まだズキズキと痛む頭にまだ氷嚢を乗っけつつも、次から次ぎと注がれる祝い酒を飲み干しているうちに、痛みはさておき気分はよくなってきた鯉伴。
 頭の隅で、まだ姿を現さないリクオのことを気にしつつも、十四勝一敗の戦果を伊佐から誉められ、同じ部屋の皆から次々、たいしたもんだと認められ、酌に回っている飯盛女におだてられ、ともかく千秋楽の夜なのだからと思って皆と騒いで過ごしていた。

 リクオのことだから、煙々羅から解放された頃合いに、夜姿を試して現れるつもりだろう。
 物心ついて以来、ずっと傍にいた守役の考えることなど、判っている。

 伊佐も、輪入道も、それにリクオを知る皆も、煙々羅の小間使いをしているリクオのことはよく知っている。
 童形ながら、はきと言葉を使うところや、物怖じしないところなどはなかなかの奴だ、などと知った風なことを言う者どもが、夜姿を見ればなんと言うか、どんな顔をするか、意地の悪い楽しみを待っている気分であった。

 酒宴が、たけなわとなった頃。

「ん、なんだ、桜の花びら………?」

 天幕の中、さらに西部屋の道場の中であるのに、いったい何処から舞い込んだものか。
 一人が気づけば、隣の一人もまた気づく。
 はらり、はらりと美しく舞散る桜吹雪は、闇から直接舞い込んでいるようで、どこからと示すことはできない。

 さすがに皆が怪訝に思って、伊佐もまた、盃を口に運ぶ手を止めてこの様子を見守り、賑やかだった酒宴が、にわかに不審な怪異をいぶかしむ声で満たされる。
 怪異の次には、どさりと音がして。

 伊佐は目を丸くした。
 その横の鯉伴は驚いたは驚いたものの、慣れた様子でむしろ呆れたように、目の前に突如転がった人影に声をかけた。

「なんだ、遅かったな。そんなに息切らして、どうしたい」
「あいつら、しつっこいんですよ。すまねぇが鯉伴さま、ちょいと匿っちゃくれませんか。しばらく外でまこうとしたんだが、オレの妖気を犬のように追ってきて、埒があかねえや」
「はぁ?お前、いきなり何をつついて来た」
「説明はあとだ、とにかく、頼みましたぜ」

 入ってきた様子はまるでなかったのに、二人の膳の前に転がったのは、しろがねの髪の立派な青年。
 誰かと喧嘩をしてきたのか、切れた口の端をぐいと拭い、にたりと笑むところには凄みさえある。これが両腕に何かを抱えており、少し慌てた様子で言い捨てると、伊佐と鯉伴の後ろに、そっと隠れてしまった。
 伊佐が振り返ると、己の後ろにたしかに居るはずなのに、姿はない。
 突如として現れた何とも艶やかな妖は、鯉伴とは親しい様子だったが伊佐に心当たりはなく、はてと首をひねっている伊佐の膝を叩いて、鯉伴は伊佐の注意を引いた。

「ほら師匠、前向いて。知らぬ存ぜぬで頼むぜ。おい、みんなもな」

 わけがわからぬうちに、おう、と返事をする。
 いつの間にか桜の花弁は止み、畳の上に落ちたはずの花弁も綺麗に失われていた。

 かと思えば、次には乱暴に戸を破って、陰陽師達が部屋を土足で蹂躙し、

「ここか」
「ええい、どこだ」
「どこへ行った!」

 無礼を無礼とも思わず、衝立を倒し、膳を蹴り飛ばし、女の襟首をつかんで妖怪どもの顔をのぞき込むのである。

「なんデす、なンのつモりダ」

 無遠慮な人間たちに怒りを隠しもせず、伊佐は次第を問うた。

「ここへ、怪しい奴が来なかったか。しろがねの髪、紅瑪瑙の瞳の、桜の花弁の妖気を纏わせた大妖だ。鎖はしていない。隠すとためにならんぞ」
「煙々羅を連れているはずだ」
「この天幕の中へ逃げ込んだところまでは追ったのだが、妖気を追おうにも、この中ときたらお前等妖怪だらけでどれがどの妖気なのやらさっぱりだわ、この、邪魔者どもめ」
「……鎖ヲしてイないのなラ、ヴァタシたちの仲間でハ、ないノでヴァ?」
「念のためだ、この部屋だけではない、東部屋も探しておるのだから、協力してもらうぞ」
「ふム、しかしココには誰も来てイないし、今まデ皆、楽しく酒に酔ってイたダけだ。鎖もしてイない自由な妖怪ニ、協力スるいわれもナイのだガ?」
「黙れ。我等の気が済むまで、あらためさせてもらう」
「……人間風情が、ワきマえヌか!」

 立ち上がった伊佐の、ただでさえ大きな体が、部屋を飲み込むほどに膨れ上がったように見えた。

「ヴァレラをココへ閉じコめルだけでは飽キたらズ、少なイ楽しミまで、奪うツもりナのか!控えヨ!コノ部屋の主は、このヴァタシだ、部屋に入ったかラには、部屋の礼をわきまえてモらうゾ!一通り改めタのなラ、とっとと、ココかラ出て行クがいい!」
「な、何をこの……虜囚風情が」
「ふん、言われんでもこのような妖怪臭いところに、誰が好き好んで長居をするか。おい、行くぞ!」

 気圧された陰陽師達は、視線を滑らせてあの妖が部屋にいないことを確かめると、伊佐の怒声にびくりと体を震わせたくせに言葉だけは威勢良く、足早に道場を去っていった。
 青鬼が、陰陽師たちが道場の門をくぐり、姿が見えなくなってしまったところまで見届けて、

「……行ったぜ」

 呟くように言うと、その場の誰もが、ほう、と息をついた。
 同時に、安堵の息をもらし、伊佐の後ろからいざり出てきたのは、例の桜を纏う妖だ。

「助かったぜ、恩に着る」

 部屋の誰もが、男も女も、見覚えのない妖の姿に呆気にとられて声もない。
 ただ一人、鯉伴だけは、その妖の正体などよりも、彼が腕に抱えた小さな炎に気を取られていた。
 丸い顔の、可愛らしい童子が、瞼のない目を胡乱に虚空に向けている。
 炎のように紅い髪は逆立ち、そこにはしっかり金冠がはまっていた。どこかで見たような出で立ちだ。

「おい、そいつは何だ。そんな火の玉童子、どこで拾って来た。犬猫とは違うぞ、もとのところに戻してこい」
「ガキが一人前の口をおききになる。昔っから、犬猫を拾っては連れ帰ってきたのは、鯉伴さまの方でしょうが。こいつはこんな小さいナリだが、煙々羅ですよ。無理矢理妖力を注がれて、痛めつけられてたもんで、つい見ていられなかった。助けたはいいが、その後あのしつこい猟犬どもから逃れているうち、気を失ったらしい。そうしたら、こんなにちっこくなっちまって」
「これが正体ってことか」
「おそらく。そういや、寝てる顔は誰にも見せねえって、部屋の奴が言ってましたぜ。こっちの姿に戻っちまうんでしょう」
「立派な小物じゃねーか。ははあ、それでお前に懐いたか」

 火の玉童子は安心しているのか、妖の直垂の懐に顔をつっこむようにして、しっかりしがみつき、規則的に小さな胸を上下させていた。
 勝ち誇ったように、鯉伴が胸を張る。

「やっぱり、おれの言った通りだったな。煙々羅はお前のタラシの術にはまったんだ」
「何とでも言えばいいでしょうが。あーあ、鯉伴さまのこれくれーの小せぇ頃が懐かしい。あの頃はこんなに口達者じゃなかった。はいはいを覚えて、あんよが上手になって、オレの行くところ行くところについて回ってきて、夜には気づかれないようにしてるつもりで、そうっと寝床に潜り込んできて」
「て、てめえ、あれ寝たふりだったのか」
「それが今や、これだけの妖怪どもの中で、大関とはね。末恐ろしいガキだ。……また瘤、作ったんでしたか」
「おう、ま、冷やしてはあるんだけどよー、師匠、手加減ねーんだもん」
「約束だったか。撫でてやるから、こちらにいらっしゃい」
「うん。ここ」

 当たり前のように甘えを見せる鯉伴と、それを撫でる青年は、まるで兄弟のようだ。
 立派なしろがねの大妖と鯉伴はどういう知り合いなのだろうと、ただひたすら二人を見守っていた部屋の連中のうち、輪入道がはっと気がついた。

「も、もしかして、リクオくん?!」
「うん?」

 呼ばれて、しろがねの妖が振り返る。

「あん?おっちゃん、今までなんだと思ってたんだよ。どっから見たってリクオだろー」

 機嫌のよい猫のように目を細め、撫でられながら鯉伴が答える。
 道場の屋根が剥がれそうな勢いで、その場の全員が叫んだのは言うまでもない。

「夜姿になるとは聞いてたけど、いやあ、たいしたもんだねえ。うん、そっちなら坊ちゃんより長く生きてるっていうのも、おっちゃん納得だよ」
「たいしたもんだとか何だとかより、もう詐欺だろ、それ」
「別人だろ」
「言葉遣い違うし」
「性格も違うんじゃねー?」
「はれ、でもこちらの姿は、わちき、好みでありんすなー。兄さん、今晩のお宿はもうお決まりで?」
「俺は昼姿の方がいい。いやむしろ純情返せと小一時間………ぶつぶつ」
「皆、ソのよウな物言いハ、イけない。昼は人、夜は妖、リクオさんはソういうモのだと、前モって伝エていタはずでハなイでスか。二つの姿ヲ持つのハ、それゾれが大事ナ役割ヲ持つカらコそ。それヲ、冗談デも、からかうヨうナ事を言ってハ、いケない」

 部屋の連中や、世話のために里からついてきた飯盛女などがあらかた驚愕から立ち直り、好き勝手を言い始めた頃合いを見計らって、伊佐は部屋の連中をたしなめ、大きな体を屈めながら、道場の奥座敷へと、鯉伴とリクオを手招いた。
 あとは思い思いに楽しむようにと言い置けば、まもなく宴のざわめきが思い出されていく。
 西部屋の連中は、誰もが皆、伊佐の人となりを好いて集まってきた者たちだ。
 力よりも自由を好むところなど、奴良家の気風によく似ている。リクオの事をあの陰陽師たちに告げ口するような真似を、する者は無い。そんなことをしてまで、魑魅魍魎の主の座を手中にするよりも、風の吹くまま旅をしていたいと思う者の方が多いのだ。

 鯉伴とリクオ、それから当たり前のように輪入道と一ツ目小僧がついてきて、案内されたのは小綺麗な茶室である。
 畳が敷かれ、こぽこぽと湯がわいていた。

「こコに、煙々羅を寝かセまショう。炎がアるところノ方が、きっト好きダろうかラ」

 道場の勝手を知った鯉伴が布団を運び、すっかり体の縮んだ煙々羅を寝かせると、目を開いたまま、すやすやと眠り始めた。
 一ツ目小僧も、己と同じ大きさにまで縮んだ煙々羅に興味津々である。ふっくらした頬をつつくと、んむーんむーと煙々羅が可愛らしく鳴く。

「こら、一ツ目、いたずらすんじゃねぇ」

 たしなめられ、残念そうに離れた小僧と同じく、リクオが一歩下がろうとすると、煙々羅はしっかと袖を掴んだまま。

「………………」
「そのままにしておいてやれよ、小大将。熟睡してるんだ、起きやしねーだろ」
「子守からは解放されたとばかり思っていたが、思わぬ伏兵が潜んでやがったな」
「しかし、これが、煙々羅の正体、ねぇ。火の玉童子が大物妖怪に化けた、ってこと?いや、無いことは無いのかもしれないけど、あんまり聞いたことないねぇー。妖怪の強さって、生まれである程度決まるでしょ」
「そうなのか?」
「だって坊ちゃん、想像してみなよ。納豆小僧が努力次第で大納豆入道になってごらんよ」
「………………やだ」
「雪女の子供を、雪童なんて呼んだりはするけど、それとこれとは別だよね」
「ここへ来る前、古部の奴が煙々羅を妙な陣の中に入れて、術をかけてやがった。おそらくそれが、力の正体なんだろう。ここまで強くするのに、金と時間をかけたなんて事も言ってたし」
「へえ。………って、リクオ、おまえ、ぜんぜん打ち合わせと違うじゃねーか。まずその姿になれるかどうか試して、皆の術布や鎖を解けるかどうか試してから、皆と一緒に古部を倒すっていう段取りだったろうがよ」
「オレもそのつもりでしたがね、伊佐様との取り組みの後、こいつが妙に大人しく古部のところへ行く、なんて言ったもんで、気になったんですよ。鯉伴さまがあんな事を言うから」
「あんなこと?」
「こいつが、古部に怯えてるんじゃねーかって、言ってたでしょう。あれは正しい。あんな痛い目に合わされ続けちゃ、怯えたって仕方ねぇや」

 町のとある武家屋敷、地下に作られた大きな広間での出来事をリクオが語ると、皆はそれぞれ思案顔だ。

「するってぇと、部屋をこうして東と西で分けて競わせてるのは、いずれその横綱を、魑魅魍魎の主にして幕府転覆のための軍勢にしたてあげ、使った後はお役ごめんにする………わけじゃねえのか」
「幕府転覆の軍勢にするってところは本当だ。嘘は、解放するってところと、どちらかの横綱じゃねえ、最初から、この煙々羅に率いさせるつもりらしい。煙々羅が率いていれば、古部が、あるいは古部と同じように煙々羅をあの金冠で従えることができる人間が、裏で妖怪たちを牛耳ることになる。それが調和だとか、言ってましたかね」
「バカバカしい、それハ調和でヴァない、混沌を招ク所業だ!古部め!」
「とんだ八百長芝居もいいところだ、伊佐に勝てるようになるまで、煙々羅は力を注がれるに違いねえ。今日はとっさに連れ帰ってきちまったが、いつまでも隠しておくわけにいかねぇし、古部が強く念じれば、こいつはまた金冠の痛みで古部のところへ行くんだろうし、さて、どうしたもんか………」
「………煙々羅は、終わラせテくれと、言ってイたノだろウ?」
「………師匠?」
「では、終ワらせテやったら、ドうだロうか。匿っても、金冠の痛ミでマた呼ばれテしマうのなら、無駄。味方に引キ入れルなら、アる程度は秘密ヲ抱え込マねばならナいのに、尋問にモ耐えラれぬであろうし、耐えサせるのも酷。なラば、いっそ」

 伊佐、本気だった。
 今にも脇に置いた湾曲刀を抜いて、煙々羅の首をはね、滅してしまいそうな殺気をまとわせている。
 輪入道はごくりと唾を飲み、リクオも答えられない。
 一ツ目小僧などは、おろおろするばかり。
 一人、慌てて間に入ったのは、鯉伴だった。

「待ってくれよ、師匠。その理屈じゃ、古部に囚われた奴は皆、滅びなくちゃ救いが無いみたいじゃねーか」
「滅びコそが、救いトなル場合モあるのダよ」
「それがアンタの持論なのかもしれねーが、オレはちょいと違う考えなんだ」
「………違う、トは」
「そりゃ、誰だって死ぬさ。いつかは此の世から消えていなくなる。けど、痛めつけられてるのを助けてやれないからせめて滅してやろうなんて、そういうの、おれは何だか嫌だよ。もう少し、何か考えてやりたいんだ」

 言っているのは、何も煙々羅のことだけではなかった。鯉伴の脳裏に、千代の姿が想い描かれる。
 古部に囚われ、身内を人質に取られて動けない、誰からも仲間に入れてもらえない胡乱者。
 それでも、リクオを看病した夜は、時折糸をよるのをやめて、盥の水を換えてくれたり、温かく眠れるように藁を用意してくれたり、何かと力になってくれた。

 少し親しくなった頃、空を飛ぶ鳥の群れに目を細め、鳥になりたいのかいときくと、違うと首を振った。

 翼がほしいのかい。飛んでここから出たいのかい。
 違う。
 じゃあ、雲を見てたのかい。
 違う。
 じゃあ、やっぱり鳥を見てたのかい。
 こくり。そう。
 鳥の、何を見てたんだい。

 これには、身振り手振りで。
 あんな風に鳴いていたら、漁師に撃たれてしまうだろうにと、悲しそうに。

「今すぐ味方に引き入れなくても、いいじゃねえか。古部のことだ、煙々羅がいなくなったら、誰の仕業かきっと突き止めようとするだろう。リクオの夜姿も見られたし、警戒が厳しくなるかもしれねえ。な、だから、今すぐに滅しちまうってのは、よくねえと思う。とりあえず、こいつの事はそこらの茂みに捨てられてたのをリクオが拾ったことにしてさ、今日のところはそれで、何とかならねえかな」
「敵の使い魔ヲ、そのマま野放しにスるようナ、もノだ」
「そのまま野放しにするわけじゃねえ、なんか手段を………煙々羅が、古部の金冠の術を逃れられるような術を、考えればいいんだろ」
「鯉伴さま、言っておきますが」

 粛々と、リクオが念を押した。

「オレは今、夜姿だ。知恵を求められても困るぜ。ついでに、朝には煙々羅も目覚めるだろう」
「わかってるよ。おれが考えるんだ。いや、考えついてるっていうか………」
「へえ、何です」
「いや、でも、大したことじゃねーんだ、だからもう少し考えてから………」
「構いませんぜ、言ってごらんなさい」
「………煙々羅って、古部がつけた名前なんだろ。そいつがその名に縛られてるんなら、別の名前をつけてやったら、どうかなって。こいつが気に入るような、喜ぶような名前をさ。………な、大したことねーだろ。だからもう少し考えてから………」

 自信がなさそうな鯉伴に対し、師も守役も、おせっかいな隣人も、顔を見合わせて手を打った。

「………なるほど、名で縛る。名案だ」
「はぁー、なるほどねぇー、確かに。煙々羅って名前が、意味を無くせばいいんだ。そうしたら、金冠も意味を無くすかもしれない。まあ、すぐに効くかどうかはわかんないけど、試してみる価値はありそうだねー、いやー、おっちゃん、感動」
「ふム。名ハ体を表ス。考えマしタね、鯉伴サン」
「そ、そうか?よかった、じゃ、それで、こいつは滅さなくてもいいよな」

 ほっと胸をなで下ろした鯉伴を、守役として少し誇らしい気分でいたリクオ、重ねて問うた。
 問わぬ方がよかった。

「で、なんて名前にするんです」
「へ?そんなの、考えてねーよ。お前に懐いてるんだから、お前が考えて名前をつけてやらねーと、意味ねーだろう」

 いかにも、ごもっともなのだが、リクオはその一言で一晩中、筆を片手に不機嫌そうな顔で半紙を睨みつけていなければならなかった。



+++



「大丈夫かい、煙々羅、どこか、痛む?」

 耳朶に心地よい、声だった。
 何とも言えぬ、あたたかさ。安堵。大風に吹き消されてしまいそうなときも、大雨に滅されてしまいそうなときも、この声の主ならば、その手でか弱き炎を守ってくださるのではないかと期待してしまう、甘く優しい声だった。

「もう少し、寝ているかい?まだ大丈夫だよ、今ようやく、陽が昇ったばかりの時分だから。他の皆は、寝ついたばかりだ」

 開いたままの目の焦点をぼんやり逢わせてみれば、そろそろ見慣れた小間使いの顔だった。
 相変わらずの暢気な顔に、何が楽しいやらのんびりとした笑みを浮かべている。いつも機嫌の良さそうな顔を見ていると、何か悩んでいても悩む方が馬鹿馬鹿しいような気がしてきて、何かを考えていたとしても、全てなかったことにしてしまいたくなるのだ。
 あったはずの痛みも、いっそ消えてしまいたくなるほどの絶望も、恨みも妬みも、全て消えて無くなってしまうような、底抜けの阿呆顔。
 その阿呆顔が暢気な笑みを浮かべているのを見るのは、それほど嫌いではない。

 言われた通り、もう少し寝ていようと布団に潜り込む。
 昨日は千秋楽で、疲れていた。
 千秋楽の翌日は、勝利への圧力も何も感じず、堂々と寝坊ができる良い日なのだ、もう少し、もう少し……うとうととし始めたところで、ふと、そう言えば昨日の千秋楽は、酒を飲みそびれた気がすると思った。
 敗北の、苦い味がよみがえる。
 続いて、あの嫌な真言。
 最近覚えた物の頼み方で、痛みを訴えても、終わりを訴えても、決して終わらなかった苦痛。
 決して訪れない、救い。

 だったはずがそう、昨日は突如、苦痛が止んで、今まであれほど望んでも与えられなかった、救いが。

 桜の花弁とともに現れた、美しく頼もしい妖。
 陰陽師たちの陣を真っ二つに引き裂き、己を抱えて連れ去って、言いしれぬ安堵に己は気を失い。

 はたり、と、煙々羅は我に返った。

「ここは何処だ?!」

 潜りかけた布団をはね飛ばしたので、布団を直そうとしていたリクオも慌てて飛び退かねばならなかった。

「外で倒れてたんだよ。憶えてないの?」
「外で……?」
「そう。君が何だか疲れてそうだったから、言伝を部屋の皆に伝えた後、ボクは君の様子を見に街へ出たんだ。そうしたら、武家屋敷の中から、君を抱えた妖怪が出てきて、町外れに向かったから追ってみた。妖怪のことは途中で見失っちゃったけど、その辺りでその……気を失った君を見つけて」
「……見たのか」
「……うん」

 ううむと唸り、リクオを睨みつけたのは、しかし一瞬だった。
 その後は布団に目を落とし、息をつき、それからようやくぐるりと辺りを見回してここが己の部屋でないと知り、諦めをつけたようだった。

「それで、ここに ――― 西部屋に連れてきたのか」
「うん。東部屋の方がいいかとも思ったんだけど、その、君はあの姿を見られるのを嫌がっていたみたいだし、西部屋の伊佐様なら、君の姿を匿ってくれもするだろう、言い触らしたりはしないだろうと思って」
「違いねえ。……俺様の部屋の奴等なら、あの姿を見た途端に俺様を軽んじるようになるだろうし、言い触らしもするだろうし。そうか…………見られちまったか」
「ねえ、煙々羅、その、でも君は充分強いじゃないか。姿なんかに、こだわる必要は無いと思うよ」
「こだわってんのは俺様じゃなく、古部の奴よ。火の玉童子の姿じゃ、格好がつかねえとかで」
「いつも思うけど、君は古部のことが嫌いなのに、一番の家来のように振る舞っているよね」
「好きでやってんじゃねえ!俺様だってな、この金冠さえなけりゃ、あんな奴に。誰が、あんな奴の!」

 姿を見られたことには諦めがついたものの、今の物言いは許せなかったらしい。
 紅の髪が橙色に燃え上がり、部屋の隅で扱う炎までが同調して、めらめらと膨れ上がった。

「煙々羅、ごめんよ、落ち着いて」
「その名も!古部の奴が勝手につけた名前だ、俺様は好きじゃねえ、好きじゃねえんだ、この姿も、金冠も、名前も、金冠の痛みに屈する俺様自身も、何もかも!」

 火の粉が飛ぶ。畳が、天井が焦げる。
 くすぶる炎はしかしそれ以上は燃え広がらず、ぷすぷすと畳が音を立てた。
 やがて炎が勢いを失って、部屋の隅の湯が、こぽこぽと心地よい音をたてるのみとなった頃には、煙々羅は俯き、耐えるように布団を強く掴んで、たくましい肩を小刻みに震わせていた。

「ボクは、好きだよ、煙々羅のこと。そりゃ、ちょっと怖いし、癇癪持ちだし、もうちょっと礼儀を知った方がいいんじゃないかなって思うこともあるけど、本当は優しいし、西部屋の稽古を見てても、誰より長い時間修練してる。君の炎がそんなに強くなったのは、君自身の努力があるんだなって、そう思うよ」
「嘘だ」
「嘘じゃないよ」
「嘘だ」
「嘘じゃない。どうしてそんな事を言うの」
「何一つ、俺様のものにはならないからだ。力だって、名前だって、俺様自身のものじゃない、古部の奴が俺様に言うことをきかせようとするために与えたものだ。嘘の強さだ、嘘の名前だ」
「でも、君の努力は、君の優しさは、与えられたものじゃないでしょう。ボクは、それが好きだって言ってるんだ。その……無礼を承知で言うけど、眠ってる間の君の姿だって、好きだったよ。可愛くて。だから、煙々羅、何もかも嫌いだなんて言わないでよ。お酒でも、戦いでも、何か一つくらい、此の世で好きなものがあるはずだろう?自分の中にだって、どこか一つくらい、好きになれるところがあるはずだよ」
「無い。……俺様は、この姿と同じ、偽りだらけの存在だ。嘘と偽りで塗り固められた自身の、どこに何を感じればいい。努力だとか、優しさだとか、そういうのだって、この名である限り、この姿でいる限り、全部嘘にしか聞こえねえんだ」
「それじゃあ、自分の本当の姿に戻ってみたらいいじゃない。言ったでしょ、ボクはあちらの姿も、すごく好きだって」
「……すごく?」
「うん、すごく」

 逡巡は僅かの間だけだった。
 顔を伏せていた煙々羅は、深く俯いたまま、どろんと煙に包まれると、枕すら大きく感じる火の玉童子が、そこにちょこんと座していた。
 その姿のまま、「ん」と両手をこちらに突き出してくる所作には、守役として嫌というほど覚えがある。

 リクオは正しく応じた。
 昔、鯉伴が小さな頃にそうしていたように、ひょいと抱き上げて膝の上に置いてやると、昨晩夜姿で助けてやったときと同じように、火の玉童子はリクオの胸元に顔を押しつけ、しがみついてきた。

「お、お前が最近、鯉伴のやつが守役離れして寂しいって言ってたの、思い出しただけなんだからな。俺様の施しだぞ。俺様がしてほしいからじゃないんだぞ」

 常の姿より幼い姿のためか、舌っ足らずな高い声がいとしい。
 煙々羅のように立派な大妖が、何故金冠などをつけられるに至ったのか、ただの大妖であれば、いかに千代の力があったとしても、暴れて仕方が無かったろうにと今までは不思議に感じていたが、今はこのような小さな存在が、古部の企みのために痛めつけられていたのか、また昨晩のように、自らの滅却すら願うこともあったのかと思うと、いじらしく、まことに哀れである。

「わかってるよ、煙々羅。君は優しいね。いや……」

 ふとそのとき、一晩中考えても考えつかなかった例の名前が、ふわりとリクオの心の海から浮かび上がった。

「閻羅、という名は、どうだろう」
「え、ん、ら?」

 長く呼ばれた名前から、遠すぎれば己の名とは感じられない。
 しかし長く呼ばれた名前を凌駕する力を込めるなら、己でその名前に足りうる存在になろうと思える、尊き名でなくてはならぬ。
 一晩中、夜姿で考えても生まれてこなかった名前は、こうして火の玉童子を見ていると、極彩色の糸がより集まって一枚の織となるごとく、生まれ出た。

「閻羅童子。死者の裁きを執り行う閻魔さまから一文字いただいて、裁きの炎を任された童子として。何が嘘で、何が本当で、何が自分のしたいことなのか、君自身の目で、もう一度見極めてみてはどうだろう。君にはそれができる優しさがあるって、ボクは思うけどな。見かけ倒しの煙は、君には似合わないよ。姿は小さくても、本物の炎を扱う方が、きっと似合っている」
「えんら、どうじ。ほんものの、ほのお。えんまさまから、ひともじ」

 己でその名を確かめるように、何度も何度も口の中で呟いていた童子は、ぱちぱちと瞬きをした。

 しかし、そこまでだった。
 はっと我に返ったように、リクオから飛び退くと、頭にはまった金冠をおさえ、例の青年の姿に変じて悶え苦しむ。

「痛い!痛い痛い痛い痛い!ああくそ、くそ、古部が俺様を呼んでやがる、行かねーと!」

 リクオのことなど忘れてしまったかのように、それだけ言うと、慌てた様子で煙々羅はその場で煙と化し、部屋の隙間から流星のごとく飛び出して、どこかへ行ってしまった。

 後に残されたリクオは、腕の中から消えてしまったぬくもりに、嘆息一つ。

 失敗ではない。
 まだ、名が育つまでに時間がかかるだけだ。
 変化はあったこと、リクオは見届けていた。

 名付けられたその瞬間、閻羅童子はたしかに瞬きをした。
 そう、まるで人の瞳のように思慮をもった目は、満ち駆けた月のようにつり上がっていたのは煙々羅と同じだが、人の子のように瞼ができていた。