からからからり、からり、からり………

 糸車の音が、耳に障る。
 誰がこんな音をさせているのかと眼を開けても、視界はぼやけるばかりで、リクオは目の前にいるのが誰が誰やら、全くわからなかった。ともかく、大きいのも居れば小さいのも居るようだし、人の形をしていない者もあるから、そうか屋敷にいるのだな、と、思っただけで。
 とは言っても、リクオが思った屋敷というのは、江戸は浮世絵町の奴良屋敷のことではない。
 ――― 己自身が、生まれ育った屋敷のことだ。

 熱でぼんやりした頭では、今がいつなのかすら判じかねた。
 とにかく体が熱くて、熱くて、泣き喚いてしまいたいほど胸が苦しく腹のあたりがじくじくとするのが、たまらない。その中で、己をしっかと抱いてくれている腕の主の、胸元にしがみついてみると、ひどく懐かしい匂いがして拠り所となってくれた。
 懐かしい匂いは、リクオを途端に子供返りさせた。

「目が覚めたか、リクオ」

 己を抱き締め顔を覗き込んでいるその人が、記憶のものより幼い顔立ちながら、ぼんやりと霞がかかったような視界の中では、確かに懐かしい、あの人だと思われたので。

 嘘だったのだ、と、思った。
 全部全部、夢だったのだ、と、思った。

 この匂いのひとが死んでしまったのは、目の前で死んでしまったのは、全部全部、嘘で、夢で、まやかしだったのだ。己がその後を継ぐ三代目となって、重い責に歯を食いしばっていたことなど全て、全て、夢だったのだ。
 熱に浮かされて、大人になった悪夢を、見ていただけだ、と、

 となれば、喉を焼く熱に耐えかね、啜り泣きも出てくる。
 甘えた声を出して、しがみつきたくもなる。

 開けても痛いばかりの目を閉じて、世界を追い出してしまいたい気分にもなる。

「可哀相に、うなされて」
「吐かせるだけ吐かせてみたんだ、あとはおさまるのば、待つだけだべ」
「手ぬぐいがすぐにぬるくなっちまう。小僧、お前、新しい清水を汲んでおいで。……ったく、あたしら妖怪だってのに、水を汲むのも川に行かなくちゃならないなんてねぇ」
「熱があるんだ、どこかの小屋に厄介になれないもんだろうか。ねえアンタ、泊めておやりよ」
「えぇっ、だって、おじさんの家って、車寄せだよ?!」
「これだから輪入道って奴は、見掛け倒しで役にたたないんだよねー」
「なら河童、あんたが」
「僕の家、川だし」
「なァ、おばば。おれが世話になる予定だった小屋っての、二人は無理かい」
「そうさねぇ、集落に住む奴等の大部屋だから、病人はねぇ……」
「なら、誰か、頼むよ。こいつだけでいいから、熱が下がるまで、床を貸しちゃくれねぇか」
「……うん、その子だけなら、うち狭いけど」
「助かる。世話はおれがやるから」
「駄目駄目、うちは本当は男子禁制なんだ。その子は童子姿だから、いいんだよ。腐っても山姥なんだから、お前みたいにイイ男が来たが最後、文字通り煮て食っちまうよ。無事に帰れるのは童子だけさ」
「おいおい、おばばだって妖力封じられてんだろ?」
「だからと言って味覚が変わるわけじゃないんだから、仕方ないじゃないか。安心おし。その子の面倒は、ちゃあんと見るから」
「不安だ。……でも、背に腹は変えられねぇかあ。ううむ」

 嫌だ。リクオは思う。しがみついたその人の袂を握る指に、さらに力を込める。
 力を振り絞って、叫ぶ。叫んだつもりが、うわごとのように小さくしか唇から出てこない。

 嫌だ。お願い。一人にしないで。傍に居て。

 昔からそうだった。人間でしかないリクオは弱く、妖気にあてられてすぐ熱を出す。
 するとこの優しいひとは、今のように、己を抱く腕に力を込めて。大丈夫だ、と。

「 ――― ああ、わかった。ここに居るよ。もう一人にはしねえ」

 言ってくれるのだ。

 目を開けていなくてもわかる。この人は今、笑いかけてくれた。

 熱を出すと弱気になって、守役でも母でも駄目で、けれどこの人の腕に抱かれると、この人が傍に居てくれると、不思議と安心できたのだ。
 此の世で唯一、己と同じ生き物。
 人でもあり、妖でもある、互いが唯一の同胞。

 その人の熱より、己の方が高い熱を出しているだろうに、何故だか腕の中はあたたかい。

「なぁ、千代、すまねぇけど、この小屋に邪魔してもいいか?」
「「「「ええええぇぇぇぇッッッ」」」」
「なんだよお前等、口そろえて」
「ちょ、ちょ、坊ちゃん、わかってる?アレは、まあそりゃあ、不憫な子ではあるけども」
「おお、おっちゃんが事情を話してくれたんじゃねーか。あいつも、古部の野郎にいう事をきかされてるんだろ?」
「そ、そうだけどさァ、心情的に、どうなの、大丈夫なの?」
「大丈夫って……おれ、そんなに信用ねぇかなあ。いくらなんでも、襲ったりしねーって」
「そうじゃなくて!アレと一緒に一つ屋根の下なんて、その、不気味だったりとか」
「不気味?よく見りゃ、可愛い顔してるのに、何が不気味なんだ?……悪ィけど、顔だけ取ったらおっちゃんの方が脂ぎってて、よほど不気味だって」
「……………………ひどい」
「どうだ、千代。……そうか、悪いな。火は焚いちゃ……駄目か、そうだよなぁ、鶏が焼き鳥になっちまうよな。竈は外だし……ん、そこの竈の裏の壁んトコ、あったかいって?でもお前の寝床だろ?いいよ、鳥と藁に埋まってりゃ、少しはあったかいだろ」

 それ以降も、結構な人数の者たちが周りを整えている気配が、しばらくがさごそとしていたが、やがて皆、「もういいよ、あとはおれがやるから。ありがとさん」の一言で、その場を退散して行った。

「おい、リクオ。しっかりしろよ。そんな弱気なの、何だかお前らしくねぇぞ。お前を運んできた奴も言ってたじゃねーか、ずいぶんな大立ち回りしたってよ。なのになんだ、そのザマは。しゃっきりしろって」
「うん……ごめん……ごめんね、父さん」
「寝惚けてるし。しかし、酷い熱だな。夜になっても姿が変わる気配もなし。やっぱりこの里じゃ、お前、化生は無理か。夜姿になっちまえば、薬なんてお前の血の中で、すぐに燃え尽きちまうだろうに。まぁ、仕方ねぇよな、こんな事もあるだろう ――― あー、お袋に、晩飯いらねえとは言っておいたけど、何日か留守にするとは言ってなかったなぁ。怒られっかなあ」
「………、……ず…」
「うん?何か言ったか?」
「み……水」
「おぉ、そうか。ほら、飲めるか?……ゆっくりな」
「……ん……も、いい……」
「……雀か、お前は。飲んだか、本当に?」
「…………」
「リクオ。……さっさと元気になれ」
「……さん……」
「うん?」
「…………父さん…………」
「うわ言にしても限度があるだろうが」
「…………よかった、居たんだ……生きてたんだ……よかったぁ…………」
「…………」
「……嫌な夢だったんだ、本当に、嫌な……父さんが死んで……ああ、夢だった、よかったぁ……」
「…………」
「……本当に、よかったぁ……」
「…………ああ。……夢だよ」

 再び、糸車を廻す音がしたが、もう耳障りとは思わなかった。
 流れる時など、怖くは無い。

 あれは全部、夢だったのだから。
 己の目の前で父が斬られたのも、倒れ伏した父を踏みつけ己を手にかけようとした凶刃を、力を振り絞って立ち上がった父がさらに受けたのも ――― 己のせいで、父が死んだ。己が、父を殺したのも同然だった。あの場において、己の無力こそが父を貫いた刃に他ならなかった ――― その傷がもとで、帰らぬ人となったのも、全て夢だったのなら、この先、何が待ち受けていようと怖くは無い。

 夢は彼方と此方の境界を、ひどく曖昧なものにする。
 そのために、今のリクオは、常は見失っている彼方の岸辺の記憶を、違わず持ち合わせていた。
 此方の岸辺に足をつけたその時から、時の綾に遮られて見失っていた己の魂の記しが、今は見通すことができて、しかし熱に浮かされた頭では、今の己を刻み込むことなどできず ――― つまり、良い夢でしかなかった。此方の岸で、己を抱き締めてくれているその人がいるというのは、良い夢でしか、なかった。

「全部、夢だよ。安心しろ」

 何しろ、声の主が、そう言うのだ。
 聞きたかった声の主が、そう言うのだ。

 夢から醒めれば失われる、彼方の岸からもたらされた本来の時紡ぎの糸を、リクオはつかまえようとすらせず、今はただ、あたたかな腕の中にいた。