閻羅童子の出現と、降伏宣言とも取れる言葉から、江戸を襲った混乱は、終焉を迎えた、そのはずであった。

 しかし時折、操る炎が指先を焦がすように、一度集まった憎悪が、興奮の炎が、なかなか思うように消えてはくれないように、ここで陰陽師どもが思ってもいないことが起こった。
 徳川の兵士たちに囲まれた陰陽師どもが、渋々、術でまた元の通り、餓鬼どもを凍ったように眠らせようとしたところ、常ならそこで、蝉の抜け殻のようにころりと転がる餓鬼どものはずが、ちっとも言うことをきかない。

「おい、何をやってる、さっさと止めろ」
「やっている、やっているのだが……」

 焦っても、何度試してみても、江戸の街を襲い、手あたり次第にあれこれ飲み込んでいた餓鬼どもは、その手を緩めるどころか、次第に勢いを増して、手にかかるものであれば何であろうと、己の隣で何かを食らっていた同じ餓鬼であろうと、あるいは己の指であろうと手であろうと、口にし始めたのだ。
 ただ物を一心不乱に口にする、知恵も意志も胡乱な存在だ。
 地獄の河原や、こちらでは彼岸に近い墓場や霊場で、紛れ込んだ死人の骨を喰らい、河原を清めるだけの、ただそれだけの存在だ。

 しかし、数が数であり、ただ喰らうだけと言えど、文字通り何でも喰らう。
 人であろうと、妖怪であろうと、家であろうと、石垣であろうと、土であろうと、底なしに喰らう。

 それが、墓場に二匹三匹と姿を現したのではない、蜘蛛の子のようにうぞうぞと音を立て、蝗のように飛び交って、喰らうものを求めて動くのだ。
 喰らうものがそこに無くなれば、容赦なく同胞すら喰らい、それさえ無くなれば、いよいよそこに在るはずの、此の世とあの世の境界線すら喰いちぎり、中空に、辻に、隅に、隙間に、ぽっかり開いた虚ろから、ぎちり、と音を立てて、あちらの世の亡者どもが顔をのぞかせ、ぼたりぼたりと落ちてくる。
 餓鬼を操る陰陽師どもの一人が、この虚ろに気づかず、うっかり足をとられたせいで、たちまち無数の手に引っ張られ、穴の向こうに沈んでしまうと、一度はおさまったはずの妖怪騒ぎ、瞬く間にぶり返した。

「ほほう、餓鬼というのもなかなか気概があるもんじゃのう」
「感心している場合ですか総大将!いかがいたします!」
「致し方無し、アレは妖怪の類じゃ、人どもを守うてやるとするさ。それに、屋敷までぺろりと平らげられてしまっては、流石に困る。
 おい、閻羅童子と言うたか、お主等も手伝え。餓鬼退治じゃ」
「しかし、この数、あのでかさ……」

 一ツ目入道がぼやいたのも、致し方あるまい。

 共食いを繰り返した餓鬼など、一足で長屋を踏みつぶしてしまうほどの大きさになったものまである。
 ぽっかり開いた穴からは、江戸を守護する螺旋の封印の、網にかかるような大物であろうか、悔しそうな獣の声がぐるぐると唸り、しきりに鋭い爪だけをこちらに泳がせて、ひっかかった獲物を引きずり込もうとする始末。

「なぁに、戦っているのはワシ等だけではない、ほれ、人間どもの中にも、気概を見せて戦っている者があるわ」

 たったいま、屋根の上で雄叫びをあげた餓鬼の巨体を下から真っ二つに切り上げ、太刀にまとわりついた塵を一振りで払った後、総大将は足元の路地で、器用に蹴鞠でもって、屋根の上や曲がり角から顔を出す餓鬼どもを、打ち落とす二郎を指す。
 小物妖怪どもが心得たように手伝って、ほいさ、ほいさと二郎の前に蹴鞠をうまい具合に跳ねさせると、二郎が蹴った鞠は見事、狙ったところへ飛んでいく。鞠が無くなれば、付喪神どもが己の体をはねさせて蹴ってもらう。

 彼等の後ろには、戦えぬ女子供が不安そうにうずくまっていた。

 やがて、彼等を見つけた兵士が、女子供と二郎を助けてその場を離れると、総大将の脇で、何故か一ツ目入道までもが、ほっとしたように息をついた。

「なんじゃ、お主、ずいぶん人間にかぶれたようじゃな」
「なにを言いますか総大将!ワシとて独眼鬼組の長、人間を恐怖させこそすれ、決して、そのようなことは!」
「玉苔寺は無事かのう」
「ぐっ。ぬう……」
「何をしておる一ツ目入道、お主、こんなところにおらんで、さっさと娘の様子を見に行ってやらんか。人間だろうと尼だろうと生きた菩薩であろうと、お主の娘には、かわりないじゃろうが」
「そ、総大将………しからば、御免!」
「時代がかった奴じゃ」

 からからとお笑いになった総大将、あちらの屋根の上、こちらの物見櫓の上と、次々に現れた巨大な餓鬼どもを目にして、一際声を張り上げた。

「お前等、怠けるんじゃねえぞ、しっかり働かんかい!」
「で、でも総大将〜、あいつら、しつこすぎますよー」
「なんじゃ納豆、お主、一度あいつ等に喰われてみたらどうじゃ、もしかしたらあやつ等でも、腹痛おこすかもしれんぞ」
「なぁるほど、中から倒すんですねー。で、出るときはどうするんです?」
「上からがいいか下からがいいかは、お主に任せる」
「そうですか、悩みますねぇ、って、ひどいですよ総大将ぉ!」

 陽気快活が身上の、奴良組一派、次から次と襲い来る餓鬼どもを前にして、怖れることなど全くなし。
 しかし人は違う。疲れもするし、傷つきもする。

「どうしたモンかのう」

 と、流石の総大将も、あちらこちらで人どもが押されはじめたのを見て、ぽりぽりと頬を掻いた。
 今は閻羅童子配下が戦いに加わっているからもっているものの、人を守らねばならぬ分、むやみやたらに喰い続ける餓鬼の方に、分がある。

 そこへ、閻羅童子がふわりと舞い降り、

「ぬらりひょん殿、我に一つ、考えが」

 と、耳打ちした。

 ふむ、と考えはしたものの、すぐに総大将は肩をすくめた。

「吟味している暇はなさそうじゃ、そうするとしよう。その、里とやらへの案内は、お主に任せるぞ」

 やがて、総大将はふわりと舞い降り、捕らえられ、小さくなっている陰陽師どもの前に姿を現すと、のうお主等、と、小さな子供に道を尋ねるかのような猫なで声を出した。

「あの餓鬼どもを止めろとは言わぬ、一つの物を追うようにはできぬのか」
「それは、呪符を使えば簡単なことだが、しかし、それが喰らわれてしまえば、また同じこと海に沈んでも死なず、朽ち果てるまで動き回るのだ、また街を襲うに決まっている」
「ほほう、つまりその呪符を持った者が、奴等より早く逃げ回れば良いのじゃな、何故それをやらん」
「簡単に言うな!疲れを知らぬ奴等より、早く走り続けるなど、できるものか。妖怪と違うのだ」
「ならば、それをワシに使え」
「なに?」
「ワシがそれを体に貼り付け、お主等がやってきたという、里にあの餓鬼どもを連れて行く。そこは結界の里であると聞く。ちょうど良いだろう。どうした、やれ、はよう」

 それでも、陰陽師どもが顔を見合わせ、戸惑っていると、総大将の影がゆらりと、揺らめいた。

「このワシが、早うやれと、言うておるのだ」

 言い知れぬ畏に、ヒッと、陰陽師が息を呑むと、命じられるまま、震える手で取り出した呪符を、真言とともに総大将の背に貼り付ける。
 変化は直後、起こった。
 それまで総大将に見向きもせず、手近なものばかりを口に入れていた餓鬼どもが、一斉に総大将を視界にとらえるや、飛蝗のように飛んで総大将を狙ったのである。

「何じゃ、唐突じゃのう」
「ぬらりひょん殿、こちらへ」

 あわやというところで、金色の炎が総大将の御身から立ち上り、桜の炎が焼き付くし地獄へ送り返したが、それでも尚、江戸中の餓鬼どもがさらに、さらに、さらに追ってくる。
 閻羅童子に導かれ、総大将は呪符を背につけたまま、声を張り上げる。

「ついてこられる者だけ、ついて来い!」

 あの馬鹿、と呟き、真っ先に雪女が追った。
 同じく、羽衣狐との戦の際、彼の側に居た子分どもが、大物小物問わず、やはり追った。
 しかし、追わぬ者もあった。

 西へと向かう総大将を、真下から見上げる一ツ目入道は、申し訳なさそうに目を伏せたが、気を失って倒れた尼僧を大事そうに懐に抱き、足元には尼僧が庇っていた子供等がまとわりつき、これを置いては行けなかった。

 ふよふよと浮かぶ人魂も、泣き続ける赤子をべろべろばあとあやすのに忙しく、空駆ける総大将に気づきもしない。

 呉服屋の一反絹は、餓鬼どもが潮を引くように行ってしまうや、背中合わせになって目を回した大女将と若女将を、中身の入っていない袖だけで団扇をつかみ、仰いでやりながら、格子戸の向こう、冬空を行く帚星と、これを追う黒雲を不安そうに見つめた。

 皆が皆、縁者のもとで、新たな生活を、新たな守る者を見つけている。
 我こそつわものと名乗りを上げて、ただ相手を滅するめに生きる妖の姿は、そこには無い。
 やがては妖の血は、人と交わり薄れてしまうのかもしれない。
 だが、それでいい。《違う》と遠ざけられるのではない、同じものとして、生きていくのだ。

 鯉伴が生まれたばかりの頃、屋敷を捨てて出て行くぞと言った総大将を、百鬼は皆追いかけたものだが、今は追いかけたくても追いかけられぬ理由がある。
 理由は、縁である。絆である。守るべきものである。愛するものである。居場所である。

 己が紡いだ人との縁が、しっかりこの地に根付いているのを認め、総大将は閻羅童子を追い、さらに疾く風の中を駆けて、西へと飛んだ。



+++



 里を見下ろす山頂にいたるまで、古部の手下の陰陽師どもが、あちこちで何かしらの細工を施していたのを、村の人間達が組み付き、その場で乱闘になり、進んで鯉伴を先に行かせるので、太刀を担いだ鯉伴は振り返らずにまっしぐら、古部を目指した。
 その甲斐あって、例のように風のごとく梢を駆け、枝から枝へ舞い飛び、陽の光あるところならば里を見渡せる岩場まで、一番のりでたどり着いた。

 そこには、一人の男があった。
 篝火の側で、一人胡座をかいて里の在る方向を見つめる、古部であった。
 里は今、所々で篝火が蛍火のように揺らめくばかりで、あとは深い闇に沈み込んでいる。
 山を登ってくる間、あれだけの乱闘だったのだ、声が聞こえていなかったはずはない、煙管をふかして何か思案しているが、鯉伴が一歩踏み出すと、やはり視線も寄越さないまま、どこか投げやりに、口を開いた。

「私を斬って、どうしようと言うのです、奴良鯉伴。貴方は、負けたのでしょう」
「だが、終わっちゃいねえ。負けたが、終わっちゃいねえ」
「三日前の夜に、妖怪どもは、私のヤマに負けた。私の企みに負けた。もう百鬼夜行は出発し、今頃江戸を焼いているはず、私を斬ったところで、それが止まるわけでもない」
「江戸には親父がいる。お袋もいる。屋敷の連中がいる。あね姫さまも、カナもいる。そうそう遅れはとるまいよ。……それにおれがここへ来たのは、百鬼夜行を止めるためじゃねえ、おれはな、古部、てめぇだけは斬らねぇとなんねえ」

 いよいよ、古部は疲れたようにため息をつき、紫煙とともに、腹に淀んだものを一息に吐き出した。

「馬鹿馬鹿しいとは思いませんか、私を斬って何とします。私はただ一介の陰陽師、それも花開院のように華々しいわけではない、己で技術など生み出せない、ただ伝わっている術を、この年になるまで勤勉に学んだおかげでいくらか使いこなし、それによって、私にこうせよと命じた御方からの命令を、何とかこなしているだけの、善良な家臣にすぎませぬ。
 私を斬ったところで、何かが変わりますか。此の世の飢えがなくなりますか、此の世の人さらいが全ていなくなりますか、此の世の争いが全てなくなりますか、そうではありますまい。私がいなくなったところで、代わりの者がその穴を埋めるだけ。新たな企みが生まれましょう、新たなやり口が生まれましょう。その果てに、いつかは幕府も朽ち果てる。それが遅いか早いかの違いです。
 私はただ、命じられただけの小物。その私を斬り、この企みを全て暴いた気になるおつもりか。
 千代の村を襲ったのも、人を餓鬼にする術を行使したのも、人や妖怪を浚い集めたのも、そして幕府を討つ企みを企てたのも、全ては私ではない、私に命じた者がいるからこそ。私を討てば、その者に繋がる糸は切れるのですよ、それでいいのですか。手繰らなくていいのですか。生かして、口を割らせる必要があるでしょう、そうでしょう?」
「どうせお前の口を割らせたって、お前の口から出てきた名前のお偉方は、知らぬ存ぜぬを通すだろ。それに、それはおれの仕事じゃねえ」

 すべて吐き出した古部はようやく、恵比寿でもなく、般若でもなく、ただひたすら、疲れたような、心細いような人の男の顔を、拭うように両手で覆って、深い息をついた。
 対して、鯉伴はどこか呆れたように、吐き捨てた。

「古部、お前が三下だなんて事は、百も承知。誰かに命じられてやった、それはそうなんだろうさ。だがよ、やったのは、お前だろ」
「な、なに?」
「幕府の行く末なんざ、正直おれは、どうでもいいよ。世にはびこる病だ、悲しみだ、殺しだ、そういうのを全部止めてやろうなんて大層な考えもねぇや、そういうのは、そういう面倒を抱え込みてぇ奴が、勝手にやってりゃいい。
 おれはただ、お前を許せねぇんだ。
 命令した奴が居た?だったらそいつに、なんで言ってやらなかった、それは外道の極みでございます、顔を洗って出直してきやがれ、ってよ。命令した奴が誰であれ、やったのはお前だろうが。そいつの手足になったのは、お前だろうが。
 千代を泣かせたのは、お前だろうがッ」

 太刀を、抜いた。

「たかが、それだけの理由のために、私を斬ると言うか」

 くだらないと、やはり吐き捨てた古部もまた、太刀を抜き、印を切った。
 何度か打ち合い、にらみ合った。
 古部は何度か呪符を飛ばし、それを鯉伴はゆらりとかわしたが、それ以上の妖術を使いはせず、ただ人の男のように、太刀を正眼に構えてじりじりと足をさばくので、やがて古部も術をたぐる手を忘れ、やはりただ人の男のように、こちらは太刀を下段に構え、相手の隙をうかがいながら、じり、じり、と、鯉伴の懐へ少しずつ、爪先をすりだすのだった。

 にらみ合いは、どれほど続いたのだろう。
 鯉伴が小屋を出たときに沈んだ陽は、あとどれほどでまた、東から昇るのか。

 古部は脇腹を、鯉伴は肩口を、相手の刃で傷つけながら、何度か打ち合うもやはり決着はつかず、己を殺そうとする相手とにらみ合っているだけで、心が消耗していく。

 と、里の篝火が一つ、ふわりと浮き上がったような気がして、鯉伴は意識を僅かに逸らした。
 その、一瞬の隙をついて、古部が鋭い突きを見舞う。
 はっとしたときには間合いを取るに遅く、鯉伴はとっさに古部とすれ違い様、一か八か、太刀を滑らせ。

 二人の男の影が、岩場の上で交差した。


 がくりと、膝をついたのは、鯉伴。
 にたりと、笑ったのは、古部。


 次に、どうと倒れたのはしかし、胴を横に薙いで斬られた、古部の方であった。
 鯉伴は既に傷のあった肩をさらに抉られ、膝をついてこれをおさえ、こらえる。

 古部はぱっくりと開いた腹の傷を押さえながら、ぜいぜいと息を荒くして、太刀を放り出しその場にひっくり返った。

 鯉伴が見た動く篝火は、幻ではなかった。
 それは、里からふわりと浮き上がり、どんどん近づき、人の形になり、やがてはっきりと目鼻立ちを認められるまでになって、たゆたう雲か何かのように、足場も無いところで、ふわふわと浮いたままの姿勢を保つ。
 これの後ろで、夜明けが迫っているらしい、ほんのりと東の空が色づいた。

 この人影を見て、鯉伴は首を傾げた。
 煙々羅に、よく似ている気がするのだが、瞳の思慮と、物腰の柔らかさが、どこか違う。どこか違うが、懐かしさを感じる。
 額の金冠は、既に無い。

「古部殿」

 霊か、神か、鬼か。
 いずれにしても炎の妖の者は、ひっそり囁くように、深い傷を追った古部へ報せた。

「江戸には、太平と調和がもたらされております」
「そうか!やったか!」

 天に向かって伸ばした拳を、古部はぐっと握りしめ、

「それで良い、それで!幕府め、おもい、し、った、か………」

 そこで、事切れた。

 冬の風が走り、ばたばたと古部の衣をうるさく鳴らす。
 ようやく、鯉伴の耳に、音が戻ってきた。

「………お前、煙々羅か?」
「閻羅童子にございます、鯉伴殿。以前は確かに、この古部にそう呼ばれておりました」
「江戸は、どうなってる」
「徳川幕府と奴良家が、見事な調和を果たし、太平の世を築いておりました。古部が喚び出したヤマなる異界の鬼は、人と妖が力を併せて我らに立ち向かうのをその眼で確かめた後、我の中にいくらかの力を残して、既に異界へ戻ってございます。
 古部がヤマへ望んだのは、調和と太平。誰による調和と太平かまでは、異界の大きな存在が、気にするところではありますまい」
「人が妖の上に立つ《調和》、朝廷による《太平》なんざ、知ったこっちゃねえよな、確かに。となると、こいつも、浮かばれないねぇ」

 斬った後、そこにひっくり返っていたのは、やり遂げた安堵からか、安らかな顔で空を見つめる、一人の男であった。
 もしかしたらこの男にも、守るものがあり、喪ったものがあり、末に幕府を憎悪の対象としたのかもしれない。
 古部のことを思えば、今ここで葬ってやろうと言う気には到底なれなかったが、恵比寿でも般若でもなく、一人の男が疲れたようについたため息を見た鯉伴は、妖ではなく、人である鯉伴は、自然、片手ながら手を目前に持ち上げ、祈らずにはいられなかった。

 祈り終え、閻羅童子が語った事の次第に頷き、里へ戻るべく踵を返すと。
 もぞり、と、鯉伴の後ろで、動く気配がした。
 鯉伴と閻羅が、顔を見合わせる。
 
 古部は死んだ、そのはずだった。

 しかし……。
 ぼっこりと膨れた腹と、その腹から突き出た、産毛のごとき無数の手足。これが手近なところの、小石と言わず、草と言わず小枝と言わず、掴んでは、やはり腹に浮かんだ無数の口に運んでいる。

「もっと」「もっと」「もっと」

 小さな口が、それだけを言葉にして紡ぎ、あとはただ、ひたすら食っている。
 ぼこりぼこりと、膨らんだ腹の中にも、さらに小さな餓鬼がいるらしく、時折腹を食い破って、黄色い粘液を纏いながら、ぼたり、ぼたりと産み落とされた。

 この母体となっているのは、小山のように大きな、餓鬼。
 ふしゅるふしゅると、音をたて。
 知恵を失い。目玉はぎょろりと黄色く濁り。
 しかしその顔は紛れもなく、古部、そのものだった。

「……古部が、餓鬼になっちまった」
「なに、不思議ではない。人を呪わば、穴二つ。人を餓鬼に変えたそのときから、こいつは死後、餓鬼道に堕ちることが決まっていたのであろう。重ねた業の分だけ、大きくなったな」
「こいつ、この里の中で動けるのかよ。それにこの大きさ、もう餓鬼ってモンじゃ、ねえな」
「大丈夫だ。やがて、これも流される」
「流される?」
「夜明けとともに、伊佐殿が、里の外から、千代の結界ごと押し流す。力をためるのに、それくらいの時間はかかるとの事。しかし伊佐殿の力が放たれれば、不浄なものは全て、流される。我は伊佐殿の力から、お主等を守りに来た」
「ちょっと、待てよ。流すって何だ、さっき聞いた話だと、親父がもうすぐ、ここにくるんだよな?江戸へ引き連れた餓鬼どもを、連れて」
「その通りだ」
「じゃ、里を流すわけには、いかねえだろう。この里に閉じこめておけば、ただの餓鬼なら動けなくなるわけだし、眠らせて、そんで、千代のお父や村の人を、餓鬼から人に戻してやる術を、調べてやらねえと」
「そんな方法は、無い」
「無い?」
「日の照る場所に、食い物を置いておけば、早く腐る。しかし、一度腐ったものを元に戻す方法が無いように、一度餓鬼に変えた人間を、元に戻す術は無い。だから古部は、業深さのあまりに、この姿になったのだ」
「そんな……方法が無いなんて、そんな。まさか、そんなことは」
「ほんとう、だ、とも」

 答えたのは、閻羅童子ではなかった。

 ひゅるひゅると風で声帯を震わせながら、にたりと笑ったのは、ものを食う以外、知恵や考えを持たぬはずの餓鬼となったはずの、古部の顔であった。
 小山のごとき餓鬼の首の上に、三つ並んだ顔がある。
 恵比寿と般若、その真ん中に、疲れたような男の顔。

「餓鬼のくせに、喋りやがるか」
「おのれ、で、つかったじゅつが、はね、かえる、など、しれた、こと。しんだ、のち、それを、りよう、すれば、よい。はんごんの、じゅつ、とは、いか、ぬ、までも、まねごと、くらいは」
「てめえ、自分の体も、自分で治せねえのかい」
「こ、れが、げんど、だ」
「それじゃあ………そうか、千代のお父は、村の人は」

 鯉伴は敵の前であることも忘れ、深く嘆息した。

 この里に放り込まれたときも、すぐには帰れなさそうだと覚悟したときも、移ろう季節を感じて時折屋敷を懐かしく思い出したときも、伊佐に負けたときも、これほど鯉伴が、打ちのめされたことはなかった。
 すぐ側で、目覚めたばかりの餓鬼が、ぼたりぼたりと涎を垂らしていることさえ気づかずに、鯉伴が思ったのは、ただ、千代のことだ、千代の報われなさだ。

 なんて哀れな娘だろうかと、ただそれだけだ。

 奴良屋敷の中にあり、妖怪どもと戯れ人間の友人を得て、半妖であることを疑いもせず育ってきた鯉伴が、このとき流した涙は、人の涙であった。

 ふしゅる、ふしゅると、鯉伴に近づいた餓鬼の下で、鯉伴は泣いた。
 千代のために泣いた。

 餓鬼が素早く、鯉伴の体を鷲掴みにしようと横薙ぎにさらったが、掴んだはずの少年の体は霞のごとくぼやけ、手の中には残らない。

「古部、てめえは」

 涙を払った鯉伴はすぐ脇に、湖面の月のごとく揺らめきながら現れ、再び太刀を、構えた。

「何遍斬っても、あきたらねえ野郎だ」