さやさやと、風に葉がこすれ、どこかで小鳥が鳴いている。
 平らかな気配に満ちた山を、あたたかな陽が照らし、輝く光を身に受けて翼を広げた雉が、一羽。
 高らかな声を上げて鳴いたとき、ズドン、と一発、鉄砲の音が響いた。
 ぐらり、と翼を広げた格好のまま、雉は枝から繁みの中へ、転がり落ちた。

 しとめた獲物を手にせんと、猟師が鉄砲をかついで一歩、繁みへ踏み出したとき。
 繁みから、すっくと立った娘があった。
 山中にそぐわぬ小袖を纏い、更紗のごとき黒髪を、風に遊ばせる美しい、娘だった。

 はっとして、猟師はその名を口にする。


「………………千代、か」


 ずいぶん昔、この辺りに村があったのだと、言う。
 幕府か、朝廷か、それは下々のものの預かり知らぬところだが、ともかくお上の陰謀に巻き込まれ、これを訴えようとした真っ正直な娘が、村人ともども、皆殺しにされたのだと、言う。
 人の口に、戸はたてられぬ。
 人は秘密を、好む。
 その村に、聡明で明るい庄屋の惣領娘があったとなれば、なおさらに、一夜で失われた村のことを、失われてしまった娘のことを、物語らないわけがない。そんな事実は無い、語るなと力ある者に戒められれば、今度は寝物語に少しの本当を混ぜて、こんな事があったのだよと、子へ孫へ語り継ぐ。

 猟師も、幼い頃におじじから、聞いていた。千代という娘のこと。
 とは言え、猟師自身が聞いたのは、千代のお父は一人の百姓で、病に倒れた千代が小豆飯を食べたいと言ったので、庄屋の蔵へ盗みに入り千代の分だけの米と小豆を盗んだところ、千代は病から回復したが、これを幼い千代が手まり歌にしたために事が露見して、あわれ千代の父は、犀川をおさめるための人柱にされた、という哀しい話だ。
 以降、千代は声を出さなくなり、たった一人になってしまった千代は、あちこちで辛い目に合い、ついに山へ入って姿を消してしまう。

 だから、この辺りの山奥で、もしも美しい幽鬼を見たのなら、それはきっと千代であろう、と、おじじは言った。

 幼い頃に聞いた話を、今の猟師が少し不思議に思うのは、庄屋の蔵など鍵も重く、とてもじゃないが百姓一人が忍び込めるような隙も無い、いったいどうやって千代のお父は米と小豆を盗んだのだろうか、ということだ。
 それに千代が好きであったという手まりなど、裕福な家の子でなければ持っているまい、昔話の千代のお父は、水呑み百姓であったというのに、手まりを与える金はあって、小豆飯をこさえる金がなかったというのは、おかしいことよ、と、いうことだ。
 さらには、千代、などという名は、とてもじゃないが水呑み百姓の娘とは思えない。
 そんな京風の名は、この辺りではやはり代官さまの娘だとか、庄屋の娘だとか、ちょっとしたお姫さまにつけられる名だ、と。

 そして、今。

 目の前にすっくと立った千代は、とてもじゃないが、無念のうちに山へ分け入って帰ってこなかったという、娘の霊とは思えなかった。

 何故なら、娘は困ったように笑って、足元の雉をそっと抱き上げると、


「 ――― 雉よ、お前も鳴かずば、撃たれまいに」


 少しからかうような、悪戯っぽい響きを持たせた声で、硬直した雉の翼を、そっと撫でてやっているのだから。

 猟師の目の前で、雉は息を吹き返した。
 弾は、当たっては、なかったのだ。

 すぐ傍をかすめた弾に驚いて、硬直していた雉は、千代の優しい手に撫でられて、ふうと息を吹き返し、やがてばさりと翼を広げて瞬く間に空へ舞い上がった。

 やれやれ、取り逃がしてしまった ――― 。

 猟師もつられて笑い、舞い上がった雉の翼を、これを迎える空を、なんと美しきかなと暢気に感じ入った後、視線をもとの繁みに戻してみると、思った通り、やはり、千代の姿はなかった。






「お前も鳴かずば撃たれまいに、鳴かずにはいられない。そうね、私たちは、声を持って生まれたのだもの」

 私と、同じね。

 と、雉の傍で、声がする。

 雉は飛ぶ。ぐんぐん飛ぶ。日ノ本の国を見下ろして飛ぶ。

 声持つ鳥は、力ある者に撃たれるのだろう。
 それでも、声持つ鳥は絶えやしない。
 少しずつ、少しずつ、声は何かを変えていく。
 相手がお上だろうが、多勢だろうが、声がある限り、気づく者はきっといる。

 雉は鳴いた。己の声で鳴いた。
 雉と共に飛んでいた千代は、やがて、己こそが雉であったのだと、気づいた。
 翼を持ったので、いつかあの人が話してくれた、江戸の街を目指した。
 目指して、目指して、飛んで、飛んで、やがて見えてきた。

 日は暮れて、月夜であった。
 立派なお屋敷の庭に、見事な枝垂桜があり、太い枝の一本に、一人の男が身を預けている。
 足元では妖怪どもが、けらけら笑いながらどんちゃん騒ぎ。座敷の中でも笑い合っているらしい、およそ人のものではない影が、障子に浮き出ている。
 ところが男は、今日はそういう気分ではないらしい、なんだか物憂げで、少し疲れたような視線を月に投げながら、ぷかりと煙管を吹かせた。

 雉は、すぐその傍に、ばさりと翼をはためかせて、舞い降りた。


「お、なんだ、こんな夜中に ――― ねぐらに帰りそこねたか?ここに泊まって行くか?朝起きたら、誰かの腹ん中だったりしてな、はははっ」


 黒曜石の髪と瞳は相変わらず、しかし彼は立派な青年へ成長していた。
 あれから幾年経つのだろう、人の心を持ちながらにして妖の寿命を持つのは、少し酷なのかもしれない、笑った顔は昔のままだが、瞳には年輪のように見てきた分の悲哀が刻まれ、奥が深い。

 それでも、鳴くのよね、と、雉は首を傾げた。

 男が戯れに差し出した指に、ためらいもせずに足でつかまり、いよいよ男が不思議そうな顔でしげしげと己を見つめるので、くすぐったそうに羽を一つふるわせ、身づくろいをした。
 少女が少年の前で、髪を撫で付けるような、所作だった。

 と、雉の首に真横に一線、傷のように白い羽毛が生え揃っているのを見て、男はついにごくりと唾を飲み込んだ。


「 ――― 千代?」


 雉は応えるように、高らかに鳴いた。
 男は目を見開いて、叫び続けてきたこの何十年か、あるいは百と何十年かにほんの少し疲れたようであったのが、ふ、と、少年の頃のように瑞々しい笑みを浮かべた。


「いい声だねえ。ああ、おれも悪行、続けてるよ。ちょいと疲れたところだったが、なぁに、お前の声を聞いたら、吹き飛んじまった」


 くるくると、笑うように雉は、喉を鳴らした。少女がくすくすと、笑うようであった。

 よかった。
 声なき言葉が、耳朶に届いたような気がして。

 やがてもう一声、月夜に高らかに鳴くと、闇夜目がけて雉は翼を広げ、高く高く舞い上がった。

 日ノ本の月と太陽を、等しくそれぞれの地平線に見つけるところまで高く舞い上がり ――― 見えなくなった。






 奴良組二代目奴良鯉伴は、雉が月夜に見えなくなるまで見送ると、やがて、ふ、と笑った。
 悩んでいたのも馬鹿馬鹿しい気がして、ひょいと枝から飛び降りると、おい、とその場の者どもを呼び寄せる。

 それまで座敷の中で騒いで憂さ晴らしをしていた者はもちろん、二代目と同じくやはり興が乗らずに物陰から二代目を見つめていた首無や毛倡妓も、最近奴良屋敷に転がり込んだ、幼い頃の喧嘩馴染みに良く似た豆腐小僧も、喧嘩っ早くて生意気な火の玉童子も、彼の周囲に集った。
 あの日、自由を得た妖怪たちの中でも、ここに残った者がいる。
 あるいは、姿を変えて、戻ってきたものがある。
 妖怪とはそういうもの、気ままで気まぐれで、そのくせ一度これと決めたなら、頑なに動かない。

「へ、へい総大将、どうしやした!」
「やっぱり、あの要求呑むんですかい?」
「要求は呑まねえ、奴良組が下ることはねぇ、だが、奴等の好きにはさせねぇ。人質も取り返す、誰一人死なせねぇ、必要ならちょいとばかり痛い目見てもらい、終わった後は真っ向から、おれがお上と話をつけ、奴等にゃケジメをつけさせる!」
「そ、それじゃあ」
「総大将!」
「二代目!」
「やっちまえ、ですね!」
「ああそうだ、あんな勝手な言い分、絶対に認めねぇ!おめぇら行くぜ、出入りだ!」


<夢、十夜/第八夜・了...九夜へ続く>











...夢、八夜...
耳に痛いか、探られた腹が痛いか?カタギを苦しめて、犠牲にして、屍の上で飲む酒はそんなに美味いか?
夜道には気をつけな、いつも月夜とは限らんぜ。悪行結構、おれはなってやろう、屍の中に潜み、屍を食い物にするお前の喉を食い破る、鳴き続ける雉になってやろう。
さあさあおひかえなすって御大尽、奴良組二代目、まかり通る!