夜明けが、迫る。
 山の尾根が、地平線が、水平線が、空が、大気が、震えている。

 森を棲家にしていた野兎が、ひくひくと鼻を動かし、あきらかに変わった辺りの気配にぶるりと一つ体を震わせ、普段の臆病からは考えられぬような大胆さで、天敵に見つかることなど考えもせず、一目散に駆け出した。
 あるいは、びっしりと山を網のように覆う木の根の隙間、大樹の根元などから、囁くような鳴き声とともに、鼠たちが群れをなしてやはり遠くを目指し、必死に蠢くのである。
 さらには山に巣を持つ鳥たちが、いっせいに羽ばたき、そして帰ってこなかった。
 怖ろしいくらいの静寂の中で、しかしとてつもなく大きなものが震えている、そんな、朝だった。










 餓鬼王が、漆黒の沼の中にとぷりと沈むや刹那にほどかれた、鬼纏から投げ出された体を、リクオはもう起こすどころか、満足に受け身を取ることもできなかった。
 体のあちこちが軋む上、三日前の傷も開いた気がするし、今の己が夜なのか昼なのかすら定かでない。どうと倒れたまま、このままでは餓鬼の餌食になるなあ、困ったものだと思いつつ、とりあえず、やり遂げた、という感があった。

 それだけ見事な、鬼纏だった。
 ここまで立派になったか、と想えば、今年で数え十三、そろそろ己が手を離しても、もう立派に歩いていけるのではないかと。
 それでも、守子が、リクオ、リクオと切迫した声で呼ぶので、急に力が抜けていく体を叱咤し、どうにか、立ち上がる。のだが、駄目であった。ふらりとよろけ、再び土の上に倒れ伏してしまったので、おかしい、力が入らない、どうしたことだろうかと目をしばたたかせると、どうやら夜が明けていた。

 人の身でこの怪我では、土を掻く指先にも力が入らず、すぐ目の前の、千代が張る繭の結界ですら、とても遠く感じる。

「馬鹿野郎、無茶しやがって!」

 ひょいと己を軽々抱き上げた鯉伴の腕の中で、急速に襲ってきた安堵と眠気をどうにもできず、リクオはついに、意識を手放した。
 不思議と、危機は感じなかった。
 己の体の痛みにすら、安堵していた。

 あの鋭い刃に貫かれたのが、鯉伴でなかったことに。


(……よかった、今度はちゃんと、ボクも戦えたよね、とうさん)


 何よりも、ただ逃げろと、闇から逃げろと背を押され、庇われた、無力な己ではなかったことに。
 満足を覚えると、そこですとんと、意識を失ってしまったのである。










 それでも、夜明けは訪れた。
 獣も鳥も去った山に、沈黙の、朝が。

 大地が揺れた。
 低い地鳴りが大気を震わせ、空までもが緊張してびりびりと、唸っているようであった。

 里で餓鬼たちから離れて山へ上った人間も、陰陽師も、互いに身を寄せ合って、揺れる大地の心細さに耐えた。
 地震では無い。


 陰陽師どもが餓鬼の手綱を取れなくなったとき、一つところに集めてこれを一網打尽にするを決めたのは、閻羅童子である。
 閻羅童子の炎で燃やすではなく、総大将の明鏡止水で黄泉送りにするのを選ばなかったのは、かつて酒の席で、伊佐が珍しくぽつりと漏らした自慢話を、そのときは煙々羅という名前であった童子が、覚えていたためだった。

 今は昔、伊佐の力でもって、この世界を洗ったことがあるのだと。

 善良な者と、多くの獣や鳥たちを雌雄一組ずつ残し、不浄なものを押し流したことがあるのだと。

 哀れな餓鬼を一つところに集め、清浄なる炎か水で洗い流せば、あるいは餓鬼界か地獄の河原などで役目を終えた際に、再び輪廻の輪に加わり、来世を生きられるかもしれない。
 とすれば、この役目を負うのは、妖の中でもかつては神と呼ばれた者である方が、大きな力でより早く彼方の岸辺へ、彼等を運んでいけるだろう。

 閻羅童子の案に、総大将と伊佐は、これに頷いた。
 それ以外に、地獄絵図と化した江戸から餓鬼どもを離し、始末する方法は見あたらなかったのだ。


 まもなくやってきたのは、この山間の里では考えられぬ、川を遡る大海嘯。


 伊佐が放った、渾身の大津波であった。


 里の結界に真っ向から直撃し、ぱり、ぱり、と、卵の殻を割るような音はするのだが、激流は見えない壁にぶつかったかのように、里の少し手前で、逆巻く滝のように空へ吹き上がった。
 結界は、壊れない。
 しかし、時間の問題である。

 結界が壊れるまでの時間ではない、今や千代がこさえた繭を、餓鬼の群れは覆い尽くして、遠めにはまるで黒雲が渦を巻いているようである。
 餓鬼王を失っても、元々餓鬼は集団だろうが一匹だろうが、ただ喰らうだけの存在だ、全くうろたえることなく、ただひたすら辺りのものを喰らい続けた。
 繭に集まった餓鬼どもが、互いに喰らい合って次々と、力を蓄え嵩を増せば、それだけ一口の大きさも威力も大きく強く、地獄の河原に棲む鬼のごとくになり果てて、ついにがじりと、千代がこさえた、彼等を包む繭にかじりついた。
 津波が里の結界を壊すのが先か、千代の繭が壊れ、その中に身を寄せる人間たちや妖怪どもが、餌食になるのが先か。

「どうしたもんかのう、餓鬼を、人に戻すか……。事情がわからんかった上、江戸の戦いでは斬らんわけにはいかんかったからかなり数は減ったが、やはり戻せるならば戻してやった方がいいんじゃろうなあ。秀元ならば、何か良い方法を知っておるのかもしらんが、やっぱりこのままワシが京へ突っ走るか」
「アンタ、馬鹿なのね。こんな大きなクワガタの群れをくっつけて京まで走ったら、今度こそ滅されるわよ」
「ならば何か良い方法があるか、雪女」
「アタシが全部《雪山殺し》で眠らせるとか」
「全部眠る前に、雪女、おそらくお前が窒息するのが先だろう。息が続かぬ。それに、食欲よりも睡眠欲が上回ってくれるか、極めて難しいところだ」
「じゃあどうするのよ、牛鬼」
「私の幻術で食い物を見せ、喰らいつかせている間に、一つところに閉じ込めるしかなかろう」
「それ、江戸でもやってなかった?効き目は?」
「最初は上手くいく。だが、霞で腹を満たす高尚な趣味が、餓鬼には無いらしい。続かんのだ」
「それ失敗って言うのよ。知ってた?」
「オヤジの背中に張り付いてるその札、剥がしてもう一回使えねぇのかな。輪入道のおっちゃんなら早いから、時間稼げるんじゃねえか?そのうちに、おれ等が京までひとっ走りして」
「………………ひどい」
「ともかく伊佐殿に、予定の変更をお伝えしては」
「伝えるのはいいが、ここから出るのもちょいと苦労しそうだ。いや何、私どもならばそれこそ朝飯前だが、千代殿の力を借りられれば、もっと早くすみそうかな」
「一歩足を出せば、ばくり、とやられそうですねえ」
「それではこれはどうだ」
「あるいはあれはどうだ」

 何か方法があるんじゃないか。
 ああしてみたら、こうしてみたらと、迫る夜明けを前にして、諦めろと言う者は誰一人ない。

 餓鬼を人には戻せぬと、閻羅童子も古部も、そうして伊佐すらも、諦めたことであるのに。
 神の格を持ちえた存在すら、これは今世では救えぬ業である、犠牲である、日々失われる命があるように、これもまた人が招いた深い業の姿であり、救うには時を巻き戻すのではなく、進めるしかないと言ったことであるのに。
 妖というのは執着という悪行を、それこそ執着して何が悪い、愛し憎んで爪を立てて何が悪いと思うがゆえか、諦めるということを知らない。考えもつかない。特にこの点、総大将が率いる奴良組は、さらに顕著である。

 時を忘れて古部に従い続け、業に苛まれて朝も無く夕も無く、糸をよって人もそうでないものも、封じ続けた千代だったが、これを見て、なんだか。

 ふふり、と。

 どうしてだろう、今まで頑なに、たった一人で背負わねばならぬと思っていた業が、背中ですうと軽くなるのを感じた。



「………ありがとう、皆さん」



 林渡る、風のような、清涼な声だった。
 高すぎもせず低くもなく、すとんと、心に落ちる、娘の声だった。
 餓鬼どもが、がじがじと繭を齧り爪を立てる耳障りな音も、山向こうで結界にぶつかり跳ね上がって、夜明けの虹を幾重にも空へ描く激流すらも、娘の声に遠慮して、少し己を自重したかのような。

 はたり、と、誰もが口をつぐんで、声の主を探した。

 鯉伴が、恐る恐る、振り返った。



 千代が笑っていた。春のあの日のように、笑っていた。
 あの日に買ってやった小袖を着て、簪を髪にして、白粉をはたき紅で唇を染めた千代が、幸せそうに笑っていた。



「ありがとう、鯉伴さん」



 残っていた喉の傷がすうと消えて、今度こそ娘ははっきりと、口にした。
 いや、消えたのは喉の傷だけではない、娘を強く形作っていた輪郭が、ふわりと一瞬、風に溶けた。



「何を……言ってんだよ、千代。まだ何も、おれは何もしちゃいないぞ、何言ってんだ」
「いいの」
「いいって、何が」
「わかってたの。古部が嘘をついてるなんて、わかってたの。ただ、信じたかっただけ。時間をかければ、きっと元にもどるって」
「そうだよ、時間があれば、きっと方法が」
「病や傷は、癒える。でも、死者はどんなに時間をかけても、生き返らない」
「なんだよ、それ。そんなの、聞きたくねえよ。だって千代、千代は悪くねえじゃねえか、全部古部のせいだろうッ?!奪われたものを、どうにかして取り返そうと、奪われる前に戻そうとして、なんでいけない」
「そう。奪われたものを取り返そうとして、私はこの力で、何の関わりもない人たちを餓鬼にする、その手伝いをしていた。
 ここに集った餓鬼のほとんどは、私の村の人ではなく、その後、新たに餓鬼にされた人でしょうね」
「それは……古部が」
「そう。古部に言われて、私は、言われるままに力を使った。鳴くのをやめた、雉になって。同じね、古部と、私」
「違うッ、全然違う!千代は、千代は、違うッ」
「きっと私が古部を憎んだのと同じくらい、私を憎んだひとも、居たでしょうね。
 ……憶えてるもの、鯉伴さんが、最初に私を見た、あの目」
「それ、は……何も、知らなかったから。お前を知らなかったから」
「そう。鯉伴さんは、私を知ろうとしてくれた。私の哀しみや、恨みや、辛みや、そういうものを全部、知ろうとしてくれた。だから」
「だからなんだよ、お前のことなんて、千代、全然知らねえよ、これからもっと知るんだ、知りたいんだ」
「だから…」
「だから!」
「ありがとう、鯉伴さん」
「言うな、千代!」



 真実とは怖ろしいもの、ときには己すら傷つける。
 ならばもう言わせまい、もう、鳴かせまい。せめて心が癒えるまでは。
 鯉伴は千代の口を塞ごうと手を伸ばしたが、するり、千代は腕を逃れて、己でこしらえた繭の中から一歩外へ、すとんと、降りた。

 瞬く間に新たな肉を求めて、がぶりがぶりと、千代の腕に、足に餓鬼どもが喰らいついた。  しかし、夜明けに逆巻く水柱、綺羅綺羅と吹き上がり里の境界線で激しさを増す流れから、散る飛沫が割れた鏡のように辺りに散って、降り注ぐと、飛沫に当たった餓鬼どもの肌が燃え、溶け、瞬く間に白い骨が見え、ぐずりと崩れて土に返る。

 千代を形作る輪郭も、ふりかかる飛沫の中でやがて朧になり、しかし千代は降りかかる雨に嬉しそうに空に手をやって、やがて、袖から取り出したあの手鞠を、ぽんと空に投げた。
 飛沫を受けて綺羅綺羅と輝く紅い手鞠に、不思議と誰もが、そう、餓鬼どもですら目を奪われて、刹那。

 はちきれたように、洪水が里を襲った。



「千代!千代 ―――― ッッ!」



 ただ一人、千代から目を離さなかった鯉伴は、己の身を構いもせずに飛び出し、全てが水に飲まれるその間際、もう少しで娘に届く、指の先に。



 己を見返して、困ったように眉を寄せ、笑った娘を、見た。