何故こんなことに。
 その理由、事の始めからご説明いたしましょう。

 雪女は毎日するようにその日も、学び舎へ赴かれる若君の護衛についていたのでございます。
 その日の前夜、若君の寝床の用意や明日の着替えの準備をしていたところで、若君の制服のボタンが一つ、取れかかっていることに気がつきまして、眠る前にボタンをつけてしまおうと思ったところ、普段からあちこちで色んな御用をお手伝いされているせいか、皺が多くよっていたので、ボタンをつけた後、アイロンもあててしまおうと思いました。
 そう、雪女が、アイロンですよ。
 自殺行為ですよ。
 自分のためには決して、いいえ、主様以外には決していたしませんよ。
 もう嫁ですよ、嫁。嫁の鏡ですよ。

 心頭滅却すれば火もまたなんとやら。
 あつあつのアイロンが、ふしゅうと蒸気を噴出すたびに、「ひい」だの「うひゃあ」だの、仔兎のように震えて啜り泣きながら、若君の制服にきっちりアイロンをかけ終えて、それからその日乾いた洗濯物を畳んで、気がつけばとっくに丑の刻は過ぎておりました。
 普段はそれでも定時には起きられるのですが、火にまつわるものに手を触れたせいで、とてつもなく疲れていたためでしょう、翌日、雪女はなんと寝坊をしてしまったのです。若君が日直で、朝早く行かなくてはならないという日ですのに!

 なんとしたことでしょうと、慌しく台所の用意や身の回りのことを行って、とるものもとりあえず若君の後を追いかけ ――― 雪女は気づいてしまったのです。

 穿いていないことに。つけていないことに。

 普段から和装なものですから、襦袢と帯で己が身をおさえておりますので、洋装のときにまず最初につけるもの、というのを、忘れてしまったのでございますよ。
 さらにはその日に限って青田坊は所用のため、午後から合流することとなっている間の悪さ。
 楚々とした態度を保っていれば、今日一日くらい誤魔化せるのではと思ったものの、ひょんなことから、若君に知られることとなりまして。
 若君の体操着を借りて一安心したものの、今度は逆に若君が心煩わせることとなってしまいました。
 なにせ、大人びた雪女から同じ年頃の少女へ姿を変えた《及川氷麗》という娘は、普段のどこか妖艶な空気をおさえていることで本人はすっかり安心しておりますけれど、その分、無邪気と新雪のような無垢が際立ちまして、逆に若君と同年代の年頃の少年たちをすっかり虜にしてしまっているのです。

 自分が見ていないところで、まさか、もしや、の事態があってはならぬと、若君は緊急用の携帯電話で、メールをいたしました。雪女と別れた後、休み時間の残りを使ってのことです。
 学校に携帯を持ってきてはいけないことになってはいますが、緊急時の連絡を取るにも公衆電話が街中から消えつつある現代では、こっそり我が子に忍び持たせる親御も多く、若君の場合は滅多に使いませんが、他ならぬカラス天狗がうるさいものですから、やはり持ち歩いてございます。
 校則に忠実と思われがちな我等が若君ですが、護身用に長ドスまで持っているわけですから、携帯電話など心を痛めるものの内に入りません。そこは致し方ないものと、割り切っておられる部分です。

 毛倡妓にメールをして事の次第をこっそり伝え、ささ美あたりに雪女の衣類を、こっそり持ってきてもらおうと考えたのです。さすが若君、そこまではようございました。
 適当に事の次第をメールに打ち込み、あて先を毛倡妓の携帯にして……。
 ところがところが。


 >毛倡妓へ。
 >ごめん、妙なお願いをするんだけど、雪女の下着一式、ささ美に持ってきてもらえるよう伝えてもらえるかな?
 >……今朝、ずいぶん慌ててたみたいだから、忘れちゃったんだって。
 >なるべく他の奴等には内緒で、頼むよ。


 自分で書いたこんな文面をじっと見ていると、普段はなりを潜めている若君の悪戯の虫が、このときにむくりと顔を出しまして。

 ――― 間違った振りして、宛先を奴良家グループメール宛とかにしたら、面白いなぁ。
 ――― だいたい、《内緒》とか《秘密》ってのは、『表立ってはいないだけで皆知ってる』って意味じゃないか。

 にや。

 ――― 。

 言い訳がましいかもしれませんが、若君の名誉のために申し上げますと、決して、白く装っておいて腹が黒いわけではないのです。
 三つ子の魂百までと申しますでしょう?
 若君が心を入れ替えて、「もう悪戯なんてしない、ボクは立派な人間になるんだ」と決められたのは、三つの頃よりさらに先、八つの頃でございましたから、そこからたかだか三、四年で、人の性格などそうそう変えられるはずがありません。
 あれをやったら面白いかな、と思いついてしまうところまで、変えられるはずがないではありませんか。そういうところはお爺様に大変よく似ておいでです。
 若君を律しているのは、「でもこれをやったら誰かが困ったことになる」という、理性的な部分でございます。己に厳しい若君だからこそ、為せることでございましたが ――― その己への厳しさが、雪女を前にすると、不思議にふにゃりと緩んでしまうのも、昔から変わらぬ、雪女にとっては嬉しい一面でございます。

 もっとも、今回の場合は災いになってしまいましたが。

 実行まではしないつもりで、「To」のところに、アドレス帳から奴良本家グループメールを呼び出し、「確定」したところで、ふふりと、行っていない悪戯に目を細めて笑い、次にはきちんとそのメールアドレスを削除して、毛倡妓だけに届くように ――― と、考えたところで。

 ガタンガタン、と、若君がついていた座席の机が揺れました。
 予鈴が鳴っているにも関わらず、ふざけて立ち遊んでいた男子の一人が、誰かに小突かれた拍子に、尻のあたりで机を弾いてしまったのです。

 それだけでは留まらず、若君の方へ彼は倒れこんできまして、小柄な若君は椅子ごと倒れてしまいました。

「あ、いたたたた……」
「悪ぃ、ごめん、大丈夫か奴良?!」
「ううん、大丈 ――― うぅはぁッ?!」

 はい、大丈夫ではありませんでした。若君、思わずごくりと唾を飲み込みました。
 消すはずだったグループメールのまま、携帯電話のディスプレイには、「送信完了」の無慈悲な文字が躍っておりましたとさ。





 黒羽丸、悪い奴ではないのです。融通が利かぬ堅物なだけなのです。
 そのときちょうど奴良家につめていたのが、三羽烏の内、長兄の彼だけでしたので、懐で携帯がなると即座にこれを見て、ぴくりと一瞬眉尻を跳ね上げはしましたが、その後さして表情も変えずに台所へ向かい、

「毛倡妓、今のメールを見たか。あいにくささ美は別件で留守にしていてな、俺が代わりに行くから、荷物を見繕ってくれないか」

 端的に用件を伝えたのでありました。
 毛倡妓も丁度同じメールを、こちらは「どうしてグループメール宛?!」と目をひんむき見つめていたところだったので、台所には珍しい黒羽丸の声に、ぐぎぎぎと音がしそうなほどぎこちなく首をめぐらせました。

「 ――― く、黒羽丸が、持って行くの?……その、氷麗の、……を?」
「仕方ないだろう、お急ぎだからわざわざグループメールアドレス宛に来たのだろうし」
「いやいや、何かの間違いよコレ。アタシとささ美ちゃんにだけ宛てたかったのを、何かの間違いで送られちゃったに違いないって。せめてささ美ちゃんに頼んで ――― 無理だったら、アタシが行くし」
「毛倡妓、しかし、なるべく早く届けるためには、俺の方が向いているだろう。それに、女人というのは、下穿きをつけずに過激な動きをためらい無くできるものだろうか?仮にも護衛の役目を負っているのだから、雪女だとてきっと今頃、困っているだろうし、別にむき出しのまま持って行こうなどとはしていないわけだから、恥ずかしがることなど何も無いではないか」

 こんなことを、いつもの鉄面皮で言うもんだから、すっかり毛倡妓は困ってしまったのです。
 黒羽丸、一度言い出したら聞き分けがありません。それにカラス天狗たちの言うことは、いちいち正論であることが多いですからね。誰に助けを求めたら良いものか、台所にはあいにくその時、毛倡妓一人だけでしたし、誰か黒羽丸を宥めてくれる助っ人は現れないかと、「でも」とか「だって」とか、自分のことのように彼女はもごもご口の中で何事かを呟いておりました。
 そこに現れた首無を、毛倡妓は昔妓楼で、この男の首がまだくっついていた頃に時折見せた、童女のような目で見つめ、無言で助けを求めました。

 流石は首無、心遣いの男であります。
 二人の様子を見て、己のところにも何の間違いか送信されてきたメールに怪訝に思ってここを訪れたこともあり、一瞬で理解に至りました。

「 ――― 毛倡妓、黒羽丸に持たせる、その ――― 氷麗の《荷物》、用意してやってくれ」
「いいのかなァ……あの子、可哀相じゃない?」
「どうせきっとまた、リクオ様の悪戯の虫が騒いだんだよ。全く、普段抑えている分、氷麗のこととなるとすっかり子供返りしてしまわれる。やるつもりがなかったのに何かの弾みで送信されてしまったんだろう。責任はリクオ様が取るさ。ひっぱたかれるなり、爪をたてられるなり。少しは痛い目を見たらいいんだ、あの悪戯小僧は」

 そんなわけで、毛倡妓が用意した洋装下着一式は、しっかり風呂敷に包まれて、黒羽丸に託され空を飛んだのでした。
 空飛ぶパンツ。空飛ぶブラ。
 これを運ぶは、真面目で堅物で融通が利かない鉄面皮。

 若君の学び舎の屋上で、黒羽丸からこの包みを受け取ったときの雪女の恥じ入りっぷりときたら、もう。
 はい、奴良本家全員が持つ携帯に届くメールアドレスですからね、他ならぬ、雪女のもとへも届いていたわけで。

 耳まで真っ赤になって熱を上げ、頭のてっぺんから、ふしゅうと湯気が出てしまったほど。
 そのまま溶けて消えて無くなってしまうのではないかと、流石の黒羽丸も心配したほどでしたが、やっぱり真面目なものですから次の任務について頭を過ぎると、もう今の荷物のことなど忘れてしまいましたし、堅物なものですからろくな慰めなどかけられませんでしたし、融通がきかないものですから、

「あ、あの ――― ごめんね、こんなもの、その、運ばせ、て……」

 涙声でようやく礼のようなものを呟いた雪女に、

「いや、任務だからな」

 鉄面皮で言うしかできず、その後のことは一切気にせずに、ばさりと背の翼を広げて空高く駆けたのでございます。
 黒羽丸が行ってしまってから少しして、授業中にも関わらず、何かしらの理由をつけて抜け出して来たのでしょう、若君が勢い良く屋上のドアを開けるやいなや、両手を合わせて頭を深く下げました。

「 ――― つ、つらら、その、さっき、ごめん、送信するつもりなんて全然なかったんだけど……!」
「ふええぇぇぇ……もうお嫁に行けないいいぃぃ」
「ごめん、本当にごめん、毛倡妓だけに送るつもりで……!ああ、ボクの馬鹿ッ……!」
「うわぁあああん、頭なんて下げちゃいやですうぅぅぅぅ、若のばかああああぁぁでも自分が一番馬鹿ぁああぁぁ」

 この修羅場が夜まで続き、ついに雪女に、「実家へ帰らせていただきます」発言をさせる原因となったのでございます。


+++


 もちろん、それだけでああもカラス達が疲弊するはずもありません。
 大変なのは、その後でございました。
 雪女ときたら、奴良家に携帯電話を置いて行ってしまったのです。
 幸い、実家の雪屋敷には電話を引いておりましたので、夜のうちに男君は電話をかけ、先日顔見知りになった雪屋敷の婆を出してもらい、雪女の様子を伺ったところ、屋敷に居るには居るが、

「今は誰にも会いたくないし、誰からの連絡も取り次ぐなと仰せで、泣き伏しておいでなのです。……そのぅ、しろがねの君様、今晩は貴方様と逢瀬でいらしたので?一体このお電話は、どちらからおかけでございます?」

 婆が心配そうに小声で、無礼にならぬ程度に「貴方様の心無い仕打ちのためではないのか」という意味を言葉の裏に隠して、何があったか聞き出そうとしてくるのでありますが、まさか「いや実はそいつが今日、パンツ穿いてくるのを忘れたことを、その気はなかったんだが本家の奴等に言いふらしちまってな」と応じるわけにもいかず、せいぜい苦しげな声を出し、

「 ――― そうか。わかった、様子伺いに文を送るから、それだけは取り次いでくれ」

 好いた女を宥めようとする男を、装うしかないではありませんか。

 電話を切った後、はあーと深いため息をついた男君の後ろの襖がすうっと開いて、いつもは雪女が運ぶ明日の着替えや、夜中の喉を宥める水差しと茶碗などを、御母堂が持っていらっしゃいました。

「自業自得ねー、リクオ。ふふふ」
「 ――― あー……どうしよ。どうしたらいいと思う、母さん」
「そんな事、自分で考えなさいな。自分でやったことなんだから」
「でもこれは昼のオレが」
「言葉遊びしている暇があるなら、ホラ、さっさと硯にでも向かいなさい。いつも夜遊びに出かけている時間があるんだから、それくらい今からだってできるでしょ」
「こっちの格好じゃ考えつく事も考えつかねーよ。宿題もやってねーし」
「授業をちゃんと聞いてれば、やらなくても答えられます。それとも朝まで放っておいて、朝になってからお手紙を書くの?何だか真実味がないわねえ。今すぐ書くから、申し訳ないって言う気持ちが伝わるんじゃないのかしら。それにお母さん、夜姿のリクオの筆海も好きよ。男らしくて、実直そうで」
「……今、昼はなよやかで嘘っぽいって言った?」
「ふふふふふ。お手紙運んでもらえるように、今度こそこっそりお願いしましょうね。お母さんからカラス天狗さんに伝えておくから、いいわね、すぐに書くのよ」
「……うー……」
「リクオ、お返事」
「……はぁい」

 御母堂の言うことも、ごもっとも。
 夜姿に一度なられてしまうと、陽の光の力を借りなければ思考向きの昼姿にはなれないので、ならば夜明けを待てるかと言えば、時が経てば経つほどにあの女の心は頑なに凍ってしまいそうに思われるしで、男君は硯に墨をほどき、小筆を取って ――― まずはあれこれ言い訳しようと考えて、いや誰の目に触れるかもわからないから細かいことを書くのはまずいし、言い訳をするのは潔くないと思われておやめになり、気を取り直して ――― 一言すまなかったと書いて、実際に会ってちゃんと詫びたいから、岩戸に閉じこもったどこぞの女神のようなことをしていないで、顔を見せてくれ、と、伸びやかな文字で記しました。
 てっきり、今度こそささ美が任を負うと思っていたら、少なからず雪女を逃がした責任を感じていたらしく、黒羽丸がまもなく男君のもとを訪れたので、これに文を託したのです。

 文は間もなく帰ってきました。
 曰く。

 夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも よに逢坂の 関は許さじ
 (訳:会うの無理無理絶対無理)

 さらに、帰ってきた黒羽丸の手には凍傷。
 怒りか、恥ずかしさか、どちらか知れたものではありませんが ――― 慌てて逃げ帰って来たのでしょう、いつも綺麗に整えられた黒羽が、今は何だかあちこち乱れています。

「 ――― お前、その手、大丈夫か」
「はい、かすり傷です」

 顔色一つ変えていませんが、あの女のこと、パンツを運んできたのと同じ顔がこんな文を運んで来たので、さらに恥じ入って頑なになってしまったのだろう、まずいことをしてしまったと男君も反省し、もう一度、今度は三羽烏の末妹に、文を託しました。

 わびぬれば 今はた同じ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ
 (訳:うるせー絶対会うったら会うぞ)

 間もなく、返って来ました。

 音にきく たかしの浜の あだ波は かけじや袖の ぬれもこそすれ
 (訳:ですから、お断りですってば!)

 さらに文を託しました。

 ありあけの つれなく見えし 別れより 暁ばかり 憂きものはなし
 (訳:お前そりゃあいくらなんでも薄情だろうが)

 その文を送ったあたりで、歌の通り暁も近かったので、もう返事もないだろうと思っておりましたら、なんと、返って来ました。
 しかし、夜通し飛んで疲れきったささ美に託されたのは、梔子の花が一輪。
 文はありません。

 梔子→くちなし→口無し。
 (訳:もう何も言いません。放っておいてください)

 これを憮然と見つめられた男君の瞳は、いつもより燃えるように滾っておりました。
 間もなく夜が明けて姿が昼姿に変じられたのをしばらく気づかぬほどで、すっかり乾いてしまった墨を、また硯の上ですって、あれこれと今度は長い文を書き綴り、おや何だか今回は上手く言葉が使えたなと思ってようやく、己の姿が昼姿に変じておられたのを知って、

「今、朝か!」

 と、遠野におられる御友人からうつった口癖を呟き、愕然とされたのでございます。