夏の盛りが過ぎ、秋の気配も深まる頃。
 輪をつなぎ、戦の準備をしているのは何も、里に閉じこめられた妖怪や人間たちばかりではなかった。

 夜更けに人知れず呼び出された古部は、御簾の前に平服していたが、この言葉を聞いて、思わず顔を上げてしまった。

「………今、何と」
「誰が顔を上げて良いと許したか、古部」
「こ、これは申し訳ございませぬ。しかし………」
「事を起こすならば、今年のうちじゃと申したのじゃ」
「それはまた、何故………」
「何故も何もない、お主こそ、いつまで妖怪たちと戯れておる。見世物小屋巡業が上手くいっているからとて、大義を忘れてもらっては困るぞよ」
「そ、それは、もちろん………」
「徳川が何やら感づいておる。秀忠、家光がやってきおって、何やら天子様に言い含めて行きおったそうな。忌々しいことに和子も再び身ごもっておる。これまでは女宮ゆえ、目こぼししてきたが、男宮が生まれてみよ、汚らわしい徳川の血がこの皇室に残ってしまうのだぞ、ああ、なんたること、なんたることか。よいか、男宮が生まれたとて、決して即位させてはならぬ、長じさせてはならぬぞよ。願わくば、徳川の忌々しい血をすべて背負わせ、和子もろとも戦乱の向こうへ葬り去ってしまうのじゃ。血にまみれたる者に、ふさわしい最後じゃろう。良いか、今年のうちじゃ。今年のうちに、江戸に火を放ち、妖怪どもの軍勢で日ノ本の国に戦乱を起こし、天子様の威光を取り戻すのじゃ」
「しかし、お待ちくださいませ、江戸では大白一家が奴良組に打ち壊され、あちらの手引きをする者がありませぬ。幕府の中に草を入れようにも、どうにも今は隙がございません。今しばらく、しばらくの時を………」
「くどいぞ古部!誰が金を出してやったと思っておる!」

 脇息が飛んで頭をかすめ、古部は恐れ入った様子を見せて再び平服した。

「よいな、今年中だぞ」

 重ねて強く申し渡され、平服したものの、御簾の向こうから男が去る気配がした後に、無人となった部屋で、深く嘆息せずにはいられなかった。

「倒幕のたくらみ、二百年かかってもおかしくないところを、今年中にとは、軽々しく仰ってくださる………」

 《わいら》騒ぎを利用して、奴良組と幕府とをにらみ合わせて封じたはずが、どんなまじないをかけたのか、一時は互いに疑い合った幕府と奴良組が、再び約定を強くして手を取り合ったらしい。
 大白一家を捨ててまで、幕府に奴良組を排除させようとしたというのに、とんだ誤算である。

 もっとも、古部にとって誤算となったこの出来事は、他ならぬ奴良組の総大将とその妻珱姫、そして二人の説得に応じた人間たちの、互いを理解し思い合う、一見当たり前に思えながらも難しい、尊い努力の末に生まれた結果であるのだが、とにかく古部にとっては、手痛い損失であった。

「まさか、念のために取っておいた切り札が、役に立ちそうになるとは、何事も駒は大事ですなァ」

 一人、呟く。

 頭に浮かんだのは、これから敵となるであろう、幕府方と約定交わせし魑魅魍魎の主ぬらりひょん、その倅、奴良鯉伴。
 人質としては、申し分ないはずだ。






 煙々羅は時折、その名では振り返らなくなった。
 気づかない古部ではない。

「貴様、誰に名を与えられた」
「あン?なんだ、なんのことだ」

 訊いても素直に答えるはずもないので、真言を唱えて聞き出そうとするのだが、そうするとうずくまって痛がるものの、ちっとも肝心の答えは口にしない。
 例の陣の上で、与えられる力に体の節々を破裂しそうなほど膨らませながらも苦しむところへ、答えなければずっとこのままにしてやろうかと笑いながら脅してやっても、ほんの少し前までならば本気にしてすがりついてきたものを、今はやはりすっとぼける。
 苦しみに耐え、ひいひいと泣きはするが、弱音を吐かなくなった。

 格上げの儀が終われば、煙々羅は古部に舌を一つ出し、許してもいないのに勝手に消える。

 金冠の痛みも、少しずつ効力を失わせているようなのである。
 誰かがあの炎を、古部が与えた以上の名で縛り、古部以上の力で使役しているに違いなかった。

 となれば、陰陽師か、修験者か。
 里に居る者でも、安心はできない。
 朝廷とて、一枚岩では無いのだから。


 ともかく急がねばならないと、古部は煙々羅を仕上げることにした。






 里で行われる格上げの儀も、強くなるためだと思えば、煙々羅にとってもそれほど嫌ではなくなっていた。
 陣の中で真言に絡められている間は痛かったとしても、苦しかったとしても、それが終われば強くなれる。強くなればリクオを守ってやれる。それに、儀式が終わった後にリクオのところへ戻れば、ちょっと涙目になっているだけでも盛大に甘やかしてくれる。

 だからその日も、煙々羅は古部の呼び出しを軽く考えていた。
 見くびっていたと言って、良いだろう。
 煙々羅にとって古部は、くだらない人間だった。取るに足らない人間だった。陰陽師としても一流とは言い難く、人間の中でも薄汚い部類。
 汚い人間であればあるほど、神仏や地獄の鬼どもですら考えつかぬ方法で、地獄の沙汰を生き抜く術を編み出すと、すっかり忘れていたのである。

「ねえ閻羅、古部のところに行きたくないなら、行かなくてもいいんじゃないかな。だって、もう前ほど、頭は痛くならないんでしょう?」
「行かなくても平気だから、ほとんどは無視してる。行くのは、まあちょっとな、野暮用ってやつだ」

 青年の姿で出かけようとすれば、リクオがすぐにやってきて、心配そうに引き留めたので、これにも煙々羅、少し気分がよくなって、にかりと照れ臭そうに笑った。
 数ヶ月前までなら、考えられなかった表情だ。

「今日はその野暮用?なんだかその、いつも涙目で帰ってくるから、心配なんだよ」
「大丈夫だって。多分、子の刻過ぎる頃にゃ、戻るだろ」
「閻羅、あのね」
「大丈夫、大丈夫」
「今日帰ってきたら、話があるんだ。聞いてくれる?」
「話?なんだよ、改まって。今、すればいいじゃねーか」
「え、いや、あの、そうなんだけど、その」

 東部屋の周囲は、相変わらず、騒がしい。
 稽古で死んだようになっていても、稽古が終わればたちまち生き返って賭博や遊興にふけり、あちらこちらから喧嘩の声も聞こえる。

「人目、はばかる話か」
「そうだねぇ。ちょっと、秘密の話かな」
「ん、わかった。なら、後で」
「あ、ちょっと待ってよ、閻羅」
「なんなのよ。急ぐんだって」
「そのぅ……君ってやっぱり、伊佐様を凌いで、魑魅魍魎の主とかに……なりたいのかな。だから、古部の言うことをきいて、強くなろうとしてる……とか?」
「なりたいとか何だとかじゃねえ、なるんだよ」
「やっぱり、なりたいの」
「違う。なるんだ。俺様が魑魅魍魎の主ぐらいにならねーと、俺様を使役する奴が軽んじられるだろーが。俺様の主なら、魑魅魍魎の主の主ってことになるだろ、そしたら、お前だって妖力が使えなくてもただの人間でも、軽んじられることなんかないだろうが」
「え?」
「じゃあな。後の話は、帰ってからだ」

 言いたいことだけ言い捨てて、煙々羅は文字通り煙に化けると、逃げるように行ってしまった。
 後に残されたのは、リクオ一人。

「まさか、ボクの、ため?」

 リクオは戸惑い、すがるように天を仰いだ。
 とは言え、祈りすがる神仏を、リクオは知らない。

 尽くした人事の行方を、思い描くのみである。

「一ツ目小僧、うまく奴良屋敷に帰れたかなあ」

 夜姿で古部たちを攪乱させたあの春先、リクオは一ツ目小僧だけを外へ逃がしていた。
 大妖から別れた小さな妖気に、しかし敵もさるもので気づいたらしく、己を追っていた陰陽師たちのうち、数人が一ツ目を追いかけ、後で聞いたところによれば、取り逃がしたらしい。

 小物でも、人間より足は速いはずだが、逆に人間の街道に出れば見咎められる。
 人目を避けて迂闊に森に入れば、今度はそこをシマにする妖怪たちに追われる。極めて危険な任務だが、これに名乗りを上げたのは、あの、臆病な一ツ目小僧の方からだった。

 せめて、鯉伴さまと小大将が無事なこと、ここにいることを、総大将にお伝えしたい。

 毅然とした小さな勇気に頼る他、たしかに伝えるすべもなかったが、煙々羅といい、一ツ目小僧といい、行く末が見えず不安が胸をよぎるのは、なぜなのか。



+++



 その日の格上げの儀も、滞りなく行われた。
 月の満ち欠けだの方角の吉兆だの、陰陽師たちの都合で取り決められる格上げの儀はこれまで、巡業で煙々羅が勝とうが負けようが、煙々羅の調子が良かろうが悪かろうが行われてきたもので、正直、今日は身を覆う炎の調子がすこぶる悪いというときなどは、心が折れそうにもなったものだ。
 古部が気づいたような煙々羅の心の変化を、煙々羅自身が気づかぬはずはない。

 己はどうやら、強くなったらしいと、煙々羅は自覚していた。
 慢心とは、言えまい。
 煙々羅は、己を纏う煙を使って、人目には大柄な青年のように見せることもでき、その姿で威張り散らしてもいるが、実際のところ、そうしなければ己が軽んじられる程度の存在でしかないのだと、少々卑屈に過ぎるほど、しっかり自覚している。
 強くなれたと思うのは、扱う炎の勢いではなく、古部に呼び出されたときの気迫と言おうか、逃げ出したくなるものを目の前にしたときの己の気構えのようなものである。

 今日も、真言に立ち上った黒い煙を押し込められる儀式が終わり、気だるく痺れる体を、ぐったりと陣の上に横たわらせながら、耐えてやった、と思えた。
 泣き叫びもした。苦しみもした。悶えもした。
 だが、耐えた。
 もう少し痺れが消えたら、すぐに帰るとしよう、話があると言っていたから。
 ほんの僅かだけ先に待っている、何気ない風景を思い描くだけで、立ち上がろうと思えた。

 腕に力を込め、ようやく上体を起こしたとき、己を見下ろす、陰陽師と目が合った。

 忌々しい、恵比寿の笑みの上に、四方からの炎が、般若の影を一瞬、あばいた。

「煙々羅、お前はずいぶんと強くなったな。護摩の炎から躍り出たばかりの頃は、風の音にすら怯える小物であったというのに、ずいぶんと強くなってくれたものよ。おそらくこれ以上の格上げの儀は、無意味であろう」

 唐突な、あまりに唐突過ぎる、儀式の終わりを告げる声であった。
 淡々と、これで終わりだと言われて、煙々羅はきょとんと目を大きく見開いたほどだ。

 終わり?本当に?これで、終わり?
 もう、痛みを感じなくても、良いのか?
 もう、苦しみに耐え続けなくても、良いのか?

 古部は深い笑みを刻む。
 今度こそ、内側の般若がはっきりと、煙々羅にもわかるように浮かび上がる。

「何を、企んでやがる、古部」

 身を起こす。
 慌てたせいで、起きあがったつもりが、尻をついてしまった。体はまだ、真言に縛られうまく動かない。いや違う、彼を取り囲んで陣を敷く古部の部下たちは、まだ袖の中の印を解かず、唇は小さく動いている。

「不動縛呪?……古部、おい、もう終わったんじゃないのかよ」
「終わった?誰がそんなことを言った。これ以上の儀は無意味であると、そう言ったのだ」
「だから、終わったんじゃ、ねえのかよ。おい、離せよ、俺様はもうつき合ってやらねえぞ、今日は約束があるんだ、おいお前等、このつまんねえ真言をやめねえか!」

 もがく。震える足を叱咤して立ち上がる。
 体は、鉛のように重く、陣を出るにはほんの二三歩歩めばいいだけなのに、ただの一歩も踏み出せぬ。
 己を取り囲む陰陽師たちが、さらに声高に真言を紡げば、重さは増して、耐えきれず膝と手をついた。

「忘れているようだが煙々羅、お前は私が使役する炎だ。頃合いとは言えぬが、こちらも急がねばならぬ事情ができた。役に立ってもらうぞ」
「あいにくだったな、旦那。あんたの役には立たねぇ。あんたの役になんて、立ってたまるか。俺様は、俺様は、見つけたんだ。主を。俺様の主を見つけたんだ」

 起きあがれないのならば。
 這ってでも。

 陣の中にますます立ちこめる、重い真言を全て身に受けつつも、煙々羅は。閻羅は、這った。背中を踏みつける巨大な不動の足を感じながらも、そんなものに屈してたまるものかと、手を伸ばし、床に爪を立て、全身の力を込めて体を引きずった。

「そこに居てくださるだけで、いいんだ。笑っていてくださるだけで、いいんだ。傍にいると安心するんだ。無茶なんか、絶対言わないんだ。あの方を守るために、俺様は、俺様は、強く、なるんだ。なったんだ」

 平らな床が、まるで断崖絶壁のようである。そこに、爪だけでぶら下がっているかのようだった。力を抜けば、たちまち、落ちる。

「お前の言うことなんて、きくもんか。俺様は、帰るんだ。あの方のところに、帰るんだ、帰るんだ、帰るんだ」
「なんと、面白いように誑かされおって。どんな色香で迫られたやら、骨抜きだな」
「色狂いの稚児趣味陰陽師が、汚らしい言い方すんじゃねえっ。あの方は、そんなんじゃ、そんなんじゃないんだ。てめぇと一緒にすんな、そんなんじゃない、例え言葉だけでだって、あのお方を汚したら承知しねえぞ!」

 ようやくのことで、陣を描く一番外側の縁を掴んだ。
 床に墨で描かれた、ただ平坦な輪の一端が、閻羅の命を此の世に繋ぐ最後の蜘蛛の糸。
 これを離せば、崖の下へ、真っ逆さま ――― 。

 この手を、古部が勢いよく、踏みつけた。
 ぎろりと閻羅の、燃える瞳が断崖の上に立つ古部を睨む。古部は見下ろし、爪がはがれかけた閻羅の指を、踏みにじる。

「役に立てと言った覚えはない。立ってもらうと言っただろう。貴様は私の道具だ、与えた意志など、競争意識を持つための仮初めのものに過ぎん。お前は充分に育った。私の炎へと還れ、煙々羅」
「嫌だ、やめろ」

 指が。骨が、砕けて。

「やめろ。やめてくれ。嫌だ、俺様は帰るんだ、待ってるんだ、待っていてくださるんだ、あの方が」

 反り返っても、まだ離さずに。

「炎に還れ、煙々羅。貴様の意志は、貴様の望み通り、たゆたう炎に洗われる」

 さらに、踏みつける。指が一本、剥がれ落ち、尚も残る指を、一本ずつ、じりじりと、踏みつける。

「違う、俺様は、あの方の元へ、帰るんだ」

 残った指で己の体を崖の上で引き上げようとする、閻羅の渾身の力をしかし、古部は、許さない。

「煙々羅、ご苦労だった。貴様ほどの炎が媒介であれば、ヤマの一端を呼び出すのに充分であろう。なに、誑かされた心も、そうなれば、消える」
「いやだ、やめろ、やめろ、やめろ、やめろ、やめてくれ」

 消える。消えてしまう。

「あの方を、俺様の中から、消さないでくれ、消さないでくれ」

 じり、じり、じり、と。
 指が、離れて。


 ――― あっと、思う間もなかった。


 陣の縁から手を離した途端、沸き起こった黒い煙は、鎖の文様を描きながら、圧し掛かる重さに気を失った閻羅を取り巻き、紅蓮に燃える髪の一本までを、覆い隠してしまった。


 鎖が閻羅の形をすっかり覆い、自ら意志を持っているかのように蠢いて、違う形を作り上げ、陣の中でむくりと起き上がる。
 古部の真言が歌うように響き渡り、陣を囲む陰陽師たちの合唱がこれを助けて、蠢く影は呼応して、やがて陣の中で立ち上がり、古部に向き直る頃には、閻羅が好んで見せていた青年よりも、さらに一回り大きな姿となっていた。


 黒い鎖が蛇のように足元へ消え去った後、現れたそれに、古部は恭しげに膝をついた。







 子の刻が過ぎた頃、リクオはそろそろかと思い、閻羅が帰って来るのを彼の座敷で待っていた。
 行灯に火を入れて、伊佐に貸してもらった異国の草子を手慰みに読むのだが、なんだか胸騒ぎがして、ちっとも頭に入らない。
 胸騒ぎは、丑の刻が近づくにつれて大きくなり、暁が近づくともういてもたってもいられなくなって、リクオは座敷を出た。
 そろそろ休もうかと部屋へ戻る酔った者どもや、茶屋から女郎を両脇に抱えて連れてきたらしい者どもに、煙々羅を見なかったかと問うのだが、誰一人、気にする者はない。

 探せば探すほど、閻羅が遠のいていく気がして、焦りが焦りを呼ぶ。
 明け方になり、里の誰もが寝静まる頃、足が棒になるまで閻羅を探したリクオが、ほんの少し期待して東部屋の座敷に戻っても、「待ってろと言ったじゃねーか」と拗ねる閻羅の姿は無く、ちらちらと、行灯の炎が小さく揺れるのみ。

 以降、閻羅は彼等の前から、姿を消した。

 東西の部屋の連中に、今年の秋場所の中止が申し渡されたのは、その翌日の事である。





 からからからと廻る糸車、時は流れていく。
 緩やかに見える流れでも、川の底の流れは油断をすれば足元をすくわれる。

 はたと気がついたとしても、その時には、決して、戻りはしない。