なことだ、良太猫はちゃんと名を明かしてご挨拶なさいとうながすのだが、童女猫はしばし思案の後、

「あぅじさまに、つけてもらいとう、ございぁす」

 舌たらずに名をねだる。
 自分は猫の分際で、人を呪った身、殺してこそいないが、これはあの少年が、自分を殺さず生かしておいたための神仏の報いが降りたのであり、自分が祟ったことに違いはない。
 だとすればすでに、ただの猫のように、天寿をまっとうしてあの老婆と同じところへ逝くことはできまい、なればこそ、あの老婆につけられた名だけは、老婆とともに葬ってしまいたいのだと、幼い顔立ちで言う様に、雪女は琥珀の瞳を潤ませた。
 そうだな、と、これには男君も腕を組まれ、

「 ――― では、一路猫と名乗れ」

 と、応じられた。

「真実一路がお前の由来。あの兄さんの、化けの皮を剥がしたのはお前だ、その名を持つに相応しいだろう。闇に棲む者にとって、真実は光に似て畏れられる。しっかり励んで、畏れられる化け猫になんな」
「あい」

 長居しすぎても里心がつくだろうから、男君は雪女を連れ、早々に座敷を辞したが、お見送りに、良太猫と童女猫あらため一路猫は、化猫屋を出たところまでついてきて、ぺこりとお辞儀した。

「おせぁになりぁした、あぅじさま、おくさま」

 しっかりと挨拶を決めたつもりだが、らしくもなくこれに男君は空を仰いで大笑いされ、雪女は己の冷気でそのまま彫像となってしまったかのようにかたまった。
 キョトンとして主のほうへ瞑ったままの目をむける、一路猫のおかっぱ頭を、笑いをおさめた男君が優しく撫でられる。

「おう、困ったことがあったり、虐められたりしたら、いつでも来な。オレがお前の身元引受人だ、親父と思って頼ってくれていい。休みをもらったら、遊びにきてやってくれ、女房がすっかりお前を気に入ってるんでな」
「なッ ――― 若ッッ!!」
「あいっ、うれしゅうごぁいます、ありぁとうごぁいまう」
「じゃあな ――― 良太猫、頼むぜ」
「へい、お預かりしやす」
「いい、一路猫。歩幅で廊下の長さをはかるにしても、猫のときと、人に化けたときと歩幅が違うのだから、最初は戸惑うだろうけど ――― あっ、若、待ってください ――― いいわね、がんばるのよ、会いにくるからね!」

 肝心のところの説明がまだのうち、男君は手を振って、化猫屋を後にした。

「もう、若!笑っておすませになるところではありません、あそこはきちんと……」
「いいじゃねぇか、別に。ガキの言うことに、いちいち目くじらたてるなよ」
「まだ元服前の大事な御身でございますよ、妙な噂がたったらどうされるのです……あ、また煙管など持ち出されて!」
「口うるせぇなあ、お前は。ったく、奴良組はとんだかかあ天下だ」
「もう……お昼間の若君は、あんなにお可愛らしく言うことを聞いてくださるのに」
「また、『どうしてこう夜の男君は素直じゃないのか』かい?」
「いいえ、逆です。どうして夜になると、こうも素直に、悪戯者なご自分をさらけ出してしまわれるのでしょう。かと言って、肝心なところはお見せにならない。若の胸中を察せぬ守役と思えば、私、恥ずかしくて恥ずかしくて」
「仕方ないだろう、それはお前、」

 にやり、と男君は一人前に煙管をくわえ、

「ぬらりひょんの、性ってやつだ」

 こっちだって雪女の性とやらに振り回されてるんだ、せいぜいお前を振り回してやるよと、雪女にはてんで心当たりのないことで、お笑いになられるのであった。


+++



 ――― 思案顔で、顛末の詳細に耳を傾けていらした総大将の御前、雪女は最後に、これと思ったところを申し上げた。

「人の心を手に取るようにご存知でいらして、かかる絡んだ綾をとき解くようなことを簡単に遂げてしまわれ、ほんの少しの悪戯で、人にあのようにおそれをいだかせてしまう、鮮やかさにございました。と言っても、小物妖怪たちが人の夢の中で祭りをした程度でございますので、悪い夢を見たぐらいにしか思われず、人と妖怪の境界線が揺らぐこともありますまい。
 あの様子では、どんな人が抱える嘘偽りも、若君の前では意味をなさないのでしょう。日頃は、騙されたふりをし、安心させ、柳のように受け流されておられるのでありましょう。逆に、リクオ様がひとたび、そう成そう、させよう、と思われれば、的となった者は、吹き込まれた言葉を我が意思と思いこみ、若君の意のままに働いてしまうものと存じます。
 これを罪と呼ぶ者があったとしても、一度決められた御意思を、罪ごと抱え込んでしまう強さも、心にお持ちです。弱き者相手であったとしても、そやつが義にもとる輩であれば、手加減なく制裁を加えておいででございました。
 私が、おそろしいと思いましたのは ――― ただただいとけない、愛らしい若君とばかり思っておりましたのに、いつの間に、心のうちを覗くようになったのか……何故その御力を、いとけない器にお隠しになられるのかと、不思議にも思うゆえでございます」
「妖怪のことは妖怪の領分、人間のことは人間の領分、ね。リクオの奴、人間の領分でも幅をきかせるようになるたぁ、頼もしいことじゃねぇか」
「……やはり、瑣末なことでございました。お時間をとらせまして、申し訳ございません」
「いやなに、よく知らせてくれた。おかげで面白いことを知ったよ。孫の成長を知るのは、嬉しいもんだが、確かにそりゃあ、『素直』とは言えねぇかもしれねぇな。お前にも世話をかけるのう、雪女」
「恐縮に存じます」
「お前が《畏れ》を感じるのも無理はねぇ、妖怪は闇には強いが、光にゃ滅法弱いと相場が決まってらぁ。リクオのそれは、人の心の中に生じた闇を読み取る、言わば生きる術よ。最初っから真っ暗な妖怪の心ん中には、決して生まれない汚いモンを、あいつはあの年で、読み解いてしまうんだろうなぁ……これも人と妖怪の血のゆえか。
 人間が、それも、乱れた世にはびこる人間がおそろしいのはよ、お天道さんの光を受けて、これが当たらぬ陰のところへ、闇より暗く黒いもんを、溜め込むことがあるからさ。リクオが使ったのは、これに光をぱあっと当てて、炙り出すようなもんだ。闇夜に生まれ闇夜に棲む、妖怪のお前が《畏れ》るのは当然だ。
 そうさな、ただの人間にできる芸当じゃ、ねえな。
 だが、ただの妖怪には……ワシにゃ、逆立ちしてもできはしねえや。人間を否定する奴にも、妖怪を否定する奴にも、できはしねえ。こちとら、そんなまどろっこしいことするよりも、斬ったはったをする方が簡単にカタがつく世界に長いこと生きてきたんだから、今更心のうちを読めと言われても、できはしねぇんだ。
 ふむ……しかし、さて、どうしたもんかな。今まで妖怪の守役しかつけておらなんだから気づかなかったが、こうなってくると、雪女、夜はともかく昼のリクオの側にいるのは、ちいとばかしおそろしいと思ってるんじゃねぇのかい?そうとは気づかず傍に置いておくなんざ、今まで可哀相なことを続けてきちまったが……」
「いいえ!いいえ、滅相もございません!陰の気から陽の気へ、衣を替えられたとて、リクオ様はリクオ様に違いなく、終の主と定めた方。このような申し出は差し出がましいと存じ上げてはおりますが、どうか、どうか、後生でございます、御側勤めを続けとうございます」

 総大将は呵呵大笑。懐から煙管を取り出し、ふうと一服するや、これも娘を見るような目を雪女に向けられる。

「なるほどなるほど、『衣を替えられたとて』とは、よく言ったもんだ。闇夜に烏、雪に鷺、どちらも鳥にゃあ違いねぇ。夜の姿でも昼の姿でも、どちらもリクオには違いねぇさな。そこにすうっと溶け込むように、纏う羽をせわしなく変える、とんだ極楽鳥もいたもんだが、それじゃあ雪女よ、今後も、あいつを頼めるかい」
「 ――― はい!うれしゅうございます!心の底から、お仕えさせていただきます!」
「おう、頼むよ。もしも、あれがおめぇに無体なことを言うようだったら、はったおしてやるから言いにきな。おめぇのことは、実の娘のようにも、孫のようにも思ってるんだからよ」

 嬉しそうに、はい、と返事する雪女を、これが母親によく似て美しく、性根もまた凍った湖のように透き通って美しいので、機嫌もよくこれを見送り、後には、総大将と、脇に控えながらこれまで一言も口を挟まなかった牛鬼とが残された。

「そうかいそうかい、衣替えねぇ。どうだい牛鬼、おめぇがその賢い頭で、牛の歩みのように長く思案した答えを、あの娘はすぱんと一言で言い切りやがったぜ」
「ふふ……面目次第もございませんな」
「ふん ――― お前も、騙りだねぇ」


+++



 小物たちの間では、若君出入りと持て囃されるこの騒ぎとて、大物たちにとっては悪戯程度。つまりは今日も奴良組一家は、ぬるく気だるい闇の胎に抱かれて、とろりとした浮世を思い思いに楽しんでいる。
 この中にあって雪女は、他ならぬ総大将に、己が抱く《畏れ》の正体を解き明かしていただき、すっきりとした心もち。若君の御側でお役にたとうと心機一転、袖をまくり、長い黒髪を簪でくるりとあげて、台所へと向かう。

 廊下をゆく雪女の後姿を、しだれ桜の枝から眺めていた男君は、ついと塀の外、街の光の方へと目をうつした。明るく輝くネオン街。人が造った偽りの光の中に、今は銀に染まった前髪の奥から目をこらし ――― ああ、いるなぁ ――― お思いになる。
 ここ数年、明るくなった夜に増えたそれが、我が物顔で街に在る。べったりと、人の背中にくっついて、ぎょろりぎょろりと大きな目玉で、いつもは他人の顔色ばかりうかがっているくせに、ひょっとした拍子に膨れ上がり、憑いた人間を押しつぶす。

「増えたよなぁ、《通り魔》。 ――― お、こっちにも。 ――― そっちにもか。人の念ごときが、幅ぁきかせやがる。そのうち、こっちの姿でも、出入りが必要になるかもしれねぇな」

 偽りの灯が明か明かと、燃ゆれば燃ゆるほど、影もまた、色を濃し匂うほどになればこそ。

<了>











...闇夜に烏 雪に鷺...
陰に対しては闇色の衣でもってたのもしくおそろしく、陽に対しては白い衣でいとけなくおやさしく。なのになぜ、あなたはあなたのままでおられるのか。