リクオが抜け出す機会を見つけたのは、その千秋楽の夜。 春場所の十五夜目、それまで負け知らずであった伊佐と煙々羅が、ぶつかり合った後だった。 人どもの相撲と同じように、勝ち星の数で優劣を競うこの巡業、毎度のことだがこの二人、お互い負けを知らぬせいで、必ずと言って良いほど千秋楽の最後の一番を飾る。その日、同じ様に全勝している者があったとして、まずはそちらと戦っても、必ず勝ち残ってしまう二人だ、雌雄を決するには、ぶつかり合う他、ない。 それまで全勝であった鯉伴を伊佐が下し、同じ様に西部屋で全勝していた者を、千秋楽で河童が下したために、結果、この春場所でもいつものように、横綱同士の大一番が催された。 結果、伊佐に破れた煙々羅が姿を消したので、思いもかけぬ好機が訪れたのだった。 付き人ならば、横綱の取り組みが終わればこれに従って世話をする。 リクオの場合はもうすっかり、かんしゃくを起こした煙々羅を宥めるのも、部屋の皆が期待する《世話》の一部になっていたので、伊佐に負けた煙々羅が荒れ狂うのを予想して、どう慰めたものかと思案しつつ、なるべく、善戦の末伊佐に敗れて昏倒した鯉伴のことは考えないように ――― 他ならぬ、伊佐がやりすぎたと慌てて駆け寄っていたし、一ツ目小僧が冷たい手ぬぐいをすぐに額にあてていたし、きっと大丈夫、そう自分に言い聞かせたりもしながら、花道で煙々羅を待っていたが、実際はなんともあっさりしたものだった。 「負けちまった」 あっさり肩をすくめて言うと、リクオが差し出した手ぬぐいで顔や首のあたりを拭う。 伊佐が優勝の栄誉を受け、いまだ土俵の上で拍手と歓声を浴び、両腕を上げて応えているのに対し、静かにその場を去る。 静か過ぎて、彼の手下の誰もが声をかけられない。下手なことを口にして、八つ当たりをされてはたまらないから、手下たちは彼が前を通るとき、さっと目を伏せ背中だけを見送った。 リクオだけが後ろに従ったが、二三歩後ろをついていったところで、 「今日は古部の野郎に呼ばれてる。遅くなるから、部屋の奴等にゃ、適当にやるように言っといてくれ。負けたとは言え、久しぶりの娑婆の空気だ、飲むなり買うなり打つなり、好きにしろってな」 やんわりとだがぴしゃりと言われてしまえば、それ以上は追えなかった。 言伝を預かったこともあり、一度部屋に戻って手下どもにこれこれと伝えると、あからさまに皆ほっとした様子で、次にはすっかり部屋の主のことなど忘れ、久しぶりの娑婆の地、見世物にされる日々の終わりの夜を、騒ぎ歌い楽しみ始めた。 負けはしたものの、東部屋の連中にとっても、それこそ煙々羅が言った通り、久しぶりの外界である。 主が古部に呼ばれたならば、古部のお気に入りの主のこと、慰めの酒など振舞われているのだろうと、もう気にもしない。 「おいリクオ、お前ももういいぜ。給仕なんぞは女どもにやらせるから、鯉伴の奴のところへ行ってやれ」 鬼たちが気を利かせてか、早々にリクオを解放してくれたので、言葉に甘えて彼もまた、一度は西部屋に足を向けたのだが。 ――― 適当にやるように言っといてくれ。 言っておけ、ではなく。 乱暴ではあるがいつの間にか、物を頼むことを憶えたらしい、煙々羅。 今日の言葉尻は、どこか覇気がなかった。 少し迷って、リクオはくるりと方向を変え、煙々羅が去った、天幕の外へ。 古部がこの町のどこで何をしているのかは知らないが、おそらくどこぞの旅籠で、飯盛女と騒いでいるのだろうし、煙々羅は巡業の地では有名だ、どこへ行きましたかと道往く人に尋ねれば、見つけられないはずは無い。 何故か気が急いて、自然と、足運びは速くなった。 +++
ひい、ひい、ひい。 すすり泣く。這い蹲る。手を伸ばして助けを求め、ようやく掴んだ爪先で、容赦なく蹴りとばされ、またすすり泣く。 ひい、ひい、ひい。 ひい、ひい、ひい。 「次、やれ」 無慈悲な声がしたかと思えば、周りを囲む陣からどろりと立ち上った黒い煙が、彼を囲み取り巻いて、涙を流す目といい口といい耳といい、意志を持っているように蠢きながら、とにかく中へ入り込もうとするのだった。 彼がどんなに振り払おうと、許しを請おうと、おかまいなしに無理矢理に。 ただの煙ではない。 苦痛そのものだった。あるいは、怨嵯そのものだった。暗闇であり、呪怨であり、絶望であった。 煙の腕に触れられた場所から、肌が黒く病的に染まり、充分に染み込めばまた元の肌色に戻るのだが、皮膚の下でもぞりもぞりと虫のように蠢いている。 生きながら、腑分けでもされているような、苦痛。 ひい、ひい、ひい。 ひい、ひい、ひい。 みっともなくすすり泣きながら、ぼろぼろと涙を流し、苦痛に耐えられず獣のように叫びながら、いつものように彼は呪う。 「なんで、なんで、こんな目に合わなきゃならねえ。俺様に一体何の恨みがあってこんな目に合わせる。なんで、なんで、なんで。なんで、なんで、なんで」 ひい、ひい、ひい。 ひい、ひい、ひい。 いつもの呪詛、いつもの遠吠え。 慣れている術師たちは、無機質に文言を読み続ける。 ギャアテイギャアテイハァラァギャアテイ。 人の子等の、輪の中で。 かごめかごめ、輪の中で。 ただ一匹の獣は、泣き続ける。 ひい、ひい、ひい。 ひい、ひい、ひい。 哀れなすすり泣きに耳を傾ける者など、誰一人としてなく、印は組まれ、陣の上で彼がのたうち回る時間は続くはずだった。 「もう、もう、やめてくれ。許してくれ。頼むから、やめてくれ」 今までは無かったことが起こった。 どれほど苦しくとも、陣の上でのたうつ彼がこのように、許しを請い願うなど、ありえなかった。粗野で乱暴な人ならざる者が、己に痛みを苦しみを与える術師たちに呪いを叫ぶことはあれ、このように這い蹲りながらものを頼むなど、今までなかったことだ。 「そんな物言いを、誰に教わった、煙々羅」 からかうような声色が、術師たちの真言に混じって彼の耳に届く。 古部だった。 「お前も少しは礼儀をわきまえたか、それは良いことだ。だがな、勘違いしてもらっては困る。これはお前を強くするためのものなのだから」 「強く……強く」 「そうだとも。強くなりたいだろう、伊佐になど負けたくないだろう」 「強く……」 「そうさ。なに、明け方には終わる。いつものことだ、もう少し耐えよ、煙々羅。お前にならばできるだろう。 お前は勝たねばならんのだ。里の中で最強となり、お前を負かす者どもは全て乗り越え、お前こそが魑魅魍魎の主となる。お前が闇の世界を牛耳り、そのお前を我等人間が牛耳る。これこそ調和だ、お前は希望なのだ、強くなってもらわねばならんのだよ」 「………嫌、だ」 「なに?」 「なんで、なんで、俺様がそんなことをしなくちゃならねえ」 「なんだと?魑魅魍魎の主になりたくはないのか。お前はそれでも、妖怪のはしくれか!」 「そんな、そんな事に興味はねえよ。人間どもが何をしようとしてるのか、そんなことは知ったことじゃねえ。好きなようにやればいいさ。ただ俺様は、俺様は、これ以上はもう無理だ、無理なんだ、伊佐には勝てねえ。勝てるはずがねえ、無理なんだ、誰か、誰かに助けてもらわねえと、無理だ、あんなの」 「狭量な者め、貴様も妖怪として生まれたのだ、闇の世界を己が牛耳ってやるぐらいの気概を持てんのか!助け合いだァ?!妖怪ごときが笑わせる!」 真言は続く。苦痛は続く。 ひい、ひい、ひい。 ひい、ひい、ひい。 哀れなほどに涙を流し、煙々羅は苦痛にすすり泣く。 「今までお前にどれほどの妖力を与えてやったと思っている。全て無駄にする気か?」 「てめぇ等が勝手にやったことじゃねえか、てめぇ等が俺様に、勝手に注いだんじゃねぇか」 「お前を強くしてやるためだ。そうだろう。お前は勝たねばならんのだ!」 「嫌だ、嫌だ、もう嫌だ。いっそ、もう、終わりにしてくれ、誰か別の奴を。もう嫌だ、嫌だ、痛いのは嫌だ、苦しいのは嫌だ、終わらせてくれ、滅してくれ。生まれる前にたゆたっていた、あの炎に俺様を戻してくれ」 「また最初からやり直せと言うのか。熾した炎に意志を持たせ、生まれた火の玉童子をいっぱしの大物にしてやるまで、どれだけ時間がかかったと思っておる」 「還りたい。還りたい。還りたい」 「ええい黙れ、黙れ、黙れ!貴様は強くなるのだ。強くなって、妖怪どもを従えておればよいのだ、そしてお前は主となれ。貴様は何も考えるな、考える必要は、無いのだ!」 古部がの手が印を結んで呟けば、煙々羅の額の金冠が彼を締め付ける。 ひい、ひい、ひい。 額から煙をあげて、煙々羅は泣き叫ぶ。 「まったく、魑魅魍魎の主に、なりたくない、だと?妖怪のくせに何を言っておる。百鬼を従え練り歩きたがるのが、貴様等ではないか。それを、何を今更……」 虫けらのように床に転がる煙々羅を見下ろしながら、古部は忌々しげに呟いた。決して、答えを期待した言葉ではなかったのだが。 「 ――― 力じゃねぇんだよ、主ってのは」 どこからか、答えがあった。 ふわり、はらり、桜の花弁が古部の目の前を、いや、術師たちが円座を組むその部屋にどこからか舞い込んだのだ。 地下である。 窓は無い。 空気さえ迫る闇に重さを増して、光源は、術師と術師の間に置かれた小さな灯火と、苦痛に悶えては明滅する、煙々羅の身体そのものくらいだった。 なのに、この桜は一体どこから。 そして、この答えの主は、何処に。 そうこうするうちに、桜の花弁は花嵐。 ほんのりと光る桜がふわりはらりと舞い落ちるては降り積もることなく消える様、幽玄の里へ迷い込んでしまったかのようだった。 美しかった。 陣を組んでいた術師たちが唇に真言を乗せるのを忘れるほど、痛みに泣き叫んでいた煙々羅が、苦しみを忘れて魅入るほど。 「な、何奴だ、どこに居る!」 古部もまた、一瞬呑まれそうになった。 ようやく己を叱咤して誰何したが、得体の知れぬ相手に声は上擦り、額に冷たい汗が流れる。 「何を言ってるんだ、アンタの目の前にいるじゃねェか」 部屋中を見回しても見つからなかったというのに、この声が答えたと思うと、術師たちが円座を組むその中心、煙々羅が這い蹲る陣の真上に、一人の青年の姿があった。 柳染の直垂に、紅の傘を粋に傾け、花弁の雨を受けている。 髪はしろがね、瞳は傘より尚も妖しい紅瑪瑙。 切れ長の瞳と、通った鼻筋の美丈夫は、驚いて声も出ない術したちの前で、堂々と彼らの術が敷かれた陣の上に降り立ったのである。 青年。そう見えたが、異相と纏う紫雲の妖気は、まさしく人ならざる者に違いなかった。 「古部、教えてやるよ。妖怪どもは何も、皆が皆、魑魅魍魎の主になろうと思ってる奴ばかりじゃねぇ。 人が皆、もののふとなって名を上げようとしないように。 人が皆、争いを好みはしないように。 中にはひっそり穏やかに暮らしたいって奴も、ある。 主ってのは、そういう奴らも抱え込み、守ってやる者を言う。憧れなんだよ。暗闇に生まれ住まう妖怪どもが見いだす、唯一の、陽の下へ出づるための道しるべ。それが、魑魅魍魎の主なんだ」 「ば、馬鹿を申すな、妖怪と人間と、同じでたまるか!」 「……また、それかい。それほどアンタ等とオレ達は、《違う》のかい」 「また?またとは何だ、最初から、おまえ等と私たちは、《違う》ものだ!」 「悲しいな、古部。だが」 それはでは悼むような、全てを赦すような声であったが、 「確かにお前だけは、《違う》ものであってほしい。お前が、オレの知る心優しい人々と同じ人間だと考えるだけで、反吐が出そうだ」 一切のものを赦さぬ、裁く者の声に変じたと思うや、青年の目つきが変わった。 ふわりと傘を上から下へ、右から左へ転がすと、途端、はらりひらりと待っていた桜の花弁がことごとく、青白い尾を引く炎となって、部屋中を飛び交ったのだ。 さらに傘を閉じて、刀のように腰だめにすると、居合い一閃、それだけで陣を敷いていた床が真っ二つに割れ、床が沈んだ。 飛び交う火の玉、崩れた陣。 悲鳴怒号が飛び交う中、姿勢を低くして火の玉を避けていた古部は、騒ぎの中でまた見失った青年を探し、視線をさまよわせた。 見たことのない妖が何者なのか、判じるつもりでいたのだが、またもその青年は、目の前に唐突に現れる。 誰のものを拾ったのか、今度は刀を携えて。 すらり、抜いた。 術師の誰もが崩れた陣の底からわき出た地獄の炎をおさめるのに追われ、気づいていない。 やられる。 思った瞬間、古部は叫んだ。 「千代、千代、こやつを、とらえろ!」 それまで部屋の隅で闇と同化していた娘が、浮き出るようにいざり出て、その袖口から大きな闇の手がぐわりとのばされる。 舌打ち一つ。すんでのところで、青年は後ろへ飛び、これをかわした。それまで青年が立っていた床に、黒い手は渦を巻いて沈み込んでしまった。 「そうか、居たのか、千代。……ならば古部、今日は退くが、貴様の首はいずれ取る」 ざざあと桜吹雪が、視界一面を覆い、術師達も、古部も、千代も、払っても払っても尽きぬ桜の花弁に溺れてしまった。 千代の闇の腕までも、怯んだように動けない。いや。 美しい桜の花弁に魅入ったように、憧れるように、闇の手は己から動かずにいたのである。 やがて妖の気配が遠のき、桜吹雪がやむと、そこにはあのしろがねの妖も、煙々羅の姿もなかった。 「え、煙々羅は………煙々羅はどこだ!どこだ!ええい探せ、探せ!お前たち、妖気をたどってなんとしても探せ!あそこまで育て上げるのに、どれほど金と時間がかかったと思っておる!」 古部の命令に、あわてて術師たちが動き出す。 穴蔵のようなこの部屋を出て、夜の街へ散っていった。 古部もまた、煙々羅を呼び戻すために何度も名を呼ぶのだが、戻ってくる気配は無い。 「くそ。千代、私たちも探すぞ!にしても、なんだあの妖は、なぜ鎖をしていない。どこの妖だ、どこの……」 思案に耽りながら歩む古部の背を追った千代だが、階段の陰に何か光るものを見つけて、つと取り上げた。 首を傾げる。 それは、焼け落ちた術布だった。小物どもを封じる、千代がよった糸で作られた、術布だ。外からの力では、破れぬはずの細工だが、これは内側から膨れ上がった力に耐えられず、燃え尽きたようである。 今も尚、焼け落ちたところに炎が残り、それが光って見えたのだった。 「なにをしている千代、行くぞ」 階段を上がりきった古部に急かされ、千代はこの術布を懐にねじ込んで隠した。見つかってはならぬと思った。あの妖は己を知っていたが、逆に、己もあの妖とどこかで会っているような気がしたのだ。 あの妖からは、千代への哀れみが感じられこそすれ、闇の手を使って攻撃した千代へ反撃の意志は、感じられなかった。 「千代、お前の闇の手の通力、弱ったのではないのか?」 妖を逃がした千代を、古部のあきれたような声が責める。 俯くだけで、さらに続くくどい説教や恨み言を耐えながら、千代自身が、己の闇の手の力がどこか弱まってしまったらしいことに、戸惑いを隠せずにいた。 さげすんだような古部の視線と言葉を浴びていると、指先まで冷えていって、今なら、あの妖を絡めとるのに充分な力を出せそうな気もしたのだが。 ――― 考えておいてくれよ。 ふとなぜかそのとき、鯉伴の声と手のあたたかさを思い出して、冷え切りそうになった指先に、ぽっと熱がともった。己の中の闇の手の鋭さも、同時に柔らかく小さくなっていく。 戸惑うよりも、少し安心した。 鯉伴たちと一緒にいるときの、優しい心を思い出し、彼の周りにいる優しい皆のところへ、行きたいと思った。 人間だとか、妖怪だとか、そんなものを隔てることなく過ごしている、里の皆のところへ。 声が出せずとも、笑えなくとも、一緒にいて、あの空気を享受したいと、思った。 鯉伴の声を、聞きたいと、思った。 |