つい夜を徹されてしまわれた若君は、それでも学校に赴かれました。
 いつもよりやや不機嫌な若君の御様子に、ご学友たちは「及川さんが居ないせいかな」などと囃し立てましたが、まさにその通りと言うことはできず、弱ったように笑われて、何も言い返せないで心に鬱積していかれる何かはそのまま、授業中であろうとノートとあわせてつらつら綴る文にぶつけられ、授業が一つ終わるたび、もうささ美だけではなく、カラスならば誰でもかまわないとばかり、一つ、また一つ、今度は二つと、多くの文を書き上げられたのでした。
 梔子の花を寄越した以降、いっこうに返事を寄越さなかった雪女も、数多くの文や和歌、添えられた花などの攻めに折れ、ようやく再び返事を返してきたのが二日目のこと。

 その頃には、三羽烏だけでは手が足りず、浮世絵町のカラスたちにすら文はたくされて、富士樹海の雪屋敷まで、カラスの群れは横断したのでございます。
 ――― カラスの渡り鳥化?!
 などと、新聞に取り沙汰されたのを、容赦無き若君はしっかりマスコミ査定に考慮されました。

 しかし女から届いた文の内容は、もうこのまま消えてしまいたいという哀れな内容でございましたので、今会いに行ってその場で自害などされてはたまらぬと、今度は優しく、下手から絡め取るように心を尽くして言葉を重ねます。これが四日目あたりまで続きました。
 やはり授業が終わるたびに、カラスに文を託します。
 この花を途中で手折って添えるように、あの枝を途中で手折って添えるようにと申しつけが入りますので、文を届けるだけでなく、花や枝を探す任も間に挟みます。

 カラスたち、何度も何度も往復してはさらに行けと言われるので、もうボロボロです。

 五日目。この一週間近く、礼儀正しい頼れる奴良君が、あまり授業に身が入らない様子で ――― きちんとノートを取っているし、宿題もやってくるんですが、授業中なのに机の上に硯と筆を置いて、綺麗な和紙に達筆であれこれさらさら綴っていて、ノートを取るのはあくまでそのついでに、筆文字でちょいちょいと√やxuzや放物線を描かれたり英単語を綴られたりしている程度なので、さすがに先生たちの職員室でも話題になりました。
 担任の先生がまだ若かったので、貫禄のある日本史の先生が申し出て、「おい奴良、この一週間お前、なんだ、忙しそうにしてるけど、そういうことは学校終わった後でやってくれねえかなあ」と冗談を交えて指摘すると、若君ときたらこの五日間ろくに寝ていなかったので、今が昼なのか夜なのかもろくに判じておられぬ様子で、

「先生、ご存知の通り、オレ忙しいんです。内申書とかどうでもいいんで、放っておいてくれ。授業はちゃんと聞いてるよ、心配すんな。耳と手は別物だ。というわけなのであまり気にせず授業を続けてください先生。あと黒板に書かれてる応仁の乱の年号間違えていませんか」

 穏やかな琥珀の瞳に剣呑な瑪瑙の光を一瞬燈らせ、きっぱりと言い放たれておしまいになったものですから、可哀相に、優等生の見慣れぬ様子にこの先生すっかり落ち込んでしまいました。
 日本史先生で駄目なら仕方ない、奴良君のことだから心配はあるまい、しばらく放っておこう。
 というのが、先生方の結論でございましたし、今まで見たこともない《良い奴、奴良くん》の不機嫌顔に、学友たちもびっくりして、何があったのか聞いてみようかとも思いましたが、先生と同じように「放っておいてくれ」と、あの奴良くんに低い声で言われたら、立ち直れないような気が致しましたので、遠巻きに見守るしかありませんでした。
 いつも奴良くんに昼食のパンと牛乳の御使いを押し付けている二郎君までが、自ら奴良くんの昼食の御使いを請け負ったぐらいです(「……なあ奴良ぁ……昼、弁当無いんなら、買ってこようかぁ……?」「ハムサンドとパスタサラダと伊右衛門のあったか〜い」「わ、わかった、行ってくる!」)。

 いつも押しの強い清継氏が、下手に出て今度遊びに行っても良い日のお伺いをたてたくらいです(「奴良君!今日は君の家で清十字怪奇探偵団を」「駄目」「課外活動として行おうと」「駄目」「思ったのだ」「駄目」「けれど」「駄目」「……駄目かい」「駄目」「……そのう……良くなったら、教えてくれたまえ」「うん、わかった」「そ、そうか、わかってくれたらいいのだよ!はっはっは……」「………」「はは……」「………」「……その、いつもお邪魔して悪いね」「うん」)。

 奴良家の事情を知る花開院の女陰陽師とて、一度は友人の契りを交わした若君の荒れようを心苦しく思ったらしく、何か悩みがあるのかと問うてきたほとです(「奴良くん、なんか悩みでもあるんか?妖怪がらみで、何かうちに手伝えることやったら……」「あ、ゆらちゃん、いいところに!知ってたら教えてほしいんだけど!」「う、うん、妖怪のことなら何でも聞いてや」「雪女の好物とか、好きなものって無いかな。ほら、猫にマタタビみたいな!」「……かんにんな、奴良君。うち、力不足やわ。ああ、もう全てわかってしもうた……アホらし」「え、どうして目を逸らすの?!」)。

 幼馴染のカナは唯一、そんな奴良くんが、最近人の嫌がることを進んでするようになった若君ではなく、以前からの自然な姿であるような気もいたしました。
 しかし、その自然な姿の幼馴染を見ると、最近は常に陽光のようにあたたかく笑っていたのが、不機嫌そうに眉を寄せて時折筆の柄でこめかみを掻いたりしているので、この男の素の姿を文に綴らせて受け取っている幸せ者は誰なのだろうか、もしやと思うと、もやもやとしたものが心の内に沸き起こって、何もいえません。
 ただ心配そうに、ほんの少しの妬ましさも込めながら、放っておくと昼休みの終わりにも気づかず屋上に居たままになりそうな幼馴染に、「もう昼休み、終わるよ」と時を告げたり、「次は理科実験室だよ」と、教室に置き去りにされても気づかなさそうなところを連れ出したりと、世話をします。
 カナだって知っています。この幼馴染が実は良家のお坊ちゃんだと言うこと。
 門構えからして立派なお屋敷にお住まいで、お屋敷にはたくさんのお手伝いさんがおり、そのせいか幼馴染は小さな頃、優しいのは今と同じなのですが、やんちゃの上にどこか当たり前のように人を見下したところがあって、カナも少し怖いと思うことだってありました。
 今でこそ人を見下すことはありませんが、こうして、ちょっとしたことで声をかけ手を引かれ案内されるのを当たり前のように思っているところがあるので、そんなカナへ礼の一つもありません。むしろ、ずっと書き綴っている文の続きを考えているのか、歩いている途中ですら上の空。この幼馴染へ、それはあの立派な門の外ではおかしなことだし、御礼くらい言いなさいよと言ってやると、若君はようやくそこで目覚めたような顔をして、慌てて詫びと礼を言うのでした(「もう、リクオくんたら、ずうっと、そればっかり!そんな風にずうっと不機嫌そうな顔してるんだったら、私もう知らないから!」「え?あ、ごめんよカナちゃん。ちょっと考え事してて……あはは、はは。いつもありがとう、本当に助かってるよ」「うん……わかればよろしい」)。

 こんな具合で、知らず知らずのうちに人間どもすら巻き込んで、若君と雪女の痴話喧嘩は七日に及びました。
 この間も、多くのカラスは羽根を痛め、カラス天狗たちに口々に訴えました。

「もー無理。絶対無理」
「無理無理無理無理絶対無理」
「サービス残業にもほどがあるって!何このいきなり繁忙期?!」
「増員は無いんですかぁ?ローテーション組むにしたって、この体制無理ですってぇ」
「あー……いつものルーチン終わってないぃ……そろそろ寝させてぇ……」
「黒羽丸様!お忙しいところスミマセン、陽炎町のはぐれ妖怪が徒党を組んでいるという噂が。数人カラスたちを回さないと、あいつ等好き勝手しますよきっと」
「えーーーーッッ、誰やんのよその仕事!」
「あの……育児休暇、そろそろもらえるはずなんですけど……」

 そこを何とかと宥めて来た一週間です。
 カラスたちがおざなりにしてしまった分の仕事は、三羽烏たちが余分に負います。三羽烏の中の次兄と末妹がこなせなかった分の仕事は、黒羽丸が余分に片付けます。
 ローテーションもシフトもぐだぐだです。
 あったはずの有給休暇にはサービス出勤です。

 そして黒羽丸は、ささ美が力尽きたとき、例の決断をしたのでございます。


+++


 奴良組若頭、カラスたちの苦労も知らず、今日も唸りながら、部屋であれこれ文を綴っていました。
 そこへ、父との別れを済ませてきた黒羽丸が、高鳴る鼓動を平然としたおもてに隠してやってきます。
 しょりしょりと墨をほどく音を聞いたとき、ふと鼻がむずりとしましたが、連日の飛行で流石に体が疲れて風邪でもひいたかとぐらいにしか思いませんでした。鼻頭を押さえてくしゃみを堪え、襖の向こうから、「若、黒羽丸です」と言うと、すっかり信用された御様子で、「おう、入れ」と答えがありました。

 作戦は決行のときです。

「失礼いたします」

 す、と襖を開け。

「 ――― 悪いな、これから書くところで……って、わ、な、何しやがる黒羽丸!」
「失礼は百も承知。ご無礼には、この黒羽丸が責を負います」
「こ、こいつ、軽々と持ち上げやがって!男の矜持ってモンがオレにだって」
「はい、若は大きくおなりになりました。さすがにもう片手では無理です」
「姫抱きはやめろおおおおお」
「あまり口を開かれますな。舌を噛みますよ」

 黒羽丸は文ではなく、男君をそのまま抱えて、窓から空へ飛び立ったのです。

 男君の体に手をかけたときに、祢々切丸で真っ二つにされることすら覚悟してのことでしたが、抱えた男君は一瞬呆気にとられたものの、そうはなさりませんでした。幼い頃から少なからず縁があるとは言え、己のようなカラスの一羽に心を砕いていただけることに少し心をあたためつつ、一気に高度を上げます。
 どんな妖怪でも風に乗ればいくらかは飛べるもの、他ならぬ男君とてそうですが、雲に近いほど高く、そして速く飛ぶとすれば、鳥妖、それもカラス天狗の翼にかなう者はありません。
 仕方が無く、男君は黒羽丸の腕に体を預け、せいぜい粋がってのんびりと足を伸ばされました。

「で、一体どこへ連れて行く気だ?」
「このまま、雪屋敷へ」
「 ――― って、おい?!アイツはまだオレには会わんの一点張りなんだぜ?!」
「しかし若、このままでは浮世絵町中のカラスが疲れ果て死んでしまいます。実際に羽根を痛めて労災となった者もあります。トサカ丸は熱を出し、ささ美は先ほど昏倒いたしました。私も少し、風邪気味のようで。そろそろ、場をおさめていただきませんと」
「おさめるったって……文にも花にも心を変えず、詫びの品は突っ返してくる、手ごわい女を相手にどうやっておさめろってんだ」
「それは若がお考えになることで、私ごときが口出しすることではありません」
「こいつめ、他人事だと思いやがって」
「私の任務は、浮世絵町の警護と、若をお守りすることです。それ以外のことに、口出しすべきではありません、が……」
「が?」
「……いいえ、やはり口出しすべきではありません」
「おいおい、そりゃないぜ。口出しすべきでは無いんなら、こんな、一歩間違えば謀反と思われるような事だってすべきじゃねえだろう。今のお前は謀反人も同然だぜ?」

 男君は悪戯めいた口調で仰せになりましたが、謀反人という言葉は黒羽丸の端正な横顔に憂いを帯びさせるに充分なものでした。しかし後悔は無い黒羽丸、続いてこの謀反を起こさせる原因となった、可愛い妹を思い出します。

「 ――― ささ美なんですが、昔、あいつの機嫌を損ねてしまったときに」
「うん?」
「俺が悪かった、すまなかったとどんなに謝っても、臍を曲げたあいつは許してくれなくて。それで、悪いことだとは思いつつも、任務の途中で寄り道をしたんです。あー……寄り道と言うより、もう少し遠くへ。人に化けて銀座へ行きまして」
「お前が?!」
「ええ、流石に金沢まで飛ぶのは骨が折れるので、携帯のWEBで調べて同じ店舗がデパートにあるというので。俵屋という店なんですが、そこで飴を買いました。あれに言わせると、ダイエット中でもそこの飴だけは別格だそうで。それほど好きなものらしいんですが、ご存知の通り私たちはあまり人里に入りません。人に化けて翼を無くしては飛ぶこともできず、そうなると何の役にもたちません。そんなところを狙われては、ひとたまりもありませんから。人混みの中で突然飛び立つわけにも参りませんし。だから、あまり口にする機会がないんです」
「そうだろうよ。その話、親父さん、知ってるのかい」
「さあ。もし表立ってばれていたら、今頃勘当されていますよ。でもその甲斐あって、ようやく機嫌を直してくれました。その時言われたのが、その、絶対に決まりごとを破らないはずの俺が、そんな風に危険を犯してまで買ってきてくれたのが嬉しい、と」
「 ――― 惚気やがる」
「兄妹のことですから、若と雪女にそのまま当てはまるはずもありませんが、事前の約束を得てから会うのが本当のことだとしても、いくら言葉を尽くして許しを得ようとしても許しが得られないなら、いっそ禁を破って己の言葉で伝えるのも、手段の一つかと思うのです」
「言うねえ。まあ、確かにそろそろ乗り込んでやろうかと思ってはいたから、お前の謀反とやらはお咎めなしとしてやらあ。だがよ、ちょいとばかり、いきなり過ぎるぜ。前もって今日行くと言っておいてくれたら、簪の一つくらい買っておいたのに、今のオレはまさしく手ぶらだ。やれやれ、情けないにもほどがある」
「申し訳ございません。考えを進言するのは、本分ではございませんから」
「真面目だねえ。ま、そういうところ嫌いじゃねえや」

 男君は懐から煙管を取り出し咥えると、あとはこの些か唐突な空の旅を、愉しむことにお決めになったのです。
 風邪気味と言っていた黒羽丸ですが、それは自分でも気のせいであったかもしれないと思うほど、翼はよく風をつかまえました。大変よく晴れた日でございましたので、街の灯が眼下に広がる様や、その切れ目に真っ黒な影となった山々が連なる様がよく見えます。
 街がいかに明るくなったと言えども、やはり山奥にまで昼と変わらぬ明るさを持ってくる術を、人間どもはいまだ、持っていないのです。

 この影となった森の中。
 富士樹海へと、黒羽丸は次第に高度を落とし、やがてその中でぽっかりと口を開けた洞窟に滑り込んで抜けてしまうと ――― 真夏であろうと雪降り積もる、雪屋敷の里でございました。
 一飛びに里の上空を飛び、雪屋敷の周囲を旋回した黒羽丸が、さてどこへ主を下ろしたものかと辺りをうかがっている間に、主の方がどこへ降りるか定めてしまわれた様子。

「黒羽丸、あそこだ、あの丸窓の外庭に下ろしてくれ」
「正門からお入りになりませんので?」
「こんばんわ、お嬢様の夜這いに来ました、とは言えねえだろう」
「確かに」

 男君の仰せはいちいちごもっとも。
 ここまで来て、黒羽丸も礼儀がどうの何のとは言いません。言いつけられた通り、大きなお屋敷の東棟にあります、洒落た丸窓の外庭に、音も無く舞い降りて男君を下ろしました。
 往き降り積もる庭には、寒椿が咲いています。
 今は濡れ縁に誰の姿もありませんが、この椿や月を、丸窓の主はいつも眺めているのでしょう。

 男君が行ってしまわれる前に、黒羽丸は懐から可愛らしい小桜模様のちりめん巾着を取り出して、献上しました。

「先ほどの店の飴、私も懐に忍ばせているんです。飛ぶのは結構疲れますから。ちょうど一つ、封を切っていないものがあったので、差し上げます」
「お前、用意が良すぎるぜ。助かる」
「恐縮です」
「頼むから、オレが戻るまでそこで腹切ったりしてないで、どこかで温もっててくれよ。風邪気味なんだろう?里の外の妖怪街で何か食って、あったまってな」

 懐からこちらは財布代わりの紫紺の巾着を取り出して、そのまま放って寄越されます。
 返そうとするも、片手で制されて、仕方なく黒羽丸は押し頂くのでした。

「はい。二刻ほどでよろしいでしょうか」
「ああ、充分だ」
「ではその頃に、お迎えにあがります」

 己を奮い立たせるためでしょう、一つ息をつくと、男君は丸窓の部屋へ向かって、庭をさくさく歩いていき、濡れ縁に上がったあたりで、ほんのわずかな影を頼りに、月に群雲がかかるごとく、姿を消してしまわれました。
 これを見て、黒羽丸も庭から飛び立ち、安堵を覚えて富士樹海の妖怪街へと赴きます。
 もう何の心配もしておりませんでした。
 きっと雪女は屋敷へ帰ることになるでしょう。それも、もしかしたら今夜のうちに。

 あの女が会うのを頑なに拒むのは、会えばもう拒めないと誰より知っているからに他ならないのですから。

 黒羽丸、真面目で堅物で融通が利かない鉄面皮でございますけれども、奴良家の他の側近たちと同じように、この二人をあたたかに見守る気持ちはもちろんございます。気づいていないはずがありません。だからついつい、この夜は一人呟いてしまいました。

「 ――― 痴話喧嘩に巻き込むのは、よしてほしいな。犬も喰わないと言うが、カラスだってお断りだ」