季節は巡る。からからからと廻る糸車、音が聞こえなくても廻っている。巡っている。
 巡った時は、流れ去った時間は帰ってこない。笑った日も泣いた日も、決して帰っては来ない。






 リクオは東部屋の小間使いとして、鯉伴と一ツ目小僧は西部屋の伊佐の元で新入りとして、里での新たな生活は目まぐるしく暮れていく。里に来てから一月など、何がどこにあるのかの勝手すらわからず教えられているうちに、過ぎ去ってしまっていた。
 里では、少しでも戦力に数えられる者ならば、例え小物妖怪であったとしても、東西どちらかの部屋に属するのが決まり。
 三人はこの決まりに属したが、それぞれの部屋に属した者が会ってはならないという決まりは、煙々羅と伊佐、それぞれの部屋の主の気風が合わないために、それまではなんとなく暗黙のうちにいがみ合っていただけで、特に設けられてはいなかった。

 部屋に入ればその周囲の部屋で寝泊りするのが普通だが、小間使いが用を終わらせた後に出歩いたり外泊してはならないという決まりもない上、「慣れぬこともあろうし、今までの主と離れ離れになっては心許ないだろうから」と煙々羅が見栄を張ったおかげで、リクオは自由気侭に東と西を出入りする。
 一日に何往復もちょこまかと渡廊下や空劇場を横切ったりしつつ、生来の細々とした用向きを世話する性格がここでも発揮されて、すぐにあちらこちらで名を覚えられ、呼ばれるようになった。

 加えて、リクオが煙々羅や道場の掃除など、昼姿では得意の細々としたことを楽しそうに笑顔ですっかり片付けてしまった後で、

「ねぇ煙々羅、ちょっと鯉伴さまのところに顔出してくるけど、伊佐様に何か用事でもある?」

 などと訊いてくるので、最初は、「あんな奴に用などあるか、次の一番まで、せいぜい首を洗って待っていろと伝えておけ」と返していた煙々羅も、リクオを通して、「ヴァタシも、オヴァエとの一番は楽しミにしている」と、伊佐が潔く返事をしてくると純粋に武闘派として面白くもなってくる。
 やがて美味い酒が入ったから、お前とその主にくれてやると煙々羅が申し渡し、これが伊佐の手に渡り、お返しにと伊佐から珍しい舶来の、葡萄酒などが送られて、「………こりゃ美味い。マジで美味い。もっと欲しい」リクオの酌でごくりとやった煙々羅が、盃まで行儀悪く舐めたあと、「もっと寄越せ」と自ら東部屋に赴いたりするようになった。

「煙々羅、欲しいものは『寄越せ』じゃなくて、『くれないか』って言った方が、貰えることが多いよ」
「あん?断られたって持ってくんだから、『寄越せ』だろうが」
「それじゃあ盗みと一緒じゃないか。東部屋の大将は盗人じゃあないだろう?礼には礼を尽くすのが大将同士ってものだ。君が礼を尽くして頼んで、それで伊佐様が断れば、器が小さいのは伊佐様ってことになる。だから、君の礼には伊佐様は断ることができないはずなんだよ。命令より、確実だと思うけどな」

 やり取りの果て、煙々羅が渋々だが、「や、あの酒、美味くてよー。もっと飲みたいなーって。……くれねーか」と言ったときには、伊佐は丸い目をさらに丸くしたほどだ。乱暴者で、他人の言うことなど聞いた試しの無い威張りん坊が、他人の進言を他人の目があるところで取り入れるなど、今まで無かったことだ。
 稽古を終えて汗だくの上半身を拭きながらこれを見守っていた鯉伴にとっては、躾の対象がどうやら移り変わってくれたようで、ほっとすると同時に、何だか寂しい気持ちもする。どう見たって、煙々羅とリクオのやり取りは、数年前までの鯉伴とリクオのそれだった。






 三日毎に、情報交換という名目で千代の鶏小屋に集まり、そこで夜を明かすこともある奴良一家三人組。
 その日も、ほんのり梅の香が混じるようになってきた春の大気に、うっとり身を委ねながら語り合っていた三人の話は、情報交換というより互いの近況である。

「煙々羅の奴、お前がついてからずいぶん変わったって、師匠が言ってた。おれじゃなくてお前でよかったのかもなぁ」
「鯉伴さまも、伊佐様の部屋で稽古をするようになってから、足さばきが洗練されました。思えば、奴良家の跡取りではなく、ただの半妖として扱われて手加減の無い稽古を受けるのは、初めてではないですか」
「怠けるにも怠けらんねーしなー。毎日、稽古が仕事みたいになってら。お前は、どうなのよ。小間使いはしっかりやってるようだけど、稽古はしてんのか」
「もっぱら、見てるだけですねぇ。こっちの姿じゃ、完全に人間ですから、もし参加したとしても怪我するだけでしょう。でも、なるべく稽古を見て、動きを目で追えるようにはしていますよ。誰が何の妖怪か、弱点はどこか、だいたい見当もついてきました。一日に何度も渡廊を往復しますし、階段も上がったり下がったりが多いから、足腰は前より鍛えられてるかも」
「今以上に韋駄天になってどうする。つむじ風にでもなんのか。……で、煙々羅、お前に懐いたみたいだけどよ、味方にはできそうか。どうだ」
「いまだに、なんとも。部屋の連中への乱暴者っぷりは相変わらずだし、威張りん坊だってそれほど変わらないし。格下の相手は家来か虫けら同然に扱ってますから、力を合わせて何とかしよう、なんて気になってくれるかどうか」
「そこを、小大将のタラシの術でどうにかするとか」
「人聞きの悪いこと言わないで下さい。術だなんて、奴良屋敷でもここでも、特別なことは何もしてません」
「でもよ、親父がよく言ってたぜ。『小大将は小物どもを従わせる術に長けておる』ってよ。おれは覚えてねぇが、屋敷が手薄になったところで襲撃を受けた時。お前がやや子のおれとお袋を助けてくれたっていうときによ、もうばったり倒れて動かなかった小物どもが、お前の声を聞いたらむくっと起き出したって聞くぜ」
「それはですね、ボクが総大将より頼りなくて弱いからです」
「あん?」
「夜姿に化生しても、ボクはあの妖怪を一撃で倒すことはできなかった。結局、人質を奪い返すところまでで精一杯。一刀で滅したのは、総大将です。同じ刀を持っていても、ボクには無理だったでしょう。だから、総大将を前にして小物たちは安心して倒れていられるけれど、ボクを前にして小物たちは奮起するんでしょうね。弱いから、守らなきゃって思ってくれるみたいで」
「 ――― 違うよ。小大将、優しいから」

 それまで黙って焼きおにぎりを食んでいた一ツ目小僧が、ぽつりと呟いた。

「最近、総大将も優しいけど。小大将は昔から、どっちの姿でも、おんなじく優しいから。甘えちゃうの。甘えても、許してくれるから。昼姿だと、お日様の匂いがして、あったかい。夜姿だと、お月様の気配がして、安心する。総大将は、強くて、格好よくて、大好きだけど、前は今より、ちょっと怖かった。一緒に戦おうとしても、力の巻添えになっちゃいそうで。優しくしてくれるつもりでも、ちょっとした拍子に消されちゃいそうで」
「なんとまぁ、熱烈な口説き文句じゃねーか、一ツ目小僧のくせに。君は太陽、君は月って、素面で言うとは、恥ずかしい奴」
「あはははっ、ありがとう、一ツ目小僧。ボクもずっと仲良くしてくれて、嬉しいよ」
「まぁ……なんとなく、わかる。おれも昔は親父に近づきがたかった。それよか、お前の夜姿の方が安心したな。加減をわかってるっつーか。煙々羅も、それじゃねーの?」
「大物妖怪は、安心感より、強い者の方へより強い《畏》を感じるものじゃないでしょうか。鯉伴さまが、お小さい頃は母君べったりだったのが、だんだんと父君とじゃれるのがお好きになったように。……だけど確かに、煙々羅と居ると小物といるような気がして、つい子守口調になってしまいます。あの威張りん坊も乱暴も、何かに怯えているのを隠す子供みたいだ」
「怯え?」
「はい。心当たりがないかどうか、伊佐様にも訊いてみてください」
「怯え、ねぇ……。そういや、あの金冠みたいなのしてるのは、あいつだけだよな。あれって、古部が煙々羅を呼んだり、ごにょごにょやったりすると、頭をしめつけるだろ?そのせいか、古部が印を切るような所作をするたびに、身構えるような様子はある」
「調伏用の術具でしょうか」
「それって、何で他の奴等についてねーのかな」
「そりゃ、そんなのつけられなくたって、この里の中じゃ、みんな大した業は使えないでしょ」
「煙々羅だって、同じだろう?」
「確かに」
「もしかして、あいつ、アレに怯えてるんじゃねーの?」
「まさか……」
「案外、アレを取ってやったら、逆におれ達相手には、大人しくなったりして」
「……取る方法含めて、探ってみます」
「探るって、どうやって」
「煙々羅は古部を嫌ってますが、古部はどうやら伊佐様より煙々羅を頼みにしてます。茶屋でボクを捕まえようとしたときも、呼び出したのは煙々羅だった。そのせいか、あの男、よく煙々羅のところに顔を見せに来るんです。煙々羅はその度に荒れてますけど」
「なるほどな。そうだ、茶屋と言えば……その、お前の相手ってのは」
「……一度、煙々羅について潜り込みましたが、それらしい女は、見当たりませんでした」
「……そうかい。ま、それがわかっただけでも、ここに来た甲斐はあったな」






 梅咲き誇り、桜の蕾が膨らむ頃。
 鯉伴も里の様子に慣れて、出入りする部屋で稽古に励みながら、同じ部屋の中に友人も多くできた。

 元々が人見知りしない性格である。
 浮世絵町でも人間の知人友人は多かったし、屋敷の妖怪たちの人望も厚い。独眼鬼組の一ツ目入道などは、鯉伴と顔を合わせるたびに「おぉ二代目、ご機嫌はいかがですかな」などと姿勢を低くする有様だった。

 けれど、ここでは鯉伴は二代目でも若頭でもない。
 己の実力と心根だけで己を評価されるのは純粋に嬉しく、また、伊佐は師としては、父よりも相応しかったようだ。
 鯉伴を東の総大将の息子と知り、鯉伴とリクオがそれぞれの部屋に離れ離れになるときも、大切に預かるとリクオに約束した通り、決して礼を失した態度は取らなかったが、これは鯉伴相手だけでなく、部屋のどの者に対しても同じ。伊佐は誰からの信頼にも足る者だった。
 怠ければ叱り、励めば誉める、当たり前のことだが、必ず一日に一度は部屋のもの全員に声をかけてまわる師の姿に、鯉伴は、「そう言えば親父も、屋敷の連中の顔は全部覚えていたな」と、上に立つ者の心の砕き方を、怠けて拳骨をもらった頭をさすりながら知ったりもする。

 多くできた友人たちの中でも、川のせせらぎに住んでいた河童とは、ずいぶん仲良くなった。
 お互い、どこかのんびり飄々としたところが、「僕達似てるねー」「あ、それ、おれも今思ってた」となって、稽古の相手としても、互いにちょうど良い実力同士なこともあり、お互いつかず離れずの関係であるのが心地よい。
 河童は里の川の流れを御して水車小屋の手伝いなどもしているから、鯉伴も稽古が終わった後はこれと一緒になって、鶏小屋の千代の様子を見たり、千代の身の回りを手伝ったりしている。
 それでも時間が余れば、河童が気持ち良さそうにばしばしゃやってる傍で、釣り糸を垂らしながら土手に大の字に寝転がる。この場所で生まれ育ったかのように、慣れた様子の鯉伴を、ようやく探し当てたリクオが呆れたように見下ろした。

「鯉伴さま、こんな所にいらしたんですか。部屋に居ないから探しましたよ」
「あン、なんだ、リクオ。何か用か」
「やあリクオくん。元気ー?」
「河童さん、こんにちは。……用は特に無いですけど、あちらの用が終わったので、どうしてるかなって思って」
「見ての通り、おれも稽古と千代の手伝いが終わったとこ」
「リクオくんも、釣り、してったらー?僕がそっちに魚、追い込んであげるからさー」
「釣りって、そんな……悠長な」
「休みだって必要だって、師匠も言ってるぜ。ほら、お前も寝転がってみろよ、リクオー、いーい天気だー」
「ねー。あ、鶯が鳴いたー。もうすっかり春だねー」
「あったかくなったよなー。この前までは、春だって言っても暦だけで、まだ寒かったもんだけど」
「……類友って言うのかな、こういう二人のことは。……あッ、鯉伴さま、糸、引いてますよッ!」

 手が離れた守子が、己で己の友を選ぶ、そこに寂しさを感じぬわけではないが、鯉伴の年を考えれば当然のことなので、リクオは二人の友人関係を喜んだ。

 鯉伴とリクオの縁が切れたわけではない、鯉伴が、一個人としてちゃんと育ったのだと思えば ――― あの日、奴良屋敷を出てくる間際、総大将に撫でられたときのように、もう大丈夫だろうと、感じられた。






 巡っていく。廻っていく。時はどこか緩慢に、緩やかに。
 それでも決して、過ぎ去ったまま、決して、帰りは、返りは、還りはしない。






 千代の鶏小屋を手伝おうと言う者は、今まで居なかったが、鯉伴は何の気負いもなく、しかも百年も前からこの里にいるように馴染んで、最近では暇さえあれば千代の小屋で、薪割りや大工仕事を手伝っている。
 最初は戸惑っていた千代も、今では困ったことを素直に鯉伴に頼んだり、重い荷物を任せたりするようになったり、作った御萩をお裾分けするようになった。

 いつの間にか、するりと誰の心にも入り込む、なるほど、鯉伴も確かにぬらりひょんだった。

「鯉伴て、物好きだよね」

 河童が呆れつつ、それでも清水から汲んだ水で瓶をいっぱいにするのを手伝いながら、皆が思っても言っていなかったことを、ばっさりと口にする。

「なんで。女一人であんな辺鄙なとこに住まわされてんだ、手伝って当然だろう。お前だって、水車小屋の手伝いしてんじゃねーか」
「あそこに住んでる人たちは、浚われて来た人たちだもん。千代とは違うよ」
「どう違う」
「千代は好きでここに居る。あそこに住んでる人たちは、仕方なく、ここに住んでる」
「それこそ、違うよ。千代だって別に、好き好んでこんな暮らししてるわけじゃねえって言ってた」
「えっ。喋ったの?」
「喋りはしねーけど、訊けば首を縦に振ったり横に振ったり、俯いたり、そういうのでなんとなく、わかるだろ?」
「……やっぱり鯉伴て、物好きだよね。僕たちが千代を手伝えば、千代の仕事が減る。千代の仕事が減れば、それだけ千代は糸を縒る。あの糸は、小物たちを縛る術布になる。それだけ多くの小物たちがここへ新しく連れてこられたり、巡業に出されたりするようになるって、わかってる?」
「わかってるさ。わかってるけど、穴の開いた屋根を塞ぐ仕事だの、何度も川と小屋を往復する仕事だの、金槌使ってトンカンやるだの、可哀相で見てらんねーよ」
「ははあ、惚れましたかー」

 事実だったかもしれない。鯉伴はぶすっと膨れた頬を、少し赤く染めて言い返した。

「馬鹿言え、世の情けだ」
「情に棹差せば流されるって言うよー」
「河童だって時には川に流されるって言うじゃねえか。んなもん、流されたときに考える」
「まあ、見てらんないのは、ちょっと思ってたから、いいんだけどさ。ねーねー、千代との話し方、僕にも教えて」
「なんだよ、嫌ってんじゃないのか」
「嫌ってなんてないよ。話せるって知らなかっただけ」
「お前も、物好きだなぁ」
「鯉伴の友達やってるくらいだからねー」



 少年の日々は、健やかに過ぎていく。