江戸城下町を中心に、武蔵野国は天海僧正によって施された、螺旋の結界によって守られている。
 そう、羽衣狐が総大将ぬらりひょんによって調伏された後、十三代目花開院秀元が京の都に施したものと同じものだ。
 これによって、京を中心とした山城一帯と、江戸を中心とした武蔵野国一帯では、闇の中でとて妖怪どもが好き勝手に暴れることもなくなり、結果、戦乱のときにあれほど大阪一帯に集っていた人の傭兵どもが散って山賊盗賊の類となったように、妖怪どももまた、散ってあちこちの辺境で、せいぜいが時折山奥に迷い込んでくる人間を喰らうぐらいのことしかできなくなった。
 奴良屋敷がその武蔵野国にあって一家を構えていられるのは、総大将ぬらりひょんと、他ならぬ江戸幕府との、不可侵の約定があるからに他ならない。

 総大将、日がな一日縁側ですねこすりを撫でているだけではないのである。
 人を娶ることで人と交わり、これを理由として己等に過分な悪意が無いこと、同時にただ恭順するだけの意は無いことを示し、己の威光でもって江戸中心とした妖怪どもを纏め上げることを約束するかわり、光強まる世の中において、きっちり闇の領分を守ってみせたのだ。

 互いに不可侵であるという約定を守るには、定期的な顔合わせが必要である。
 約定が保たれているかを確認し合い、もし違われている様子であるならばこれを正す必要があるためだ。
 妖怪の領分で好き放題に暴れすぎている者があるならば、人どもの方から総大将へ苦言が入る。
 同時に、人どもが妖怪の領分を無視しているような事柄があれば、三下どもから貸元を通して総大将の元へ報せが入り、これを総大将が幕府へ苦言として申し立てる。
 光と闇との領分を守る以上、互いに相応の妥協や取引は必要なのだ。

 しかしこの約定、徳川三代目にして、最早破約となるか、と思われた。

 人どもの言い分はこうである。
 武蔵国に迫る《わいら》なる妖、これによって数多くの村里が既に失われており、にも関わらず奴良組の動く気配なし。よもや奴良組が裏で糸を引き、太平の世に再び妖の闇を引き込もうとしているのではないか、と。

 対する総大将の言い分はこうであった。
 《わいら》なるもの、妖にあらず。いかなる山、川、海に棲む者どもも、これなる生き物を知らず。また人の中にも、妖の中にも、これを見た者なし。山賊どもが《わいら》を名乗り、我等に責を押し付けているのではないのか。さらにはこのところ、人どもの中では弱き小物妖怪を捕らえて見世物にする悪行蔓延り、これを野放しにしていることこそ、陰ながらその人間どもを幕府が後押ししている証に他ならぬのではないか。人と我の間に生まれし子もまた、拐かしに合ったが、心当たりの先はやはり人どもの顔役である。其方が動かぬのであれば、致し方なし、子を奪われた父として、力尽くで取り返すのみだが、如何か。
 それでもああだこうだと言い返してくる幕府に業を煮やし、総大将は手勢を連れ、大白一家を焼き討ちにしてしまわれた。

 これを聞いた幕府方こそ、寝耳に水の大騒ぎだ。

 そんな話は知らぬ、存ぜぬ。
 傍から見れば、言い訳にしか聞こえぬあれこれを返すばかりか、苦し紛れに、「人と妖怪の間に生まれた子と言うが、果たしてそれは本当に、父母に望まれて生まれた子であるのか。妖に浚われて子を孕まされた女が、我が子だけはと人の世に放しただけではないのか。いやその前に、その母というのは、誠に人であるのか」などと言う始末。

 鯉伴さまとリクオの行方が知れなくなってから、早三ヶ月が過ぎようという頃。
 こうした内容が綴られた文を、総大将は配下百鬼が揃う大広間で、見事に破いてしまわれた。
 割かれた文の向こうに見えた、総大将の面に既に慈悲は無く、あるのは違わず魑魅魍魎の主たる厳しさ。広間に集った百鬼は皆、十数年前の羽衣狐との一戦を思い出したほどである。
 陽気快活が身上のぬらりひょん様が、あの時もこうして怒りに我を忘れた御顔をなさった。
 その顔をさせた相手が ――― 羽衣狐がどうなったか、今や知らぬ者は無い。

 もとより、総大将に命預けた百鬼夜行だ。
 皆が皆、何が相手であろうが、総大将の一言があればどこへなりともこの背を追うつもりであったし、何より、ここ三ヶ月の人間どもの狼藉や返答に、煮え湯を飲まされる想いであったこともあり、上座の総大将の一挙一動をつぶさに見守っていた。
 そこへ、破いた紙ふぶきが舞ったときは、おおと感嘆の声が上がったほどだ。

 ――― 今か。今か。今か。
 ――― 出やるか。出やるか。出やるか。
 ――― 破約か。破約か。破約か。

 固唾を呑んでさらに見守る百鬼夜行の者どもへ、闇夜に明々と燃える金色の毛並みを美しく震わせ、総大将が立ち上がらんと腰を上げかけたとき。

「 ――― お待ちくださいませ、お前さま!」

 淀み蠢き今にもうねりを上げようとしていた闇の者ども、柏木を打ったように凛とした声に、昂ぶらせていた怒気を払われ、はっと顔を上げて声の主を見た。

 他ならぬ、総大将とて同じである。

 声の主は闇の中にあって最も濃き闇の、隣にあるにも関わらず、可憐に咲く光。

 珱姫さまであった。

「お待ちくださいませ、お前さま。今、力任せに打って出て何といたします。それこそ、《わいら》なるものと同じ所業を奴良組が為すと、知らしめるようなものではありませんか。この十年、こんな事で全てを台無しにしてしまうために、この国に屋敷を構えて人と交わってきたわけでは、ないのではありませんか。あらぬ濡れ衣を、濡れ衣であると示し、かつ私どもの窮状を知っていただいて、あちらの力を貸していただくことこそが、今、必要なことなのではありませんか」
「口を挟むな、珱。もはやこうなっては、女の出番ではない」
「いいえ、挟みます。戦になっていつも泣くのは弱い者、女や子供ですもの。関わりが無いものではありません。お前さまが人を相手どって戦うというのなら、私は、相手方を討たれれば人としてお前さまを恨む気持ちも生じましょうし、逆にお前さまが討たれては ――― 考えるだけでも恐ろしいことです。争いはなさいますな。どうにか、話し合いを続けるのです」
「それは、あちらに、こちらと話す気があればの話じゃ!」

 これまで決して、妻に迎えた女に、声を荒げたことのなかった総大将だった。
 それが今、初めて、怒りに燃えたままの金色の瞳で、隣に座す珱姫を睨みつけた。

 珱姫さまも、荒ぶる夫の視線をしかと受け止められる。
 決して怯えも、咎めも、珱姫さまの心の内には無かった。夫の怒りが、我が子が消えた悲しみが故であると、知っておられるためだ。夫が荒ぶるには、荒ぶる理由があると、知っておられるためだ。

 総大将が大きく片腕を振りかざすと、締め切っていた雨戸がそれだけで、パタンパタンと音を立て両脇に飛びのき、あたり一帯の田畑の様子がよく見えた。いや、今は闇夜だ、何も見えるはずなどない。無いが、闇夜に、畦道に沿ってぐるりと、奴良屋敷がある丘を囲む炎が、よく見えた。
 人間の世ではそろそろ、ならず者が出入りする狼藉集団として名を馳せていた大白一家が、一夜にして焼き討ちにされたとあって、この奴良組を恐怖した人どもにより、瞬く間に軍勢は増えた。

「 ――― 見よ、珱。いまやこの屋敷、徳川の手勢で囲まれておる。あの火が見えるか、人どもの篝火が見えるか、ワシ等を追いやろうとする火が見えるか。夜中あのようにぐるりとここを囲んで、昼になればまた、矢を射かけ、鉄砲を撃ち、破魔の呪でじわじわと苦しめてこよう。彼奴等め、既にワシ等が《わいら》だと決め付けておるのよ。
 いいや、そうでなくとも良いのかもしれぬ。ワシ等を根絶やしにした後に、再び《わいら》なる者が蠢けば、今度はそちらを退けようとするだけかもしれん。つまり、彼奴等にとって約定など、とるにたらぬ事と、そういうことよ。あちらにワシ等と話し合う気なぞなく、ワシ等のようなものを、人に仇なすものと決めてかかっておる。最早、話し合いは無用じゃ!」
「いいえ ――― いいえ、お前さま。子を失って哀しむ気持ちは、人も同じ。お前さまの気持ちを、きっとわかってくれます。お前さまが私を妻に迎えてくださったのは、人と交わり、人と話し合い、人と生きていくと決めてくださったからではないのですか。人と、分かり合おうとしてくださったからでは、ないのですか。
 今は不幸にもあのように、軍勢を差し向けられてはいますが、ならばこそ今一度、目と目を合わせて、ちゃんとお話し合いになればよろしいのです。
 私はお前さまが言葉を尽くしてくださったから、お前さまというひとを好きになりました。お前さまに助けられたからではなく ――― 夫婦になろうと言われたあの日まで、何度も言葉を尽くしてくだされたから、次の日に私が羽衣狐に拐かされる事なく、言葉をお返ししたとしても、やはり同じ答えを出していたでしょう。
 たった一度の食い違いで、ここまで築きかけてきた人と妖の交わりを、簡単に壊してしまうなど、私は残念でなりません。
 もしお前さまが、人の無礼に怒っていらっしゃるのなら、この珱は、ここは人として申し上げましょう。
 どうか、どうか今一度、人に機会をいただけはしませんか。この通りでございます。
 あちらも人を名乗るなら、人の礼には礼で答えましょう。
 私に考えもございますので、ここは、どうか、どうか、何卒、愚かな私ども人間を、お許しくださりませ。
 総大将、それに皆々様方、どうか、どうか今一度、我等人との縁を、認めては下さりませんでしょうか。この通りでございます」

 座りなおし、丁寧に総大将へ伏した珱姫さまに、ざわり、ざわりと ――― 荒ぶりかけていた百鬼どもが、鎮まった。
 そうだ、この奥方もまた、人間であるのだと、思い出したのである。

 妖怪の一家の中で、輝きを失わず、太陽のようにあたたかなその人を、一家の誰もが愛さずにはいられない。
 低く平伏されて、そうか、我等は怒りというより哀しく、その哀しみを与えた人どもから、こうして一言、悪かったと、謝ってもらいたかったのだと思い当たると、途端に頭が冷えたのである。

 たった今まで、静かながら誰より魂を荒ぶらせていた総大将も、また。

「 ――― 頭なんざ、下げるない。騒いでばかりの己が、情けのうなってくるわ」

 珱姫さまが、おずおずと顔を上げると、夫は何だかばつ悪そうな顔で、ぽりぽりと頬のあたりを掻いてそっぽを向いているのだった。これまで言い合いをすることはあったが、夫の方が声を荒げたのは、そういえば初めてであった。
 くすりと珱姫さまがお笑いになったので、ようやく、総大将はいつものように背筋を伸ばし、お優しい目で妻を認められた。

「それで、考えがあるからには、お主に任せて良いという事なのかな、奥方殿」
「はい」
「話し合いと言うが、あちらは聞く耳持っておらんぞ。江戸城なんぞへ行っても、塩を撒かれて追い返されるだけじゃ。頭から、こちらの言うことを信じておらん。妖怪風情などと言いおってな」
「では、珱もお供いたします」
「お主も同じじゃ。まことに人であるか疑わしいなどと、いちゃもんつけおって」
「ならば、私の身の証をたてる用意をしてから参りましょう」
「身の証とな」
「はい。お忘れですか、私も公家の身なれば、かつてはそれなりに家柄もございました。ここへ来る前の騒ぎで、おそらく家は人手に渡っているか廃屋となっているでしょうが、嫁いで来た頃には、父がどんな身分であり、己がどのような家に生まれ育ったか、わからぬ年ではございませんでしたから」
「しかし、それだけで、はいそうですかと信じてくれるもんかのう」
「はいそうですかと、信じてくれる御方に、心当たりがございます。この騒動を治めてくださる御方へ、文を書いていただきましょう」
「任せてよいか」

 いよいよ、珱姫さまは綻ぶようにお笑いになった。
 陽の下揺れる、桜の花房のごとくに、あたたかく。

「はい。どうか珱に、お任せくださりませ」



+++



 眠りが浅いのは、戦国の世を生きてきた故。

 己の側で、なにやら気配があるとなれば、見えるものであれ見えぬものであれ、意識は引っ張られでもしたように急激に浮上する。
 はたりと目を覚まして身を起こし、彼は枕元の護身刀を掴んだ。

 ここまで、一呼吸。
 十代の少年のように、素早い。
 且つ、熟練の舞師のように無駄が無い。

 だが彼自身は内心、嘆息する。老いたものだと思う。
 暗闇に目が、なかなか、慣れないのだ。
 あちらはこちらを、既に視界におさめているだろうと思うと、のっぴきならない状況である、それも、どうやら相手は人ではない。
 刀を握ったところで、暗闇の奧に居るそれが、気配だけで彼の喉を鷲掴みにしたので、忌々しいことに人を呼べなくなった。さあと背筋が凍る。

 ――― ふん、と、笑う。

 痛いときには痛くないと言い、痛くないときには痛いと言う。
 その習慣とは恐ろしいもので、人の上に立つための能面をかぶり続けていると、命が危ぶまれるこんな時にも、決して表には出ないものだ。
 表とは、すなわち、心の表層にすらも。

 一つ息を吸って、はいた。
 戦だと思うことに、した。
 見えぬ相手と、これは一対一の、戦だ。

 腹が据わった。
 いまだ、喉は鷲掴みにされたままで人を呼べはしないが、同じ部屋にいる者に、声を届けるくらいはかないそうであったので、

「………そこの奴、俺に何の用だい」

 相手が口を開く前に、何用だと尋ねてやった。

「ほほう、人間の男が、ワシの《畏》の前で口をきくか。なかなかの奴じゃ」

 答えたのは、面白がるような声だった。さらに、老成した落ち着きがあるものの、若い男のようである。
 どういう奴であろう、妖の類ではないのか、と、さらに探ろうとしたところで、たしなめるような声が響いた。こちらは、確かに人の女の声だった。あまりに大きな気配に隠れて、この声がして初めて、相手が一人でなく、二人であると判ったほどだ。

「そんな物言いをしてはいけませんよ、お前さま。ここには私が、物を頼みに参ったのですから、どうか大人しくしていらしてくださいな。少し、灯りがほしゅうございます」
「こちらの姿を明かすと言うか」
「名乗りもせず、目を見合わせもせずに、話はできませぬ。本当なら、事前に文をお送りして、約束してからお会いするのが筋なのですから」
「………フン」

 女にたしなめられた男が、面白くなさそうに応じると。

 はらり。
 ひらり。

 どこからか、桜の花びらが舞い落ちて、それ等がそれぞれぼんやり光って部屋の中を照らす。
 浮かび上がった人影は、二つ。
 一つは、男の影。こちらは部屋の奧で、戸を背にして立ったまま、腕を組んでいた。一瞬、桜の花弁が男の顔を横切り、これで金色に輝く瞳と、風も無いのに吹きあがる、長い金の髪が認められる。異相ながらも妖艶。まさしく、妖の者。
 桜の花はこれが操る術か、妖気か、いずれにしろ、はっと見惚れてしまいそうな風情がある。

 もう一つは、これより少し、手前で、背を低くしていた。
 女である。平伏している。よって、顔は見えない。
 長く伸ばした髪を、裾の長い桜模様の打掛に、扇のように広げて、きちんと両手を揃えているのだった。古式ゆかしい振る舞いに、高い身分が伺える。
 その女が、口を開いた。

「お久しゅうございます。斯様な振る舞い、ご無礼千万は承知の上で、まかり越しましてございます。過ぎた日に賜りました過分なお言葉に、縋るような想いで、江戸からここまでやって参りました。どうか、私の話だけでも、聞いてはいただけませんでしょうか」
「……過ぎた日?……あんた、誰だ。顔、見せな」
「はい」

 女がそこまで言うのなら、己が何かしら、縁を持ったのであろう。
 寝床の上で腕を組み、上体を僅かに持ち上げた女の顔を、桜の光の中でじっくり見つめ、顎を撫でた。

「確かに、見覚えがあるな。いや、待て待て、言うな。今、思い出す」

 逆に無礼なほどに、まじまじと、女を見る。
 しかし、思い出せない。どこかで見たことがあるのだが、どこかで縁を持った覚えがあるのだが。
 しばし考え、

「おい、もっと顔を上げて、笑ってみろ。俺の目を見てみな」

 礼にのっとり、硬い表情のままほんの少し顔を上げただけの、女をそのまま見続けているだけでは、判じられるものも判じられそうになかったので、そう注文をつける。
 後ろの男の目つきが鋭くなったが、こちらは無視をすることにして、女が命じられた通り、まっすぐ彼を見て、困ったように笑ったところで、面影が重なった。

 途端、彼は目を見開いた。

「……洞院家の姫君か?」
「お久しゅうございます、珱にございます」
「そうだ、珱姫。大阪の戦で、行方知れずになったとばかり思っていたが」
「命救われ、今はこの身を、江戸の奴良家に寄せております」
「奴良家。あぁ、魑魅魍魎の主とかいう野郎の一家だな。と言うことは、あんた、妖の家に嫁いだのかい」
「御縁が、ありまして」
「そりゃあ、めでたいことだな。洞院家は絶えたと思っていたから、二重にめでたい。御子は、あるのかい」
「はい。男子を恵まれてございますが、それが少々、困ったことになっております」
「困ったこと?……ああ、昔話に来たんじゃなかったな。なんだ、言ってみな」
「お言葉に甘える浅慮、どうか寄る辺無き身の上ゆえと思うて、お許しくださいませ。実は」

 彼が昔、確かに縁を紡いだ娘は、かつての童女だった頃の面影を、優しい笑顔に残していたが、今の姫君はあの頃になかった、芯の強さを宿していた。
 空を見て泣いてばかりいる父に、どうにか振り向いてもらおうとしていた、心優しい癒しの通力を持った、童女ではなく。
 そこに在ったのは、魑魅魍魎の主の妻にして、一人の母であった。

 奴良家に嫁ぎ、一子をもうけたこと。
 この子が、今年、齢十二となったこと。
 来年の正月には、元服の儀を執り行う予定であったこと。
 この春に行方知れずとなり、以降、音沙汰無く、拐かしたと思われる人の一家との争いが引き金となって、奴良家と徳川幕府との約定が、危機を迎えていること。
 大白一家で見た、餓鬼の群。かみついたものを、腹に飲み込むことを覚えさせられた餓鬼ども。
 《わいら》の正体、もしかするとこの餓鬼どもであったかもしれぬこと。
 《わいら》の脅威を、幕府は奴良組の操るものと考えている濡れ衣の裏で、何者かの悪意が着々と、幕府に迫ろうとしていること。
 餓鬼どもを操っていた大白一家と、大白一家が焼き討ちにあうや、姿を消した久遠河岸の廻船問屋、その廻船問屋と、京のとある商家のつながり。その商家と朝廷とのつながり。

 あらかた話した後、珱姫は最後にこう締めくくった。
 その頃には、桜の光を借りずとも、障子を青く染め始めた夜明けの光が、薄く部屋の中を照らし始めていた。

「今一度、徳川幕府と奴良家の約定を取り交わすため、どうか上様へ、このお話を繋いではいただけませんでしょうか」
「なんだ、徳川幕府を討つから兵を貸せ、じゃねえのか。俺は今、すっかりその気でいたぜ」
「そのような事は、いたしませぬ。奴良組は、乱世を望みませぬゆえ」
「妖の一家が、乱世なしにどうやって」
「そのための、私でございます。奴良組は、人と交わります。縁を大切に紡ぎながら、次の世へと託すのでございます」
「なるほど、本気のご様子だ。あーあ、戦で死にそびれちまうと、なかなか次の機会って奴は巡ってこねぇもんだな。ま、話はわかった。すぐに行こう」
「はい。……あの、文机などが必要でしたら、ここへお持ちいたしますが」
「Ah?誰が書室に行くと言った。俺自身が行って話した方が、手紙なんぞより早いだろう。あんたの身の上も知っているし、文を書くより、身の証として確かだろうが。俺は回りくどいのは嫌いなんだ。とは言え、支度するまで、少し待て。なに、朝餉まで待てとは言わねえよ」

 この返事を得て、ようやく珱姫は緊張に張りつめていた頬を緩め、心からの笑みを浮かべた。

「ありがとうございます、本当に、藁をも掴む気持ちで参りました。あのとき、大変に良くしていただいたところを、さらに縁を頼ってあつかましいとは思いつつも、上様への文だけでもいただけたら、と」
「あん時の品々は、ただの謝礼だ。人の命を一つ、救ってもらったんだ、当然だろう。恩に報いるのは、また別の話。あんたは洞院家の娘でありながら、病人の元へ自ら赴いていたろうが。
 それに、あんたが掴んだのは藁じゃねえ」

 このときにはもう身を起こし、己の城ではなく戦場でするように、身支度を整え、隻眼の男は太平の世に不似合いな、物騒な笑みを浮かべて言い放った。



「この独眼竜の尻尾よ。竜の背に乗ったつもりで、任せておきな。………You See?」



+++



 奴良組と睨み合うばかりであった幕府方が、頭を冷やし武装解除に至ったのは、その後すぐの事だった。

 正直なところを言えば、総大将は、確かに一人の男としてはなかなか面白そうな奴であるにしても、奥州に引っ込んでいる、ただ一人の老いた男の存在が幕府を動かせるものだろうかと、妻を疑うわけではないにせよ、少なからず心配していたところ、この心配は無用のものとなった。
 奥州の独眼竜と呼ばれる、隻眼の男は、将軍家の相談役として、将軍の前ですら帯刀を許される身分。この男が、三代将軍家光公の前に姿を現したことで、状況は一変した。

 己の実父が訪ねてきたとて、それほど喜ばぬ家光公だが、自ら「伊達の親父殿」と呼び慕うその男の来訪には、一瞬少年のように瞳を輝かせた後、顎を引いて表情をきりと引き締めたものだ。
 幕府の一握りの者が知る、魑魅魍魎の主との約定に触れられ、今まで臣下の者に任せおいた一件を改めて省み、ようやく、男の取り次ぎによって、総大将と珱姫さまは、三代将軍家光公との会合に望んだのである。

「魑魅魍魎の主のことは、権現様から伺っておりました」

 約定取り交わした後は、いかに総大将とは言え、直に将軍と顔を合わせたことは、数えるほどしかなかった。
 三代目と顔を合わせたのは、この時が初めてである。
 隻眼の男と、他にも数人の近侍が控えていたが、ほぼ一対一のやりとりの中で、徳川三代目は少々戸惑っている様子であった。
 それも仕方のないこと、奴良組を取り囲む軍勢の一件は、江戸で悪しき魑魅魍魎が暴れているため、人々の安寧を約束するための軍勢を差し向けているのみとだけ、聞き及んでいたのだから。

「耳に入っていなかったとは言え、度重なる御無礼、誠、申し訳ない」

 側用人も通さず、御簾も介さない、人と妖、それぞれの頂点に立つ者同士の会合で、まず徳川三代目は素直に己等の非を認めた。
 会合の前、隻眼の男にこっぴどく叱られたこともあった。
 己の目と耳で確かめもせず、駒のように軍勢を動かしたことへの叱責であった。

 珱姫が再び、《わいら》の正体が餓鬼の群ではないかということや、餓鬼の群を使って捕らえた人間や妖怪を、廻船問屋を使って朝廷が集めている可能性があるということ、朝廷に与している陰陽師であれば、これが可能であろうという、予想も含めてお伝えしたところ、いよいよ徳川三代目は黙りこくってしまった。
 口を開いたのは、脇に控えていた、例の隻眼の男の方だ。

「幕府の手前、人間の軍勢を作り上げれば討幕の意志有りとすぐにばれて取り上げられる上、ただでさえ少ない資金源もさらに搾り取られる。そこで、人に従う妖怪を作り、これを軍勢にしておけば、人の目に触れずに、大きな力を手に入れられる。隠す場所など、それこそいくらでもあるだろう、人間は隠れられねぇが、妖怪など、身を隠す術はいくらもあるんだからよ。
 俺が敵なら、大白一家は餌に使うね。大白一家にそのつもりはなかったとしても、こいつに奴良組を食いつかせりゃ、傍目には妖怪どもが約定を違えて、人に仇をなしたように見える。そうなれば、幕府と奴良組の争いになる。
 幕府が勝てば、そこをすかさず、妖怪の軍勢に攻め入らせる。魑魅魍魎の主との戦いで疲弊した幕府に、迎え討つ余力はねぇだろう。
 奴良組が勝っても同じ、やはり己で育て上げた軍勢に攻め入らせる。どっちに転んでも、徳川幕府は討てるってこった。
 だからな、家光公よ、徳川幕府は、奴良組を討っちゃならんということだ。約定がある以上、向こうが人と妖の合わせ技で来る以上、奴良組とて、幕府と手を組み幕府の剣または盾となるしかない。
 そういうことだな、珱姫」
「はい。奴良組には、いつでも戦の準備がございます。人に仇なし、日ノ本に再び戦乱を巻き起こそうとしている妖どもとの、戦の準備が」
「……伊達の親父殿にもし敵ならなどと言われると、ぞっといたしますな。まるで、今にも敵が江戸へ攻め行ってきそうな気が、いたします」
「気がする、じゃねえ。そうなろうとしてるんだ。暢気な奴だな。おい、どうせ討たれる身なら今ここで、俺が介錯つとめてやろうか」

 脅すように言われて、平らかな世に生まれ育った三代目も、ようやく目が覚めたらしい。
 さっそく、総大将や珱姫と、今後の守り固めの方法や、互いの連絡の取り方など、祖父の頃に交わした不可侵以上に密なやり取りを交わし始めた。

 あれこれと取り交わし、隻眼の男が自ら筆を取って書き留めた約束は、まず十二箇条に及んだ。
 最後に、定期的な互いの顔合わせと、時代に応じた約定の取り交わしを定めた文言を追記の上、徳川三代目と総大将が、互いの血判を押し合い、ここに徳川幕府と奴良組は、再び約定を交わすに至ったのである。

 奴良組を囲んでいた軍勢は武装を解除し、次には正式な使者が昼のうちに屋敷を訪れて、詫びの品々を奉じた。
 矢を射かけられ、火を放たれ、奴良屋敷はその時、戦に打ち壊されかけた廃屋のようであり、屋敷の中には人間どもと再び約定など交わさず、使者など食ろうてしまえば良いなどと息巻く者もあるにはあったが、総大将が許さぬと言えば黙る他、無かった。

 ともあれ、奴良屋敷が取り潰される危機は、去った。
 江戸城からの使者を見送った後、久方ぶりに堂々と、夕暮れ時の空の下、枝垂れ桜の下でううんと伸びをした総大将を、珱姫もまた、濡れ縁に座してほっと一息つきながら、久しぶりに心から安堵の笑みを浮かべて見つめられるのであった。
 もちろん、危難が全て、失われたわけではない。
 だが、危難に立ち向かう準備をする時間は、与えられた。

「お主のおかげだな、珱姫。立派な姐さんぶり、ワシは鼻が高かった」
「ありがとうございます。ふふふ、実はうまくできるかどうか、不安だったのですが、皆さんが高ぶっていらしたあの時はもう、お任せくださいと言うしかございませんでしたので」
「今回ばかりはワシも久方ぶり、頭に血がのぼった。お主が止めなんだら、百鬼夜行を率いて江戸城を、攻め落としていたやもしれん。じゃが確かに、それじゃあいかん。いかんな。ワシは、ワシ等は、人と交わるのじゃから」
「はい、お前さま」
「にしても、あのような男と、お主、いつどこで縁を持った。ワシは聞いておらんぞ」
「いやだ、拗ねないでくださいな。お前さまに会うよりも、もっと昔の事でございますよ。私はまだ、ようやく世間のことを知った気になった、童女でございました。父が気鬱にかかっておりまして、食べるものにも事欠く有様でしたので、この身の癒しの通力で人を癒し、かわりにその日の食べるものなどを、皆さまから施していただいていたのです。決して、大きな金子や貴重なものを頂かないよう、注意しながら。それならば、この身に通力を与えてくださった神仏も、お許し下さるかと思いまして。
 あの御方は、その頃の私の噂を聞いて、身分を隠し訪ねてこられたのです」
「ほう。珱はあやつの、命の恩人か」
「いいえ、私が癒したのは、あの方ではございません。あの方がお連れになっていた、臣下の方。あの方自身は、我が右目と、その御方を親しく呼んでおいででしたよ。後から聞いたところによれば、その方はあの方の軍師で、幼い頃は、守役であったそうです」
「守役、とな。なるほど、それで、リクオの話を聞いてから、気配が剣呑になりおったか」

 江戸城への道中、拐かしにあったのは倅一人かと男に問われ、珱姫が、「供をしていた守役も、おそらく一緒かと」と答えたところ、「………そりゃあ、守役ともども、とっとと取り返してやる必要があるなぁ」などと答えた男は、その瞬間、十代の少年に若返ったように猛々しく見えた。
 江戸城でも、戸惑ったような徳川三代目相手に、己の腰の得物を時折がしゃりと鳴らし、脅すような事まで言って話を早く進めさせたのである。
 後から、他ならぬ彼自身が笑って、総大将にこっそり己の得物を見せてくれたが、それはただの竹光であった。それでも、知らぬ者にとっては龍の爪そのものである。

 秋の月が東の藍の空に、くっきりと白く弧を描いている。
 同じ月を、この日ノ本の国のどこかで倅も見ているかと思うと、感じたことのない痛みが、総大将の胸にせまった。
 切なく、苦しい痛みであった。
 同時に、これが人と交わるゆえの痛みなのだと、感じ入る。

「あの男、奴等が攻め入ってくるならば、冬だと申しておったな」
「人にとって手がかじかみ、足が凍る冬は、逆に、寒さなどものともしない妖にとって好機となると、仰せでした」
「もどかしいものじゃな、待つというのは」
「ただ待つのではありません、お前さま。迎え討つのです」
「ククク………いやいや、あの可憐なお姫さまが、なんとも頼もしい姐さまになってくれたものじゃ。
 ああ、もちろんじゃとも。この魑魅魍魎の主ぬらりひょん様が、人に飼われた妖怪どもなど、返り討ちにしてくれるわ」






 この頃、ただ一人、里から逃げた一ツ目小僧は、中山道を平行に山に入ったり、時折大きく遠回りをしながら、少しずつ、少しずつ、武蔵国へと近づいていた。

 春先に里を出て、すでに季節は秋。
 小物とは言え妖怪ならば、とっくに奴良屋敷へたどり着いて良い頃であったが、小さな体は襤褸切れのように傷つき、一歩足を踏み出すたびに、傷口からふわりふわりと妖力が塵と舞う身では、走るにも姿を隠すにも、力が足りないのであった。

 陰陽師たちは、犬のように、しつこく一ツ目を追った。
 一ツ目が、何日も山奥へ隠れていると、諦めて去ったように見せておきながら、例の餓鬼を放った。
 がさごそと音をたてながら、雪崩のように迫る餓鬼どもから逃れ、人知れずひっそりと山奥で暮らしていた大妖の怒りを買い、これの牙からもようやくのことで逃れて、隠れたり走ったりしながらの旅であったのだ。
 傷ついた体を癒す術は、小僧には無い。


 それでも、行かなくちゃ。行かなくちゃ。
 知らせなくちゃ。知らせなくちゃ。


 妖が滅された折に立ち上る塵が、一ツ目小僧の全身を霧のように覆っている。
 走るというよりも、身を引きずるように。
 隠れるというよりも、木々のうろの中へ、這い蹲るようにしながら。

 先へ、先へと進んでいた一ツ目小僧が、ついに、倒れた。

 立ち上がろうとするが、もう力が入らない。

 冬の早い山間に、ふわり、ふわりと冬の使者が降りたって、倒れ伏した一ツ目小僧の体をすっぽり覆ってしまうと、ぐずり、白い固まりと化した体は雪の中で崩れた。


 行かなくちゃ。行かなくちゃ。


 それでも、意志は先を目指す。

 体はとうに、塵と化して白い風がさらったというのに、その中から、もぞりと蠢きはいでたものがあった。
 つぶらな、目玉であった。
 手も足も無く、ただつるりと綺麗な目玉が一つ残って、肉の破片や、赤や白の糸を、肉体があった頃の名残として引きずりながら、なおも、まっすぐに江戸を目指した。