「 ――― くしゅんッ」

 小さなくしゃみが、夜明けの鶏小屋に響いた。
 山頂から吹き降ろす風は、西から迫るはずの春を遠ざけているかのようだ。

 自分のくしゃみで目が覚めたリクオは、肌寒さにふるりと一つ身を震わせ、寝惚け眼をこすり、もそもそと藁の中にもう一度しっかり潜り込むと、あたたかさを求め傍らの人の肌に擦り寄った。
 ぴったりとくっついてから、よく知った気配の、よく知ったいびきが聞こえるので安心し、深く吐く息、一つ。

 そこでようやく我に返り、はっと目を覚ました。

 天井に近い位置にある、小さな窓から差し込む陽の光で、小屋の中がどうなっているのかを知るには充分だ。
 己が、どこでどういう格好で、寝ているのかも。
 身に纏っていた着物は、己が潜っていた藁の上から、熱を逃がさないようにするための布団代わりになっている。顎を引いて視線だけで己の身を下の方まで見てみれば、ほとんど裸に近かった。いやむしろ、下帯だけ残しただけで、あとは素っ裸だ。
 すぐ傍でいびきをかいている鯉伴も、似たようなものである。

 一体、眠る前に何があったのだったか ――― 。

 混乱する頭を、何故どうしてが飛び交う胸中を、いやいやまてまて、今は朝なんだから、ちゃんとじっくり考えれば良いだけではないかと己を落ち着かせ、息を殺して己の記憶をたどってみた。

 《わいら》騒ぎの前後に、怪しげな積荷を、わざわざ京の商家の息がかかった廻船問屋を通して売りに出す、大白一家。あたりをつけて乗り込んだ、廻船問屋。そこで大白一家の親分と怪しげな話をしていた、恵比寿顔の陰陽師。一ツ目がいつの間にやらついてきていて、見つかって、騒ぎになって、あやうく、滅されそうになって。それを助けて、用心棒どもの輪の中を、いつものように闇に隠れて逃げてしまおうとしたところで。
 ぬ、と。闇の手が己を絡め取ったのだ。

 途端、昏倒して、次に目が覚めたのは、絹の布団の上だった。
 阿芙蓉だと聞いたときは、しまったなと思った。眠っている間中にかがされていたせいで、ぐらぐらと視界が揺れて、それでも、今度は相手が陰陽師だと知っていたから、己の体をまさぐってきた手首をぽきりとやって印を結べなくしてやった。あの場合、恵比寿顔の ――― 古部と呼ばれていたか、とにかくあの男の稚児趣味は幸いだった。ああも簡単に懐にもぐりこませてくれたのだから。
 質問に答えずもごもごやる度に、今度は指をぽきりとやって答えさせた。
 連れは無事なのか、二人とも一緒に捕らえられているのか、この屋敷に一緒に来ているのか、居ないのならどこにいるのか、外?それはどういう場所なのか、これだけ聞くと、片手の指は終わってしまったので、それ以上はひいひい泣くばかりで役に立たなくなって、それじゃあ外に出て探そうとふらつく足で部屋を出て。
 陰陽師・古部が呼んだ、煙を纏い炎を操る紅蓮の妖怪、煙々羅。
 ぐわんぐわんと痛む頭にふらつく体ではあったが、幸い相性の良い相手であったので、正体を見破り、これを組み敷いて、その後 ――― ふ、と、明かりが消えたように目の前が真っ暗になって、それ以降のことが、どうしても ――― 。
 どうしても、思い出せない。

 ―――― 。

 ―――――――― いや、実のところ、思い出したくないだけで、うっすらと、覚えはあるにはあった。

 立ち回りの後、動き回ったせいで薬と阿芙蓉がいっぺんに体を毒したのか、体が熱を宿して、苦しくてたまらなかった。
 黄昏を感じて毒を追い出そうと夜姿への化生を試みるも、これもできなかった。
 熱いのに、苦しいのに、歯の根が合わなくなるほど寒くて、寒くて。
 不安で。

 赤子のように誰かにすがりついたのを思い出したところで、耐えられなくなった。

 一人にしないでと、傍にいてと。言ってしまった己を思い出せば鳥肌も立った。

「う、うわああぁぁッッッ。うわーっ、うわーっ、恥ずかしい、恥ずかしいったら!」

 がばりと上半身を起こして叫び散らしたリクオを待っていたかのように、傍らでうずくまっていた鶏が、高らかに朝を告げた。

 朝を告げる鶏の声は、次の一羽、次の一羽と連なって、その中でようやく目覚めた鯉伴は、隅っこで膝を抱えて顔を伏せ、丸くなるリクオを見つけたとか。










「別に、いいじゃねーか。添い寝なんて昔はおれの方がしてもらってたんだし」
「ええそうでした。勝手に布団に潜り込んできたくせに寝小便までされたこともありました。でもそれとこれとは話が違うんです」
「何がどう違うっての。病のときってのは、気持ちが弱くなるもんだろう。気にすんな、そんなの。お前は寝小便までしなかったんだからいいじゃねーか」
「気にするなと言われましても……ボク、何か言ってました?」
「おー。言ってた言ってた。おれの傍を離れたくないって、しがみついてさ」
「うわぁ」
「一人にしないで、ってさ」
「うわぁあ」
「そうそう、寝言にしても、おれのことをお前の親父と間違えるってのは、どうよ」
「え、えええええ?」
「言ってたぜ。『とうさん』って」
「うわあああああ」
「お前も、いつもあれくらい素直だったら、扱いやすいっていうか、可愛いのになァ。弟みたいでさ」
「わあああああっ、わあああああっ、わあああああっ。認めたくないッ。認めたくなぁいッッ」

 恥ずかしさで死んでしまいたいらしいリクオと、これをちくちくとからかう鯉伴は、小屋の隅で身を横たえていた千代と一ツ目小僧が目を覚まし、さらに世話好きの輪入道が運び込まれたリクオの様子はどうだろうと顔を出しても気づかずに、まるで危機感無く騒ぎ続ける。

 一ツ目小僧にとっては、まるで普段と変わらぬ二人の姿。
 小僧は、自分のヘマのために屋敷から離れてこんな遠くへ来てしまったのを気にして、昨晩もリクオが熱にうなされているのを看病したり、あれこれ身の回りを世話したりした後は小さくなっていたのだが、二人が全く普段と変わらぬのにちょっぴり呆れ、何より安心し、いつものようにクスクスと笑った。
 昔とは、背丈がすっかり逆転した鯉伴と昼姿のリクオは、守子と守役と言うよりも、最近は兄弟か遊び相手かのような様子であるのだ。

 言い合いや口喧嘩だって、二人が飽きるまで続くに決まっているので、一ツ目小僧は今のうちに、小大将が好む、朝の気持ちよい清水を汲んでこようと小屋を出る。
 千代は今までにない小屋の騒がしさと、こっここっこと咎めるように足元で呟き続ける鶏たちにおろおろするばかり。輪入道だって、喧嘩なような、じゃれ合いなような二人の間に、どう入ったらよいものかなんて、わからない。
 そんな二人が見つめる先で、唐突にに二人の言い合いは終わった。

 それまで、からかい続けるばかりだった鯉伴が、ふと真顔で、

「ま、何にしろ、熱が下がってよかった。妙な薬も盛られてたって聞いて、どんなもんか冷や冷やしてたんだ。悪夢と熱にうかされて、正気じゃなかったなんて、よくわかってるよ」

 大人びたことを言ったので、リクオもまだ顔を赤くしながら、

「 ――― ご迷惑をおかけしました」

 そう、応じるしかなくなったのだ。










「この集落は、信濃の国にあるんだよ。流れている川はね、下流に行くと犀川っていう大きな川になる。さらに川に下れば港があるところだから、そこからたくさんの荷物が運ばれるんだってね。ま、おっちゃん、人間のことはよくわからないんだけど、そういう穏やかーな、川らしいよ」

 昨日は、集落を見渡せる丘に登り、あたりを見回しただけだった。
 その後、丘を降りたところで、熱にうかされたリクオを煙々羅が鯉伴の元につれてきて騒ぎになってしまったので、鯉伴も、もちろんリクオも、ここがどういう場所で何故妖怪が集められているのか、何故この場所では妖力が封じられてしまうのか、何も知らない。
 親切な輪入道は、そうであろうと思って、自ら案内役を買って出たのだ。

 一ツ目小僧はすっかり反省して、しばらく恐縮した様子を見せていたが、リクオや鯉伴は小僧の反省を認めた上、己等二人も、こうまでのっぴきならない状況に陥るとは考えていなかったのもあって、必要以上に咎めることはしなかったので、呼ばれると嬉しそうにリクオや鯉伴と並び、輪入道へ続く。
 千代が住む鶏小屋は、山間の集落の中でも一番外れにあった。
 小屋を出て、小川に沿って、昨日リクオが放り込まれた茶屋がある賑わった街を目指し歩き始めると、やがてぽつりぽつりと、水車小屋や百姓の小屋が見えてくる。田畑の作業をしている中には、昨日鯉伴のところを訪れた山姥の姿があり、水車小屋では川の緩やかに川の流れを御していた河童が手を振ってきた。
 そればかりではない、中に混じって人間の姿があるのに、案内されながら三人は驚いた。

「《わいら》に捕まった後、売れ残った人間とか、値がつかないとか、だね。うん。ほら、手が足りなかったり足が足りなかったり、生まれつき病持ちで長生きできそうになかったり。でもさ、不思議なもんで、何か皆、働いてくれちゃうわけ。おじさんとかさ、ほら、車輪でしょ。鋤も鍬も持てないし、手足がある妖怪だって、今まで妖力なしに生きてきたことなんてないから、毎日の暮らしなんてどうやったらいいもんかさっぱりだったんだけど、何かと教えてくれたりして。それに上手いもんなんだよ、腕が足りなくたって足が足りなくたって、足で藁を縒ったり口で字を書いたりしてさァ。なんとかお互い助け合って生きてるのよ」
「そうその《わいら》だけどよ、おっちゃん、結局それって何か知ってるか?」
「え?坊ちゃん、《わいら》に呑まれて来たクチじゃないの?リクオくんも?」
「いいえ、ボク達は、その《わいら》が最近、住処の傍を騒がしていて、これに絡んでいる人足を扱う一家があるというので、そこを探っていたんです。妖怪の方だけを探っても、何も怪しい奴はなく、人間の方だけを探っても、やはり怪しさは見つけられない。それに《わいら》が通り過ぎた後の里には血痕などが無いから、そこで食われたとも思えなかったので、どこかに運ばれているのかもしれないとも思い、一家と廻船問屋を探ろうとしたら、その廻船問屋へあの、古部という男と、千代さんがいらしたという次第で」
「あー、なるほど、そこで千代に絡められたんだね。あー、なるほど、なるほど」
「……あの娘さえ居なければ、逃げられたのに」
「そう物騒な目をするな、リクオ。あの娘にも、何か事情があってのことらしい。見たらわかるだろ、その古部って男は立派な身なりをしてるってのに、あの娘はつんつるてんの単衣一枚。住んでる小屋だって、ここの皆に混じれるわけじゃねえ、追いやられて鶏小屋とは」
「わかってます。誰が鯉伴さまに女性の扱いをお教えしたとお思いですか。ボクは誰かさんみたいに、出会いがしら逆上して馬乗りになったりしませんでしたからね」
「それは面目ねぇ」
「……面目ないのはお互い様ですから、今回はお咎めしませんけど、次にそんなことしたら、ここを出た後、夜姿でお説教しますからね」
「怖。それ怖ぇよ。にしてもまずは、そうだな、ここを出ねぇと。そのためにも、そう、その《わいら》、結局何かわからず仕舞いだった。おっちゃんは知ってるんだろ、アレって何なんだ」
「そうか、人間の側から探ったっていうのは、良かったね。確かにその時、古部の奴や千代がいなかったら、きっと坊ちゃんたち、ここには居なかったかもしれない。いやはや、巡り合わせたねぇ。でもあれは本来、探ったり調べたりするような珍しいもんじゃないんだけどねぇ」

 不運だったねぇと、輪入道は一行をねぎらうように言ってから、続けた。

「あれは、餓鬼だよ。うん」
「餓鬼?」
「餓鬼ってあの、墓場でよく見る、餓鬼ですか?」
「そう、それ。妖怪たちの間では、山犬とか烏くらい、珍しいもんじゃないでしょ?」
「珍しくなさすぎて、候補に入れたこともありませんでした。だいたい、餓鬼が人や妖怪を捕らえるなんて、聞いたこともないし ――― 《わいら》は山を覆うほど大きいって言いますし、そんな餓鬼が、いるんですか?」
「一匹二匹の数じゃ、ないよ。それこそ、山を覆うほどの数の餓鬼が大挙して、人里になだれ込んだり、妖怪の巣へなだれ込んだりするんだ。一匹の大物妖怪なんかより、よっぽどたちが悪い。うん。ほら、あいつらって力の差とか何も考えないで、とにかく口に入れられそうなものがあったら口にすることしか考えないでしょ。相手がどんな大物妖怪だって、あれほど大勢にまとわりつかれたら辟易とするでしょうが。蟻んこの大群に体中を這い回られるようなもんだし。あとは逃げるしかないけど、気づいたときにはもう腹ン中って連中が、ここに居るわけ」
「そんなに大勢の餓鬼が、なんでまた、一緒に行動してんだ。その、古部って奴が言うこときかせてんのか。そんな事、できんのか」
「坊ちゃん、鋭い。まさにその通り。鷹でも鵜でも、人間が小さい頃から世話して懐かせてさ、言うこときかせてるじゃない。あんな感じで、《わいら》は古部が作った餓鬼なんだ。とは言っても、食べ方の行儀と帰る巣を、覚えさせたくらいなんだろうけどね。餓鬼って元々、考えたり覚えたりできるような、格のあるモンじゃないから。一度飲み込ませたものを、後から吐き出させるんだって。鵜飼いってあるでしょ、あんな感じで。で、吐き出させた後に妖怪を絡め取るのは、千代の仕事。吐き出させた後に売り捌くのは、人間の仕事。丸呑みするよう躾けられてるから、血も出ない、と」

 高いところで、鳶が輪を描いている。
 陽が中天までさしかかってようやく、風が春を思い出し始めたようだ。

 暢気な昼下がり。視界に広がる畑で働く、妖怪と人間たち。
 ある意味、奴良屋敷にも通ずる、人と妖とが手を取り合う姿。

 平和にも見えるが、ここに連れてこられたのは、人浚いにあった人間たちと、同じ境遇の妖怪たちだ。物として扱われる存在たちが、身を寄せ合って暮らしているだけに他ならない。

「おっちゃんね、千代が昔、住んでた村に居たんだぁ」

 ぽつり、輪入道が呟いた。

「《わいら》になった最初の餓鬼たちはね、千代が住んでた村やその隣の村や、そういった千代に縁ある、人間たちなんだよ」