ちらり、ひらり、はらり。 暗く垂れ込めた雲の下、一足早く六花が、ゆっくり、ゆっくり、舞い降りてくる。 街をせわしなく行き交う、商人たちや妖怪たちが手をこすり会わせ、息を吐きかけて天幕の中や屋根のある家に引っ込んでしまう中、今日も閻羅の帰りを待っていたリクオは、誘われるように、軒先から二三歩、歩み出た。 「今年も、ついにお前の季節か……」 リクオは誘われるように、雪のひとひらへと、指を伸ばした。 ここには居ない、焦がれる女へ、この指先が届けば良いと願いながら。 ボーン………ボーン………ボーン………。 重苦しい柱時計の音が、一時間刻みに、低く響く。 間もなく訪れる最後への覚悟を、皆に求めるかのように。 若君が昏倒されてより八日目は、それまでの七日目よりもさらに屋敷全体が緊張に包まれ、変化のない緩慢な空気で疲れさせるくせに、時計の針だけはやけに早く過ぎた。 「若、若、そろそろ起きてくだせえよ」 「リクオさま。リクオさまってば」 「おいリクオ、なんだよこの様は。俺より早く逝くなんざ、絶対許さねえからな。とっとと早く、目を覚ませ、おら」 毎日のように、順番に若君の部屋へ訪れては声をかけ続けていた本家仕えの妖怪たちは、夕方以降、小物大物問わず、入れるだけ入って若君が小さな体を横たえている布団の側で、膝をつき合わせ、若様リクオ様と、御名を呼びかけて目覚めを今か今かともどかしげに待つのだった。 薬鴆堂の堂主も、この一週間は己の薬堂を番頭や三下どもに任せ、本家に付きっきりである。 必死に呼びかけ続ける皆の輪の中で、ふと、若君の枕元で身を小さくしていた守役女が、うっかりと、己の涙を払うのを忘れて、若君の頬にこれをこぼしてしまった。 今日まで泣き通しであったので、もう己の瞳が潤んでいるのか、乾いているのかの判別すらつかなくなっていたのだ。 慌てて己の袖で拭おうとしたとき、不意に、これまでぴくりとも動かなかった若君の指が、ふわりと持ち上がった。 雪女の頬を指がかすめて、涙を払い、 「………お前は、どこに、いるんだい」 夢の中から唇だけをふるわせて、いまだ夢の中にある小さな小さな若君の呟き。 その場の誰もが息を殺した中、泣きぬれた声で、雪女が答える。己の涙を払ってくだされたお優しい手を、そっと両手でうやうやしげに握りながら。 「ここに。つららは、いつでもここにおりますよ、若。ずうっと、ずうっと、お守りしています」 「もうすぐ………もうすぐ、帰る、から」 「はい。はい、お待ちしていますとも。早く、どうか早く帰ってきてくださいな。皆が、待ちくたびれております。つららも、早く、若に、リクオ様に、お帰りなさいませと、言いとうございます」 「………まだ、やらなければ、ならない、ことが」 「え?何です、若、やらなければならないって」 「………………待ってて。必ず、帰る、から」 最後にもう一度、若君の手は雪女の両手を抜け出て、彼女の凍った肌ながら柔らかな感触を、懐かしむように撫でた後、再び、力を失った鳥のように、彼女の膝の上へ落ちた。 しん、と、静まり返った部屋の中、最初に静寂を破ったのは。 「………はい。お待ちしております、リクオ様」 目元を赤く腫らして尚、それが寒椿のように美しい、雪女。 実に八日ぶりに耳にした、主の声に、はきと答えた。 主が、やらなければならないことが、あるのだと言う。 夢の中であれ何処であれ、主がそう言うのならば、彼女にできることは、その主を信じ、お役目に自らご満足されて帰ってこられるその時まで、お待ちする他には無い。 やつれた顔だが、金色の光彩に、さらに強い光を漲らせ、雪女は膝の上の若君の手を、しっかと握りしめた。 「待ってて」 リクオが伸ばした指先に、こちらも惹きつけられたかのように舞い落ちた雪のひとひらは、やがて熱に溶け、消えてなくなってしまった。 大事に抱きしめるように、両手で包み込む。 愛しいあの女の涙であるような気がして、ならなかった。 名を呼ぼうとして、その名が出てこない。 帰らなければならないと、けたたましく警鐘がリクオの耳には聞こえている。 耳を澄ませると遠くから、ボーン、ボーンと、重苦しい音がかすかに聞こえてくるのだった。 「帰らなくちゃいけない。わかっているよ。でももう少し、待っていておくれ。ボクはもう少しここで、やらなくちゃならないことが、あるんだ」 間もなく、今年が暮れていく。 この里に放り込まれた立春の頃より、実に一年近くが経とうとしていた。 唐突に秋場所の中止が決められて、陰陽師たちが東西の部屋の妖怪たちに一方的に告げた後、しばらくの間は、それは憶測でしかなかった。 もうすぐ、江戸に攻め込む日が来るらしいぞ、と。 やがて憶測は、真実になった。 「お前等に朗報だぞ。この冬、江戸へ攻め入ることに決まった。働き如何では、江戸を攻め落とした後、日ノ本の国に所領を得ることもできよう。無論、表を治めるのは人間だが、妖の世は所領を得た妖怪に、末永くまかせることになるだろう。また、所領よりも解放を望む者には、これを叶えることとする」 古部の手下の陰陽師等が、里や部屋で、このように触れ回ったのだ。 あれこれと、戦の準備に活気づく里の中で、拐かされた人間も妖怪も、こそこそと囁き合った。 「結局、群を率いるのは伊佐様になるのか?」 「そりゃ、この前の巡業で伊佐様は煙々羅に勝ったことだし、煙々羅の方は最近、とんと姿を見せんではないか」 山に近い里には雪がちらつき始め、人間は寒さに震えるが、妖怪どもには寒さも暑さもない。 暑さ寒さで人の動きが鈍くなるのは毎年のことであったので、今回も人間どもが動けぬ分は、妖怪どもが手伝って、出陣の準備は整いつつあった。 主を誰に据えるのかを秘したまま、東西の部屋の妖怪たちは一つ箇所に集められ、机の上に広げられた地図で、江戸城と、江戸の街の位置などを、暗記するまで何度も説かれ、目的を植え付けられる。 「お前たちは犀川を下り、途中、山道を通って中山道へ入る。江戸まで行列を作って進み、江戸を望める位置で、我等が合図をするまで待機。我等が見張りにたつのは、巡業と同じことだ、妙な気は決して起こすなよ。 そのときに、お前たちが従う主を定め、鎖を解放する。なに、お前たちの誰より強い主だ、安心して従うがよい。なに、巡業と同じだ、戦う相手がただ、里の中の相手から、江戸幕府、また、魑魅魍魎の主ぬらりひょんに、なるだけのこと」 魑魅魍魎の主、ぬらりひょん。 妖怪の、総大将。 ざわり。 その名を聞けば、妖怪の誰もが色めきたった。 妖怪ならば惹かれぬはずもなき、黒漆のごとくに艶めく、闇の主。 己の腕に、少しでも自信があるのならば、挑んでみたいと思って当然の相手。 妖怪どもの中に、ある種の火がつくのは、いたしかたないことだった。 「戦いの道具として、これ以上のものはないな。妖怪どもは、戦いそれ自体を目的としてくれる。まったく、都合の良い奴等だよ」 陰陽師どもにこうあざ笑われたとしても、妖怪とは、妖とは、そういうものなのだから。 中には、もうすぐ本番の戦いがあるのなら、終われば解放してくれる約束であることだし、無理に脱出を試みなくてもよいのではないかと言う者も出始めたが、これは伊佐が厳しく戒めた。 「アの古部の言ウこトを、信じてハ、いケなイ。アイツは言葉巧みに、我らヲ操ることだケを考えテいル。解放といウのガ、どウいう意味ヲ持つのかなド、知れタものでハない」 この伊佐を先頭にして、いよいよ行列が始まる日が、やってきた。 行く先は東である。 春にそうしたように、リクオは両手首に、術布をしっかり巻き付けられた姿で、行列の先頭が遙か山間に差し掛かるまで、天幕の入り口で閻羅を待っていた。 「いくぞ、リクオ。………煙々羅のことは、仕方ねえ。古部をとっちめてから、居場所を吐かせてもいいだろう。もしかしたら、その内ひょっこり、姿を現すかもしれないし」 「そうだと、いいんですけど」 「おれたちが最後だ。出発しねえと、陰陽師どもがうるさいぜ」 「………はい」 姿を現さぬ閻羅を、リクオは、天幕を振り返り振り返りしているうちに、次に振り返ったときには、慌てて己を追いかけてくるのではないかと思って、なかなか諦められなかった。 しかし、いよいよ例の天幕を畳むというときになって、なかなか人前に姿を現さぬ古部が出てきたので、眉を寄せて鯉伴の後を追った。 天幕の周囲に張り巡らされていた縄が、人足たちの手で杭ごと外されると、支えを失った天幕はすぐさま縮み、綺麗に折り畳まれて、荷車の片隅に収まってしまった。 準備を終えた最後尾の陰陽師どもは、古部に不安げに語りかける。 「奴等、何か企んでやしませんかね。素直に言うことをきく奴ばかりだといいんですが」 「どうせ、謀反を起こそうとでも考えているのでしょう、分かりやすい奴等のことだ。なに、出鼻を挫いてやればおとなしくなる、問題はありません。いつもと同じように」 対して、馬に乗った古部は例のごとく、恵比寿のように泰然とした笑みまで浮かべて、ふてぶてしいまでに、余裕がある。 「あの半妖はどういたします、あらかじめ、人質として捕らえておきますか」 「千代は、奴の側におるのでしょう」 「はい」 「ならば、そのままでよろしい。いざとなれば、千代に捕らえさせましょう」 「しかし、千代の奴はもう、おそらく、奴等の」 「貴方たちは、陰陽師として生きていくならもう少し、技術を学ばんとなりませんな。道具を扱う技術を。それさえ学べば、才などなくともあとは道具で補えます」 「はあ………」 「煙々羅は手元に戻りました。伊佐を首謀者とした謀反は想定の範囲内。伊佐さえ下せば、これを頼みにしていた妖怪どもは瓦解し、煙々羅に従うようになることでしょう。人質としてはうってつけの半妖がおり、ここまで駒が揃っているのです。 ………できればもう少し、江戸内部から手引きをするものが欲しかったところですが、これは、いたしかたない。 よいですか、伊佐はおそらく、この里の結界を怖れて、妖怪どもの謀反を、充分にここから離れた場所で起こそうとするはず。以前、里から出たばかりのところで、結界に引き戻されたことを忘れてくれるような、かわいげのある奴ではありませんからな。 尾根を一つか、二つか、越えたところ。そこが山場です。いいですね。覚えておきなさい。 私は伊佐を見張ることとします。 貴方たち、しんがりを頼みましたよ」 言い残すと馬を走らせ、古部は行列を追い抜いて、先頭へと行ってしまった。 その通り、尾根を三つ、越えたところ。 陽が沈み、宵が訪れたところで。 前もっての打ち合わせの通り、鯉伴はそこで千代の手を引きリクオとともに、騒ぎを起こす伊佐の懐に潜り込むべく、列の先頭へと歩を進めたのだが。 列を半ばまで行かぬうちに、数人の陰陽師と修験者たちが彼等を取り囲んだ。 「………何だ、お前等」 「奴良鯉伴、お前はここから先、我等が保護する」 「なに?」 「保護ではなく、監視の間違いでしょう。今まで鯉伴さまを生かしておいたのは、総大将への人質として使うため、そういう事か」 リクオが受けて、鯉伴と千代、二人と陰陽師等の前に立ち塞がるが、妖術一つ使えぬ小物か、あるいは人間の童子とばかり思われているリクオを、彼らがどうして怖れよう。 一番側にいた僧形の男などは、鼻で一つ笑っただけで、リクオの襟首を掴み軽々と持ち上げてしまった。 「安心しな、その坊主だけじゃねえ、お前も大事にもてなせと、古部の旦那のお達しだ。煙々羅にはずいぶん可愛がられていたそうじゃねえか、旦那の妬きっぷりときたら可哀想なくらいだったんだ、今日からはたっぷりお慰めしてやんな」 この軽口には、男を睨むだけで済ませてやったリクオだが、取り囲んだ陰陽師の一人が千代に手をかけたときには、目つきが変わった。 「千代、お前はこっちだ」 鯉伴と引き離されそうになって、嫌々と千代は首を横に振った。 いや。いや。行きたくない。 「おいよせよ、嫌がってるじゃねえか。いつもは千代のことなんざお前等、てんで構わないくせにこんな時だけ、卑怯だぞ!やめろ、千代に触るなったら!」 「ああもう、うるせぇガキだ。お前は人質だ、聞き分けろ半端者が!」 体格の良い陰陽師に手加減無い力で頬を殴られ、腕に例の鎖をしている身では避けきれず、鯉伴は寒さに凍てついた土の上へ、突き飛ばされて背をついた。 離れた手。首を振る千代。起きあがり、かっと蒼白に燃えた瞳を隠しもせず、千代を腕に捕まえた陰陽師へ、くってかかっていこうとする鯉伴と、二人がかりでこれを押さえつけ、真言で縛ろうとする雇われ退魔師どもの脇を、松明を持った行列の最後尾が、粛々と通り過ぎた。 「千代!」 己を押さえつける陰陽師を、それでも振り払い、さらに押さえつけられ、千代が無言の叫びで伸ばす手を、鯉伴は必死に掴もうとする。 周囲を囲む古部の手下どもの中には、にやにやと嫌な笑みを浮かべてあからさまにあざ笑う者すらあった。 伊佐がいる列の前方で、いまだ、合図の騒ぎは起こらない。 だが。 「おい、手を離せ」 つまらなさそうな顔をして、猫の仔のようにリクオをぶら下げていた陰陽師は、一瞬、その声がどこから聞こえてきたものか、判じかねた。 どうやら己が捕まえていた童子が出した声のようだと思われても、あの物腰柔らかに笑んでいるか困った顔をしている童子には似つかわしくない、低くしっとりと響く声であったので、次に顔をのぞき込む。 「あん、何だと?」 「この薄汚ぇ手を、離せと言ったんだよ、下衆が」 ぱしり、手を払われ睨みつけられ、この時初めて男は、ただの童子とばかり思っていたリクオに、底知れぬものを感じて、慌てて襟首を離すと、一歩、下がる。 これは正しい判断だった。 彼の鼻先を、腰から奪われた太刀の切っ先がよぎる。 下がっていなければ、鼻を削がれていただろう。 童子の手首を戒めていた布が、じりと焼け、闇の中に尾を引いて落ちた。 途端、翻された袖を追うようにして立ち上った青白い炎が、鯉伴の手首に、また彼等を見つめてなるべくゆっくり歩を進めていた最後尾の妖怪どもの手首足首に、蛇のように食らいついて、たちまち鎖を焼き落としてしまった。 刹那、鯉伴を組み敷いていたはずの陰陽師等は、後ろからしたたかに頭を蹴りとばされ、千代を連れ去ろうとしていた体格の良い男は、周囲の妖怪どもに噛みつかれ、引っかかれ、悲鳴を上げて千代を放す。 放たれた炎は意志を持った光る蛇のように、行列を追ってするすると、行列の先頭目指して這い進んだ。 騒ぎは瞬く間に大きくなり、あちらこちらで妖怪どもが鎖から放たれ、喧噪が起こる。 中には、これを調伏しようとした陰陽師を、後ろから殴り倒したり、足に噛みついたりして妖怪どもに加勢する人間もあった。 里にあって、田畑を耕すのに使われたり、見世物として扱われたり、茶屋に放り込まれた、人間たちだった。 何事が目の前で起こっているのか、陰陽師等が把握しきれぬうちに、清浄なる蒼き炎の輪の中で、くるりと一つ、舞って見せたのは。 長く伸びて吹きあがる、月光に照り返るしろがねの髪。 瞳は、怒りを隠さぬ紅瑪瑙。 童子姿は舞に合わせて袖口に仕舞われたか、何処で入れ替わったか、目の前で見ていなければ、とてもじゃないが同一の存在とは思えぬ立派な妖であった。 「この、妖気………!」 「しろがねの、大妖………!」 「馬鹿な、先程まで、ただの小物風情であったのに」 陰陽師、退魔師と名乗るからには、いくらか妖気に耐える修行も積んでいたろうに、突如目の前に現れた大妖が、太刀を構えて舞ったそれだけで、幾人か若い人間が、その場にばたばたと倒れてしまったほど。 「相愛の男と女を引き離すなんざ、風情のねぇことをしやがるからだ」 直垂の肩に太刀を担ぎ、陰陽師どもと対峙して焦るでもない、姿を変えたリクオは手近な妖怪たちを従えて、ゆうるりと笑んでいる。 千代を取り戻した鯉伴が、リクオと同じく、戦いの輪に加わろうとするのを横目で認め、二人の姿を背に隠してしまった。 「リクオ、おれも戦う」 「ええ、期待してますぜ。だが、まずはその娘を伊佐の元へ連れてからだ。あっちの方が妖怪の数は多い、そこで守っておやんなさい。 オレを見てたら、わかるでしょうが。女の手ってのは華奢で小さいくせに、一度放しちまうと、こっちをひどく不安にさせるもんなんです」 「………お前は」 「オレはちょいと、こいつ等を撫でてやらなくちゃならねえ」 凄絶に笑んだ、艶めく大妖とこれが率いる妖怪どもに、じり、と、陰陽師どもが、知らず、一歩下がった。 はらはらと、煌めく桜の花びらとともに夜空から、ちらり、ひらり、氷の花が舞い始めていた。 |