桜の花が咲く頃に、待ちに待った、巡業の季節がやってきた。



 笛高らかに鳴り響き、昼から門出の花火が上がって、天幕の中に住んでいた東西の部屋の皆が隊列を組み、ぞろぞろと北西目がけて歩き出す。北西 ――― 加賀へ。

 鎖につながれるという話を聞いていたので、鯉伴はてっきり、人買いなどが扱う商品をそうするように、足や手を枷に繋がれて、一列に並ぶ妖怪や人間たちの姿を想像していたのだが、出発前に尋ねてみれば、河童はだいたいいつも眠たそうに細めている目を、みょんと縦に大きく開き、次に声を立てて笑い出した。

「まさか。そんなの、傍目に見ておかしいじゃんんか。鎖に繋がれてぞろぞろぞろ、なんてさ。そりゃ、ここに来たばかりで暴れるとか、酒によって暴れて手がつけらんないとかって言うときは、妖気を全部封じるような重い鎖も使うみたいだけど、僕たちこれから見世物になるってのに、そんなに重い鎖につながれちゃ、見せるものなくなっちゃうじゃない。せいぜい、装飾品に見えるようなもんだよ。里の中と同じくらい、妖気を封じられるくらいの。それも、千代の糸を元にして、陰陽師たちの念を込めて作ってるんだってさ。僕達、片棒かついでたのかもよ」

 最後の方は冗談として、概ね、河童が言った通りだった。
 里の外れ、西の山道に差し掛かると、関所のような木戸が設けられ、見張っていた人間の門番たちが、一行で一目に妖怪とわかるものや妖怪と知れている大物たちに、いぶし銀の腕輪を、手渡すだけでなく、通り抜けようとする妖怪たちの腕にしっかと嵌めている。
 鯉伴も、木戸をくぐるときに腕輪をはめられて、途端、木戸を潜って抜けてしまうまで、何ともいえない虚脱感に襲われた。
 小物たちは腕輪のかわりに、両手首にしっかりと印を刻んだ布を巻かれている。
 簡単に取り払ってしまえそうな腕輪だし、ただの布に見えるのだが、不思議と腕輪は手首におさまってはがれてくれず、布は軽く結んでいるように見えて、結び目は決して解けない。妖術を使えば解けるのかもしれないが、妖術を使える妖怪は、ことごとく妖気を封じられ、妖力をためられず、加えて隊列には陰陽師や雇われた修験者、退魔師の姿もある。逃げようとする者があれば、捉えられるか、あるいはそのまま滅されてしまうかもしれない。
 己に分が悪い状況で、列を離れる者はなかった。

 それでも、外に出られるのは誰にとっても嬉しいこと。
 里の外に出られる、見飽きた風景ではない、山の向こうの景色が見えるとあって、旅の間中、隊列のあちこちで、珍しい鳥の声や美しい雲の形に歓声があがり、つまらない冗談でも皆、声をたてて笑った。






 隊列は昼となく夜となく歩み進む。
 昼は人間どもの軽業師や山猫廻しなど、表向きの見世物小屋連中が荷車の外に出て、妖怪たちは荷物の中や牛車の中で寝入ったりして過ごす。夜には隊列を交代し、今度は妖怪たちが歩を進める。
 見世物として扱われる中では人も妖もなく、里の生活でもそれぞれができることで誰かができないところを補った仲だ、互いの縁が強いのは、虐げられる不幸の中で唯一の光明だった。

 人と妖が入り混じり、笑いながら夜となく昼となく山道を妖しく練り歩く様に、鯉伴は浮世絵町の祭りの夜を思いだす。年に一度の祭りでは、リクオがその日だけは小物たちの主となって、鯉伴はその隣で、人間の子供たちとともに、町を練り歩いたものだ。

 しかし、お祭り騒ぎに似た行列の中、千代はやはり、胡乱者として扱われた。

 道中、陰陽師や退魔師たちの姿はあれど、古部の姿はなかった。
 千代もどちらかと言えば、陰陽師たちの側の者なのだろうに、彼等は千代を仲間と認めるどころか、何日経ってもまるで空気のように居ないものとして扱い仲間に入れず、ようやく金沢の街に着くという頃、うねうねとした山道を下りながら遠くへ見えてきた街の景色に、昼日中、列の中ではしゃいだ小物たちが千代の足を引っ掛けて転ばせても見て見ぬ振り。
 いや、ほかの妖怪たちが大笑いする横で、くすりと笑う者まである。

 見ていられず、鯉伴は列を離れ、転んだ千代が膝をついて立ち上がれずにいるところへ、手を貸してやった。
 千代は戸惑い、それでも土についた手を、ほんの少し持ち上げる。
 出会ったばかりの頃は、鯉伴が無理に手を握らなければ、決して自らすがろうなどとはしなかった。
 鯉伴は中途半端に浮いた手をがっしり掴み、立ち上がった。
 千代も手に引っ張られて身をおこしかけたが、途端、表情のうかがえない顔が、僅か怯えたようにひきつって、またしゃがみこんでしまった。

「どうした、千代」

 戸惑ったように、千代が足首をさする。

「あちゃあ、捻ったか」

 こくん。鯉伴の声に、頷いた。
 声を出せないなど、表情がうかがえないなど些細なことのように、鯉伴は千代の言いたいことを瞬時に汲み取った。
 これまで、毎日のように顔を合わせていたために、鯉伴は千代のちょっとした所作や癖を読み取るようになっていたし、千代も千代で、鯉伴にはほんの少しずつ、心を開いている。身振り手振りが少しだけ多くなり、今も、足首を押さえて堪える様子を見せた。

「鯉伴、熱を上げるなら、他の娘にしておけって」
「何なら、茶屋のいい娘紹介するぞ」
「放っておけばそいつ、ついてくるんだから。甘やかすからつけあがるんだ」
「甘やかすかすからつけあがるんじゃなくて、今までは誰も手を貸してやらなかったから、自分でなんとかするしかなかったんだろうが。お前等、それでも男か、情けねえ。からかうだけなら、おれに構うな」

 同じ西部屋の連中が、進む行列の中から冷やかすような声をあげた。
 鯉伴がふてくされて怒鳴っても、はやしたてるばかりで話にならない。

「ったく、あいつら、もうすぐ街につくからって、浮かれやがって。ごめんな千代、後で殴っとくから」

 ふるふる。千代が首を横に振って、視線を落とし。
 ついと、糸を縒り続けて痛んだ白い手で、先を示した。

「放って行けるわけねえだろう。ほら、つまんない意地はってないで、そこ、座れ」

 脇に転がる具合の良い石に千代を座らせて足首を見てみれば、真っ赤に腫れ上がっていた。
 例のごとく、河童は立ち止まった鯉伴について行列を脇に逸れ、つかず離れずの距離で二人がすぐに列に戻るものと思って立ち止まり侍っていたが、鯉伴が手ぬぐいを割いて、ともかく腫れを冷やしてやろうと水筒の水を浸しているのを見ると、懐から軟膏を取り出して鯉伴に渡してやった。

「河童忍術秘伝の軟膏だよ。つけすぎるとかぶれるから、よくのばして使ってね」
「おぉ、いいモン持ってるなぁ、お前。悪いな、借りるわ」
「どういたしましてー」

 千代も、ふと河童の方を見て、いつも何を見ているのかわからぬ、あの黒々とした瞳に今は河童を映し、両手を合わせて拝むような所作をした。

「千代も、『ありがとう』だってさ」
「いえいえ、どういたしましてー。……気をつけてると、千代の言いたいことってホント、わかるもんだねー」
「だろう?声なんて出なくたって、事足りるだろう?」
「でもさー、千代ってー」
「うん?ちょっと待てよ、河童。千代を背負っちまうから。……ほら、どうしたよ千代、遠慮しないで乗れ。この山道、荷車に乗るより背負われた方、早いぞ」

 戸惑う千代の視線はは、鯉伴の背と、河童と、せわしなく行き来する。
 やがて、鯉伴の背にそっと身を委ねた千代の顔は、何とも娘らしく頬を染めていて、

「よし、いいぞ河童。待たせたな」
「ううん。あとでかわるよー。一里ずつくらいでいい?」
「おう、助かる」
「ねえ鯉伴、本当だ。千代って可愛いね」
「………あん?」
「あ、そっか。背負ってるから、顔、見れないのか」

 おずおずと鯉伴の背にしがみつき、困ったように細い眉を寄せている様子は、

「今、すごく可愛い顔してるのに。もったいなかったねー」

 人の娘など、どれも同じに見える河童にも、そう言わせるに充分なものだった。

「おい河童、今すぐ代われ」
「嫌。だって僕が背負ってもそんな可愛い顔しないよ、きっと」
「はぁ?」
「さっき言いかけたでしょ。千代はね、鯉伴といるときだけ、すごくお喋りになるんだよ。よかったねー鯉伴、通じてるよ」
「つ、通じてるって、ば、馬鹿お前、そんな、なんだ、千代に失礼だろ、嫁入り前なのにッ」
「通じてるの意味がちがーう。焦りすぎだし」

 己の耳に熱が上がるのを感じつつ、鯉伴は河童から顔を背けて、列に戻るとまた歩み始める。
 河童はさらに鯉伴をからかい続けるような、悪い趣味を持っていない。
 鯉伴の顔が赤い理由などもう忘れてしまったように、帽子のように大きく張り出た皿の向こうで、眠たそうな目をしばたたかせていた。

 つかず離れずの距離が心地よい、この里一番の鯉伴の友人は、けれど鯉伴の面映さなどを全く考えないずけずけとしたところがあるので、

「……千代は、ずっと鯉伴の背がいいって思ってるかもねー」

 本気なのか、それとも一里先で交代するのが嫌なのか、わからぬ事を平気で言う。

「どういう事だよ」
「そのままの意味。千代に訊いてみたら?声なんて出なくても、事足りるんでしょ?」
「おい、河童!」
「僕、リクオくんの様子見てきてあげるよ。煙々羅に我侭言われて困ってないかな。じゃ、お二人さん、後でねー」
「おい!」

 言うが早いか、河童はするすると水が岩を避けるごとく速やかに、人の間を縫って隊列の先頭目がけて走り出す。すばしっこい河童を、千代を背負って追いかける気にはなれず、仕方なし、鯉伴は千代と残されてしまった。

「 あいつ、勝手言いやがって。気を悪くしたらごめんな千代、いっつもはあんな風に、からかうような奴じゃないんだけど」

 ふるふる。千代はやわらかく首を横に振る。肩越しに、千代の髪がさらさらと鯉伴の項をくすぐって、それがわかる。
 ううん、いいの。
 声がなくても、そう答えたのが、わかる。

「いい奴なんだぜ、あいつ」

 こくん。今度は縦に、頷く。
 うん、知ってる。
 こく、こく、こく。何度も、頷く。
 いつも、二人で手伝いに来てくれるから。

「嫌な奴ばっかじゃ、ないんだ」

 ……こくん。頷く前に、間があった。
 うん……信じたい。

 声はなくても事は足りる。

 けれど。

「…………お前の声が聞きたいな、千代」

 …………俯く。鯉伴の肩を掴んだ細い手に、きゅっと、僅かに力がこもる。

「わかってる。声が出せないなんて事は、わかってるんだけどよ」

 ほんの幼い頃に、苔姫とリクオが話しているのを、何が面白いやらとばかり思っていたが、今は。
 天気のことでもいい。近所の猫が仔猫を産んだとか、他愛の無い話でいい。
 なんでもいい。

「お前から、おれに話しかけてほしいなとかさ、思うんだ。何でもいいからお前のこと、教えてほしいなって、思うんだ。お前はおれに答えてくれるけど、お前自身のことは、まだ何も、お前から教えてもらったこと、ないからさ」

 こつん。鯉伴の後ろ頭に、千代が己の頭を触れさせた。
 ごめんなさい。
 鯉伴は笑う。

「いいんだ。ただの、おれの我侭だから。でも、ちょっとは考えておいてくれよ」



 ……………………………こくん。



+++



 加賀は金沢の街までの道中、煙々羅があれこれ用を申し付けて朝から晩までリクオを傍から離さなかったので、宵に姿を変えられるかどうか、試すことはできなかった。
 見目は青年でも、

「喉が渇いた」「汗をかいた」「腹が減った」

 このように次々注文や文句が口から出てくるところなど、物心ついた頃の鯉伴よりもたちが悪い。
 しかも、煙々羅の様子に、リクオがそれこそ少しでも鯉伴を連想し、今頃列のどのあたりで何をしているのだろうと気にする素振りを見せると、途端に機嫌が悪くなった。

「里に来る前は、あいつがお前の主だったのかもしれんが、今のお前は俺様の小間使いだ、余計なことを考えるな」
「勘違いしてるよ、煙々羅。鯉伴さまはボクの主なんかじゃない。ボクはあの子の守役なんだ、気になって当然だろう」
「主でも守子でも関係ねぇ。とにかく、今のお前は、俺様のなんだ。あいつより、俺様のことを気にしろ」

 主張の内容は、子供の我侭そのものだ。
 リクオが初めて東部屋を訪ねた際、むき出しにしていた敵意を他ならぬリクオに軟化させられてから、煙々羅は何かと彼を手元に置きたがる。しかし言い方はこのように乱暴なのだが、前述の道中についても、険しい場所があると何も言わずにリクオを肩に担ぎ、すぐそばで血気盛んな連中がはやって喧嘩を始めたときなどは、彼奴等とリクオの間に入って盾になるなど、扱いは至極、丁重なのだ。
 結局は、子供が気に入った玩具を手放したくないだけなのだろう。
 そうなると何だか、邪険に振り払うのも可哀相で、結局そのまま、金沢についてしまった。

 ついたならついたで、今度は街の中、河原に例の、中が一つの町のように広い天幕を張ったり、その中の部屋でさっそく稽古の準備をしたり、部屋の皆の晴れ着を用意したり、外に集った屋台からなにそれを買ってきてくれと関取たちに頼まれたりと、目が回るように忙しい。
 昼間に人間たちが舞台で軽業を見せている間に、てんこもりの用事を済ませ、昼過ぎから夕方まで泥のように眠り、夕方少し前に起き出しては煙々羅の傍について妖怪たちの一番を土俵のすぐ傍で見つめ、終われば部屋に帰って皆の飯の振る舞いと後片付け、明日の準備に明け暮れ、ぐったり疲れた体を床に横たえる頃にはもう夜が明けかけている。

 リクオに自由になる時間は全く無かった。
 鯉伴に会うことすらままならず、せいぜい、取り組みの前の彼に寄って、一言二言、助言になるかならぬかわからないものを耳打ちするくらいだ。これにすら、煙々羅は子供の焼餅を隠そうともしない。
 もっとも、この場所で鯉伴が煙々羅の焼餅の憂さ晴らしになることは無かった。
 初めての巡業では、新入りは格付けのために、同じ場所の相手としか取り組みが無いのだ。部屋が違う煙々羅と鯉伴は、最初から取り組みの予定が無い。
 元々、ここの試合には得物を持ち込むことは禁止されているし、とすれば己の体術と妖術が頼みだ。同じ部屋の者相手に、禁じ手の得物持込を行うような者は西部屋には居なかったので、今回の巡業で鯉伴の身柄は保証されているのが、不幸中の幸いだった。






 新入りとは言え、部屋の稽古のときから中々の実力の持ち主と思われていた鯉伴が、前頭を次々下して連勝を重ね、小結の河童と良い勝負の末にえいやと投げ飛ばして勝利をおさめ、関脇をあっけなく破り、ついに十四夜目、大関の輪入道の前に立ったときなど、会場からは取り組み前から会場はすさまじい熱気と歓声であった。

 東部屋に、負け知らずの新入りが居る。
 明るく笑う少年で、笑顔に幼さが残るが頼もしげな美丈夫であると聞いて、鯉伴が前頭を全員破る頃にはもう、町中の女たちまでが連れ立って天幕にやってくるようになった。
 これにも、煙々羅は面白くなさそうに、顔をしかめていた。
 リクオはあえて煙々羅の不機嫌を見ぬ振りをして鯉伴に近づき、

「いいですか、どんなに激しく回る独楽も、軸だけはそれほど動きません。くれぐれも、お忘れなく」

 それまでもそうしていたように、そっと耳打ちする。
 つらっと聞き流したような顔をして、これまでも鯉伴は素直に助言を聞き入れ、相手を下してきた。
 今回も、そうなった。
 輪入道は勢いよく己の身に炎を纏わせ、恐るべき火の輪と化して鯉伴に襲い掛かったが、鯉伴はすんでのところで姿を霞に隠し、おやと輪入道が姿のかき消えた鯉伴を探そうと、広い土俵の上、隅のところで身を反転させたところへ、ふわりと宙からあらわれて、げしり。
 見事な蹴りが、輪入道の顔のど真ん中に当たり、たまらず輪入道はばったりと倒れた。
 リクオの耳打ちの通り、たしかにそこだけは、勢いが殺されていたのだ。

 新入り、初巡業にして大関を破る大番狂わせ。

 あっけなさすぎて目をぱちくりさせていた鯉伴の肩にするする登ってきた小猿行司が、鯉伴の腕をつかまえて天に上げさせ、勝者を示すと、割れるような歓声が起こる、黄色い声が飛ぶ、座布団が舞う。

 西部屋大関の、この大番狂わせに対して、土俵に倒れ伏したまま一言。

「……………………ひどい」






 新入りの美丈夫が大関まで下したという評判が町中に広まり、千秋楽・十五夜目は押すな押すなの満員御礼。

「キャー!鯉伴さまー!鯉伴さまー!」
「こっち向いてー!」
「目が合った!キャー!キャー!鯉伴さま、キャー!」
「照れてるー!可愛いー!」
「鯉伴さま鯉伴さまうるせえッ」
「おうよ、これだから女はわかってねぇ、伊佐と煙々羅の一番こそが大勝負だってんだ!」
「やだねー、男の嫉妬は醜いよ!」

 千秋楽、鯉伴の最後の相手は言わずと知れた、西部屋横綱、伊佐である。

 浄玻璃の鏡と、煙々羅に称されたリクオの目利きも、伊佐を相手にはどうしてもうまくいかない。
 鯉伴も、今までの稽古で何度となく胸を貸してもらったことはあるが、勝てたためしが無い。

「質量が違いすぎるんです」

 河童よりも上手く水を御し、妖怪たちの炎も風も雷も通さず腕の一振りで霧散する。
 その伊佐の正体が何なのか、リクオは薄々気がついている。稽古で負けるたびに悔しげな顔をする鯉伴と違い、慰める言葉にも容赦が無い。

「どんな妖も、伊佐様には一鬼じゃ勝てませんよ。おそらく、屋敷の牛鬼さまも、雪女の姐さんも、一ツ目入道さまだって、きっと無理です」
「それじゃ、いつか日ノ本の国の妖怪たちは、師匠に牛耳られるのが決まってるって言うのか?」
「いいえ、きっと、総大将なら勝てます。総大将には百鬼がついていますから。そして多分伊佐様は、百鬼を従えるよりも、大海原を泳いでる方がお好きだから、日ノ本の国を牛耳ることになんて、本来興味は無いんでしょう」
「……んで、師匠の弱点は何だ。おれが勝てるとしたら?」
「勝てませんよ。今、そう言ったばかりでしょ。弱点は相反の炎か、相克の土でしょうが、それだって、鯉伴さまは鬼火の力を借りないと炎を起こせないですし、余程大きな炎でなけりゃあ、それこそ焼け石に水」
「……おれにできることは」
「一本釣りで鯨が釣れますか。大船に乗って、皆で力を合わせてようやく互角。伊佐様は、そういうお相手です」
「…………参ったな」
「瘤ができたら撫でてあげます。がんばってらっしゃいな」
「ちぇ、他人事だと思いやがって」

 可愛らしく手を振るリクオは、水干袴ではなく、柳染の真新しい直垂に身を包んでいる。
 巡業の前に、煙々羅に与えられたものだった。曰く、自分の付き人がいつまでも着たきり雀では困るということだ。他にも何くれと身の回りのものを与えられ、リクオが心から礼を述べるとまた、たまたま壁の汚れが気になったらしくそっぽを向いていたが、紅蓮の髪から覗いた耳が真っ赤になっていたのは、何も彼が帯びる炎の妖気のせいだけではなかったろう。

 鯉伴も今は、伊佐から与えられた濃藍の晴れ着を、袴に押し込んでいた。
 時折ふらりと風に誘われて山野を駆け、時間を忘れて稽古をすっぽかす事がある鯉伴だが、素直で明るい心根と、季節のうつろいに風情を感じ入る趣深さなどは、伊佐にすぐに気に入られたのだ。稽古をすっぽかしてしまった分は、ちゃんと後からその分だけ多く居残り稽古をしているところなども、目にとまっていたのだろう。
 ともかく着の身着のままで里に放り込まれた身分では、好意に素直に甘える必要があった。
 この点、二人はそれぞれ無自覚ながら、するりと相手の心に入り込んで、しっかり魅了していたのかもしれない。

 しかし、禁じ手が決められた遊び、見世物の類であれ、伊佐が手加減をすることは無い。
 稽古で胸を貸すときですら、いつもの穏やかな顔はどこへやら、一転して厳しい顔を見せる男なのだ。

 いよいよ土俵へ上がる間際、鯉伴もまた、それまで恨めしそうにリクオと、その隣でやはり真新しい着流しに身を包んだ一ツ目小僧が手を振るのを見つめていたとは思えぬ毅然とした顔へ様変わりした。
 土俵とは言え、人間の相撲力士が使うような狭いものではなく、言わば擂鉢状の闘技場だ。
 天井も高く、妖怪たちは封じられた力ながら、のびのびと戦うことができた。

 この闘技場を使って、鯉伴にできることは少ない。
 元々妖術の扱いには長けていない。炎だ、氷だ、水だと、妖怪ならば何か持っているこれといった力を、鯉伴は持っていないのだ。例えば炎を扱うときには炎妖の、水を扱うときには水妖の力を借りねばならない。
 一人でできることなど、姿を消して懐に飛び込むか、あるいは、認識をずらして繰り出される術をかわすくらいに限られており、伊佐は鯉伴のこれまでの闘いで、実力を既に見抜いているはずだ。

(分が悪い。どうやって戦う。まずは姿を消す。後ろにまわる。いやだめだ、師匠は死角が無い。人型の目はまやかしだ、逆に足蹴りを喰らう。あの腕も脚もおれより長い。ならば姿は見せておいて、飛び込んでくるのを待つ。待って、認識をずらしてかわす。いや同じだ、かわすにしたって少しは掠る。あのでかい体に体当たりされたら、肋骨の一本二本じゃすまねえ)

 あれこれ考えながら一歩、土俵の土を踏んだとき、ふと、鯉伴は千代を思い出した。
 新しい着物を貰ったと話したら、自分のことのように「よかった」と何度も頷いて両手を打ち合わせてくれたあの娘。いつも粗末な単衣に身を包み、櫛の一つも無い髪をそのままにした、あわれな娘。

(そうだ、櫛と着物を買ってやろう。着物は真新しいのじゃ気を使わせる、明日、古着屋にでも行こうかな)

 これまでの戦いで、手元に入ってきた祝い金が、結構溜まっている。
 これまで屋敷で食うにも寝るにも困らなかった身だが、これは己の腕だけで稼いだ金と思えば、何だか誇らしい気がした。

 不思議なことに、そのときあれこれと曇っていた心が、すうと晴れていき。

( ――― やれるだけ、やってみるか)

 そういう気になった。

 位置について、伊佐と対面する。
 何の迷いもなく、己の倍はある巨体を見上げると、伊佐はこちらを厳しい顔で見下ろしていた。

 稽古のときにはあった、あの穏やかな笑み。
 小鳥すら肩に止まる殺気のなさ。
 その師匠は、今ここには無い。だが。

 鯉伴は、にいと笑った。心はまさに明鏡止水。

 負けを許される戦いは少ない。任侠の世界ならば、尚のこと。負けは死を意味する。
 であれば、今は己に許された、数少ない負けの場だと、思うことができた。
 もちろん、ただでは負けない。
 なるほど、鯨相手に一本釣りは難しかろう。鯉など一飲みにされるかもしれない。
 だが、一寸法師の戦いは、鬼に飲み込まれてからが本番ではないか。

「……良い目でス、鯉伴サン」

 一瞬、伊佐が口許を緩めた。

「師匠、胸を借りるぜ」

 かくして、新入りと横綱の取り組みが始まった。