桜の妖気を纏わせた大妖が、この辺りに潜んでいる。
 噂はたちまち広まり、天幕の妖怪たちに対しても警戒は厳しくなった。

 いつもなら許される外歩きも、厳重に鎖や術布を確かめられ、さらには時間通りに戻ってくるよう厳しく言いつけられた。街のあちこちに、退魔師などが見張りに立ち、昼でも緊張した面持ちで、袖の中で印を結んでいる。

「煙々羅は戻ったそうだが、例のしろがねの妖怪のことは、何一つ知らないのだそうだ」
「古部様は、あのしろがねの妖怪も、生け捕りになさりたいとお考えなのだろうか」
「それは、そうできれば何よりだろうが、伊佐と言い、あのしろがねの妖怪と言い、御すにも限度があろう。軍勢として扱うところまでは良いが、その後本当に、野放しにするつもりなのか?あれほどの妖怪どもを?」
「そのための煙々羅だろう。あれが主になれば、他の妖怪どもは従うしかなくなる。千代の力に加えて、里の封印が完成しさえすれば、鎖に囚われた妖怪どもなど」
「その封印とやら、さっさと完成してもらわねば、あれだけ集った妖怪どもを見ていると、背筋が寒くなってくるわ」
「 ――― と、その千代が通るぞ」
「おやおや、例の半妖と遊歩か。千代がなつくなんぞ、珍しいこともあるもんよ」

 ひそひそと、辻に集った退魔師たちは、通りの向こう側を通った鯉伴と千代を見つけ、下卑た笑いに肩を震わせた。
 二人連れ添って歩いていたのを見られて、千代は感づき顔を伏せ、鯉伴より少し遅く歩いて距離を離そうとしたが、鯉伴の方こそがこれを許さなかった。

「千代、あいつ等の言うことなんざ、気にするな」

 細い手を握られ、それ以上は下がることができず、また手を振りほどくには未練が残るあたたかさで、結局、千代は元通り鯉伴の隣を並び歩いた。
 本当に良いのだろうか、と、並ぶ少年の顔を伺い見れば、にかりと例の如く太陽のように笑われて、頬に熱が上がった。同時に、安堵もした。己はここを歩いていて、良いのだと。

「一緒に来てくれて、助かったぜ。おれ、着物のどれがいいとか、どれが悪いとか、全然わかんないし。リクオは煙々羅の奴につきっきりだし、師匠を連れまわすわけにはいかねーし、おっちゃんだって、車輪だから、着物のことなんてわかんねーし。色々忙しいだろうに、ありがとな」

 ふるふるふる。
 いつもより多く首を横に振る。
 ううん、気にしないで。

 それから意を決して、懐にねじ込んでいた例の、焼ききれた術布を、目立たぬように鯉伴の手の中にねじ込んだ。

「 ――― これは?」

 最初は何かわからなかったらしい鯉伴が、何かに思い当たったらしく、きゅっと唇が結ばれる。

 千代、ため息をついた。やっぱり、知ってるのね、あの、しろがねの大妖のこと。

 あそこに、他に小物の気配は無かった。
 内側から大きな妖力が膨れ上がって焼き切れた、その術布があっただけ。
 千代にとっては己の力で作り上げた術布なのだから、察しはつく。
 里では常に小物の振りをしている、大物妖怪があることを。

「お前が、隠してくれたのか」

 こくん。

「ごめん。……いつかは話そうと思ってたんだけど、まだ上手くいくかどうか、わからなかったから」

 首を傾げる。話すって、何を?

「まぁ……今はまず、その、着物だ。あ、河童が言ってたの、ここだ。古着でも結構いいやつがあるって、そう言ってた。邪魔するぜー」

 鯉伴について古着屋の暖簾を潜った千代だが、鯉伴が店の主人とあれこれ話しながら出してもらっているのが、どう見ても女物ばかりなので、さらに深く首を傾げた。
 その着物、どうするの?

「何、ぼうっと突っ立ってるんだよ、千代。ほら、こっち来い」

 え?

「お前の着物を選ぶんだよ。お前が袖を通さなくちゃ、どれがどうだか、わかんねーじゃねーか。えーと、おっさん、とりあえず袷と単衣を二、三枚ずつと、綿入れもあったら欲しいんだけど」

 え?

「ほら。千代、来いって。今日はそのために来たんだから」

 いつまでも店に上がらず、暖簾のところで立ち尽くす千代に業を煮やして、拗ねたような声を出した鯉伴。
 後ろからは表情など知れないが、伸びた黒髪からのぞいた耳は、赤い。

「新大関のいいひとですかい。こりゃあ、勉強させていただきませんとねぇ」

 笑い皺を目立たせた、初老の主人が二人を冷やかした。






 夕焼け小焼けの、帰り道。
 二人は天幕への道を並んで歩く。
 大きな荷物を背負った鯉伴は、今まで例え話をしていなくても、千代にとって安堵できる空気を纏わせていたのだが、店から出てからこちら、何だか考え込んでいる様子なので、千代は小さく鯉伴の袖を引いた。

 何を、考え込んでるか、訊いても、いい?

「うん ――― いや、その、な。さっきの、術布のことにも、関わるんだけどさ」

 鯉伴は言葉を濁し、思考に沈む。





 一ツ目小僧に施された術布は、リクオの炎で簡単に焼ききれた上、試しに鯉伴の手首の腕輪も同じように炙ってみると、腕を焦がさぬように気をつけた分だけ少し時間はかかったが、大妖の気に耐え切れずやがて弾け飛んだ。  妖気を嗅ぎつけた陰陽師どもが駆けつけてくるのではないかと冷や冷やしたものの、そんな様子もなく、ならばいっそのこと、このまま西部屋全員の術布や鎖の呪縛を解いて古部を撃ちに行こうかという声もあったのだが。

「 ――― 撃ちニいくのハよイが、マタ千代に絡メ取られてヴァ、同じコトでス。今、古部は千代ヲ傍から離さナい。それニ失敗スれば、リクオさんが術布でハ封じラれないト敵に知ラれテしまうのダから、失敗は許されナい。機会ハ一度キり。慎重にすルに越しタことはナイ。それニ、煙々羅も今はマだ、古部の命令ヲきく。名付けの効力ガ現れルかどウか見極めルにしろ、時間ハ必要でス。
 リクオさんの夜姿の大妖ハこの辺りを根城にスるものだと思わせ、古部ヲ油断さセましょう。好機ハ、秋の巡業でス。それマデに、煙々羅を説得シ、千代を古部かラ引き離しテ、古部を撃つ」

 千代を古部から引き離す。
 簡単に言うが、具体的な方法を伊佐が口にしなかったので、鯉伴は寒気を覚えた。

 説得に従うならよし、しかし、そうしないなら。

 千代を終わらせてやると、伊佐ならばいずれ、口にするだろう。滅びで救われることもあるのだと。今はまだ口にはしないが、既に考えとしてはあるに違いない。
 千代が前に立ちはだかるのなら。
 今でも、餓鬼に姿を変えられてしまった父親や村の人々を、元の姿に戻してもらうのを望み、さらに古部の傀儡を続けるのなら、千代を葬ることの方を先に考えるだろう。

 実際、あったのだそうだ。
 千代さえ葬れば、封印は新たには作られない。だから、糸を縒る千代を、妖怪たちが何度も襲おうとしたのだそうだ。その度に、千代は鶏小屋に立て篭もり、この周囲にあの闇の腕を配して、鶏小屋に妖怪たちが入ってこられないようにした。
 そのうちに、陰陽師たちが刃向かった妖怪たちに仕置きを行い、やがて、今のように、諦めの中の日常を繰り返すようになったのだという。しかし、リクオが里の外でならば宵に大妖へと化生できることがわかった以上、これを仮初とは言え百鬼夜行の主に抱いた伊佐や他の妖怪たちや小物衆が、次に里の外へ出る秋場所にでも、行列の中で暴れまわり、まずは千代を狙うかもしれない。一体二体の妖怪どもなら絡められても、百鬼夜行相手にたった一人で打ち勝つなど、天賦の才があろうとも、無理な話だ。小屋に立て篭もるのとは、わけが違う。

 リクオは賢明だ。夜にはなるべく物を考えない。
 策を弄するのは昼姿だ、その昼姿で朝も夜も秋まで考えた策に囚われてしまったら、千代は。






 考えなければならないことは、多すぎる。
 けれど、今は何も考えたくはなくて、鯉伴は荷物を背負いなおすと、千代の手を引いた。

「なぁ千代、おれと一緒に来ないか」

 ぴく、と、握った手が驚いたように震え、逃げる素振りを見せた。
 鯉伴が尚も握り締めていると、やがて少しずつ、緊張は解けていく。

「おれの家、江戸の街にあるんだ。浮世絵町ってとこさ。人も妖も、仲良くのんびり暮らしてる。千代の村の人たちを元に戻す方法も、そこで探したっていいだろ?きっと、古部だけが知ってるわけじゃねえ、古部みてぇな三下が知ってるんなら、他の陰陽師だって知ってるはずさ。
 親父に頼るのは癪だけど、親父が昔、京に行ったときに陰陽師の知り合いができたって言ってた。花開院って言う、陰陽師の大家だそうだから、そこに頭下げてでもさ、その……お前の力に、なれねぇかな、おれ」

 鯉伴が、千代の手を握る手を、千代が、そっと、握り返す。

 …………私の、力に?

「皆、お前に閉じ込められたって言う。皆、お前が里に自分たちを縛り付けてるって言う。でも、お前だって、あの里に縛り付けられてるんじゃねえか。
 今すぐじゃなくていい。考えてくれていい。
 お前の家族や、お前の村の人たちは、いつかきっと、おれが取り戻す。あんな奴等の企みに、付き合ってやる必要なんざねえよ。手前勝手な言い分で人質を取られたんなら、おれがきっと取り返してやる。古部なんざ、ぶん殴ってやる。
 だから千代、おれたちと、一緒に来い」

 俯く。
 いじけた瞳で、下から見つめあげる。
 どうして、私を?

「さっき、焼き切れた術布をくれたよな。あれ、隠してくれたんだろ?しろがねの大妖が出た夜さ」

 こくん。

「おれたちが何か企んでるって知ってて、隠してくれたんだろ?」

 ………こくん。

「そうだよ、おれはその術布を焼き切った奴を、知ってる。秋には、妖怪どもや、閉じ込められた人間も連れて、里を出ようと思ってる。煙々羅も味方につけて、古部を痛い目に合わせてやるつもりさ。そのときまで、今はまだ、里で力をつける。
 千代、おれはそのとき、お前も外に連れて行きたいんだ。
 いや、何も、その、おれの嫁になれとかそういうんじゃなくて、いやそうなってくれたら嬉しいけど、いやいやいや無理に千代を手篭めにしようとかそういうんじゃなくて千代にだって好いた男がいるだろうしまずはそれを餓鬼から人に戻してタイマン張って正々堂々と、そうじゃなくてともかく、ああああおれ何言ってんだろう……ごめん今のナシ……」

 少し、間があってから。

 くす。

「え?」

 くすくす、くす。

「笑った……?」

 だって、鯉伴さん、顔、真っ赤。

「笑った、笑った、千代が笑った!」

 買い揃えた荷物を放り出し、着替えた小袖の脇を掴んで、鯉伴は千代の腰を両手で掴み、高々と掲げ持った。
 くるりくるり、夕焼け空を泳ぐ千代を、黒曜石の瞳が見つめ。
 驚きはしたのも一瞬。

 くすり、と、さらに千代は笑った。















 千代が笑ったその日から、何かが変わり始めていた。

 夜姿のリクオは、一行が金沢に滞在していた間中、陰陽師たちの前に姿を現しては彼等を翻弄した。
 下手な印や真言など簡単に跳ね返してしまう大妖は、どこから現れたのであろうかと、若い陰陽師などは口々に噂するのであった。
 この大妖が毎夜のように古部を狙って現れるので、古部は好々爺を装う気力も削がれて、里への帰途につく頃には、恵比寿と言うよりも疲労困憊した般若のごとき様相で疲れ果てていたので、煙々羅はひどく喜んではやし立てたのだった。

 もちろん、古部が煙々羅の無礼をただ許すはずはなく、真言をごにょごにょとやって金冠を締め付けるのだが、煙々羅は痛がるものの、これまでのように印を組む所作だけで怯えはしない。
 その上、なんだか日を追うごとに、効き目が小さくなる。

 金沢から里へ、帰りついたばかりの頃は、よかった。
 生意気を言いつつも、呼べば金冠に締め付けられるこめかみのあたりを押さえながら姿を現したし、命令にも嫌々ながら従った。
 煙々羅が生意気を言うのも、命令に従うときにも実に嫌そうな顔をするのもいつものことなので、古部はさほど気にしなかったのだが、実際は少しずつ、少しずつ、煙々羅を呼んでから実際に姿があらわれるまで、時間が空き始めている。

 ある朝に至っては、ついに呼んでも現れず、昼を過ぎてから寝癖のついた髪をしきりに撫でつけながら、

「悪い、寝過ごした。で、古部の旦那、何か用かい」

 悪びれもせずに現れたので、さすがに古部は煙々羅をこっぴどく叱り、長いこと真言を唱えて煙々羅を苦しめたのだが、ぎゃあぎゃあとうるさく喚いてのたうち回った割には、それが済むとむくりと起きあがって肝心の用も訊かずに、さっさと居なくなってしまった。

 実は煙々羅、己の正体をリクオに知られたのをよいことに、その頃には己の寝所にリクオだけは入れるようになっており、寝る前の酒だの甘味だのを運ばせたり、寝る前のちょっとした話などをしたりして、リクオが彼を閻羅童子と優しげに呼ぶのを嬉しそうに目を細めていたのだが、この朝の前の晩には、どうしてももっと己を見ていて欲しくて、どうしてももっと側に居てもらいたくて、とうとう一晩中、リクオを手放さなかったのである。

 リクオとて煙々羅が眉尻を下げ、例の小さな火の玉童子姿で膝に上がって懐いてくるのを邪険にはできない。甘えられれば可愛いし、己が教えた通りに、「頼むから、今日は側にいてくれないか」と頼まれれば、どうして首を横に振れるだろうか。
 部屋の連中は、ついにリクオが煙々羅の手込めにされたかとも考えるのだが、それにしては寝所はしんと静まり返るばかり。中を覗けば煙々羅に痛い目に合わされるのはわかっているので、何が起こっているやら知れたものではない。
 まさか、リクオよりもさらに小さな閻羅童子が、可愛らしい寝顔で小間使いにしがみつき、二人してすやすやと眠っているとは思いもしない。

 朝方に、童子は例のごとく金冠をしめつけられ、古部に呼ばれているなと思って目を覚まし、それでも行きたくなくて、あたたかな腕の中にいたくて、んむーんむーとしばらく唸って耐えていたところ、

「どうしたの、閻羅。頭が痛むの?」

 ぼんやり目を覚ましたリクオに、そっと金冠のあたりを撫でてもらうと、ズキズキと痛むばかりだったのが、次第にチクチク小さく痛むばかりとなり、やがてはすっかり痛みなど消えてしまった。

「古部が呼んでたみてーだ」
「行かなくていいの?大丈夫?」
「どうせ、たいした用じゃねーだろ。まだ眠いし。ったく、妖怪を朝にたたき起こすんじゃねーってんだ………」
「頭、痛くないの、閻羅?平気かい?」
「うん。リクオが撫でてくれたら、痛くない」

 このように二度寝をしてしまったので、煙々羅が古部の前に姿を現すのは、次に目覚めた昼時になったのである。

 妖怪にもいろいろある、と、己を救ったあの大妖が言っていたのを、片時も忘れない煙々羅。魑魅魍魎の主にならなければという、古部に刷り込まれた使命感など、もうすっかり捨ててしまった。
 たゆたっていた炎から無理矢理起こされ、生まれたそのときから金冠をはめられて古部に使役されてきたが、ただの一時も、心から望んで使役されたことはなかった。炎に戻りたいと思いこそすれ、その炎を古部のために使ってやりたいなどと、ただの一度も思ったことはなかった。

 ところが今は、閻羅という名を与えて撫でてくれるこのリクオになら、使われてやってもいいなあ、と思うのである。
 リクオは、己を金冠で縛りはしないだろうから。
 金冠などなくとも、己を縛らずとも、真っ直ぐに己をあの綺麗な瞳で見て、いけないことはいけない、よいことはよいと教え導いてくれるだろうから。
 不思議な瞳だった。
 己を映して微笑んでくれるだけで嬉しくなり、哀しんでいる様子であれば苦しくなる、心からこの人の力になりたいと思わせる、心地よい畏を纏った、底知れぬ瞳だった。

 一つ残念に思うのは、煙々羅も妖怪のはしくれであるので、やはり、強い主についていきたいと思う気持ちがあり、リクオでは己が守ってやらねばならぬ程度の力しか持ち合わせておらず、己を率いる主ではないと思われることだ。

 一瞬垣間見たあの大妖が、己を外へ捨てていったと聞いたとき、大変残念に思い、心にちくりと棘が残ったのは、以前に鯉伴が言ったとおり、欲しいものが手に入らぬとなれば、欲しくなる、憎くなる、そういった心の趣に他ならなかった。
 初めて、ついていきたいと思った主を見た煙々羅、目が覚めたときにはその姿などなく、まるで己など物の数にも入れてもらえなかったような、貶められたような気分にもなり、時がたつほど、じくじくと心が痛む。
 大妖に捨てられた痛みと、リクオに拾われ撫でられて育まれる優しい気持ちが、閻羅童子を形作っていった。

 あの大妖は己を捨てたが、リクオは己を捨てない。
 あの大妖は魑魅魍魎の主たる風格を持つが、リクオは不思議な瞳を持っているものの、さしたる妖力も扱えない。
 ならば己が守ってやらねばならない。否、己が守るのだ。
 リクオの身を害しようとする者から、守るのだ。
 古部のような奴から。あるいはあの不思議な瞳に囚われるのを拒んで暴れるけしからぬ輩から。
 あるいは、己の矜持を守るためならば、己より強い奴にも喧嘩を売るような無茶をする、リクオ自身から。

 ならば、己はやはり、ならなければならない。魑魅魍魎の主に。古部のために煙々羅がなるのではない。

 リクオのために、閻羅童子がなるのだ。
 そして閻羅童子の主に、リクオがなればいい。

 そのために、古部を逆に利用しようとも。






 からからからと廻り続ける時の糸車は、どこかで糸をよっていたのかもしれないが。
 しかし、里の鶏小屋の糸車の音は、夏の薫風が香る頃には、あまり聞かれなくなった。せいぜい、黄昏時を過ぎてから寝床につくまでの短い時間、思い出したように、あるいは子守歌のように、からからと優しく回るだけだ。

 千代は糸をよる時間よりも、鯉伴に連れられて外へ出る時間の方が多くなり、戸惑ったような顔よりも、ちょっとした冗談でも、くすくすと笑うことが多くなった。
 ただべったりと黒かった髪は、鯉伴にもらった櫛を通すと、絹のような艶を取り戻した。
 黒い淵をのぞき込むようであった虚ろな瞳も、鯉伴の黒曜の輝きを受けた月のように輝いた。
 青ざめていた肌が、ほんのり桜色に染まって、鯉伴が差し出した手を、躊躇なく握るようになった。

「でもさー、逢瀬の場所が川ってどうなの、鯉伴ー。もっと他に行くところ、あるでしょーがー」
「うるせぇぞ河童、釣った魚が今日のおれたちのメシになるんだ。文句言わないでこっちに追い込めよ」
「せっかくこんなにいい天気が続いてるんだから、千代を背負ってさ、山にでも登ってみたらいいじゃない。里を見渡せるし、足腰鍛えられるし、二人きりになれるよーしかも背負ってる間、密着できるしー」
「うるせぇぞエロ河童、ごちゃごちゃ言ってんじゃねえ」
「うふひはは、鯉伴、照れてるー」
「ああもう、気が散るじゃねえか、こいつめ!」
「あ、ちょっと、やめてよ、針がひっかかるってば、あいててててて」

 くすくすくす、と、千代が笑って、優しい指で河童の皿に引っかかった糸をそっとはずしてやり。

 次に魚を指して、鶏小屋の方を指して、河童を指して、手招いた。

「え。なんだい、僕もお呼ばれしていいのー?」

 こく、こくこく。
 うん、是非。

「来なくていいぞ河童、どうせ魚なんざ食い飽きてるだろ」
「千代に焼いてもらった魚は食べ飽きてないよー。ぬふふふふ、二人きりになれなくて、ざーんねーんだったねー、鯉伴ー」
「お前むかつく」
「ご愁傷様ー」

 くすくすくす、と、千代が笑う。
 二人きりになったとて、せいぜい肩を寄せあって、言葉がなくても通じ合う時間を共有するぐらいなのに、邪魔が入って不機嫌になる鯉伴が、可愛らしくて仕方ないらしい。

「今日あたり、リクオくんも様子見に来るんじゃないー?ちょっと余分に魚、穫っておこうかー。余ったら干物にでもしなよ、千代ー」
「最近リクオにくっついて、煙々羅の奴まで来るんだよなー、なんだよあいつ、べったりしやがって」
「リクオくんが虐められてるより、いいんじゃないの」
「そりゃ、そうなんだけどよ……」
「ははあ、鯉伴ぼっちゃまは、守役を取られて寂しいと。欲張りで困りましたなー。千代もリクオくんも大変だー」

 無言で鯉伴が再び釣り竿を河童にぶつけ、あいたたたと河童が悲鳴を上げ、千代が、笑う。

 夕暮れ前に小屋へ向かえば、田畑を耕して暮らす妖怪や人間たちが、少ないながらもあれこれ持ち寄って、一人二人と小屋へ来る。
 鯉伴が稽古で側にいないとき、千代が自ら田畑の仕事を手伝うようになったところ、心を通じ合わせるに至った者たちだった。

 五人を過ぎれば、とてもではないが鶏小屋の中に入れるわけにもいかないので、天気の良い日はそのまま外に集まってたき火を囲み、わいわいやりながら粗末な食事を取る。
 そこへリクオと煙々羅、加えて数人、「あれ、お出かけですかい」と、煙々羅の手下どもも強い彼を慕っていないわけではないので、気が向けば後ろについてやってくれば、手土産の笹寿司や酒が加わって、誰かしらが歌い始めたり踊ったり。
 伊佐も座敷童を肩に乗っけてやってきて、これに輪入道や西部屋の連中が続くと、まさにちょっとした祭りの様相だった。

 にぎやかな輪をそっと抜け出す二人があっても、誰も気づかぬほど。
 遠巻きに小さな祭りを見守りながら、そっと唇を触れ合わせた二人を、このときばかりは、河童も知らぬ振りをした。

 人も、妖も、東も、西も、まるで一つの輪になって。
 千代が笑ったその日から、確かに何かが、変わり始めていた。






 河童に言われたからということもないのだが、鯉伴は千代を背負って、山に登ることにした。
 里に来たときに、千代に案内されて登った山を、さらにそれを囲む尾根、夏の盛りだというのにひんやりとした空気が心地よい、森の奥へと進んでみたのである。
 只人の身ならば、奥深い山に畏れもしようが、鯉伴はあいにく半妖だ。その上、このところはしっかりと稽古に励んでいるおかげか、いくらか風を捕まえて身軽に跳躍することもできるようになった。
 少しばかりは努力が実を結んだかなと暢気に喜ぶ鯉伴だが、妖力を押さえつけられた里の中においてそれほどなのだ、外に出たときの成長ぶりはいかほどであるのか、東西の部屋の誰もが、舌を巻いた。
 人の姿でありながら、姿を消し、舞い、軽やかに跳躍する、鯉伴は妖の力を完全に、己のものにしつつあった。

 梢から梢を飛んで、ようやく剣のように険しい尾根にたどり着くと、眼下に里を、彼方に富士を望む。

 そよぐ風は清浄、足下に咲く花々は可憐。

 人ならば幾日もかかるであろう山の頂上へ登っておきながら、鯉伴は千代をおろすとその場に寝っ転がり、

「ああ、流石に疲れた。ちょいと、休憩」

 あがった息も、一つ大きく呼吸をしただけで整えてしまった。
 千代はこの隣に腰を下ろし、鯉伴の汗ばんだ額や頬を、そっと手ぬぐいで拭いてやる。

「ありがと、千代」

 ふるふる、と首を振って、ふわり、笑った。
 両手を合わせて、目を閉じ。
 こちらこそ、連れてきてくれて、ありがとう。

 へへへと鯉伴は照れくさそうに笑い、寝転がっていた岩の上に起きあがって、千代と並んで座りなおした。
 千代が背負っていた小さな風呂敷包から、蔓細工に入った握り飯や漬け物、水筒などを取り出して、鯉伴と分け合う。

 しばらくもぐもぐとやった後、鯉伴はおもむろに南東を指した。

「あっち」

 千代は、首をかしげる。

「あっちに、あるんだ、おれの生まれ育った町」

 ……こくり。

「夏場所は外に出られないから無理だけど、秋に巡業に出るときに、おれたち、考えてることがある。
 春に言ったろう、おれたちは、ここを出るって。
 千代、お前はどうだ、決めてくれたか」

 うつむく。悩む。少し、間があって。
 ……こくり。

「おれと、一緒に、来てくれるか」

 こくり。頷いて、ふわり、笑った。

「そうか、来てくれるか!。大丈夫だ、お前の親父のことも、きっと捜し当てて人に戻す。親父の話はしたけど、お袋の話はしてないよな、お袋も昔、陰陽師に世話になってたことがある、きっと口添えしてくれるさ。出向く必要があるなら、千代、おれと一緒に、京へ行こう」

 こくり。たしかに千代は頷いて、しっかりと鯉伴の手を握った。
 信じます。

「里の人たちにも、東西の部屋の奴等にも、もうほとんど話は通してる。あとはそのときを待つだけだ、待つだけだから。なにも、心配しなくていい。おれの側に、いてくれればいいから」

 こくり、と頷いてから、申し訳なさそうに己の喉を指して、唇を指して、ふるふると首を振る。

「声?………うん、すぐに聞きたいなんて、言わねえよ。ゆっくり、声の出し方、思い出してさ、いつかおれの名前呼んでくれたら、嬉しいけど」

 ふるふるふる、と、首を横に振る。

「え、違う?」

 己の喉を指して、唇を指して、眼下の里を指して、手のひらで覆うような所作。

「千代の、声が、里を、覆って?あ、いや違うな、千代の、出ない声が、里を覆ってて?」

 こくこく。
 次に、己の喉を指して、唇のあたりで手のひらをぱっと広げ、同時に里を覆っていたもう片方の手も、ぱっと里を離れる。

「千代の声が出るようになれば、里の覆いも、壊れる?」

 こくん。

「そうしたら、里の中の妖怪たちは、皆、妖力を使えるようになるってことだよな?」

 こくん。

「それって、自分ではどうにもならないんだろ?おっちゃんが、この辺りは千代が昔住んでた村の近くで、千代が初めて力を使った場所だから、加減がきかずにこんな風に妖力を封じる場所になったって、そう言ってた。そうなんだろ?」

 こくん。
 その後、じれったそうに鯉伴を見つめる。
 お願い、気づいて。

「でも、千代の声が出るようになったら解けちまうなんて、そんな不確かなモンに、古部の奴はずっと頼りきるつもりなのか?いつか声がでるようになったら、崩れちまうじゃねーか」

 ぱん、と手のひらを打ち合わせ、こくこくと頷く。
 激しく、何度も、こくこく、こくこく。
 焦ったように、里を指さし、指が一本ずつ増えていき、両手の指がやがて、外から里を囲むように踊って。

「それを、気づいてる?奴等も?」

 こく、こく、こく。

「だから、何人もの陰陽師が、結界を、敷いてる?いや、敷こうと、してる。それが、近々完成する。そういうことか、千代」

 どうしても通じないところは、鯉伴の手のひらに指で文字を書き、ようやく千代は己の言いたいことを伝え終えて、ほうと息をついた。
 最後に頷く。こくん。
 そう。今の不安定な私の力によるものじゃなく、古部たち陰陽師が、何年もかけて用意した、大がかりな結界が、完成されてしまう。

「好機は一度きり。失敗は許されない。ああ、師匠もそう言ってた。リクオもだ。なにせ秋に事を起こすとき、リクオの正体が奴等にばれちまうからな」

 千代、首をかしげる。
 ………正体?

「………お前が拾ってくれた、焼き切れた術布な、あれ、リクオのだったんだ」

 え?

「桜の妖気をまとわせた、しろがねの大妖。あれ、あいつの夜姿なんだよ。見事だろ?おれなんてまだまだ、足下にも及ばねーや。あいつ、陽が沈むと、あの姿になるんだ。そのときに、術布が耐えきれずに焼き切れたんだと」

 目を見開く。
 信じられない。全く違う存在みたい。

「皆、そう言うんだよな。まあ、少し見目は変わるかもしれねーけど、中身はそれほど変わんねーぜ。昼にからかえば夜にも根に持ってるし、夜にからかえば昼に仕返しされるし。そうそう、昼のあいつの手習いをすっぽかして遊んで帰ってきたらさ、夜のあの姿で、その日の分が終わるまで、目の前で待たれてたこともあったな。あのときは怖ぇったらなかったけど。あ、そうそう、あの姿だと、小筆より大筆、平仮名より漢字の方が得意になるんだ。そういう気分になるんだって」

 ………くす。

 千代が緊張をほどいたのを見届けてから、鯉伴は続ける。

「でも、リクオがあの姿になるのを、古部は知らない。次に里の外に出たら、リクオはあの姿になり、味方にした妖怪たちの鎖を解いて、百鬼夜行をする。それなら、陰陽師が何人いようが、一方的にこっちがやられるってことは無いはずさ。そこで古部を討つ。幕府転覆なんて真似はやめさせる。江戸を騒がせてる《わいら》も、とっつかまえて、元の姿に戻す。………お前の親父さんも、きっとな」
 ………こくり。千代はしっかりと頷き。

 輝く瞳に鯉伴を映して、笑んでいた。