不意に吸い込んだ、においの不味さに顔をしかめた。

 嗅ぎなれぬ香であった。
 白檀とも伽羅とも違う。

 夢も見ずにいた眠りから覚めかけているはずが、目覚めた先こそが夢の岸であるかのような、ふわふわとした頼りなさ。加えて、上と下の瞼が、糊ではりついてでもいるように、目を開けるのがやけに億劫であった。
 力を込めてどうにか瞼を持ち上げてみれば、目の前の景色がぐらぐら揺れる。
 目が覚めてすぐだったので、目の前がぼやけているのだろうかと怪しく思うが、どうやら違う。
 目の前に映った天井は、二重にも三重にも歪んだ。

 ――― 暗い。

 感じたのは、天井の向こう側がやけに明るい分、己が身を横たえた場所の暗がりが、圧し掛かってくるように重く感じたからだった。そう、天井なのに、その向こう側が、見えた。

 いや。

 魚が空を飛んでいる。ふわふわと、小さな金魚が空を泳いでいた。

 目を凝らして見つめてみると、天窓には硝子が張られていて、二重になった窓の間が水槽になっているらしい。空を泳ぐ金魚を閉じ込めた小さな天窓と、ここに張られた水に遮られた陽の光が、もどかしそうに弱い光を投げかけてくる。ふわふわと泳ぐ金魚が三匹、視線の先でぼやけて、にじんで、重なって、ようやく、一匹として目がとらえた。

 これだけで息が切れた。
 やけに喉が渇く。熱い。体中が燃えるようだ。
 一度渇きを思い出せば、滲むように渇きは広がり、空気を求めて大きく吸った息は、例の慣れない香をたっぷりと胸に吸い込んで、これが乾いた胸をじりじりと焼き付ける種火になった。

 折角、合わせた焦点が、ぼやける。
 ふわりと、一匹の金魚の姿がずれて、二匹に、三匹に ――― はあと熱い吐息を漏らして、再び目を閉じた。
 熱のせいか、全ての気配も音もやけに遠くて、すたんと乾いた音がするまで、締め切られていた障子にも、その向こうの廊下から誰かが近づいてきていた気配にも、まるで気がつかなかった。その上、気配の主が誰なのかも、判じられない。普段なら、足音や障子にかけた指先の所作などで、屋敷の誰なのかわかるはずなのに。
 再び、ぼんやりとした目を虚ろに開けて、リクオは大儀そうに顔を傾け、目の前の足袋の主が誰なのか、推し量ろうとしたのだが。

「 ――― ほほう、妖力が失われたら、赤瑪瑙が琥珀になりましたか。いや、それもまた、なかなか」

 下衆な猫なで声が、ねっとりと鼓膜に絡んできて、リクオは眉を寄せた。
 素早く身を起こそうとして、頭の芯が途端に、力任せに鷲掴みされたように痛む。
 鐘の中にすっぽり包まれてしまったような、ぐわんぐわんという音が鼓膜を揺るがし、吐き気がした。

 全ての感覚が鈍っていて、声を聞いても、どこかで聞いたような声であることぐらいしか、しかも良くない場面で聞いた声であることぐらいしかわからず、それよりも、こみ上げてくるものの方が辛くて、ごろりと身体を横たえてうずくまる。
 布団をきつく握り締める手さえ、己のものでは無いような気がした。
 感覚が遠く鈍く、だからいつしか背を撫でられていても、それでようやく落ち着いて、仰向けになり、誰かの腕に体重を預けて、口元に湯飲みを押し付けられたときも、嫌な予感はしたのだが、それより先に唇を湿らせた水の方が魅力的で、喉を鳴らして水を欲した。

「そうそう、良い子だ良い子だ。……なに、すぐによくなる」

 言われてようやく、嫌な予感が舌の上で、はっきりと悪意と感じ取れた。
 最後の一口までごくりとやろうとしたところで、吐きだし、己の肩を抱く手を払いのけ、力が入らない四肢を無理矢理叱咤して、這うように男から逃れた。

 障子を背に、逆光になった男の姿は、まさしくあの恵比寿。

 この男を見た番の記憶は、化生する間もなく闇全体に絡め取られてしまったところでふつりと途切れていたが、何も考えたくないと痛む頭ですら、囚われの身になったことははっきりわかった。
 側に居たはずの鯉伴は ――― それに、鯉伴が助けた一ツ目小僧は、どうなった。
 男から目を離さないようにしながら、ちらりと部屋を見てみれば、狭い部屋には己が横たわっていた布団と、枕元の香炉と、天窓と、男が入ってきた、紅い格子の障子があるばかり。

 逃げられたならいい。
 そうでなければ、一体、どこへ。

「ここは、どこですか。連れは、どこに」

 用心深く、出した声はかすれていた。
 ほんの少し声を出しただけで、言葉の残りかすが喉にはりつき、咳き込む。

「そのように、怖い声を出して気張るものではないよ。ずいぶん吸っていたんだ、力も上手く入らないだろうに」
「何を、吸わせたって……?」
「阿芙蓉という、貴重な香さ ――― ここへ来る子には、振舞うことになっている」
「ご大層なお薬を、お持ちでいらっしゃる。あんな寂れた河岸に出入りするような商人さんには、いよいよ思えない。見せた陰陽術と言い、幕府のお膝元で葵野原に背くような話をしている事と言い……貴方は朝廷側のおひとのようだが、それがどうして、人買いなどと共謀しているんだ」
「人だけではない、同じ場所に棲んでいた妖怪たちも集めて、ここへ集めて選別している。人も妖も、数あれば数あるほど良い働き手になってくれるから、いくら集めても足りるということがない。徳川を引き摺り下ろそうと言うのだ、それ相応の人数も必要だろう」
「……《わいら》とやらも、貴方が用意しているのか」
「あれは良い道具だ。簡単に言うことをきいてくれる」

 やはり、猫なで声のまま、顔はにっこりと笑みを作ったまま。
 いとも簡単に正体を明かした恵比寿に、不自然は無かった。
 自信があるのだ。
 リクオを逃さない自信が。

 懐を探ってみたが、やはり匕首は取り上げられていた。

「連れは」

 香は、部屋に淀み、たゆたっている。視界が揺れた。

 できるだけ弱った声で、すがるように男を見てやろうと試したが、リクオがこれを努力する必要は無かった。布団の脇でただ待っているだけで良い男に比べ、時が経てば経つほど、香はリクオを蝕み、飲まされた白湯に混じっていた、よからぬ薬が胸のあたりで暴れ始める。

 案の定、男は頃合と思ったらしく、童子の身体を抱き寄せて、人形にするように膝に抱き、水干袴の裾から覗く細い足首や、寝乱れて開いた薄い胸元をしきりに愛でて、ついでのように教えてくれた。

「連れとは、あの半妖と一ツ目のことかね。心配ない、後で会わせてあげるよ。後でね」
「 ――― ここに居るんだね。それだけ聞けりゃあ、充分だ。自分で探すよ」

 甘んじて受けていた気色の悪い手を、リクオはあらぬ方向へ捻り上げた。
 軽く、とは行かない。
 顔を歪めるぐらいの力が必要だったが、恵比寿の方はすっかり仔猫を愛でる気分であったらしいので、これは思わぬ抵抗だった。ただの小物妖怪と思ったならばさもあらんが、彼にとって不幸なことに、リクオの方は己が小物である自覚など、全くない。妖力を扱えぬ人のような昼姿でも、あるいは全く人間と同じような生き物になってしまったとしても、リクオがリクオである限り、こんな男に怯えてやる気にはならなかったろう。
 さらには、このまま悪趣味の餌食になる気など、さらさら無かった。
 リクオはそれまで彼が手懐けてきたような、妖力を封じられれば牙をもがれたように大人しくなる、見目美しいばかりの童子等とは、あきらかに違う生き物だったのだ。

 ぽきりと軽く折られた手首に、一拍遅れてぎゃあと汚い悲鳴が響いた。


+++


 茶屋街に新入りが入ってくれば、泣き声なり悲鳴なり、何かしらその部屋の周囲が騒がしくなるのは当然だった。
 ここでの茶屋というのはもちろん、峠で老いた爺や婆が通りかかる旅人目当てにただ茶や団子を饗するだけの、長閑で牧歌的な万葉の風景を連想させるものではない。食欲になぞらえて、もっと即物的な肉欲と官能を満たすための場所だ。本来そうした場所は、人の往来が望める街道沿いに、用意するでもなく集まるものだが、中山道を少し北に外れた、この山間の歓楽街は、ささやかな集落として終わるはずだった場所へ、何者かが客を呼び込んで作り上げた、いびつな街だった。

 持て成しの道具として用意されているのは何も、人間だけではない。僅かな妖気さえ封じられ、色以外の見目は人と変わらなくなった妖怪すら酒肴とともに饗された。さらに言えば、花盛りの女ばかりでなく、まだ胸も膨らんでいない年頃の少女、あるいは少女と見まごう童子すらも。
 様々な事情の果てに集められた哀れな慰み者たちと、これを求めて集った遊客たちの、酒と色の祭りは毎夜のごとく開かれ、夜明け頃にようやく静まる。
 真昼であれば、茶屋の賄いや掃除などの仕事をする者以外は、客も客の相手をしていた者たちも、だいたいが疲れきって眠っている。まだ座敷に出ない仕込中の者たちや、座敷に出るには出るが自分の部屋を与えられていない位の低い者たちが押し込まれている奥も、これは同じ。

 奥を寝床にする誰も彼も、新顔が入ったとは耳にしていたし、それが童子であるらしいというのも昨夜のうちには噂になっていたので、顔だけは有難そうなくせしてとんだ稚児趣味の性悪陰陽師の手にかかった童子の、すすり泣きや悲鳴や助けを求める声などが、戸惑ったような嬌声に変じるまで昼となく夜となく、少し騒がしくなるのだろうと諦めていた。
 しかし、響いた声があんまり野太い男のものであったので、耳にした者たちは怪訝に思う。
 今回の童子はまたずいぶんと野太い声をあげるものだ、あの男、あるいは宗旨替えでもしたのだろうか、などと寝床で思っていると、次にははっきり、ひいひいと泣き喚き助けを求める声が、

「誰かある!誰か!」

 と、こちらを呼んだ。
 耳に届いたものをにわかには信じられず、大部屋の童子や童女たちは、煎餅布団を分け合っていた相手や雑魚寝で隣り合った相手と、目を合わせて首を傾げた。

 そのうち、一人、また一人、気だるそうに布団から立ち上がり、ともかく様子を見てみようと、中庭に面した襖を開け、一階に居る者はひょこりと顔を出して奥の方を見つめたり、中には好奇心のままに部屋から出て近くまで寄ってみたり。
 二階の者たちは、部屋から出て、唐模様のすかしが彫られた欄干から、しどけない格好のまま身を乗り出してみたり。

 彼等が見守る中、情けない男の悲鳴は尚も続き、部屋の中でくぐもっていたのがやがて、皆の視線が集った部屋の襖が内側から横倒しにされるや、悲鳴の主が四足の獣のように這いずった、声に相応しい情けない姿で廊下へ出てきたので、見ていた者は目を見開く。

 悲鳴の主は、怪我を負っていた。
 利き手の指は、それぞれが別々の方向へ折られ、今も床についているのは手の平だけだ。
 もう片方の手では、目元を庇って覆っていたが、指の隙間からどくどくと、鮮血が次々溢れてくる。

 見ている方は呆気に取られるばかりだったが、視線の中、彼が尚も這いずって、段差に気づかず庭に転がり落ちると、茶屋に慣れた年長の少女が二三人、声を上げて笑い出した。
 情けない姿を晒しているのは、他ならぬ、皆が煮え湯を飲まされた、あの性悪陰陽師であったのだから、助けるどころか、ここぞとばかり笑い声は瞬く間に広がった。
 普段なら、「笑うな」と神経質な叫びでこれを制しただろう陰陽師くずれ、今はそんなことに構っていられず、目元から流れる鮮血を手で拭っては、「目がつぶれた、指がもがれた」などとすすり泣き、尚も這い続けた。

「なんだ、瞼の薄皮一枚切ってやっただけなのに、情けない。片腕が使い物にならなくても戦おうとする女陰陽師を、ボクは知っていますよ。……どこで知ったのかは忘れたけど」

 逆に、これを追うようにして、薬のために足元が覚束ないながら、男の懐から奪った短刀を片手に姿を現した童子には、

「あんた、よくやった」
「優しい顔してやるねェ」

 等など、賞賛の言葉と口笛の嵐。
 ――― 童子とはもちろん、リクオのことだ。

 短刀は鮮血で濡れているのに、纏う着物にも手にも、返り血一つ浴びていない。
 香と薬のために顔色は青ざめていたが、自身が鋭利な刃物であるかのように引き締めた横顔が、陽の光を浴びて眩しそうに少し嬉しそうに目を細めた様などは、庭を這って逃げ回る男などと比べて、実に清らな美しさがある。
 武器を持っているというのにまるで殺気を感じさせないから、すぐ傍の部屋から出てきた、幼い童女姿の座敷童などは逃げるのも忘れて横顔に見入ってしまった。
 リクオが視線に気づいて、気分が悪いことなど感じさせずに、にっこりと笑むと、不思議そうな顔だったのが安心したように笑み返す。互いに知り合い敵意がないことを信じあうのに、時間も言葉も、そして妖力も不要であると、リクオはよく知っていた。

「こんにちは。ちょっとお訊ねするけど、この屋敷に入れられなかった妖怪や半妖というのが住む場所というのは、ここから遠いのかな」

 浮世絵町から浚われてきた三人の内、二人が屋敷の外に居るというのは、既にあの陰陽師くずれから聞き出していたリクオである。
 なかなかしぶとかったので、指の数だけしか質問ができなかった。

「……わかんない。ここから出たこと、ないから。でも、会いに来てくれるお友達は、気軽に夕飯前で時間があいたからって、歩いて来てくれる」
「お友達って、人間?妖怪?」
「妖怪」
「うーん、そうか、今のボクなら少しかかるかな。ねえ、確認するけど、ここって、遊郭とか、そういう場所?」
「茶屋よ。……することは、同じ」
「……なんでボクだけこっちなんだ。解せねぇ」
「え?」
「いや、こっちの話。ところで、出入り口はどこかな。できれば、目立たない勝手口が望ましいんだけど、知ってる?」
「そっちよ。でも、鍵がかかってるし、塀は高いから妖力を封じられてる身では辛いし、逃げても追っ手がかかって、痛い目に……」
「そうなる前に逃げるよ。君も来るかい」

 やんわり笑いかけられて、座敷童はあからさまに迷った。
 妖力を封じられていようとも、人や妖に、このひとと一緒にいたいと思わせるリクオの魅力には、瞳の光の強さと同じで、少しの翳りも見られなかった。

 けれど、彼女がうんと頷くよりも、庭をはいずっていた陰陽師が、痛みに音を上げて助けを求めるのが先だった。

「煙々羅!煙々羅よ、おらぬか、おらぬか!」

 これを聞いて、それまで笑ったり野次を飛ばしていた少女たちも、そしてリクオの傍に居た座敷童も、嘘のように口を噤んで顔を青くした。かと思うと、次々に元居た部屋に逃げ込み始めたのである。

「おらぬか、煙々羅、ここに来い、ここに来い!」
「 ――― うるせェなあ、そう煩く呼ぶんじゃねェや、頭が痛くてしかたねぇ」

 間もなく、庭の隅にたどり着いた陰陽師の傍に、白い煙があがった。
 この中から姿を現したのは、燃えるように赤い髪を、激しく燃え立つ炎のように逆立て、煙をそのまま羽衣のように身体にまとわせた、細身ながらしっかりした体躯の青年である。下肢だけを紅の道着に包み、上半身は煙だけを纏わせているのだが、時折透けて見える胸板や肩はがっしりとしており、引き絞った鋼のようである。
 彼は、額を締め付ける金冠のあたりを親指で揉みながら、極めて不本意そうに、己を呼んだ男を見下ろした。

「なんだお前、その格好。ぶははははッ、無様だな、いい気味だ、実にいい気味だ」
「ええい、煩い!とっとと、アレを痛めつけろ!」
「ん、アレ?」

 釣り目がかった、魚のように瞼の無い二つの目が、そこでようやくリクオを見た。

「何だ、人間のガキじゃねえか。まさかと思うが古部の旦那よ、その傷、あのガキにやられたんじゃあるまいな」
「いいから、さっさとやらぬか!……目が、目が見えぬ、くそぅ、くそぅ」
「どれ。おいおい、薄皮一枚、切られただけじゃねぇか。つぶれても何でもねぇよ。にしても、へぇ、これをあのガキがねぇ ――― 上手いもんだ」

 白ごまの髪を、乱暴に頭巾ごと鷲掴み見定めて、傷よりも傷をつけたリクオに興味を持ったらしい。
 すすり泣く男など、もう見向きもせずに、煙々羅は舞台役者のように気取った足取りで、廊下からひょいと中庭に降りた。品定めをするようにリクオを、その手に握った抜き身の短刀を見て、にやり、歯を見せて笑った。
 片方の八重歯が思わせるのは、むき出しの獣の犬歯。

「そんじゃあ、まァ、主さまの御命令もあることだ、せいぜい楽しませてもらいましょうかねぇ。小手調べで音を上げてくれるなよ?」

 手にしたのはお手玉二つ。
 興行前の軽業師がするような、浮き立つ足取り、軽々と放り投げられたお手玉二つ、いや三つ四つ五つ。赤い端切れのお手玉ではない、手の平から取り出した火の玉だ。赤く燃え立つ火の玉が、軽く放り投げられて一つ。
 これはリクオの足元に投げられた。
 ひょいと後ろに飛びのいてかわす。火の玉は今の今までリクオが立っていた場所を違わず射抜き、鏡面のごとく磨かれた廊下に小さな火柱が上がった。

 続いて二つ目。これは脇に飛びのいた。ひらり。
 飛びのいたところへ三つ目が来た ――― 廊下に手をつき転がりかわす。
 火柱が次々立ち上り、リクオを追う。

 煙々羅は的当てにはしゃぎながら、次々と火の玉を増やしてぶつけて来た。

「おらおら、逃げてばかりじゃ勝負はつかんぜ、その短刀でやってみろ。俺様に同じ様に向かって来てみろよ、ほら、こい、こいったら、楽しませてくれ!」
「 ――― やめてくれ、ボクはここから出たいだけだ。無意味な争い事は好きじゃない」
「無意味な争い事だァ?はッ、お高くとまりやがって、どこの若様だてめェは。争い事結構、どっちが強いか決める、それ以上に戦う理由なんて必要かよ?てめェにその気がなくっても、俺様にやめてやる義理はねぇッ」
「貴方も妖怪なら、何故、そんな人間の言うことを聞く?」
「言うな、忌々しいッ、消し炭にするぞ!」
「不本意なら、しなきゃいいのに」
「事情ってモンがあるんだよ、新入りが偉そうに吹いてんじゃねェ。てめぇみてえなのは、せいぜい古部の機嫌の取り方だの、ご奉仕の仕方だのを覚えてりゃあいいものを、妙な抵抗なんざしやがるから、俺様が出張る羽目になっちまったんじゃねーか。ったくよぉ、今日は手下どもを集めて酒盛りだったってのに」
「人のためになることは嫌いじゃないけど、無茶や無理の類まで許すつもりはないよ」

 言葉を交わす間も、次々火の玉は飛んでくる。
 柱の影に隠れてやりすごし、あるいは庭の置石の影に隠れたり跳躍したり、リクオが蝶のようにひらりひらりと交わすので、煙々羅もやがてむきになって数珠のように連なる火の玉を繰り出したりする。
 火柱はせいぜい廊下や柱を焦がす程度だが、それでもあたれば熱そうだ。
 的に当てるのが本意なので、建物に気を使う様子もまるで無い。

 いつもならば、昼姿であっても二階の欄干に飛び移るくらいはできるが、今は薬のせいでぐらぐらと足元も覚束ず、立っているだけで胸が跳ねるのだ、リクオの息は既にあがっていた。
 これを見て、煙々羅は喜ぶどころか、逆に不機嫌そうに顔を歪める。

「なんだ、こんな小手先の業でもう息をあげちまってんのか?お前、俺様にまだ一太刀も浴びせに来てねぇじゃねえか。俺様はこんなお手玉じゃ疲れたりしねぇぞ、逃げたいんなら、向かって来てみろ、来てみろったら。全然楽しくねえだろ、これじゃあ!こん畜生!」

 燻るような威力の弱い火の玉だが、誰より己の炎に苛立っているのは、繰り出す煙々羅らしい。
 数珠繋ぎの火の玉を、今度は鎖のように繋いで、鞭のようにリクオ目掛けて放った。
 ――― バシッ。
 音がして、床を跳ねた炎の鞭、一度は跳ね上がり天井を掻いたが、無軌道な穂先が僅かにリクオの頬をかすった。とっさに後ろに飛びのいて、首を締め上げられるのを避けたが、どたりと背中から転んで、物置に使っていた部屋の戸を打ち破る。
 爪あとのように小さな火傷が、柔らかな頬に一つ、走った。

 しかし、のんびりはしていられない。
 鞭は尚も暴れまわり、煙々羅がぐるんと己の頭の上で振り回すや、一階の柱と言い襖や障子と言い、全て横に撫でられて、華奢な作りの細い柱などは折れてしまった。
 部屋の中に隠れていた皆が、破れた障子や襖の残骸を被って、悲鳴を上げる。
 中には、泣き出す童子や童女の声も混じっていた。

 破れた戸を背にしていたリクオもまた、襲い掛かる炎の鞭を避けられず、致し方なく腕の一本を突き出して、穂先を絡ませる。

 意志ある蛇のように、ぐるりとリクオの片腕を絡めた炎の鞭で、煙々羅とリクオ、繋がった。

 にやりと、煙々羅が凶悪に笑む。
 赤く燃え立つ炎のような髪に、いくつも火の粉を浮かばせて、己の身体に幾条もの白い煙を纏わせて、自身が炎になったように、興奮した面持ちであった。

「へっへっへ、つーかまーえたァ。もう逃げらんねぇぜ、新入りィ」

 対するリクオは、己の腕を絡めた燃える鞭を、表情一つ変えずにぐいと握り締めた。
 氷のように冷静な面持ちに、しかし琥珀の双眸の中には、青く燃え立つ炎が確かにあった。

「 ――― 周りを巻き込むのは、やめろ」
「逃げてばっかりのくせに、一人前に任侠気取りか?へへへ、どうだ、俺様の鞭は熱いだろうが。その火傷はもう二度と消えねぇ。夜毎痛んで、お前を苦しめるのよ。蛇の螺旋を描いた火傷が、しくしく、しくしく、お前と一緒に泣いてくれるぜ。傷が無けりゃ、高く売れていい想いもできたろうに、全く馬鹿な真似をしたもんだなァ、え?」

 煙々羅が引っ張る。リクオが床から浮きそうな両足を踏ん張る。
 じゅう、と、水干の袖を絡めていた鞭がさらに熱を上げて、片袖が煙を上げ始めた。

 これを、リクオに声をかけられた、あの座敷童が見ていて、我が事のようにびくりと小さく肩を震わせた。
 どうしても部屋に戻るに戻りきれず、顔だけを部屋から出して見つめていたのだ。
 助けに走ろうか、どうしようか、裸足の足を出しては引っ込め、出しては引っ込めしていたところへ。

「出てハ、いかん。中へ入っていナさい」

 大きな影がぬっと目の前を遮り、座敷童のおかっぱ頭を、大きな手が優しく撫でた。
 ぱっと、座敷童は顔を上げ、己の前を遮った影を見上げて、ほっとした顔を見せた。

 座敷童の頭を撫でたのは、がっしりした顎とそれを覆う白い髭、顔の大きさとは不釣合いに小さく愛らしい紺碧の目が目立つ、巨漢だった。立派な体躯を袴姿に押さえ込み、刀を腰に差している様は、武士のようにも見えたが、天井まで届こうかという巨躯と異相、さらに腰に差したのも日ノ本の国にはあまり見られぬ湾曲刀であり、一目で只人ではないとわかる。
 もちろん、これも妖怪であった。

「 ――― 伊佐様!よかった、お願い、あの子を助けてやってください」
「フむ、そうダなァ、助けルの、ヴァタシは構わンが、ヴァイツが、嫌ガるのではナいかな」
「ううん、そんなことない、そんなことないよ。あの子、乱暴な人じゃないもの。私、さっき優しい言葉をかけてもらったの、何かしてあげたいんです」
「座敷童サン、ヴァナタが助ケてと言ってイるのは、煙々羅のコトでは、無いノか?」
「 ――― え?」
「ナら、心配はいらないヨ。あの子供は、もウ気がつイている。ミトラと同ジ髪の色をして、同じ眼ヲ持ってイる。ミトラの、全てヲ見透かす《眼力》からハ、何人たりトも逃れラれない」
「それって、あの子の《畏》の方が、煙々羅より強いってことですか?まるで妖力を感じないくらい、弱ってるのに」
「強いかどうカと言うより、相性ガ悪い。煙々羅の奴、可哀相ニ」

 二人の視線の先で、リクオは己の腕に炎の鞭を巻きつかせながら、何かを探すようにあちらこちらを見ている。
 折れた柱、破れた障子を視線で撫でつつ、対峙する煙々羅に腕を引っ張り上げられぬよう時折己も引っ張りながら。

 じり、じり、二人の足跡が庭に円を描いた。

「余所見してんじゃねッ、逃げようったって、そうは行くかよ!おらおら、かかって来い、その可愛いお手手で、斬りつけてみろよ!」

 一際強く、煙々羅が己の鞭を引く。

 この時、リクオの眼が、細い糸のような白いものを一筋、とらえた。
 二階の唐模様の欄干の向こうで目立たぬように、天井から垂れ下がっているようなそれが、煙々羅の怒鳴り声に合わせてふわりと揺らいだので。


( ――― 見つけた)


 強く引かれた腕に、体勢を崩されたのを契機に、リクオはそのまま足を気張らず、鷹のように鋭く煙々羅の懐へもぐりこんだ。煙々羅が飛びのいていようとも、許さなかっただろう素早さであった。
 あわや、煙々羅はリクオの短刀に腹を貫かれるかと思われたが、にたりと笑った煙々羅の身体は、まるで掴めぬ煙でてきていたかのように、リクオは炎の化身の身体を素通りしてしまった。

「馬ぁ鹿、俺様は炎の妖だぜ!さわれるかってんだ!……え?」

 勝ち誇って、己の身体を素通りしたリクオを振り返った煙々羅だったが、リクオは驚くどころか、素通りするのを見越していたかのようにそのまま突き進み、焼け残った柱を足がかりに、透かし彫りの欄干を手がかりにするりと二階へ上がってしまった。
 逃げたか、と、煙々羅は怒るどころか。
 それまで赤々と燃えていた炎の髪は、青ざめてしまった。

「だ、だめだ、そっちは!畜生、気づいたか、いつからだッ!」

 かと思うと、煙々羅、何も無いところで盛大に転んだ。
 庭に背中を打ちつけ、忌々しそうに空を、いや、己の胸元を見ていた。

 煙々羅の身体の上に、見えない何者かがのし上がったかのように、動かない。動けない。

 やがて、観念したようにふうと息をつくと、煙々羅の姿は一条の煙のように空に立ち上って消えてしまった。

 ――― 煙々羅の身体の上に乗り上がって動きを封じた何者かは、二階に居た。

 二階では、リクオが煙々羅を組み敷いて、首元に短刀を押し付けていた。
 欄干の影に隠れていたのは、たった今、庭で掻き消えた煙々羅と全く同じ姿形。こちらが本体だ。

「てめぇ、いつから気づいてた」

 射殺すような視線でリクオを射抜き、煙々羅が問う。
 童子姿をしていても、場数を踏んでいるのは堂に入った短刀の扱い方でうかがい知れたので、それでも大人しくしていた。少しでも妙な動きを見せれば、今度はこの短刀が己の喉を掻っ切るであろうと、思われたのだ。

「鞭を出した途端、お手玉がお留守になったのが良くなかったね。両腕の分しか業が出せないと、教えてくれたようなものだよ」

 妖怪にとって弱点を晒すのは、命に関わる。逆に、知っていれば相手を下す手段になる。
 だから、見返りも求めず、ただこれを教える者は、あまり無い。
 しかし、リクオは丁寧に答えた。そんな事で、煙々羅の命を縛る気は、さらさら無いのだった。

「 ――― お前、何者だ。その眼は、浄玻璃の鏡で出来ていやがるのか?」

 初めてリクオを見たように、煙々羅は重ねて問う。
 怒りではなく、興味でもなく、雲間から見えた眩しいものを、眼に焼きつけようとするような、すがる様な眼差しで。己の中に沸き起こった、もっとこの瞳に映してもらいたいという、まるで小娘の一目惚れのような心もちを、どう判じたよいものかわからぬ戸惑いをもって。

 リクオは、答えられなかった。
 煙々羅の首に押し付けられていた短刀が、からりと床に滑る。
 指から力が抜けて、馬乗りになっていた童子の体が、ぐらりと揺らぎ。

「あ、おい、おい、お前!何だよ、どうした?!」

 双眸は閉ざされ、気を失ったまま、廊下にどたりと倒れたリクオを、何故そうするのかも何故そう感じるのかもわからぬまま、慌てて煙々羅は抱き起こした。そこで気づく。煙々羅が炎の鞭で絡め取ったはずのリクオの片腕は、火傷をするどころか、表面を霜が覆って炎を防いでいたのだ。

「こっちも効いてねえってのかよ、畜生。……おい、おい、お前」

 ぺちぺちと頬を叩いてみるが、苦しそうに、リクオははあはあと熱のある息を吐き出すばかり。
 苦しそうに眉を寄せ、薄い胸を激しく上下させている。
 
「もしかして、もう盛られてた、とか?」

 煙々羅は憮然と問うた。
 店に出す前の仕込みを行う際に、身体を弛緩させる薬や媚薬は、手加減なく商品である者たちに使われる。阿芙蓉だけならまだしも、その薬が盛られた後にこれまでの大立ち回りをしたとなれば、毒は完全に全身に回っているはずだ。
 チッ、と、煙々羅は舌打ちした。

「ったく、悪趣味な野郎だぜ、古部の野郎」

 忌々しげに、己を縛る額の金冠に触れたところで、すぐ脇の階段のあたりが騒がしくなった。

「捕らえたか!よし、よぉし、煙々羅よ、よくやった、でかしたぞ!」

 声の主は、瞼の血塗れをふき取り、血を止めて、ようやく立ち直った陰陽師である。
 庭に落ちた拍子に足でも挫いたのか、伊佐と呼ばれた巨漢に支えられながら、こちらへ上がってきた。
 その後ろから、座敷童が恐る恐るついてくる。

「でかしたも何も、おい古部の旦那よ、ずいぶんとナメた真似してくれるじゃねぇか。こいつ、薬でふらふらだ。こんな奴を仕留めたところで、何の自慢にもならねェよ」
「いやいや、そんな事はないぞ。こやつめ、とんだ悪童だわ。よく捕まえてくれた」
「捕まえちゃいねーよ。勝手に倒れたんだ」
「なに、そんな事はどうでもいいのだ。煙々羅よ、もう良いぞ、その小僧を、私に寄越せ。たっぷりと行儀を教えてやらねばならんようだ。手始めに心が壊れるまでの薬を流し込んでやる。牢は用意してあったな、そこへ運び込んで ――― 」

 我知らずの内に、煙々羅はリクオの身体を抱く腕に力を込めた。
 守るような所作だった。

「 ――― 聞けよ、旦那。俺様はこれに負けたんだ」
「なに?」
「阿芙蓉を一晩しこたま吸い込んだ挙句、てめェの趣味の悪い薬を含まされた上で、こいつは俺様に勝ったのよ。非公開試合とは言え、こいつは大事だぜぇ」
「まさか ――― まさかお前が ――― そんな馬鹿なことがあるか」
「嘘だってんなら、そこの障子や襖の陰から様子を伺ってた奴に聞いてみるといい。なァそこの!俺様は負けたよなぁ、たった今まで、この短刀を首に押し付けられて、こいつに命を握られてたんだ。そうだよなァ?!」

 突然話を振られた少女たち、襖の陰から三人ほど、こちらを見てびくりと身体を震わせた。
 乱暴者で悋気の強い煙々羅が、自分で自分が負けたのだと、吹聴するのは今までになかったことだ。
 どんな仕返しがあるものかと怖れて、もごもごと口ごもったが、逆に煙々羅がぎろりと凄まじい目つきで睨んできたので、慌てて、こっくりと頷いた。

「な、なんと ――― 本当なのか」
「はい、本当でございます、古部の旦那様。あの、煙々羅様は正体の位置を見破られて、その童子に先ほどまで組み付かれておりました」
「まさか ――― 」
「なァ、旦那。強いモンは戦力。弱いモンは慰み者か使い走りか食い物。この里じゃ、そういう約束だったよな?」
「う、むむむぅ……」
「こんな強い奴をよ、てめぇの趣味で慰み者にして、使い物にならなくして良いのかよ?あーあ、知らないぜぇ、こんなにべろんべろんに阿芙蓉だの媚薬だので酔わせちまって。抜けるのにどれくらいかかるかねェ。どうするよ、お偉方がひょっこり顔を出したりしたらさァ。……俺様、正直だからなー、つるっと口が滑っちまうかもなー」
「こやつ、私を脅す気か?!痛い目を見たいか!」

 煙々羅は、反射的に身体をびくりと強張らせた。
 彼の頭にはまった忌々しい金冠は、妖力を弱めるだけでなく、古部の印や言葉で、頭を締め付け彼を苦しめるのだ。

「 ――― しかシ、古部サマ、煙々羅の言うことハもっとモだ。この童子は、煙々羅に勝っタ。春場所で番付を決メるぐらイのこトは、しなけレばならないノでは」

 思わぬところから助けが入り、煙々羅は痛みを感じずに済んだ。
 伊佐だった。

「ヴァタシも感じタ。この童子ハ、強い。ミトラの眼ヲ持っている。煙々羅は、ソの眼に射抜かレた。古部サマの手に負えルような者では、無イだろウ」
「わかった、わかった。私の眼鏡違いだと言いたいのだろう!わかったから、とっととそいつを屋敷の外へ放り出してこい!忌々しい、久しぶりの上玉だと思ったものを。くそッ」
「古部サマ、どコへ ――― お手当てハ」
「もう良い、触るな!」

 足を挫いたのはどうしたのか、あれほど弱った様子だったのに、すっかり拗ねてしまった様子で、陰陽師くずれの古部は、どすどすと乱暴な足音を響かせ、踊り場の座敷童をついでに蹴飛ばすような振りをしておどかしながら、最後の一段を踏み外して、一階から上の様子を伺っていた皆の失笑を浴びた。
 今度こそ、「笑うな!」の一声が飛んで、再び、どすどすと足音を響かせ、行ってしまったようだ。

「行っちゃったみたいです」

 座敷童が、上に残った二人に報告すると、煙々羅と伊佐は肩から息をつき、次いで顔を見合わせ、二人同時に笑い声を上げた。仲の悪い二人には、珍しいことだった。

「お得意の《騎士道精神》とやらかい、伊佐さんよ。礼は言わんぜ」
「オヴァエに言ワれる筋合いは、なイ。ヴァタシは、この童子ヲ強いと感じタ。そレだけだ。嘘偽りデはナい。オヴァエも感じタのデはないのか、その強サを」
「知らねェよ。俺様はただ、素面のこいつともう一度やりあって、今度こそ、こてんぱんに叩きのめしてやりたいだけだ」

 言い捨てると、リクオを両腕に抱えたまま立ち上がり、軽い足取りでひょいと欄干の上に立つ。

「どこへ行く」
「古部の旦那が言ってたろうが。こいつを屋敷の外へ放り出せってよ。連れがいたらしいから、そいつんトコに放り込んでくる。ヤク抜きの面倒なんざ、見てられっか」

 二階からさらに飛び上がり、屋根へ。屋根から、向こう側へ飛び降りて、煙々羅の姿は見えなくなった。

「 ――― 珍しい〜。煙々羅が自分で行っちゃった」
「ヴァイツめ、ずいブん気に入ったらシい。確カに、類まレなミトラの光ヲ持つ、眼でアった」
「伊佐様、さっきからその、《みとら》って、なんですか?」

 優しい巨漢は、座敷童を見下ろして、岩のような顔に鷹揚な笑みを浮かべた。

「ヴァタシが居た国ノ、神サマの名だ」
「へぇ。なんか、名前の響きが弥勒様に似てるのね。何の神様?」
「太陽ノ神様だよ」
「ふぅん。どんな《畏》を持ってるの?」

 煙々羅と対峙していた童子の、決して引かぬ、強い意志の眼差しを思い出しながら、伊佐は歌うように言った。

「全てヲ照らシ、全てヲ見透かす。友情や正義ヲ愛し、彼方ト此方の契りを言祝ぐ。優しク、強イ神様だ」