からからからからから………
 そして、糸巻きが廻る乾いた音が、響く。










 一度目覚めて安心したのか、この三日うなされていたのが嘘のように、リクオは鯉伴にもたれて、安らかな眠りに落ちた。
 目を覚ましたら、己を庇ったことに文句の一つも言ってやろうと思っていたものを、いざリクオが例のごとく、小生意気な口を叩くのを聞いたら安心して、すっかり忘れてしまっていた。

 なにせリクオときたらこの三日、女の名前を呼ぶか、父を呼ぶかして、さらに父を呼ぶときは、死なないで、死なないでと、幼子のように泣いてしがみついてくるものだから、死にそうなのはお前だろうがと、鯉伴は辟易とする振りをしながら、不安をかき消さねばならなかった。

 この一年近くで、鯉伴はまた背が伸びたらしい。
 昔から姿形の変わらぬリクオを抱いていると、自分自身でもそれがよくわかった。
 幼い頃は肩車をされたり、膝の上に抱いてもらっていた己が、今は逆にリクオを腕の中に抱きしめて、あたためているのだから。


 からからからからから………


 あの鶏小屋に帰ってきてから、指先が赤く染まるまで終日、糸巻きを廻し続ける千代へ、鯉伴は優しく語りかけた。
 横になっても土が冷たいばかりだから、むしろでぐるりと体を巻き、壁に背をもたれさせて、とろとろと居眠りをしていたが、夢の合間も、糸巻きの音は聞こえていたような気がする。

「千代、リクオが目ぇ覚ました。こいつ、これでも妖怪だからさ、傷も塞がってるし、きっともう、大丈夫だ」


 からからからからから………


「眠ってる間中、おれのこと、父さん、父さんって呼んでさ。前もそうだったけど、おれ、こいつの親父にそんなに似てるのかね。てか、おれ、そんなに老けて見えるかなあ?」


 からからからからから………


「でもさー、こいつ、弱音とか昔っから全然言わないし、そんな奴が夢とは言え、うなされてるのを邪険にはできねーしさ」


 からからからからから………


「千代」


 からからからからから………


「なあ、千代。意地張ってないで、こっち来いよ。一人じゃ、寒いだろ」


 からからからからから………


「それとも、千代はおれの事、嫌いになっちまったか?」


 からから、から、り。


 冷えた鶏小屋の隅っこで、鯉伴が買い与えた小袖ではない、元々まとっていた襤褸の単衣をまとった娘が、肩を小さく震わせ、指先を赤く染めた手で、己の涙を、拭った。
 俯いた拍子に、黒髪がさらりと肩を流れ、真新しい喉の傷が、半分だけ露わになった。

 いつだったか、千代が教えてくれた、里の結界の話。
 千代が声を出せば、里の結界は崩れさるということであったが、あの喉では、声の出し方を思い出したとしても、喉の方が声を出させてはくれないだろう。

 声もなく、千代は泣いた。

 己の運命を呪ったのか、己の弱さを呪ったのか、このような結果になっても尚、命を捨てられもしない己のあつかましさ浅はかさを嘆いたのか、ともかく、泣いた。
 いっそ鯉伴が罵ってくれたなら、心を閉ざして泣かずに済んだのかもしれないが、三日前の夜明けに、今度は人質としてこの鶏小屋に放り込まれても、鯉伴は古部を口汚く罵りこそすれ、決して千代をないがしろにはしなかった。
 決して千代を、敵とは、言わなかった。
 今はこの鶏小屋の外を、古部の手下の陰陽師どもが囲み、小屋の中には千代が居て、見張られているのは明白なのに、なのに鯉伴は、千代を嫌ってすら、くれなかった。どうしてあんな奴の言うことをきくのだと、責めてすら、くれなかった。


「千代ー」


 手を握ってくれたときと、同じあたたかさで。


「千代ってば」


 額をくっつけたときと、同じ優しさで。


「千代」


 背負ってくれたときと、同じ力強さで。


 鯉伴はなおも、千代を呼ぶ。呼んでくれる。

 欲張った己を、裏切った己を、許す許さぬの前に、何故すべてを台無しにするような真似をしたと、結局は自分大事なのかと、餓鬼にされた面倒な父や村の人々など、忘れてしまえと、言ってすらくれず。

 苦しかった。苦しくて苦しくて、たまらなかった。
 いっそ板挟みになる心がそのままぐしゃりと潰れて、己の身も同時に石榴のように潰れてしまえたら、どんなに楽だろうか。

 けれど、千代はそうできなかった。
 古部の正体を暴いてしまった己が、村の人々を巻き込んだのなら、それは己の業である。

 真実になど気づかなければ、あの村での生活は、そのまま平穏に過ぎていたのかもしれない。
 真実を知っても、口を閉じていれば、遠いどこかで、顔も知らぬ人が幕府転覆の戦に巻き込まれながら死んでいったとしても、仮初とは言え、村は平和であったかもしれない。
 真実を見抜いても、誰にも知らせず、己だけで確かめようとさえすれば、己だけが切り取られたように平和から失われ、村の生活は続いていたかもしれない。

 思えば、千代は己の業がしでかした村の悲劇を、そのままにしてはおけなかった。

「あ、あいてててて………三日前の傷が」

 体を捻った拍子に傷が開きやがったと鯉伴が言うので、千代は濡れた頬もそのままに、這うようにして慌てて鯉伴に近づき、リクオを抱く腕とは逆の腕や、脇腹などを撫でて、痛むという傷を探すのだが、そんな傷はどこにも見あたらない。
 どこが痛むの?と、鯉伴の顔を見上げて、にやりと笑われた。
 がしりと片腕で肩を抱かれ、身を寄せられる。

「へへへー、ようやくこっちに来てくれた。ほら、こうしてると、あったかいだろ?傷なんて、もう全部治っちまったよ。心配させて、ごめんな」

 じわり、と、また千代の瞳の端から、涙が溢れた。
 どうして。どうしてそんな風に、笑ってくれるの。

「そんなに泣くな。あんまり泣くと、目ン玉溶けてなくなっちまうんだぞ。って、昔、こいつが言ってたんだけどさ。本当かな」

 目を閉じる。頭が痛くなるほど、この三日、泣き続けた。

 しかし思えば古部の傀儡となって以来、泣くことすら、久しぶりだった。

「にしても、失敗だったな」

 びくり、と、千代が身を震わせる。
 そう。私が居たせいで。

「そう、古部の野郎を先にやっちまってれば良かったんだ。里の外に出よう出ようって気持ちが先走って、よく見えてなかったんだな。里の中にいる時だって、あいつを探してよ、バッサリ、やっちまえば良かったんだよな。なんで気づかなかったんだろ」

 え?

「陰陽師だなんだって言ったって、結局、人間だろ?ちょっとばかり、珍しい術を使えるだけ。それにしたって、呪符だの陣だの、千代とは違って色々準備が必要なのが、陰陽師なわけだ。ってことは、術を使えねぇ妖怪と、それほど変わらないわけだよな。それってさ、おれとそれほど変わらねえんだ」

 ………鯉伴さん?

「なぁ千代、あいつは嘘つきだ。その嘘でお前を苦しめて、こんなに泣かせてる。おれはもう、あいつを許しちゃおけねえのよ。
 あいつに拐かされた妖怪としてじゃねえ、どっちかと言えば、同じ人間の方の血が、あいつを許すなって、アツくてアツくて、仕方ねえ。あいつを人として、許すなと、あいつは人じゃなく外道だと、おれの中の人間の血全部が、燃えたぎってるみてぇだ」

 黒曜石の瞳に、ちらりと燃える蒼白の炎がある。
 ただ少年の喧嘩の延長で、やっとう自慢の延長で、奴良組若頭と頼られて得意になっていた少し前とは、違う。
 大人びた、物騒な目つきであった。

 朝廷の使いとして現れた古部は、天子さまに楯突く幕府を倒さんがために、このような外道をしているのだと言う。
 その正義を後押しする者どもから金を得て、妖怪どもや人を拐かしてはさらに金を儲け、その金を使って幕府を打ち、天子さまの名の下にある太平の世を、求めているのだと言う。
 それは正義なのだと、言う。
 天子さまの名の下にあることこそ、この日ノ本の国の、正しい姿なのだと言う。

「千代は、あいつの企みを暴いて、人に伝えたんだったな。おれはそれ、すごいことだと思う。それに気づける目があって、それをきっちり伝える声があるってことだろう」

 ふるふる。千代は首を振る。

 お上や天子さまに楯突くのは、悪いことだもの。
 口は、災いの元。

 真実でも、言ってはならないことがある。
 真実でも、伝えてはならないことがある。

 だから、そう、私の声が失われたのは、当然の報い。
 この生活は、私に課せられた、当然の業。

「何だよ、またあれか、雉も鳴かずば、撃たれまい、って?」

 ……こくり。



「じゃあよ、なんで雉には声があるんだい」



 千代、目を見開いて、鯉伴を見つめる。
 ……え?



「相手がお上だろうと、天子さまだろうと、そんなこたぁ、関係ねぇ。空飛ぶ雉は、《誰が》じゃねえ、《何が》正しいか決めるモンだろう」



 千代を抱く肩に、鯉伴は力を込め。



「雉の声は、鳴くためにあるんだ。たとえ、撃たれたって、鳴き続けるためにあるんだ。
 それが此の世で悪と呼ばれるなら、悪行結構、おれはなってやらあ。
 悪の、総大将にな」



 お前もそろそろ、悪行重ねて立派な大将にならんかと、父にせっつかれても見つけられなかった悪行へ、ようやく鯉伴は手を伸ばした。



「おれは、あいつを斬るぜ。最初からそうすりゃ、良かったんだ」



 古部だけではない、古部へ指示を下して乱世を作り出そうとした何者かに対しても、古部の指示を鵜呑みにして、人であれ妖怪であれ、弱いものを集め売りさばき金に換えるを生業としている陰陽師や雇われ退魔師に対しても、鯉伴の中に流れる人の血は、怒り狂って沸騰していた。

 しかし怒ったのは何も、鯉伴の中の血だけではなかったらしい。

 その日の夕暮れ時、鶏小屋を取り囲んでいた陰陽師等を、襲った者があった。

 江戸へ攻め入ることが決まったそのときに、行列に加わるよう強制されたものの、百鬼夜行には加えられず、千代の力がこの場所へ再び里を作り上げたときに、以前と同じように、生きるも死ぬも勝手にしろと、放り込まれた弱い人間たちであった。
 体のどこかしらが欠けていて、見世物としては使えるものの、戦う者としては使えない、ゆえに生かしておいても大した頭数にはならないが、殺すまでもなく放っておけば死ぬだろうと思われていた、弱い者たちであった。

 小屋から抜け出す隙を、鯉伴が小さく開けた戸の隙間から伺っていると、外がにわかに騒がしくなった。
 小屋の壁の向こう側、見えない場所で、誰かが一人、どうと倒れたのを合図に、また一人、もう一人と、陰陽師どもの悲鳴が続いたのだ。

「何だ、どうした」
「ぎゃっ!」
「何奴だ、一体どこから」

 慌てふためいているうちに、戸口の真ん前を陣取っていた陰陽師の首に、どこからか飛んできた、鳥打ちの縄がからまって、両端にくくりつけられた石が、がつんと陰陽師の頭を打った。
 かと思えば、これが飛んできた木立に、にょきにょきと人が生えた。
 木陰に隠れていた、人間たちであった。

「千代をたすけろ!」
「おう!」
「陰陽師どもめ、もういい加減、腹に据えかねたぞ!」
「畜生にも劣る、外道どもめ!」

 腕が無い者は、足の無い者を背負って走り、腕ある者は、足ある者に背負われて、器用に鉞や鎌や棍棒を振り回し、慌てふためく陰陽師等を追い立て、組みしき、容赦なく打ち据えた。
 陰陽師等も、中には妖怪相手の術で対抗しようとする者があるのだが、多勢に無勢、瞬く間に取り囲まれ、さらに多くの者に打ち据えられる結果になった。

「どうだ、見たか、散々馬鹿にしやがって!」
「おめえ流石、普段は腕で歩いてるだけあるなァ、すげえ力だ」
「ひゃっひゃっひゃ、陰陽師ども、まさか俺たちが徒党を組むとは思ってなかったらしいな、うまくいった」
「おい千代、鯉伴、無事か。リクオはどうだ、ひどい怪我だったらしいが」

 小さな打ち壊しは、小半時も立たずに収束した。
 襲撃した、里の人間たちの勝利として。

 気を失った陰陽師等を縛り上げ、中に閉じこめられていた三人を助け出す。
 最後に千代が姿を現したとき、歓声が上がった。
 この一年近く、小屋を出てあれこれと、里の者の手伝いをしていた千代の細かな心遣いや、くすりと愛らしく微笑む様を、皆は心からいとしく感じていたのである。

 だから、どうして、と、千代が先日の、己の裏切りを引け目に感じて唇だけ動かしても、皆は口々にこう答えた。

「どうしてって、そりゃあもう、あいつ等の好き勝手は腹に据えかねた」
「そうそう、千代をあんな風に脅して。卑怯者め」
「千代、かわいそうに。辛かったろうねえ、心がどんなに痛かったろう」

 千代が裏切りさえしなければ、あんな偽物のお父や村の人たちに騙されたりしなければ、妖怪たちが自由になるのと時を同じくして、彼等もこの里で陰陽師どもに虐げられる生活から、抜け出せたろうに、それを口にする者は一人もない。
 新たな涙をぽろりと伝わせた千代の頬を、頭を、お父のように、優しく撫でてくれる男があった。
 せっかく鯉伴が着物を買ってくれたのにもったいないと、小屋の隅の行李から、袷の小袖を引っ張りだして持ってくる女があった。

 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。

 何度も唇だけでうったえて、そのたびに、皆が千代のせいではないと言う。
 しまいには、いつまでも泣くな、お前のせいではないのだからと少し叱られて、千代の心の氷は、春の光に照らされたように、溶けていった。






 千代の様子を見届けて、鯉伴はほっと息をつくと、表情を一変させた。

 敵を認めたそのときに、すうと目を細めて相手を睨みつけるや、凄絶なまでの殺気を鯉伴は纏う。睨みつけられた者はその背の向こうに、彼岸の修羅どもが、己を手招いて笑っている幻を見るほどだ。
 奴良屋敷を離れた一年近くの時で、鯉伴は守られる者から守る者へ、鋭い刃へ、変化を遂げていたのである。

 おいと小突かれて目を覚ました一人の陰陽師、目を覚ますや、目の前に居たのがその鯉伴であったので、たまらない。

「古部はどこだ。妖怪どもと、江戸へ発ったのか」

 こう切り出され、ヒッと息をのんだ。

「……も、もう妖怪どもは出発したんだ、古部さまを斬ったところで、ヤマが率いる百鬼夜行は、止まりはせん!」
「そんな事は関係ねえ。おれが人として、アイツを斬らなけりゃならないだけのこと。どこに居る、言え!」
「こ、この里にいらっしゃる。今はこの里を、外から結界を張るために、山頂に……」
「よし」

 聞きたいことだけ聞き出すと、鯉伴は手加減なく、その陰陽師を殴りとばした。
 哀れ、陰陽師はきゅうと鳴いて再び、落ちる。

 陰陽師の腰から太刀を抜き取り、鯉伴は肩に担いだ。

「半分はここに残ってくれ、千代とリクオを頼む。山道を行ける者で、古部を殴りたい奴は、その命、おれに預けちゃくれねえか」
「何を仰せですか鯉伴さま、ボクも、行きます」
「馬鹿、リクオ、お前流石にボロボロじゃねえか。ご大層な鎖もついてんだ、今日は大人しくしとけ」

 俺は行く、俺も行くぞと、数人が立ち上がる中、痛む傷に顔を歪めながらも立ち上がろうとするリクオの髪を、くしゃりと鯉伴が撫でた。


「リクオはそこで、見てな。……野郎ども、出入りだぜ」


 リクオを残して遠のく背は、いつの間にやら広く大きい。
 これを見たリクオは、全身の力が抜けてしまった。
 また、置いて行かれた。いつ置いていかれたのかさえ不確かなまま、漠然と思った。

 もうすぐ、己の役目は終わるのだと、思い出した女の名を胸に抱えながら、苦く笑った。

 黄昏を過ぎて、西の地平線に太陽が沈み切るという頃、松明を掲げて山道を行く一行は、まさしく百鬼夜行。






 鯉伴を見送った後、千代は自ら涙を拭い、顔を洗って目元の火照りを冷まし、身支度を整えた。
 小汚い単衣を脱ぎ捨てて、火にくべた。
 髪を櫛ですき、珊瑚が一つ飾られた簪を、いとしそうに一撫ですると、纏めあげた。
 すっかり身を小綺麗にした後、受け取った後は大事そうに仕舞うばかりでつけたことがなかった、白粉を薄く肌にはたき、紅を唇にはいた。

 リクオにも同じように湯を使わせ、塞がりかけた傷口に驚きながら丁寧に清め、薬を塗って包帯を巻き、最後に、美しい娘の顔で、にこりと笑った。

「……千代さん、まるで気合いの入った戦装束ですね」

 嫌な予感がしてリクオが冗談に混ぜてしまうと、やはりにこりと笑って、こくりと頷く。

「何と戦うと、言うんです」


 問えば、答えがある。
 千代は、うっすら傷跡が残る己の喉を、指した。

 自分と。自分の声を封じた者と。
 嘘や不正や理不尽と。


「たった、一人で?」

 こくん。

 答えるまでに、戸惑いも、迷いも無い。
 もう、無い。

「また、貴女の身内を盾に取られたら、どうするおつもりです」

 ふるふる。

 笑みが消えた。涙があふれそうになり、これを強く目を瞑って天井を見上げることで、耐えた。

 ふるふる。

 そして、手を合わせた。

「それとも、今更、見捨てると言うのですか」

 ふるふる。そうではないのです。

「……貴女も、気がついてしまったのか」

 ………こくん。

 本当に、餓鬼を人に戻せるのならば、あのような嘘の人形を、用意する必要は無い。
 本物のお父や村の人たちを用意して、本当の人質にすれば、良いだけのこと。
 それができないから、古部は嘘の人質を用意するしか、なかったのだ。
 煙々羅を取り込んだヤマの、幻を見せる力を借りてすら、それしかできなかったのだ。

 此の世の上から呼び出された、神格を帯びた力そのものですら、それしかできなかったのに、比べれば虫けらに等しい人間風情に、どうして餓鬼を人にできようか。
 人を殺すのは簡単でも、死んでいる人間を蘇らせるなど、誰にもできぬこと。

 だからこそ、たった一つきりの命を賭けて、鳴き続ける雉は、尊いのだ。

「……それで、まずはどこへ行かれるのです」

 リクオに、千代を止めることは、できなかった。

 千代は小屋の外、流れる川の方向を指した。
 この場所がただの山間の道であったときは、無かったはずの川である。
 犀川。
 千代が昔、住んでいた里に流れていたという、川である。

「そこが、里の封印の要ですか」

 こくり。

 何度も鯉伴と逢瀬を重ねたせせらぎは、千代の思い出の中で、穏やかに流れきらめいていた、犀川の幻。
 一番に、千代の思いを集めた幻のはず。

「ボクも行きます」

 ふるり、と、千代は首を振ろうとしたが、それはリクオが許さなかった。

「陰陽師は何も、この小屋を囲んでいた者たちだけでは、ないでしょう?古部が貴女を妖怪どもの百鬼夜行に同行させずにここに残したのは、もう貴女に人質はきかないと、あちらも判っているからこそのはず。
 この里の要が貴女だから、今はまだ滅されずに済んでいますが、貴女がそれを放棄しようとするなら、古部が貴女を此の世にとどめておく道理は無い。
 鎖があろうと無かろうと、オレも任侠のはしくれだ、太刀の扱いくらい、心得てるんでね」

 殺すではなく、滅すると。
 生かすではなく、此の世にとどめおくと。

 正しく言葉を繰ったリクオに、千代はただただ、頭を下げた。

 千代の村が巻き込まれた、日ノ本を東と西に分けた関が原の戦。慶長五年。
 此の頃、千代が五つか六つの幼子だったとして、今このとき、寛永三年……いや、年が明け、今は寛永四年。
 実に、三十年近くの時が経っている。

 古部の髪は時を経て、白く変じたが、千代は力に目覚めたあのときから変わらぬ、娘の姿のままだ。
 リクオとて、最初からそうと見抜いたわけではない。

 ただ、おかしいな、と思い続けただけだ。
 輪入道から千代の話を聞いたとき、それはつい一年か二年前のような気にさせられたが、妖怪にとって時の流れは大して気にするものではないからそう感じたし、輪入道にとっても語るほどのことでもなかったのかもしれないが、人の世では、ずいぶん昔の事であるはずなのだ。
 リクオの心が、人の尺度を持ち続けていたからこそ、気づいたこと。

「でも、千代さん。貴女はそれでいいんですか、悲願を果たした後、貴女はそのままでいられるのか……」

 千代は、優しい指で、そっとリクオの唇をふさぎ。

 やはり、にこりと笑った。