遥かな昔、世界を洗った洪水は、善良なる者と、雌雄一組の動物だけを箱舟に乗せ、あとは全て、洗い流してしまったそうだ。


 憎しみも、苦しみも、哀しみも、妬みも、呪いも、何もかも。
 それがそのときに出来る、最善の救いだったのだそうだ。


「そんなの、そんなの、絶対に認めねぇ!」


 冬の洪水に全身濡れそぼり、ぽたぽたと髪の先から滴を落しながら、届かなかった指先を握り締め、喉を引き裂くように鯉伴は叫ぶ。
 轟々と流れる大河の脇で、膝を突き、打ちのめされ、それでも尚叫ぶ。
 叫ぶ相手を、定められぬままに叫ぶ。
 巻き戻せぬ時を、知って尚。
 失ったものの重みを、わずかに触れた指先の感触を、消すまいとして、失われたなどと認めまいとして。


 里があった場所は、今やすっかり大河と化して、尽きることのない激流が、里であった場所を元の山間の谷に戻してしまっていた。
 激流は多くの餓鬼どもを飲み込み、流してしまったにも関わらず、決して濁ることなく、呪わしいほどに清い。

 山に登った者たちは、人も陰陽師も、ただただ呆然として、流れる大河を見つめ。
 激流の中からのそりと身を起こした、巨大な白鯨もまた、岸辺で吠える鯉伴を、言葉もなく見つめていた。






 どれだけ、吠えたろう。
 どれだけ、泣いたろう。

 気がつけば鯉伴は一人ぽつねんと、河原に座り込んで、ゆったり流れる大河を、見つめているのだった。
 喉や目元がひりひりして、痛い。
 傍らを見れば石の上にちらちらと、どこもかしこも濡れそぼっている岸辺だと言うのに、小さな炎が必死に燃えている。
 つい先ほど夜が明けたばかりだと言うのに、河原にはもう、夕暮れが近づいていた。

 洪水が里を押し流したそのときに、力の全てを放って人どもや妖怪たちを守った、閻羅童子の、核であった。
 後からその身に押し込められた力を全て失い、それでも火の玉にきょろきょろと可愛らしい紅玉の瞳をまたたかせて、ぴょこぴょことその辺りを飛び回り、心配そうに、鯉伴の傍らに倒れるその人の顔を、覗き込んだりしているのだ。
 倒れ伏す、その人とは。

「……リクオ、おい、リクオ、大丈夫か、おい!」

 誰かの上着を着せかけられ、浅い呼吸を繰り返すリクオは、しかし呼べど叫べど、目を開けはしない。
 ぐったりと横たわった、小さな童子の体には、いたるところに血が滲み、玉の緒は今にも絶えてしまいそうだ。

「正気に返ったか、倅」
「親父……」

 言われてみてようやくあたりを見回してみれば、つい先ほどまで周囲に居たはずの妖怪たちが、散って人どもの世話をしたり、あるいは激流に怯えて子供のように泣く小妖怪どもを、人の女がよしよしとかわるがわる慰めていたり、それまで里の者どもを虐げていた陰陽師たちも、濡れた衣を脱いで膝をたくしあげ、火をおこしたり薪を集めたり、皆それぞれに立ち上がり、動き始めている。

 河童が、こちらの視線に気づいて、わずかに首を傾げた。
 輪入道も、しょぼくれた顔をした。
 伊佐と、座敷童が、遠くからこちらを見ていた。
 気遣ってくれているのが、判った。

 再び溢れそうになる涙を、拭った。
 任侠一家の倅が、何を泣いておるかと、叱咤されてもおかしくないと、思った。

 ところが総大将は、ぽむ、と、息子の頭に手を置いて、くしゃくしゃと撫でてくるのだった。

「見事な百鬼夜行じゃった。強うなるぞ、鯉伴。いや、強うなったが、お前はもっと強うなる。……泣いた後でな」

 顔を見ないでくれる妖の男に、今ほど父を感じたことは、なかった。






 リクオは眠り続け、起きる気配も無い。
 千代に続いてリクオも失ってしまうのかと思うと、気が気ではなく、鯉伴は江戸まで帰る道中、前後も覚えず眠り続ける守役を、背負い続けて離さなかった。
 徒党を組んだ餓鬼と人間どもとの戦いで、鯉伴とて無傷ではない。
 いくら上背があると言っても、たくましくなったと見えても、やはり少年の体であるから一人で背負うはつらかろうと、カラス天狗や牛鬼が変わろうとしたが、これは頑として首を横に振る。

「いいんだ、おれが、こうしてやりたいんだから」
「しかし」
「いいんだ。お前等は、他に困ってる奴がいねぇか、見てやってくれねぇか。ああ、人間も、妖怪も、どっちもだ。こんなことになってんのに、人間の方は捨て置くなんざ、ケツの穴の小せぇことを言いやしねえだろ?」

 あの里で、見世物扱いされていたのは妖怪ばかりではない、行くあての無い人間たちも数多く、これ等は鯉伴の誘いに一も二もなく喜んで飛びつき、江戸へ同行した。  閻羅童子がしぼんだ火の玉も、もう口をきくような力すら失われてしまったけれど、リクオから離れる気はこれっぽっちも無いらしく、鯉伴が背負ったリクオの襟足のあたりにくっついて、冬の道を行く彼等を、あたためてくれた。

 人と妖、群れをなして行く様、まさしく百鬼夜行。

 群れはやがて奴良屋敷にたどり着き、餓鬼の大群に例外なく巻き込まれた奴良屋敷はあちこちで、とんてんかんと大工が金槌を片手に釘を打っている最中だったが、訪れた人も妖も、お帰りになった総大将も、久しぶりの帰還を果たした一人息子も、あたたかく迎え入れた。
 母君のお優しい顔を久しぶりに見て、あちこち擦り切れた体をたちまち癒されて、そうすると今度は、ひりひりと痛むのが体ではなく、軋むのが手足ではなく、悲鳴を上げているのが心なのだと思い知らされ、守れなかったものを想って、鯉伴はまた、唇を噛んだ。

 どれだけ、泣いても。
 どれでけ、吠えても。
 刻まれた哀しみは、決して癒されはしないように、思えてならなかった。

 リクオが目覚めたら、話したいことが山ほどあった。
 聞いてもらいたいことが、うなるほどあった。
 初めて、リクオが焦がれる女を追いかける心もちが、少しだけわかったような気がした。
 今なら、焦がれる女がどこかで死んでしまっているのではないか、誰かに痛い目を見せられているのではないかと、心配するリクオの心もちも、十年以上も同じ女を求めて彷徨う心もちも、少しだけ、ほんの少しだけ、わかるような気がした。
 そんな事を言えば、目線が下だとて、よほど己より物を知っているリクオのこと、笑い飛ばして逆に己を、慰めようとするに違いないのだが。

 けれど、リクオは目覚めない。
 珱姫さまが、体を引き裂いた傷を全て癒しても、やはり目覚めない。
 里で、薬を飲まされ昏倒したことはあった。怪我を負ってついこの前は、三日も眠っていた。
 だからそういう事もあるのかもしれないと思い、鯉伴は里でしていたように、つきっきりで看病した。
 久方ぶりにお戻りになった若様に、寝ずの番などさせられませぬと屋敷の端女などが申し上げても、この一年近く、若様などではなかった鯉伴には、かえってくすぐったい。
 とにかくおれが、したくてしているんだからと言い聞かせても、それなら私も、僕も、俺様もと、リクオを寝かせた布団の周囲に、リクオを慕う小妖怪どもや、珱姫さま、総大将までが集って、早う起きろ、起きないかと声をかけてやるのだった。

 リクオに一番になついていた、一ツ目小僧の姿は無い。
 リクオが名付けてやった閻羅童子は、小物の中でも一番小さな火の玉になって、うっかり布団を焦がさないよう離れながらも、丸い目をうるうるさせて、己の主を見つめている。



 いつまで寝てる、はよう起きぬか、行火のかわりにするぞ、リクオ。
 リクオさん、帰ってきたんですよ。鯉伴を守ってくれて、ありがとう。
 リクオさま、一ツ目小僧の奴、大手柄だったんだよ。がんばったんだよ。
 苔姫さまもいるよ、ほら、目を開けないと、真珠がぽろぽろ零れちゃうよ。
 小大将、起きてよ、目を、開けて。










 皆の声に重なって、ボーン、ボーン、と、どこからか、時を告げる鐘の声が、聞こえてくる。
 いつの間にかうとうとしていた鯉伴は、その音を耳にして、はっと目を覚ました。














 あたりを、朝靄が包んでいた。













 不思議な靄だった。
 己は屋敷に居たはずが、あれ、いつの間に野を駆けて来たのであったか、そうだ、リクオを追ってきたんだっけと、いつリクオが屋敷を出たのかも判然としないまま、靄の中にいると、しかし確かに己はリクオを追いかけたんだと思えてきた。

 リクオを追いかけてきたのなら、この先に居るはずだ。
 迷わず走ると、まもなく、疲れたように朝靄の中でうずくまる、リクオの姿があった。

「リクオ!」

 声をかけられて、リクオはひどく驚いたようだった。
 ぱちぱちと目をしばたたかせる様子が、まるで子供のようで、里で見た夢を、鯉伴は思い出した。あの夢の中のリクオは、小さくて、可愛くて、守ってやりたくて ――― そうした心もちすらも、この守役から教わったことが多いと思えば、不思議な気持ちがした。
 目の前のリクオは、守役と言うよりも、あの夢の中のリクオだった。
 驚いたように鯉伴を見上げ、拠り所の無い子供のように不安そうに唇を噛み、そして、

「どうして……どうして、ここに……?」

 あの夢の中と同じ事を尋ねるので、鯉伴は辛抱強く、もう一度応えた。

「お前がくたびれてんのに、他のどこに行けって言うんだよ」
「だって、……その、貴方も、くたびれてる、はずなのに」
「馬鹿、お前のせいじゃねえのに、自分のせいみたいな顔するな。
 そうだな、まだすげえ、痛いけど、でもだから、お前がくたびれてるって気持ちも、少しはわかる。
 ほら、背負ってやるから、乗れ」
「うん……」

 夢のリクオは、守役のリクオより少し素直に甘えてくる。
 軽々とリクオを背負うと、鯉伴はリクオが歩を進めようとしていた、せせらぎの音めがけて駆けた。

「こっちでいいのか、リクオ」
「うん」
「一体お前、どこへ行くつもりだ?」
「そろそろ、帰らなくちゃ」
「帰るって、どこへ」
「ボクの現に」


 ボーン……ボーン……


 せせらぎの方向から、あの、深い鐘の声がする。

「貴方の言葉がボクを守ってくれたのと同じ年まで、ボクは貴方を守れた。だから、刻限なんだ」
「おれが、守った?」
「うん」
「何の、ことだ?」
「これからの、事だよ。ボクにとっては、昔の、ことなんだけど」
「これから?昔?」
「ううん、いいんだ。……いいんだ」
「リクオ」
「…………うん」
「何がいいんだよ。だいたい、本当にいいんなら、何で泣く」
「居るなあ、と、思って」
「あん?」
「…………貴方が、居るなあと、思って。背中、あったかいなって」
「何、言ってんだ。いつだって、側にいるだろ」
「うん。……うん、忘れない」


 せせらぎに、ついたようである
 目に見える、川の流れではない。
 朝靄そのものが急な流れをこしらえていて、分け入っても分け入っても鯉伴はそこから押し戻されてしまう。拒まれているような、その先はとてつもなく遠いところへ続いているような、少しばかり不吉な気持ちがして、鯉伴は眉を寄せた。


「リクオ、ここから先、おれは行けねぇみてえだ」
「うん。歩けるから、大丈夫」


 ボーン……ボーン……ボーン……

 鯉伴の背中から降りたリクオは、両の足で立とうとして、くしゃりとその場に崩れ落ちた。
 ぜい、と荒い息。
 それでもリクオは立ち上がった。
 立ち上がって、鯉伴が行けぬ川にするすると分け入り、やがて、向こう岸と思しき場所から、こちらを振り返った。向こう岸についたおかげか、こちら側では弱りきっていたリクオの足は、しゃんと伸びて足元を踏みしめ、にこりと笑った顔にも、精気が漲っていた。

「ありがとう ――― さん」

 小さく最後に己を呼んだらしいが、名前ではなかった。
 リクオが夢に寝惚けたときに、己をそう呼んだのと、同じ呼び方の動きを、小さな唇が一度だけ。
 
 とてつもなく、不安になった。
 送り届けたはいいものの、これでよかったのか、引き返した方が良かったのではないかと。

「大丈夫なのか、リクオ。帰る場所、思い出したのか?一人で行ける場所か?」
「大丈夫だよ。忘れてたわけじゃなくて、ボク、そっちの岸では幻みたいなものだから、時の綾糸が、全部持って行っちゃうみたいなんだ。でも、ちゃんと、思い出せたから。帰れるよ、自分の現に。つららのところに」
「そこに、お前が探す女も居るのか」
「うん、居ると思う。きっと、死ぬほど心配してるだろうなあ、あはは」
「あはは、じゃねえだろ。十年以上も待たせて、お前……」
「……過ぎてしまうと、十年以上もいたのに、何だか、あっと言う間だったね」
「……また、ジジくせぇ事、言いやがって」
「ごめんね。千代さんと、一緒になれたら、どんなに良かったろう。それなら、ボクだって戻る場所がなくなっても、本望だったのに」
「……さっきから聞いてりゃあ、なんだよ、お前、末期みたいな、遺言みたいな、縁起でもねえ」
「だって、さよならなんだよ」
「聞いてねえよ、そんなん。お前は帰ると言った。だから、おれは見送ってる。また会える。そうだろ?」
「また ――― そうだね、また、会える。でも ――― 」


 言おうか。言うまいか。言おうか。言うまいか。


 悩みリクオを、また一つ鳴った鐘が、せっついた。


「次にボクに会ったら、絶対、絶対、側に寄せ付けちゃだめだ」
「へ?」
「ボクは貴方の《死》だ、だから、絶対に」
「何を、言って」
「何てこと、教えちゃったんだろう。人に優しくなんて、弱いものを庇うなんて、そんなの、そんなの全然妖怪らしくないじゃないか、そんなことしてたら、いつか傷ついて死んじゃうに決まってるのに、ボクは、ボクは、何てこと、教えちゃったんだろう!」
「リクオ、おい、お前一体、何のことを言ってやがる?」

 せせらぎが二人を別ち、鯉伴の手は、もうリクオへは届かない。
 己が守子を守り、庇い、いつくしんできたというのに、それをした己が悪い、人の心を教えたのが悪いなど、どうしてこんな場所でそれを言うのかと思えば、一度俯かせた顔を上げ、今度は毅然とした守役の顔で、鯉伴に言い放った。

「次に会うときがあるのなら、それは鯉伴さまが間もなく黄泉路へ旅立たれる時です。だからできるだけ、私に会いたいなどと思いませんように。私に会ったとしても、遠ざける方がよいでしょう。決して側に寄せず、遠ざける方が良いでしょう」
「何故。どうしてそんな事を言う。おれはお前の味方だって言ったろ?何があったって、どんな事があったって、お前が一人で困ってたら、守るって、そう言ったろう?」
「 ――― もう、守ってもらったよ」
「…………」
「自分で自分の道を決めろって、そう言ってくれたから、たくさん守ってもらったから、ボクは、自分で決められたんだ。人と妖、どちらも選ぶ道を」
「リクオ、お前は ――― お前が戻る場所ってのは、何だ。どこにある」
「そっちの岸は、ボクには浄土だった。こっちはボクの現。地獄で、そして、いつか、浄土になる場所だよ」



 ボーン……ボーン……

 ……起きて。起きてください、リクオ様。

 今度は鐘の音だけではない、かすかに泣き濡れた女の声が、リクオを招く。
 靄の向こうから、美しい白い腕がするりと突き出され、リクオはこれを、そっと握った。



「ごめんね、もう、行かなくちゃ。立派な二代目に、なってね」



 リクオがついに己に背を向けて、絡んでくるような濃い朝靄の向こうへ姿を消してしまったところで ――― 今度こそ、鯉伴は現で目を覚ました。

 暁の静けさが、奴良屋敷を包んでいる。
 リクオの布団を取り囲み、珱姫さまは総大将の胸に半身を預け、これを抱かれた総大将も、こっくり、こっくりと夢の旅路。それだけではない、リクオの布団の周囲を囲んでいた小物どもも、誰一人起きている者はなく、すやすやと眠りの中だ。

 鯉伴が言葉も無く見つめていると、一人、また一人と起き出して、おや、いつの間に眠ってしまったのだろうと顔を見合わせている。総大将とて、あやしの術でも眠らぬというのに、今日に限ってどうしたものかと首を傾げた。
 その中で、今の今までリクオが横たわっていた布団はもぬけの殻となっていれば、あれ、どうしたことと、騒ぎにもなる。

 慌てふためいた小物ども、もしや一人起き出して賄い所へでも行ったかなどと、不安な気持ちを殺して騒ぎ立てるが、鯉伴は、「いや」と首を横に振った。
 布団はめくった様子もなく、誰もそこには眠っていなかったかのように、冷えていた。










「リクオの奴、帰ったんだよ」










 来たときと同じように、今度はこちら側から川を渡って、向こう側へ。










「ちゃんと、帰れたみたいだよ ――― 」

 現れたときと同じく、夢のように、リクオはその日、姿を消した。










 この年、寛永四年。
 幕府はこれまでいくらか目こぼししていた、朝廷が裕福な寺社の住職へ、紫衣を金で売りつける行為を厳しく取り締まった、という。
 実際はこれの取調べを目的として、朝廷と浅からぬ縁があった寺社には皆手入れが入り、つまり、古部のように隠れて妖の軍を作る者がないかどうかを強く調べ、見つかった企みはことごとく闇に葬られたのである。

 俗に、紫衣事件と人は呼んだ。

 激化した幕府による朝廷への圧力に反発し、時の天皇、後水尾天皇は突如、これを興子内親王へ譲位。

 徳川幕府と朝廷の確執はこの後、奇しくも古部が口にした二百年の時を経て、大政奉還がなされるまで、続いていく。