夜明けが、近い。

 うっすらと、東の尾根が白んでいる。

 妖怪どもは、陰陽師たちをあらかた片づけ終えた。
 先頭の伊佐を中心にまとまり、あとは古部を討つのみであるのに、突如現れた炎の鬼が、これを阻んだ。

 リクオがついに振り払われたとき、伊佐が唸り声を上げてヤマに飛びかかり、多くの妖怪どもも加勢して追った。
 大物小物問わず、降り懸かった小さきものどもを、ただの腕の一振りで遠ざけたヤマも、さすがに伊佐をそうはできなかった。
 水と炎、それぞれを纏った鬼はがっしりと夜空で組み合い、押しも押されもしない。

 ヤマの肩で守られながら、古部はしっかりと、細い目で千代を捕らえていた。
 千代もまた、遠くにいながらにして、古部の視線を確かに感じていた。


「千代」


 古部が喚ぶ声が、響く。


 びくりと、千代が怯える。


「千ぃ代ぉ。そんなところでお前は、何を、している?」


 首を振る。
 いや。いや。喚ばないで。私を見つけないで。
 通り過ぎて。じっとしているから。
 通り過ぎて。声など決して、出さないから。


 荷車の上で、己の細い身をかき抱くようにして、しゃがみ込む。小さくうずくまる。耳を塞ぐ。
 それでも、古部の声は滑り込んでくる。


「千代ぉ、お前、お父を人に戻したいのではなかったかぁ?村の者どもを、人に戻したいのでは、なかったかぁ?」
「黙りやがれ、この三下陰陽師が!千代の父親や村のひとは、お前の力なんざ借りなくても、おれがきっと助けてやる。千代はもう、お前の傀儡なんかじゃねえんだ!」
「ほほう、それはたいそうな約束を、いたしましたなぁ」

 リクオに肩を貸して、ようやく千代のところまで戻ってきた鯉伴を、そして鯉伴と千代の絆を、古部はあざ笑う。

「それでは、奴良鯉伴殿、これをこうしては、いかがでしょう」

 合図をすると、ヤマは反動をつけて伊佐を突き放し、己の帯から何かを取る所作をして、ずしん、大きな地響きをたてて皆の前に降り立った。
 伊佐が後ろから殴りかかろうとするが、止めたのは。

「師匠、待った!」

 鯉伴であった。

 皆が目を見開いて、ヤマが手に握ったものを、見つめている。
 千代など、食い入るように。

 ヤマが握っていたのは、紐であった。
 紐の先に、ぶらぶらと揺れているものがある。
 鳥籠であった。ただし、中に入れられているのは籠ではない。

「千代、千代ぉ………」
「たすけてくれ、ああ、たすけて………」
「千代ねえちゃあん、こわいよぉ、こわいよぉ」

 多くの、人であった。
 いや、完全な人では無い。
 中に入れられた人々は、己の体が半分だけ、腐ったような餓鬼のままであるのに恐怖し、泣き、苦しみ、悶え、怯えているのだ。



 お と う さ ん



 千代の唇が、動いた。

「千代、わかりますか、お前のお父の身柄は、私が預かっているのです。今この場で、燃やし尽くしてもよいのだぞ」

 ヤマの身を覆う炎の蛇が、ちろり、と、舌先をのぞかせた。


 やめて。


 千代は首を振る。



 やめて。やめて。お願い。



「ならば千代、今この場で、お前の里を広げなさい。再びこの場に、妖怪どもを絡め取るのです」



 いや。いや。いや。



「てめぇ、古部、汚ぇぞ!」
「おおっと、鯉伴、お前は動かないことです。大事な人質だが、あまりおイタが過ぎるようなら、少し痛い目に合っていただかなくてはならない。
 さあ千代、どうするのです。さあ。さあ。さあ」



 いや。いや。いや。いやなの。



「千代、千代、私の事はいい、お前は、お前は逃げなさい」
「千代ねえちゃん、千代ねえちゃあん」
「うああああ、俺の足が、足が、もげちまった、なんだよ、なんなんだよおおお」



 首を振る。いや。いや。いや。



「鯉伴サン、ここマデです、千代を、救っテおヤりなサい」
「師匠?!」
「腕を広げラれテは、まタ、絡め取られてしまう!」


 荒ぶる炎の乱舞に遮られ、伊佐は近づけない。
 千代は首を振り。
 ヤマは鳥籠を握り。
 古部は笑みを浮かべ。
 リクオは腹の傷を押さえ、ヤマを睨みつけ。

 鯉伴は。

「河童、力を貸せ!」

 太刀を握る手に力を込め、清流を背に負って、一瞬の間にヤマに詰め寄り、縄を握る指を切り落とした。
 ごとりと音を立て、人を閉じこめていた鳥籠が地に落ちる。

 よし、と思ったのも束の間、そこまでだった。

 鯉伴の背を、迸る炎の龍と、ヤマの爪が襲った。
 避けきれない。
 身に受けるのを覚悟した鯉伴を、誰かが突き飛ばした。

 地に転がった鯉伴と河童が振り返った先で、二人のかわりに炎と爪を身に受け、声も上げずに崩れ落ちたのは。

「 ――― リクオおおぉッ?!」

 夜が、明けた。

 炎に包まれたしろがねの大妖に、河童がすかさず水をかぶせ、瞬く間に炎は消えたが、鯉伴に抱き起こされたリクオは夜明けの光を浴び、優しげな童子姿に戻ってしまっていた。
 苦しげに、ひゅうひゅうと、息をして。
 うっすらと、目を開け、目の前のヤマを、見上げる。
 ヤマは目の前にいたはずの大妖が、ろくに妖気も感じさせない童子にとってかわってしまったので、不思議そうに首を傾げ、ぴくりと指先を震わせたが、それだけだった。

 取り落とした鳥籠を、切り落とされた指ごと拾い上げ、もうリクオからは興味を失ってしまったらしく、再び、千代を見下ろした。


「千代、やりなさい。さあ。お父や村の者がどうなっても良いのですか。お前はもともと、身内を助けるために、他の者を捕らえて売ってきたのでしょう。今更何をためらうか」
「千代、千代おぉ」
「おねえちゃん、おねえちゃん」
「ココまでカ。千代、ヴァタシを恨むナら、恨んデもラって結構。解放のタめに、死んデもラう」
「だめだ、そんなの、師匠!」


 ああ。ああ。ああ。


 深いところから、嘆きが。呪詛が。絶望が。
 溢れる。耐えきれず。溢れる。
 もう、どうして良いか、わからない。


 ああ。ああ。ああ。


 きっと、私が望んだのがいけなかった。
 貴方と、生きたいと望みさえしなければ。
 貴方と、行きたいと望みさえしなければ。

 貴方が私を、敵だと思ってくれたなら。
 私が貴方を、敵だと思えたなら。
 互いに互いを滅し合って、生き残ることだけを、考えられたろうに。
 私を踏み越えて、行けたろうに。
 私はこんなにも、心を痛めずにいつものようにただ、腕を広げたろうに。


 ああ。ああ。ああ。


 それでも、私は皆を、捨てられない。
 今の私は、巻き込んでしまった皆のためにだけ、生きているのだから。


 千代の足下から、水がわき起こるように、夜明けの山間の景色を塗り変えていく。
 ただの山道が、川の流れに変わる。
 木々が消え、田圃と畦道に変わる。
 坂道が、鶏小屋への道のりに。
 梢は高い空へ。
 森は、村を囲む山影へ。


 周囲の景色に重なるように、少し形を変えながら現れたのは、まさしく、出発してきた村の姿に、他ならなかった。
 現れた、偽りの里の中に捕らわれると、不思議なことに妖怪どもはすっかり力を失い、ただヤマだけが、力を漲らせて、あの伊佐を、拳一つで殴りとばした。

「これこそが、千代の力。千代の世界。糸巻きを回して妖怪を捕らえるなど、力の一端に過ぎない。すさまじいのは、里の幻を一つ、作り上げてしまうところよ。
 後で調べても、何の証拠も残らない、実に理にかなった里をな。
 千代、それが終わったら、次は暴れている妖怪どもを捕らえよ。その鯉伴という小僧も、念入りにな。うっかり抵抗されでもしたら、次は殺してしまうかもしれんぞ」
「里の幻って、それじゃ、今までおれたちが住んでたのも?!」
「そう、千代の世界です。千代が鳴きさえすれば簡単に壊れる、危うい世界ですとも。しかし陰陽の術とは違い、どこにでもこうして結界を敷ける。使い勝手の良い力。
 正しさをさえずるのが好きだった娘が、声を失って初めて力に目覚めるとは、力とは因果なものですなあ」

 里を一つ、瞬く間に作り上げた千代は、力無くうなだれ、その場にぺたりと座り込んだ。
 生きたいと願い、行きたいと望んだ、そのはずだったが、すべてを無にした哀れな娘が、自ら咎人のように、首をはねられるのを待っているかのようだった。

 間もなく、そうなった。

 妖怪どもが歯ぎしりをしている前で、ヤマが千代の前に立ち、爪先でくいと千代の顔を上げると、泣き濡れた千代の目は、まるでそのときを待つかのように、そっと伏せられた。

 やがて、ヤマは鋭い爪の先を、ためらいなく千代の喉へ滑らせた。

 紅蓮の花が、うっすら降りつもった雪の上へ、散る。


「わかりますね、裏切り者には、当然の報いでしょう。雉が鳴くなら、鳴かずにいられるようにするしかありません。千代、これでお前はもう鳴けない」


 こくり。千代が頷く。
 はい、もう、鳴きません。だから。


 すがるようにヤマを見上げ、巨体が握る鳥籠を見つめて、息を呑んだ。
 鳥籠は、ヤマが帯びる炎に真っ赤に燃えあがり、その中に閉じこめられていた人々も、今は物言わぬ泥人形と化していたのだ。

 すべては、はかりごと。
 鳥籠の中身の父親も村人も、すべて、泥と煙で作り上げられた、人形であった。

「ええ、そう、偽物ですよ。よかったですね、千代、こうして消し炭となったのが、本物のお父や村の人たちでなくて、本当によかった」

 ああ ――― 。

 絶望とは、底なし沼のようだ。
 ここが底かと思われても、尚、下がある。