鶏小屋から出る千代を、皆が止めないはずは無い。
 ここでじっとしておいで、鯉伴が戻るのを待っておいでと言うのだが、やはり千代は目元に泣いた後の朱色を残したまま、困ったように笑うだけで、頑として聞き入れはしない上、少女に付き従うように、片足に重い鎖を引きずるリクオまでが行こうとするので、顔を見合わせ、結局千代を先頭にして、丘を下り、畦道を行き、千代が求める河原へと行くのであった。
 途中、彼等を見咎めた陰陽師や修験者どもが、何をしておるかと怒鳴ってきたが、たかが人間の群と思えば術を使うにもためらったので、瞬く間に組み敷かれ、ぽかりとやられて目を回す。
 千代に手を伸ばそうとする者は、その脇に控えるリクオに、したたかに臑を蹴られて畦道の脇へ転がり落ちた。
 とは言え、リクオの方も無事ではない。つい三日前に全身を鋭い爪に貫かれているのだ、無理な動きをすれば、ずきりと体の奥が痛み、塞がっていた傷が開いて血が滲む。

 里に残っているのは人間ばかりと油断したか、陰陽師たちの姿はまばら。
 それだけでなく、どこか、浮き足立っている。

 里の中で起こった、人間どもの小さな打ち壊しになど構っていられず、もっと大きな問題が、彼等を戸惑わせているようであった。

「東の空から、ぐんぐんと近づいてくるらしい」
「早ければ、夜明け前にでも、ここを覆うぞ!」
「何者じゃ、誰が、そんな」
「古部様は」
「里の結界を強めに」
「誰か、呼び戻せ!」

 陰陽師等が寝泊まりする宿坊の門前を、土手の下にまわってこそこそと通り抜けながら耳にしたところでは、この里へ妖怪の群が、東からぐんぐんと迫っているそうである。
 彼等が騒ぐということは、あの炎の鬼が率いる、この里で育て上げた妖怪とは違うのだろう。

 東から、という事はまさか、総大将が。
 リクオは小さな期待を、胸に灯らせた。

 千代が求めたのは、己の執着か願望か、そういったものが生み出したこの幻の里の中で、いつだったか鯉伴や河童たちと、他愛もない話に花を咲かせながら魚釣りをした、岸辺であった。
 何かを探すように、あたりを伺い、かと思うと、裾をちょいとまくりあげて、冬の冷たい水の中へ、ざぶざぶと入り込んでしまうのだ。

「千代さん、何を」

 リクオが慌てて止めようとするが、ふるふる、と千代は首をふり、手の平をたてて、リクオに向けた。
 大丈夫、そこで、待っていて。

 底をさらうように、凍えた川に両手を差し入れ、手に何も残らないとわかると、場所を変える。
 手伝おうかと訊いても、ふるふる、と、首を振る。
 訊かないで川へ足を入れようとした者があれば、激しく首を振って、入らないで、お願い、と、岸を指す。

 やがて、夜明けが近くなった頃、ようやく千代が底から引き上げたのは、川底の泥を吸って黒くなった、鞠であった。
 糸がほつれ、つぶれて、古くなった鞠の黒さは、何かを思い出させた。

「それは」

 せめて己も千代の冷たさを分かつため、岸辺から決して離れず、松明を掲げ持っていてやっていたリクオは、首を傾げて、

「……千代さんが、妖怪たちを絡めるときの、腕に似ていますね」

 ぶわりと千代の背から、霞か、よりあわせた糸のように広がる腕を思い出しながら、口にした。

 こくん、と、千代が頷く。

 鞠をつくような、所作をした。
 歌うような、所作をした。

 昔はこれで、鞠をついて、よく、歌っていたの。

 それから、喉をおさえて、口を開き、歌おうとするのだが。
 声を出そうと、するのだが。
 千代は、やはり、困ったように笑って、うなだれた。
 汚い鞠を頬に寄せて。

 鞠つきの歌だったら、声の出し方、思い出せる気がしたの。
 でも、だめね。

「……千代さん、その、喉の傷では」

 ふるふると、千代は首を振った。
 逆にリクオを慰めるように、笑った。
 己で己の傷を、浅く引っ掻く、所作をした。

「深くは、無いと?」

 こくん。

「まさか、だって、あの炎の鬼は、古部の言いなりだったのに」

 ふるふる。

 いいえ、あの指先は、震えていた。
 貴方を貫いた、その後で、なんて事をしてしまったんだろうって、震えていたのよ。

「……そうか、閻羅が」

 こくん。

「ともかく……捜し物が見つかったなら、岸へお上がりなさい。貴女をそんなところで凍えさせていたら、ボクが鯉伴さまに叱られます。
 喉が大丈夫なら声なんて、ふとしたときに、出ますよ。大丈夫」

 リクオが優しく微笑んで、大丈夫と言ってやると、千代も不思議とそんな気持ちがして、とたんに、足元が冷え始めた。あたたかさを知ると、冷たいという心持ちがわかる、まさにそれであったのだが、慌てて岸へ上がった彼女を、里の者たちが綿入れで幾重にもくるんだ。

 と、その時だ。

 濃藍の、雲一つ無い星空に、稲妻が走った。
 少なくとも、ばりばりばりと大音響が里全体に響きわたり、その場の人間どもは腰を抜かしてひっくり返った。

「なんだ?!」

 リクオは即座に身構え千代を背に庇い、空を睨みあげる。
 目を凝らせばそこに居たのは、陰陽師たちが噂していた黒雲であろうか、夜空に溶け込むような黒い肌をした餓鬼どもが、里と外との境目に張り巡らされた、千代の結界、薄い膜に、べったり張り付くようにして、群れていたのである。
 すぐその先にある何か、甘い蜜がほしくてほしくてたまらない、だから手をのばす。
 喉が乾いて乾いて仕方ない、だから何であれ口に入れる。
 互いの同胞の血であれ何であれ、喉の乾きを癒せるのならば、何でも構わないのだ。

 ぎいぎいと意味のない泣き声を上げながら、びっしりと空を覆った黒雲に、千代も、リクオも、息を呑む。

 言葉もなく、無数の餓鬼どもに気圧され、見つめるしかない人々の前で、やがて餓鬼どもは転進した。膜を越えるための道筋を見つけたのか、それともただ、開いた穴へ自由落下するだけなのか、里の入り口めがけて、ざわざわと動く。
 この里の中に一歩入れば、ほとんど妖力の無い餓鬼など、たちまち千代の結界の中で、昏倒し動かなくなると思われた。

 だが、どうしたことだろう、ざわり、ざわりとうごめく黒雲は、里の中に踏み入ると、なるほど、確かに小さいのはころりと転がるものもあったが、餓鬼同士食い合ったためだろうか、いくらか大きくなったものは、設けられた関所を蹴飛ばし、陰陽師どもを爪にかけ、瞬く間に迫ってくる。
 いいや、それだけではない、小さな餓鬼も、とりもちに絡められたように動きは緩慢になるものの、以前、千代の腕に絡め取られた一ツ目小僧やリクオがたちまち昏倒した頃と比べると、妖怪を封じる力は、確実に弱まっている。
 千代が、声を出そうとしているからだ。
 声を失うことで得た能力が、失われようとしているのだ。

「千代さん、申し訳ないが、皆に危害を加えるようなら」

 千代の前、逆手に太刀を構え備えたリクオに、瞬く間、蝗の群れごとく餓鬼どもが辺りを取り囲む。
 夜明け間際の月の力を借りて、たちまち髪がしろがねに燃え、足首を戒めていた鎖もまた、千代の意志に応じてか、ぽろりと取れて、

「オレは、奴等を斬らせてもらう」

 押し寄せた黒雲を払う、一条の光となった。

 たった一つの光では、黒雲を払うには小さく儚く、瞬く間に押し寄せた黒雲は、ひいひいと泣き喚く人も、陰陽師どもも取り巻いて、がぶりがぶりと、しろがねの大妖にすら喰らいつく。


 だめ。


 千代がとっさに首を振り、これまで己の意志で手繰ることのなかったあの黒い腕を、ぶわりと背中からたちのぼらせて、絡めとらなければ、がっくりと膝をつき、太刀でようやく身を支えたリクオは、そのまま胴体を喰いい破られていたかもしれない。

 岩ほども大きな餓鬼どもはことごとく、千代の糸にからめられ、とりもちに身を取られた虫のように、べたり、ふらりと地に縫いつけられてしまう。それでも、ぎろりぎろりと黄色く濁った目を、ひたすら喰えるものに向けて。
 ならばまだ倒れるわけにはいかぬと、リクオが最後の力を振り絞ろうとしたとき、すぐ傍に、懐かしい声を聞いた。

 千代が手繰った黒い糸、黒い腕の形をした結界は、彼等を中心にすっぽり繭のように囲むと、これに囲まれたところへは、餓鬼は入ってこられずに、また、ばりばりと音をさせて繭すら喰いちぎろうとするのだが、それでも餓鬼に纏わりつかれ続けるのよりは、よほどいい。
 人々は、すぐ側に居る餓鬼どもの、大きなぎょろぎょろした目を怖れるばかりだったが、すぐ背後から聞こえたその声の主は、うっすら霜が降りた土などものともせず、ひっくり返ってしまった様子だった。

「っあ〜、流石に、疲れたのー」
「アンタ、老けたんじゃない?」
「何を、まだまだ走れるわい。お望みならこのまま京まででも行ってやるぞ」
「そう。でも、わたしはお断り。疲れた」

 自分で言ったくせに、氷点下の声でふうと息をつき、総大将の傍らに腰を落とした雪女。他にも、カラス天狗、牛鬼はもちろん、木魚達磨など、そうそうたる面子が揃っている。
 それだけではない、輪入道や河童など、この里から出ていったはずの面子も混じって、風の目のように餓鬼が入ってこないこの場所で、ふうと息をついた。
 完全な凪の場所ではない、餓鬼ががじりとやってあいた網の隙間から、這い寄ってきた餓鬼を蹴飛ばし、殴り、切り伏せるのに忙しく、リクオは、背後に守る千代や人々の向こうに居る総大将を呼ぶ、ただそれだけの事すらできない。互いに互いで忙しく、背を預けあうことすら、かなわない。

 口を開けば、ぜい、と、不思議なくらい疲れた声が、出るだけだった。
 ああ、刻限が近いのだなと、薄く、笑う。

「……いやぁ、にしても、噂は聞いてたけど、おっちゃんびっくりよ。二日ぶっ続けで空を駆けて、その間、一度も餓鬼を寄せつけなかったんだもん、いやー、すごいわー、感動だわー。さっすが、ぬらりひょん様!」
「わははは、こんな事くらい朝飯前よ。とは言え、ちいと疲れた。ちいとじゃがのう……ぜはー」
「……で、あの子。鯉伴は?それに、閻羅童子」

 総大将がすっかり忘れていた倅の行方、雪女はしっかり覚えていた。
 おおそうじゃった、と、総大将ががばり、身を起こしたとき、山から転がり堕ちてきたのは、まさにその鯉伴、閻羅童子と、かさこそと蜘蛛のように動き回る、古部餓鬼であった。

「わたし、だけ、ながされは、せぬ。はんよう、ぬらりひょん、きさ、まも、みちづれよ」
「ぬかせ、てめぇなんざ、師匠の洪水とやらが来る前に、ブツ斬りにしてやる!」

 小山ほどの餓鬼王と化した古部と対峙して、鯉伴は一歩も下がらない。
 山を転がり落ちてきたとき、着物をあちこち切り裂いて、目元にぴりと紅い線が走ったが、決して餓鬼王から目を逸らさない。
 恵比須顔も、般若顔も、人の顔も、三つの顔それぞれが鯉伴を見下し、睨み、呪っているというのに、まるで恐怖した様子もなく、ただ一本の太刀だけでむしろ圧倒していた。のばされる腕をかわし、はじき、懐に飛び込んで腹を切り裂き、後ろにそのまま通り過ぎがてら、腹に生えた幾本もの手や足を薙ぎ払ったときなど、息を呑んで見つめていた牛鬼が思わず、「お見事」と呻いた手並みであった。

 牛鬼の声を耳にして、ようやく鯉伴は傍らの、懐かしい奴良屋敷の面々に気がついた。
 見れば辺りはすっかり餓鬼どもが黒雲のように沸き起こり、田畑も小屋も、がじりがじりとやられて見る影も無い。
 江戸がそうであったように、食い物が無くなると此の世と異界との境界線まで食い破ってしまうので、さっそく穴が開いた中空からは、ぼたりぼたりと小鬼が飛び出し、小さな切れ目からはとても体を出せぬ大妖は、悔しそうに向こう側の餓鬼界から、指先だけでこちらの土をがりがり掻いている。
 砂糖に群がり蟻のように、一際真っ黒に餓鬼どもが群がっているその場所は、ぐるりと見えぬ繭が中空を覆っているかのよう。
 餓鬼どもは、見えない一線を越えられはせず、悔しそうに集って、どうにか線の中へ手を伸ばそうと、伸ばして甘い蜜を喰いちぎろうと、するのだ。

 この線の中で、大儀そうにゆっくり身を起こし、フンと一つ笑った、黄金の毛並みの大妖があった。

「親父?!雪女、牛鬼も、それに皆 ――― 千代」
「久しぶりじゃのう、倅ぇ。おぉ、目に見えて背が伸びたのう、凛々しゅうなった。積もる話もあるじゃろうがまずは、夜明け待ちじゃ、結界ごと、伊佐とかいうデカイのが、洪水を起こしてここ等一体を押し流す。そんな餓鬼など相手にしておらんで、こっちへこんか。なかなか快適じゃぞ」
「だ、駄目だっ、それ、無し!」
「はァ?」
「この餓鬼ども、元は人なんだ。そこの、千代の、お父や村の人たちなんだよ。この、古部って野郎がみんなを餓鬼に変えちまったんだ、皆を元に戻してやるために、千代は嫌々、古部に従ってたんだ。ここまで来て、それを全部押し流すわけにはいかねえんだよ、方法はまだわかんねえけど、とにかく、おれは千代と約束したんだ。千代のお父を、村の人たちを、きっと元に戻す方法を探すって。だから駄目だ、そんなの駄目だ」
「戻すって、お前、簡単に言うのう……」
「簡単じゃねえなんてわかってる、だから千代は従うしかなかったんだ、何年も、言いなりになるしかなかったんだ。なのに報われないなんて、そんなのあるかよ。あっていいのかよ、そんな事、あっていいはずねえだろう!古部にわかんなくたって、おれが絶対探してやる、見つかるまで探してやる、そう、約束したんだ!」

 餓鬼王はさらに形を変えて、ぼこりぼこりと腹から太い腕を二本生やすと、人でなく、蜘蛛のように身を平べったくして、三つの巨大な顔で鯉伴と総大将の間に割って入り、高らかに笑った。

「ないない、そんなほうほうなど、ない、みつからぬ。あるはずがない。さがしたとも、わたし、とてこのような、みになることがわかっていたのだから、おのれ、の、ために、さがし、て、いたのだから。ちよのむらのにんげんを、がきに、かえて、さんじゅうねんちかくも、さがしたが、なかった、のだから」
「三十年そこらで弱音吐くのが人間風情、何年かかったって ――― 三十年?」

 餓鬼の腹の向こうにちらちらと見える、さっぱりとした桜色の、袷の小袖を纏った千代が ――― 笑った。
 顔を伏せるのではない、泣くのではない、困ったように、笑った。
 三十年前の少女の姿、そのままで。

「わたしが、あのむらにしかけた、じんのなか。ちよは、がきには、ならなかったが」
「それは千代が、こういう力の持ち主だったから、だろう」
「そう、だからがきには、ならなかった。ただくらうだけの、みにくいものにはならず」

 後を引き取ったのは、懐から暢気に煙管を取り出しぷかりと吹かした、総大将である。
 どうやら倅と因縁があるらしい餓鬼王の、醜い口から告げられるよりも、まだましであろうと、それが何だと思わせてもやれるだろうと、思いやってのことだった。

「鯉伴よ、見て判らんかったか。この娘は人間ではない、幽鬼の類じゃ。強い未練がこの娘を、死んだその年のままで此の世にとどめておる。餓鬼とは違い、喰うことに未練は無い。執着も無い。未練が無くなればめでたく成仏する、そういう、儚く、美しい、ものなのよ」
「未練、って。千代、お前の未練って、お父や村の人のことじゃねえか。お父や村の人が、人にもどったら、そうしたらお前、そのまま消えちまうつもりだったのか?そんな、そんなことってねぇだろう、そんなのって」
「あるいは、そのねがいかなわず、みらいえいごう、このよをさまよいつづけるか。いずれにしても、りはんよ、おまえのどりょくなど、むだぼねよ。みていてわらえたわ」
「黙れッ」
「むねんのうちにししたむすめとして、おとうやむらびとたちをすくいたい、そのいちねんだけでうごいているゆうきが、どんなにこえをかけたところで、もうこえをあげや、しないのですよ」
「うるせえ黙れッ、黙れ黙れ黙れッ、千代は人間だ、ちゃあんと、生きた、人間だ。心を持って、泣いたり笑ったり気遣ったり、そういう、人間なんだッ。
 てめぇの方こそ、人を人とも思わぬその所行、余程、心を死なせた屍のものじゃねえのかよッ。
 おい親父、挨拶は後だ、おれはこいつを真っ二つにしてやんねぇとケジメがつかねえ、ちょっとそこで待ってろ!」

 やれやれ、と肩をすくめたのは、何も総大将だけではなかった。
 その背後で、最後の力を振り絞り、立ち上がったリクオが、

「やれやれ、仕方のねぇ御方だぜ。だが、ケジメつけるってのは賛成だ、鯉伴さま、加勢しますぜ」
「リクオはすっこんでろ!これは、おれの戦だ」
「何を言ってやがる、相手は餓鬼王。鯉伴さま、アンタは何です」

 餓鬼の群れが怒涛のように押し寄せる、陣の外へ飛び出した。
 河童がそれと飛び出した。輪入道もえいやと飛び出した。
 総大将が引き連れていた、雪女や牛鬼、カラス天狗が飛び出した。
 皆が鯉伴の後ろについて、餓鬼どもが穴を開けた此の世の境目から、うぞりうぞりと爪をのぞかせる大妖に、ちくりと痛い目を見せてやった。

 こうなると、千代に守られてばかりだった人間どもも、奮起した。
 見目がまるで人間の、鯉伴の背に鼓舞されたのだった。
 えいやと飛び出し、噛み付こうとする餓鬼どもを取り押さえ、ふん縛る。



 リクオが鯉伴の背を押した。










「この百鬼夜行の、主でしょうが。さっさとカタぁ、つけてくだせえよ」
「 ――― 仕方ねえ、力を借りてやるぞ、リクオ」
「そりゃ、無理を言って申し訳ねえ」










 桜の妖気が舞い散るや、緞帳を落としたように辺りは漆黒。
 夜明けを待っていたはずが、星一つ無い闇夜に逆戻りしたかのように、鯉伴と餓鬼王は闇に包まれていた。

 ただ、闇夜に桜だけが舞っている。

 古部餓鬼は、闇夜に目を凝らして鯉伴の姿を探すのだが、無い。
 どこにも無い。
 漆黒に染まったのは視界だけではない、鼓膜に何かが張り付いたように、それまでの喧騒が失われていた。
 目も耳も、己以外の者の存在は虚ろになってしまったかのように、何も見えず、何も聞こえない。

 ひらひらと、どこからか舞い落ちる桜を警戒して中空を睨むのだが。

 その、古部の足元が、ぬかるみにはまったように、突然、ぐらりと傾いた。

「な、んだ?!」

 ぐらり、ぐらり。  目や耳だけでない、体で感じるものすら失われ始めているのだと、気づいたときにはもう遅い。
 足元は大地ではなく湖面であった。
 いつのまにかそこに、一歩も動かぬうちに、足を踏み入れていた怪異に身を震わせながら、古部は、餓鬼王は、泥沼にもがく水鳥のように、ばしゃばしゃと漆黒の水面を波立てながらもがいた。

「しず、む!しずんで、しま、う!」

 えも言われぬ恐怖を覚え、もがく。
 本能が警鐘を鳴らす。
 この湖面の向こうは駄目だ、駄目だ、駄目だ。
 何か掴むもの、掴むものを。
 探すのだが、何も、無い。

「だれか、だれか、あるか、だれか」





「こねぇよ、誰も」





 答えはあった。

 すぐ傍で、湖面に立つ漆黒の影。
 妖気に吹き上がる、漆黒の髪。しかし瞳は妖の金色に爛々と輝き、古部の三つの顔を射抜いている。

「この下には、そう、何もねぇ。何もだ。わかるか?」

 酷薄な笑みは、人が浮かべられるものでは、およそ、無い。
 尊い存在が、己を貶めてでも目の前の者を世界の底へ追いやろうとしている、それがゆえの凄惨な覚悟だった。
 どれほど深い海だろうと、必ず底はある。
 底なし沼と呼ばれていようと、必ず底はある。
 もしも底が無いのだとしたら ――― 。

「その先は、世界の外だ」

 ひい、と、古部六つの目から涙を溢れさせ、さらにもがいた。もがいて、もがいて、もがき続けた。
 もがく腕が、一本、また一本と、湖面に吸い込まれ。
 悲鳴を上げた口が、ぶくぶくと湖面を粟立てる。

「餓鬼を玩具にしたてめぇなんぞ、餓鬼界の奴等もお断りだろうよ。お前は、ただ、沈め」

 とぷり、と、最後に波紋を一つ残して、湖面はようやく静まった。





 《鬼纏》 明鏡止水・八重桜の陣。




「そうしてもう二度と、浮かんでくるんじゃねえ」

 鯉伴はもう、古部に祈りを手向けることはなかった。