日ノ本に調和を、もたらすために。
 天下太平を末永く、もたらすために。



 古部に請われて、ヤマは飛んだ。
 百鬼を従え、炎の鬼は江戸へ飛んだ。
 しかしどうしてか、手が震えて仕方なかった。


 震え始めたのは、あの夜、しろがねの大妖を、爪で貫き炎で焼いてからだった。それまでは、此の世に呼び出された力の一端として、己を喚び出した声に応じるまま、炎を手繰り腕をふるい、何を疑問に思うことも、むしろ、思うという意志すら無かったのだが、不思議なことに、ある時唐突に、目がぱちりと開いたのだ。
 桜を纏い、雪を従えた、美しい大妖が、彼を呼んだときから。

 名を呼ばれ、お前は何がしたいのだと問われ、その時初めて、はっきりと目が開いて、そうよお前を倒したいのよと、強い意志が内側に生まれた。
 目の前のしろがねの妖を、ヤマは知っていた。

 次に会ったなら、きっと超えてやろうと思った、強い妖だった。
 たった一人で、無謀にも陰陽師の陣の中に飛び込み、それで平然としているような、見事な妖だった。

 戦い、競り勝ったとき、凄まじい歓喜が身を満たした。
 やった!勝ったぞ!あいつに勝てた!
 きっと誉めてくれる ――― 誰が?
 誰って ――― 誰だった?
 その《誰か》は、しろがねの妖が夜明けとともに変じた、血濡れの童子しか思い当たらず、ヤマは堅牢な心の檻の向こうから、己の目を開かせた名が、獣のように泣き叫ぶのを、どこか冷静に見つめながら、どうしてこうも心騒ぐのかと考え込むのだった。

 彼は、ヤマ。
 此の世に喚び出され、召還主の命に従った後は消え去る、異界の存在の力の一端。
 そのはずであった。
 だが、その力の中に、何か異物が紛れ込み、消えてなるものかと心の中で、騒いで喚いて叫んでいるのだ。

 何か、小さなものが。
 何か、熱いものが。
 何か、尊いものが。






 上総国を抜け、西の丘から江戸を見渡したのは、彼の目がぱちりと開いたその夜から、二日後のこと。

 力ある主に逆らえば滅される妖怪の世で、ヤマのように圧倒的な力の主に、造られた百鬼とは言え、謀反を起こしていた妖怪どもが従うのは当然の理屈。
 負けたのであれば、致し方なしと、首謀者の伊佐までが、極めて不本意そうに彼の後ろに従っている。

 江戸を取り巻いているのは、彼らだけでは、無かった。

 古部があらかじめ江戸に蒔いていた、不穏の種。
 江戸では《わいら》と呼ばれる餓鬼の群が、手綱を握る陰陽師どもとともに、黒雲のごとくにぐるりと街を取り巻いたのである。

 心の内で騒ぐ、小さな熱き炎や、痺れる指先はさておき、ヤマは請われ願いを、まずは履行することとした。すなわち、従えた百の鬼と、蠢く黒雲の餓鬼どもを従え、稲妻のごとく江戸の街へ攻め入ったのである。






「総大将!来ました、西の空から黒雲のようにやってきた奴等、その数、一万とも、二万とも!」

 カラス天狗が座敷に飛び込むなり申し上げると、上座の総大将、盃を干してにやりと、お笑いになった。
 全く酔ってはおられず、素面である。
 その上で、機嫌良さげに笑われ、立ち上がった。

「クックック、そりゃあ豪勢な事じゃ。こんなに気が昂ぶるのは、久方ぶりじゃのう。守りに入ってからは、これほどの大きな戦は無かったであろう。守るのは不得手、なんぞと言われてより、今年で十三年。つまり、ワシは守るための戦を初めてようやく今年で元服の年となったわけじゃ。
 さぁて、お前等、ワシの元服の儀、しっかりつき合ってもらおうかのう!」
「そりゃあいい、そう言えば人と交わってより、十三年」
「となると、我等も元服ということになりますな」
「人としての元服か。はっはっは!おもしろい!」
「奴等に目にもの見せてくれましょうぞ、たかが妖怪、たかが人間、たかが一本の糸なれど、縒り合わせれば綱となる」

 続いて立ち上がった子分ども、総大将とうむと頷き合う。
 屋敷に入りきらない者どもを含めればその数、総大将を含めて、五千の軍勢。
 純粋に戦える妖怪の数だけならば、さらに少ないかもしれない。だが。

 総大将は脇に控える、妻を認めて、優しく微笑まれた。

「お珱、お主が繋いでくれた人との縁、ありがたく、掴ませてもらうぞ」
「はい、お前様。どうか、ご武運を」

 人の妻は、妖の夫の無事を、己が信心する神仏へ、心から願い奉り、そっと両の手を合わせられるのだった。

 これを認め、いざ、総大将は傍らの、大太刀を手に取られる。
 羽衣狐を倒したその刀、銘を、祢々切丸。

「行くぞ、お前等!出入りじゃ!」

 黄金色の帯を追い、屋敷の妖怪どもが夜風に乗って、黄昏を追うように飛び出した。
 カラス天狗が、雪女が、牛鬼が、木魚達磨が、一ツ目入道が、妖艶なる大妖をいただいて、迷う事無く追いかける。それぞれが、それぞれの色の鏃となりて、違わず敵を討つために。

 鬨の声を上げ、迫りくる黒雲に真っ向からぶつかっていく、勇ましき黄金の流星を、拳を突き上げて歓迎したのは何も、屋敷の周囲に集まっていた貸元三下に属する妖怪連中だけでは無い。
 甲冑に身を包み、御旗を背に差して、刀を、槍を、弓矢を、天に掲げて鼓舞する、人間たちの姿が数多くこれに混じっていた。

 奴良組との約定後も、幕府としては、三代将軍の妹君が時の天皇に嫁がれていたこともあり、朝廷の謀反はにわかには信じがたく、どこかで妖怪の軍勢が用意されているなどと、もし本当であるならそんな里の噂くらい耳に入ってくるのではないかと、当然の疑念を抱いた。
 証拠をと言われても、大白一家と壱翁屋、そこにいた餓鬼の一件だけでは信憑性低く、また総大将とて、実際にそんな軍勢を見たわけではないので、説明のしようが無い。

 そんなとき、奴良屋敷に、文字通り転がり込んできた、目玉が一つ。
 一ツ目小僧の、目玉であった。

 小僧の目玉は、ころりと一つ転がると、己が目にしてきたもの全てを、その場に映し出したのである。
 壱翁屋に忍び込むところから、そこでの大白親分と古部の密会。追われた上に、鯉伴とリクオともども、黒く大きな腕にとらわれ、目覚めた先の里には、妖怪どもがうじゃり。

 妖怪だけではない、人間もいた。
 里があり、そこで多くの人間や妖怪が、陰陽師や退魔師に虐げられながら、生き抜いていた。
 陰陽師や退魔師に混じって、小僧の目玉が何気なく映し出した通りすがりの牛車から、顔を出した公達が、幕府方の目にとまった。

 多くの妖怪どもが囚われた、幽玄の里。

 これがあるのは、間違いない。
 伊達殿が言うには、妖なれば人とは違い、冬を気にする必要がないゆえ、攻め入るなれば冬になるだろうと。
 見張りをたて、動きがあればすぐさま迎え討てるようにせねば。
 ぬらりひょん殿、その時はどうか、お力添えのほどを。

 百聞は一見に如かずとは、まさしくこの事であった。
 人間たちに伝えるべきことを伝え終え、人と妖の絆が結ばれたのを見届けて、ようやく一ツ目のつぶらな目玉は、総大将の手の中で、塵と消えた。

 人間どもが譜代諸国に声をかけ、あつめた軍勢その数、妖どもを上回るとも劣らずに、五千とも六千とも。

 人と妖、併せて万の軍勢が、迫りくる暗雲に立ち向かった。






 攻め入る方が不利なのは、戦の常。
 とは言ってもこの戦、守る側には強い意志と理由があり、さらには堅固な縁で結ばれていた。
 名ばかりの連合ではなく、奴良組の名が鯉伴や苔姫、カナや二郎の縁を中心に、人の敵としてではなく、人と交わる妖として轟いていたことから、皆がどこかで聞いたその名との盟約を、言祝いだのである。

 さらには幕府・奴良の連合軍は、高い士気の中にあり、決して負けぬという意気込みがあった。
 ようやく訪れた太平の世を、手放してなるものか。
 絆で結ばれた調和を、崩してなるものか。

 ある寺では、寺の中にまで入ってきた妖怪どもを、尼が箒で打ちのめし、加勢した人魂たちがかじりついて脅し、頼ってきた女子供を見事に守り抜いた。
 ある呉服屋では、大女将と若女将が見事な連携を見せ、米味噌醤油を次々投げつけたところへ、大女将が纏っていた打ち掛けがぶわりと広がり、屋敷に上がり込んだ餓鬼どもを縛り上げてしまった。

 納豆小僧の頭にかじりついた餓鬼を、兵の一人が槍で貫き、弓兵に飛びかかった蝙蝠太夫を、轆轤首が一呑みにする。そのついで、目と目が合った弓兵と轆轤首の恋の話はさておき、他にも人と妖は背を預け、手を取り合い、江戸を飲み込まんと膨れ上がった黒雲に、よく戦いよく助け合った。


 調和と太平は、間違いなく、ここに在った。


 強いられる戦いになど興味が持てなかったとは言え、伊佐が人間たちと妖怪たちの縄にかかり、地べたに引き倒されたとき、この様子を夜空から見下ろしていたヤマが、轟く大声で申し渡した。


「皆の者、引けえええぇぇぇぇぇええい」


 振り降ろされようとした、刃が止まった。
 放たれようとした、弓矢の弦が、緩んだ。

 篝火に燃える江戸の空で、考えるように一人佇んでいたヤマは、このときようやく、ゆっくりと、総大将の前に降りてきた。
 総大将はと言えば、夜空に舞い上がったまま何もしてこないヤマはさておき、取り合えず二番目に大きな存在である伊佐を切り崩そうとして、ふん縛ってその頭の上に足を乗せていたところであったので、一跳びして三間ほど、後ろに下がった。


「奴良組総大将、ぬらりひょん殿と、お見受けする」
「何奴じゃ、お主」
「我は……我は……」


 炎の鬼は、己の名を名乗らんとしたとのときに、指先にしか無かった痺れを、今度ははっきりと胸の内側に感じた。
 己が呼び出されたときに持ち得た、力の一端を超え、溢れたる炎。
 これが内側に満たされると、何ともあたたかな心地となり、両の目からついと涙が溢れると、何故忘れていたのかと思えることが、次々と、思い出される。戻ってくる。風が吹き込んでくるように、潮が引き、次に満ちてくるように。

 ただ巨大なだけの体がするすると縮み、炎の鬼の体はたちまち白い煙に包まれて、やがて紗を斜めに取り払えばそこに居たのは、逆巻く炎をちらちらと髪に宿した、緋色の胴着の青年である。
 顎を引き、深い智慧を宿した深紅の両目で、凛と総大将を見つめた。
 この姿を認め、縄に縛られて億劫そうな顔をした伊佐の顔が、あるいはこれまで嫌々従っていた多くの鬼どもが、喜色に満ちていくのだった。

 乱暴で、威張りん坊で、癇癪持ちで気分屋。
 それでも東部屋の者にとって、彼は相手方の強い部屋主であったし、西部屋の者にとっては、少し可愛いところのある我らが部屋主なのである。

 百鬼夜行の主ならば、あんな、ただ強いだけの得体の知れぬ異界の鬼ではない、気心知れた癇癪持ちの方がよほどいい。よほど愛せる。よほど、我らが主と言えるでは無いか。



「我は、閻羅童子」



 ぬらりひょんの誰何に、彼はようやく名乗りを上げた。
 同時に、彼の姿を知る者たちも、これが以前と同じ存在では無いのだと知る。

 どこか、彼に名を与えた者に似た、行儀の良い振る舞い。
 はきとした物言い。
 臆せず、目の前の者を射る眼差し。



「ほう、閻羅童子。して、この江戸には何用かな」
「陰陽師古部が異界より喚び出したヤマとして、太平と調和を望まれてここへ来た。末永い太平と、人と妖の調和をと、望まれた。だが」

 閻羅童子は、辺りを見回した。
 人と妖が手を取り合う姿。
 ここへ攻めいる前はあった、当たり前の人々の暮らし。

「……既にそれは、あった。我がこれ以上、することは無い」

 これは古部の、失策であったのかもしれない。

 とは言え、人による妖の支配だの、幕府を廃した上での太平だのを願って、神仏が応じるはずもない。
 人の世よりも格上の場所から、たとえその爪先、毛先ほどの力の一端であったとしても神を降ろすには、相応の理屈が必要だ。誰による太平か、どういう風に成り立った調和かなど、仔細あれこれとつまびらかに指示するようでは、神降ろしは成り立たないのだから。
 だが、力の一端とは言え、喚び出された異界の存在が、これが太平である、調和であると認めるものが、ここには、この時代には、まるで浄土のように、在った。

「へえ、それで、今度はどうするんじゃ。頭下げて終わりかい、閻羅童子」
「貴殿がぬらりひょん殿であるなら、我に道案内をさせたいはずだ」
「何?」
「我はこれから、主の元へ戻らねばならない。そこに、貴殿のご子息もおいでである」
「か、勝手を申すな、ヤマ!いや、煙々羅!」

 一喝したのは、成り行きを見守っていた陰陽師の一人である。
 餓鬼は他の妖怪のように、物を考えて主についていくような作りをしていない。こちらだとおびき寄せればついてくる、あちらだと餌を投げれば追いやられる、そういうものなのである。危険を冒してでも、逃げ回る人の振りをしてでも、導かなくてはならない。
 本当なら、この陰陽師もただの人間のふりを装って、立ち去れば良かったものを、なまじ、炎の鬼として具現したヤマが強く力を持っていたために、もう少しで勝てたものをと思えば、叫ばずにはいられなかった。

「貴様、古部様の真意を汲み取りもせず、ようやく百鬼を纏めあげたというのに、決着もつけずに古部さまの元へ帰るというのか!」
「……誰が、古部の元へ帰ると言った」
「何を……貴様の主は、古部様ではないか、煙々羅!」

 閻羅童子は、この反論を一蹴した。

「馬鹿を申すな。我は閻羅童子。閻魔の炎にして、不正を照らし、不義を燃やし、絆と誓いを照らす者。
 古部が喚び出した異界の存在は去り、残った抜き身の力は、既に我が喰らった。
 我の主、リクオさまの他に無し」

 かろうじて額にひっかかっていた金冠が、この時、真っ二つに割れて地に落ちた。