濡れ縁から庭を臨み、しばし佇まれていた総大将。
 春には見事な花をつけていた桜も、今は垂れた腕に緑の葉を纏わせ、大きな体を半ば宵の闇に沈ませていた。

 常ならば、庭には誰かしら小物妖怪たちが遊び騒いでいるものだが、今はさすがに床に伏せる若君をはばかって、誰一人の姿も無い。
 庭に出るどころか、若君の部屋で若君を呼びながら、一時間ごと、ボーン、ボーンと増えていく柱時計の重い時を告げる声に、びくりびくりと身をすくませている。
 残された時間は、少ない。

 枝垂れ桜は遊び相手を失って、心なし、うなだれているようにも見えた。

 物寂しさから逃れるように、総大将は庭を後に、台所へ足を向けられた。
 あの人間の娘がどうしているか、確かめずともわかりそうなものだったが、もしも不安に袖を濡らしているようならば、何かしら、慰めの言葉を向けてやらねばなるまいと思われたのだ。
 とは言え、食事時でもない賄い所は女の居場所と言う気がしてならず、何だか覗きをするようではばかられたので、大丈夫なようならそのままそっと戻って来ようとお考えになり、宵の気配に己のそれをそっと隠して、台所の暖簾のあたりから、そっと中を、うかがわれた。

「あら、おじいちゃん、お酒ですか?」

 途端、中で一人皿を洗っていた娘が、振り返りもせずに言ったのでどきりとしたが、そう言えばこの娘はそういう娘であったと思い直し、観念して姿現すと、うん、まあ、と、曖昧な答えを返しながら、暖簾をくぐる。

「いや、若菜さん、どうしておるかと思ってのう」

 観念して、かけた言葉はありきたりなものだったが、口にされた総大将の、人の娘を思いやる憂いた表情こそ、若々しく猛々しいばかりであった総大将を知るものなら、驚くようないたわりと思いやりに満ちていた。

「そりゃあ、心配ですけど、でもまだあの子を見失ってはいませんから」
「まだ、《視》えるのかい」
「細い、糸のようなものですけれど、まだあの子と私は繋がっているんです。あの子が帰ってくるのなら、きっと、この糸を手繰って、帰ってきますよ」

 常人よりも見えるものの多い娘が、見えるというのならば見えるのだろう。
 言われて逆に、慰めに来たはずが、慰められた気のする総大将、腕を組みふむと唸る。いつものように笑んでいる娘の方がよほど、己よりも落ち着いているように見えた。

 その娘が、皿を洗う手を止めて、

「それに、信じてるんです。鯉伴さんのこと」

 遠くを、己にすら見えぬ彼方の岸を、目を凝らすようにして呟いた声は、夜のしじまに、溶けてしまいそうなほどかすかな、かすかな、不安の形であったかもしれぬ。

 只人よりも多くを見ることは、決して、心に安らかや平らかを、得られるものではない。
 唯一の救いは、

「おじいちゃん、言ってましたよね。昔、鯉伴さんの守役をしていたリクオさんは、今のリクオによく似ていた気がするって。魂が時を遡って、リクオは鯉伴さんに会いに行ってるのかもしれないって。
 それなら、私の目が届かないところでは、きっと鯉伴さんが守ってくれる。そう、信じてるんです」

 目に見えない何かを、信じない理由にはならないことだ。

 そうさな、と総大将も口元に笑みを浮かべたところで、娘が振り返り、昔から変わらぬ明るい笑みを見せた。
 つるりと娘の手元から皿が抜け出たのは、いつものご愛敬である。

 そうとも、孫がこのまま終わるはずはないと思うからこそ、総大将は例の新参者を、蔵に閉じこめているだけで済ませたのだ。
 どれだけの覚悟をもってこのような暴挙に及んだのか、今一度確かめてみたいと思われたのは、いかに総大将とは言え、今日ばかりは、風に誘われるままの気まぐれではない。






 蔵の地下深くに作られた牢は、ここ百年近く、役目を失い忘れられたままになっていた。
 手入れもされぬままであったので、黴と埃の臭いが鼻をつく。

 件の妖は、総大将が現れるのを、牢の格子の傍でお待ち申し上げていた。
 むしろの上、格子の傍で平服しているのは、小物とは言え獣の類ではない。小物に類するとは言え、中でも思慮深きと言われる樹木の精である。
 一つところに待つのは慣れたものであるだろうに、これほどの暴挙に出たのには、山を切り崩し木々を切り倒し、そうして拓かれた街すらも、コンクリートの瓦礫とアスファルトで埋めつくした上で捨てていく、身勝手な人間への恨みが、この状況を打破しない奴良組三代目へと矛先を向けさせたものに違いない。

「頭が冷えたかい」

 期待をせずに問うてみれば、

「しばし己を省みておりました。総大将にとっては、あの昼のお姿もまた、血の繋がった愛孫と思えば、申し訳なきことをしたと」

 反省はしたが、後悔はしていないと答えるのだ。

「やれやれ、頭のかてぇ野郎だ。お前が言うように、本当にあいつが完全な妖になったとしてよ、お前それで、どうするつもりなんだい」
「無論、此の度の無礼をお詫びいたします。その上で、我等の窮状をお伝えし、人どもに、己等以外のものへの畏を取り戻していただく」
「へえ。そりゃあ、ちいっとあいつには無理かもしれねぇなあ」
「………総大将は、力に不安のある者に、血筋のみで三代目をお任せになるのですか」
「いいや、違う。あちらの姿には不向きだと言うたのよ。あやつの夜姿は、人の前に出るためのものじゃあ、ねえからな。それにお前、アレの前で無礼を詫びるなんぞと言っておるが、アレは短腹じゃぞ。人に仇成す妖怪を、そのまま許し置くか、ワシは甚だ疑問じゃのう」

 ぴくりと、平服したままの新参の肩が震えた。
 己が滅される場合もあると、初めて思いいたったらしい。

 許しもないまま、そろりそろりと顔を上げ、己を見下ろす総大将を、呆けたように見つめ返し、どうにか声をふりしぼった。

「しかし、噂では、牛鬼さまをお許しになったと」
「あれは、昼姿でのこと」
「四国妖怪の大将を、犠牲になった者どもの菩提を命ある限り弔うことで、手打ちになさったと」
「それも、夜が明けて夜というより、溶けあった曙光の姿になってからのこと。姿は夜じゃったが、あれの内側には光が満ちていた」
「まさか………まさか」
「ガゴゼ、蛇太夫、旧鼠、夜姿の前で許された妖はいねぇよ。許したのは、全て、人のリクオ。調伏したのは、全て、妖のリクオじゃ。おめぇの望むようになったなら、此の先、あやつは数多の妖の屍を、築くことになるやもしれぬ。
 ワシがただ、お前さんをここに待たせている思っておるのかい。ここで待たせているのはな、あやつがもしも万が一、お前さんが言うように、妖の魂のみが此の世に残った姿で目覚めたならば、ワシが出しゃばるまでもなく、お前さんを調伏すると思うからよ。お前さんを許したわけじゃねえ。
 許すとすれば、お前が殺そうとした、人間の方のリクオに他ならぬ。あやつが目覚めたとき、もしもお主が先に咎めを負うて滅されていたならば、あやつは昏倒などしていた己のせいだと気に病むじゃろうからな、待ってやっているだけのこと」

 もはや総大将の前で言葉も出せず、枝と葉で形造られた樹木妖怪は、ごくりと喉を鳴らした。

「お前さん、昼のあやつを若木に例えたな。金剛石を抱く、若木だと。樹の精のお前さんが、その若木を枯らしても仕方ないたあ、それこそ人間の鉄の臭いがしやせんかのう」
「………昼の、若は、御自身を殺めようとしたわしを、許すと、思われるのですか」
「ああ。許すよ。これは絶対だ。言い切れる。あやつは、そのために生まれてきたような、甘い奴じゃからのう」

 許すどころか、と、総大将は遠い昔を思い出しながら、おそらく愛孫も、己の奥方と同じことをするであろうと、思いを馳せられた。

 あの時。
 奴良組二代目が、まだ若頭であった頃、徳川幕府がようやく三代将軍家光まで血を繋いだ時分に、出かけた先で守役共々、拐かされる事件があった。

 あの頃の総大将は、まだ、お若かった。
 その名の通り、ぬらりくらりといずこからか、浮き世に滑り込むように現れ出てより、ようやく百年そこらを数えた頃。
 その頃はまだ、青年のような若々しさを保っていた。
 翌年には元服を控えていた愛息を奪われ、頭に血が上り、若頭と守役が訪ねた先と言われる、陽炎町の大白一家へ、そう、あろうことか人の一家へと、乗り込んだのである。

 知らぬ存ぜぬを通したくせに、少し脅してやると今度は逆に、物を尋ねるのならばそれなりの謝礼を用意せよと、息子の命がどうなっても良いのかと、汚い事を言い出した。
 相手も人足を扱い、女衒、人買いの類まで面倒を見る任侠一家の親分である。一筋縄ではいかず、相手に約束を守る気は無いと判っていながら、総大将は言われるがまま、千両の大金を用意したものだ。

 もちろん、大白親分には約束を守る気など、毛頭なかった。
 己の屋敷で隠し飼っていた餓鬼どもで総大将等を囲み、僅かな手勢のみで大白一家を尋ねていた総大将を、そのまま滅してしまおうと企んだのだ。
 総大将は怒り、屋敷ごと、餓鬼どもを明鏡止水の炎で黄泉送りにしてしまわれた。

 これが幕府の知るところとなって、約定を交わしたはずが人に仇成すとは何するものぞとあらぬ謗りを受け、お若い総大将はこれにも怒った。
 総大将に呼応して、奴良組の百鬼も全て、怒った。

 怒りに支配されたままでは、人間どもと改めて話そうとしたところで、互いに己の都合しか言い合わない。
 理解ではなく、先入観で。
 友愛ではなく、憎悪を。
 たやすく育て上げ、人どもは総大将がまだ話し合いを終えたと思っていないうちに、奴良屋敷を軍勢で囲み、その頃にはもう、《わいら》や大白一家のことなどに聞く耳持たず。

「 許す以外に、手段がねぇのよ、あやつには」

 総大将、あの頃を思いだし、未だに瞼を閉じれば面影よぎる、妻の柔らかな笑みと、怒りに震える奴良家に在るただ一人の人間として、己の前に伏した様子を思い浮かべ、言い添えた。

「アレは、生まれながらの人柱。妖の家に生まれ、妖の怒りを鎮めるために育った、人柱のようなもの。生まれがこの家でさえなけりゃ、半妖と人の間に産まれた子など、生まれを隠せばいくらでも、人の岸辺で暮らせたろうに、一生そうはできんのじゃ。
 お珱が、そうであったように。
 アレは奴良家が得た、人柱なのじゃから」