「でね、その時リクオさまったら」
「私はその時リクオさまと」
「だけどリクオさまがそう仰せになるから」

 リクオさま、リクオさま、リクオさま。

 楽しげに話す雪女の向かいには、瀟洒な料理をあれこれ乗せた三の膳を挟んで、おっとりとした美青年が座している。
 長く腰まで伸ばした髪と目は、空を映した湖面のような碧色。
 やや目尻が下がっているが垂れ目というほどではなく、逆に人が良さそうに見えるくらいだ。
 丸顔でおとなしそうに見えるのだが、かつてはこれが大変な悪童であった。

 己の顔に騙されて近づいてくる女とはとりあえず寝る。翌朝には捨てるのは当たり前。気に入ればしばらくは側においておくが、飽きればやはり捨てる。親の威光を笠に着て、飲む打つ買うの生き方を続けてン十年という、筋金入りの道楽息子、だったのである。
 先程から雪女ときたら、己の主の話しかしていないのだが、これに全く気を悪くせずにつきあっている好青年の顔など、きっと油断させるための仮面に違いない………彼を知っている者がこの場面を見たなら、誰でもそう思ったに違いない。なにせ、沫縁湖の主の息子の道楽息子ぶりときたら、ここらではあまりに有名であったから。

 けれども、この料亭の大女将は、元服前から彼の事を知っているので、今夜雪女と二人、連れ立ってきた彼を見て、こう言ったのである。

「おやまあ、沫縁湖の若旦那、しばらく見ないうちにご立派になられましたねぇ、やんちゃしていた頃が嘘のようにお素敵なこと」

 そう。過去は過去。かつての話。
 妖に約束された長い生が、反抗期も引き延ばしたりしたけれど、沫縁湖の若旦那は過去のやんちゃを悔い改め、しっかり立ち直ったりしていたのである。
 それもつい最近、それこそここ数ヶ月の内の事だ。
 ただの気まぐれだ、もしくは周囲を謀る企みごとだ、本気だったとしてもすぐにまたボロを出し元に戻るに決まっている、あいつは芯から腐っているのだからと言う者も多くあったが、若旦那は厳しい周囲の声や目を黙って享受しながら、遅ればせながら父君から教えを請い、地道に己が預かるシマでの仕事を始めたのである。

 若旦那は幼い頃に、母の方を亡くしていた。
 抗争に巻き込まれ、儚く命を散らしたのである。
 家の者は不憫に思って甘やかしてくれたが、母を亡くした寂しさはなかなか埋められず、寂しさは苛立ちに、苛立ちは怒りへと変わって、これまで狼藉を働いていた次第。
 沫縁湖の主である父君も、息子を不憫に思って強くは戒められずにいたし、息子も息子で、母を守れなかったふがいない父に何かと反発し鼻で笑うような真似をしていた。
 不幸な土地神の家系は、今の主を最後に悪神へと転落するかと思われたが、あるとき、転機が起こった。

 奴良組三代目が、元服前でありながら若頭として本家を立て直すため東奔西走している、己よりも若く、幼い頃に父君を亡くされたにも関わらず、課せられた責を投げ出さずにおられるらしいと伝え聞いて、若旦那は奴良本家に興味を持った。
 最初は、どこまでやれるか見てやろうというくらいの、せせら笑うような興味であった。
 ほんの少し、父を亡くした本家の若頭に、己を重ねるような気持ちもあったので、傾きかけたとは言え、本家の血筋の若頭であるから近づいておいて悪いようにはなるまい、元服したあかつきには、悪い遊びに誘ってみようかとも思った。
 しかし文の一通も出さずにいるうち、浮世絵町は四国八十八鬼夜行の急襲を受けた。

 これは駄目だな、奴良組ももう終わるだろう。

 多くの土地神が感じた危機感を、若旦那もまた感じた。少しばかり他人事のようにぼんやりとしていたのは、沫縁湖が浮世絵町より北へ離れており、本家が四国の傘下におかれるにしろ皆殺しにされるにしろ、首から上が換わるような気持ちくらいしか、抱かなかったためだ。
 しかし。
 結果、奴良本家は、若頭が率いる百鬼夜行の勝利となった。
 貸元どものほとんどがそっぽを向き手勢を出すのをしぶる中、己と直に盃を交わした者どもなど、わずかな手勢を率いての抗争だったと言う。

 若頭は攻め込んできた四国を傘下に置きもせず、相手方の主の命も取らず、今後の仁義を約束させて手打ちにした。
 これを破って再び攻め込めば、非は四国にある。
 例えそれで打ち勝ったとしても、こそこそと卑怯なふるまいで勝利を得た四国に従う者などあるまい、奴良本家が絶えたとしても、貸元以下が従うはずもない。許す、そのたった一言で、若頭は今後の四国の動きを封じてしまったのだ。
 あるいは、何度攻めてきても勝ってやろうという豪気にも思えた。

 どちらにしろ、若旦那にとっては、頭を金槌で殴られたような衝撃であった。
 元服すらしていない若い妖が、己の腕を頼りに、攻め込んできた者たちから己の家を守り抜いた。

 それに比べて己は………。
 省みれば我が身が恥ずかしく、湖の底に寝そべってゆらめく湖面を見上げていると、映る己の、勇ましく見せるために派手に染めた頭髪や化粧などが気恥ずかしくなってしまい、以来、人が変わったように真面目になったのだ。

 縁談も本家へ仇なそうとか、近づいて食い物にしてやろうという魂胆からではなく、心底からそろそろ妻を娶り子をもうけて落ち着こうかと思ってのこと。
 しかしこのような放蕩息子に、一体どこの娘御が来てくれるだろう。
 悩んでいた矢先に転がり込んできた縁談に、一も二もなく若旦那が飛びついたのは言うまでもない。
 どういう相手でも構わない、とりあえず縁談は是非お願いしたいがお相手の娘御は一体どんなと訊いたところ、何と例の奴良組三代目を幼い頃から見守り支えてこられた守役で、今は側近頭を勤める雪の女怪だと答えがあって、若旦那はそれは願ってもないことと喜び、会ってみると凛としていながら少女のように愛らしい雪女であるので、遊び歩いていたときには寄ってくる女も目にとまる女も薄っ葉な印象を持たせるような者ばかりであったから、逆にかえって初々しく好ましく感じられた。
 本家のあれこれを話し聞かせてもらっても、雪女は流石は若君のお側で守役をしていただけのことはあり、なかなか話上手で飽きさせない。
 三代目のことは好ましく思っている若旦那は、雪女の話にうまい具合に合いの手も入れ、雪女も肩の力を抜いて己の勤めのあれこれを話して聞かせているうちに、今まで知らなかったひとだけれども、これから夫婦の縁を紡ぐというのはこういうことかもしれないと、思い始めていた。



 とまあ、こういう良い雰囲気を見定めたところで、三羽烏は慌てて引き上げてきたのだが、三羽が去った後、二人は料亭で美味い料理に舌鼓を打ちながらさらにうちとけて、ころころと笑い合うまでになっていた。



 酒も入り、話も弾む男女がいつまでも膳を挟んだままであるはずもなく、いつしか雪女は楚々とした所作ながらも銚子を膝に抱えて若旦那の脇に侍り、酌をしてやるほどには気を許していた。
 酒気にほんのり朱色にうつろいしうなじを、惜しげもなくさらし。
 話の途中で己がかしづく若君の、まことかしこき御姿を申し上げるその時には、少女のようなおもてに、時折、男を誘うような淫蕩な微笑を浮かべ、唇をぺろりと小さな舌で舐めて見せ。
 頬にかかった長い髪を、氷細工の指先で邪魔そうに肩に払えば途端、たゆたい鼻腔をくすぐる焚き込めた香の匂い。

 彼女自身が雪女の性に逆らえぬのに、どうして狙われた男がその虜となれずにおれようか。
 水と氷、近い種族であるために、立ち上る氷の妖気を若旦那もまた心地よく感じ、愛らしく妖しく微笑む女をいとしいとも思い始めて、このまま湖の底にさらってしまおうかと、悪戯な心が騒ぐのも無理からぬ話であった。

「でね、私そのとき、言ってやったの。おとなしくしてないと、包帯でぐるぐる巻きにしますよ!って」
「それは立派な姐さんだ。三代目もさぞかし驚いたことでしょう」

 機嫌よく話す雪女の話が一段落迎えたらしいところで、若旦那は彼女の頬に指先で触れ、長い髪をそっと耳にかけてやった。
 そこで、彼女は己と若旦那が、まるでしたしげな男女のようで、いくらまとまりかけた縁談とは言え祝言もあげぬ前から同じ畳の縁の内側で過ごすなど、はしたないことだと我に返り元の場所へ戻ろうともしたが、もちろん、許す男ではない。

 二、三、何事かを耳元に囁き、酒も入っていたし、三代目のためにも身を早く固めなければと思い込んでいたこともあり、雪女は、男の大きな手が頬を滑るのを、顎へたどり着くのを、眉根を寄せはしたものの、夫婦というのはこういうものなのだろうとさしたる抵抗も見せず、視線を伏せるだけでこれを許した。
 唇が、僅かに触れ合う ――― という、まさにその直前。

「お客様、お客様困ります、そちらは ――― 」
「うるッせぇ、引っ込んでろ!」
「ああ、ああ、駄目です、大事なお客様ですので ――― !」
「こっちだって大事な用があんだよ、退きやがれ!」

 スパーン!と、潔い音をたてて、この部屋の襖が両脇に退けられたからたまらない。
 触れ合おうとしていた唇はそのままの距離で固まり、二人は狼藉者を呆気にとられて見やって ――― かわいそうに、雪女は慌てて男から距離をとったが間に合わず、狼藉者の烈火のごとき視線に焼かれて身を小さくするのであった。

 狼藉者は己に取りすがっていた数人の、力自慢の男衆もそのまま、いやむしろ何か草の実でもくっついたかぐらいにしか気にする様子は無く、少々乱暴にぐいと引かれても長い髪を掴まれてもびくともしない。
 ぎらぎらと、紅を通り越して黄金に燃える、高熱の視線で女をじいと見据え、蔑むように顎をやや上向きに持ち上げすうと目を細めた上で、視線を男に移し、こちらは品定めをするように見つめた。
 それだけで沫縁湖の若旦那はごくりと喉を鳴らし、狼藉への苦情を言う気にもなれなくなった。
 視線だけで格の違いが判った。
 この相手が、妖気をおさえていないわけではなく、おさえようとしていて尚も、ほんの僅かに逃がす妖気がしろがねの髪を吹き上げ、己を威圧しているのだとわかって、どうして声を出せただろうか。

 相手が己を害する気はないようだとわかっていても、蛇に睨まれた蛙のように、若旦那はこの狼藉者を見つめ返すしかできずにいた。

「お楽しみのところすまねぇな、沫縁湖の若旦那。懐で飼ってた雪兎が、ちょいとした拍子に逃げ出して、アンタに悪戯していたらしい。それの飼い主はオレなんだ。無礼千万は承知の上、そいつは返してもらうぜ」
「な、何を仰るのです、こんな ――― このような狼藉をなさってただで済むとお思いですか?!一体誰がここを」

 気丈にも、言い返したのは若旦那から距離をとって、元の膳の前に場所を改めた雪女であった。
 普段なら、相手も彼女の言い分、口上を聞き取った上でふむと一考もしたろうが、なにせ場所も悪ければ時も悪い。

「うるっせぇ、女ァ黙ってろ」
「 ――― 」
「若旦那、この不手際は後でしっかり詫びを入れさせてもらう。いきさつも、そン時にしかと話そう。だがどうも今日はいけねぇ、頭に血ィ昇って、てめぇでてめぇが何しでかすかわかんねぇや ――― このままじゃその雪兎を焼いて食うだけじゃなく、湖の水まで干上がらせちまいそうだ」

 悪戯を咎められて唇を尖らせ守役女に可愛い抗議をしていたのは、今は昔の話。
 今日は低く静かに黙れと命じられ、雪女はおそろしげな主の様に、その場で平伏するしかなかった。
 己の縁談、己に非は無いと知りつつも、主が怒りに我を忘れておられるのでは、何を申し上げても聞く耳など持ってはいただけないだろうと、恐怖が彼女をあきらめさせたのであった。

 そう、この狼藉者は誰あろう、彼女の主であった。

 まずは主の狼藉を侘びねばと、小さく震えながらも若旦那に向き直り、このたびはこのような席を設けていただいたにも関わらずこのような事になって申し訳ないと口上を述べ、主の責ではなく己の責であるからと早くも取り成しをしかけたところで、両袖を払うような所作だけで己に組み付いていた男衆をことごとく払いのけた男君が、煩い小蝿が呻いて動かずにいる隙に、するすると部屋の中に踏み入り、彼女の細い腕を捻り上げてしまった。
 柔肌にぎりと爪を立てられ小さく悲鳴を上げた雪女が、たまらず腰を宙に浮かしたところで、軽々と男君は彼女を腕に抱え上げ。

「邪魔したな」

 その場で、するりと宵闇に溶けて消えてしまったではないか。

 ここで初めて、若旦那は今の狼藉者が、あまりに美しく怖ろしかった大妖が、ぬらりひょんの血族のそのひとだと悟ったのであった。
 それは彼を追って組み付いてきた男衆も同じで、三代目ともあろう御方のまさかの狼藉に顔を見合わせ、どよめき、この場をどう納めてよいものかと彼等が困っていたところで、いつしか廊下に若武者姿のカラスを従えた、こちらも見た目からして任侠そのもの、羽織を粋に引っ掛けた一人の男が立っており、許しもせぬ内にどっかりとその場に座り込んで、

「沫縁湖の若旦那とお見受けする。俺ぁ、関東大妖怪奴良組三代目が義兄弟にして、鴆一派を預かるモンだ。義兄弟の不始末についてはこの場で、俺が代わって詫びる。この通りだ。しかし、どうか事の顛末、聞いちゃくれねぇだろうか。こいつはちょいと厄介なところでな、大抵の医者は昔っから匙を投げる大病に、あいつもかかっちまってんのさ」

 と、驚きのあまり声も出ない若旦那を前に、宥めるような声で朗々と話し出すのであった。



+++



 ばしりと頬を張られて、雪女は畳の上に転がった。
 奥に使われていない座敷を見つけた男君が、彼女を放り投げるように畳の上に落とした後、呆然とする彼女を手の甲で打ったのだった。

 己で頬を押さえてから打たれたのだと判って、雪女は頬を押さえ、いわれの無い咎めに螺旋を描く瞳を困惑に濡らしながら、立ったままの男君を見上げて表情を伺うのだが、その瞳の色はいつになく熱を上げて黄金のまま、変わらずに己をあの蔑むような視線でとらえているとわかると、これがただの独占欲の類、気に入りの玩具に勝手に手足が生えて逃げ出したのを怒る類のものではない、もっと別の類のものであると知って、唐突に、おそろしくなった。
 初めて、この男の前で、身の危険を感じた。
 そうである、彼女をこの座敷へ連れ込んだのは、一人の男であると、迂闊なことに初めて彼女は思い当たったのである。

 かたかたと震える雪女に、いつもの主ならすぐ我に返り、赤く張れた頬を己の手で宥め、後悔を滲ませた瞳の色で一言すまなかったと謝ってくださるはずなのに、今日は、それもなかった。
 片手で己の上体を支え、主の視線を受けて震える娘の姿を一瞥し、主はなんとも気分良さそうに、フンと鼻でお笑いになり、雪女の細い手首をこつんと蹴って、彼女がたまらず畳の上に身を投げ出したところで、彼女の体の上に覆いかぶさってこられたのだ。

 炎は熱が高くなれば紅を通り越し、光に近い黄金色となる。
 雪女の主は、強大な妖気を身におさめていながらも、常はまろやかなる心に、全ての妖どもには眩しすぎる陽の気を帯びた炎を制し操っておられる。己の周囲に侍る妖どもを傷つけぬようにとするお優しさは、昼の若君でも夜の男君でも、姿変われど心はひとつ、変わらず在って皆を包み込んでいる。そうであるとき、風のごとき只人の目をすり抜けてしまうぬらりひょんの性質から、男君の瞳は流るる赤い血潮を映して濡れた紅瑪瑙のごとくだが、もったいなくも、雪女もまた常は庇護の下にあって氷のまま、溶かされもせず焦がされもせず在るがままなのを許されてもいたが、今日は違った。
 逃げようにもおそろしさのあまり、金縛りにあったように身動きすらかなわぬ。
 喉元をぐいと力任せに押さえつけられ、呼吸すらままならないのでは、氷の息吹を吹きかけて、いつもの主に戻っていただこうと試すこともできない。
 もっとも、おそろしげな瞳に魅入られて、息をひゅうと吸い込んだまま吐くのを忘れているのでは、例え喉元を掴まれていなかったとしても、唇は震えるばかりであったろう。

「おめぇは、誰のモンだ。言え、雪女」
「わ、若様………三代目のものです。いついかなるときでも、未来永劫に」

 主は不気味なほど静かにお尋ねになり、雪女は即座に申し上げた。
 嘘偽りはなかった。もとより、嘘や偽りを言える妖ではない。
 喉元を押さえる手はしかし、搾り出すような彼女の声に緩むどころか、もう少しで互いの唇が触れ合う場所まで近づいた男君の目は、いよいよ険しい。

「違う。おめぇは、まるでわかってねぇ」

 言われて、雪女は混乱する。
 何故。どうして。この忠義は嘘ではないのに。
 この心が偽りなど産めぬと、誓いに背こうものならその場で雪塊になって絶えてしまう身分であるのに、それも主はご存知であるはずなのに、何故。何が違うと。

 答えは、間もなくあった。

「若様だ、三代目だ、そんなハリボテにくれてやるつもりは毛頭ねぇ。お前はオレのモンだ。何があろうとオレのもの、オレが身代投げ出して、一人ふらりと姿を消そうが、お前だけは誰にもくれてやらねぇ、お前の幸せを祈ってやりなどしねぇ、どういう道筋を辿ろうと、お前はこの奴良リクオと地獄へ行く身だと決まってんだ。
 他の野郎との縁談なぞ、許されるとでも思ったか。何を甘えていやがる」
「しかし、カラス天狗さまの仰せも、一理ある、と」
「どうして他の野郎の言うことをほいほいと聞く。他の野郎のものになろうとする」
「……ッ。若は……リクオさまは、お優しいから、いつも、いつも庇ってくださいますけど、これからもそればかり頼みとするわけにはいかないじゃないですか。リクオさまが悪し様に言われるのを聞いて、楽しく思うわけがないじゃないですか。いつまでも守役女にべったりはよしていただかなくてはならぬと、カラス天狗さままでがそうお考えなのですよ、他の幹部衆や貸元代貸にいたっては、又聞きが繰り返されて一体どんな噂になっていることやら、おそろしくて想像すらしたくないじゃないですか」
「なんだ、そんなにオレにべったりされるのが嫌だってかい。ご愁傷様なこった、そんな嫌で嫌でたまらねぇ奴に、十三年もてめぇはべたべたされてたってわけだ。へーぇ。ほーう」
「違う、違います!そんなんじゃない!私がいつまでも独り身で浮ついているから、そんな風にリクオ様が悪く言われてしまうんです。リクオ様にまでご迷惑をかけてしまうんです。そうじゃなくて、女だてらに立派な任侠だと思われなくちゃならないのに。そうなれば、リクオさまの守役としてじゃない、側近頭としての私が認められるようになれば、リクオさまだってそんな風に悪く言われないはずなんですもん。沫縁湖の若旦那さまは、結婚しても私が本家勤めを続けるのをそれでいいって仰って下さっていますし、それならリクオさまの御側を離れずにすみますし、だから、だから」

 主の怒気にいちいち身を竦ませながら、懸命に変わらぬ忠節をお伝えせんと、か細い声で訴えていた雪女の涙腺は、ついに決壊した。
 こんな風に泣いてしまったなど、口さがない連中に知られてしまったなら、また、己を側近頭などに据えた三代目に、何を考えているやらとまたも主を軽んじるような物言いを、陰でこそこそとするに違いないのに、それが嫌でたまらず、誰でもいいから嫁いで身を固めてしまおうと思っていたのに、いざ主を目の前にすると、そのひとの姿形も声も心も、紛れもなく彼女が愛した男君であるので、聞き分けの無い少女のような心が顔を出してしまうのだった。

 守役であっても、従者としてでも、女としても。
 この子の、この主の、このひとのものでありたい。
 分不相応に願う聞き分けの無い少女が、雪女の凍った身の内に産声を上げて泣き喚くともう、雪女自身ではどうすることもできない。

 いっそのこと、己の喉が主の大きな手で潰されて、産声ごと殺されてしまえばいいのに。
 いっそ他の男のものになる前に男君の手で絶えることが許されたなら、こんな分不相応な悩みに胸を痛ませることも、己の後ろ盾のなさに心細く思うこともなかろうに。

 組み敷かれたまま、ついにすんすんと泣き出した雪の女怪を前に、彼女の喉元を掴んでいた主の手が、ぴくりと引き攣った。

 昔から、この女の涙だけはいただけず、どんなに腹が立っていてもそれこそ氷水を浴びせられたように我に返られたものである。
 主命に背くなど考えられぬ女がこうして泣くときは、どこか己にいたらない、いけないところがあって、女が命を賭けてでもそれはならぬ道にもとると教えてくれるときか、あるいは酷いことをして哀しませてしまったときかであったから。
 けれども、もう違う。今の主はもう、この女の守子ではない。
 今も、己の言うことに間違いがあったとは思われていないのだった。
 そうは思えない、思いたくない、認めたくない。ただ少し、そうほんの少し、荒々しいに過ぎたかもしれぬとだけは思い直され、爛々と輝く瞳を閉じ、一呼吸置かれた。

 次に目を開けたときには、再びあの優しげな、とろりとした血のように甘い、紅瑪瑙の瞳となって、

「馬鹿。そんな気は今後一切使うな。てめぇでてめぇが今は立派な任侠とは言えねぇ、だから男の力を借りるのだなんて、簡単に諦める奴に側近頭を任せた覚えはねぇ。力を借りるんじゃなく、利用してやるぐらいの気構えがねぇから、ああだこうだと言われるのが気にもなるのさ。だから、一番肝心なことを忘れちまうんだ」
「……一番、肝心なこと、ですか?」
「何度も言わせんな。てめぇは誰のモンだって、そういう事だよ」

 首を押さえつけていた手で、今度はほろりほろりと零れる霙の涙を愛でるように撫でて下さる。

 果実が熟れて落ちるように、打たれた頬の痛みさえ甘く痺れて、今はそっと撫でられくすぐるように唇で触れられて、絡めとられぬわけもなし。
 地獄へ行くぞと言われれば、はい主さまと喜んでついていくのが百鬼の下僕。
 雪女にいたってはそれに加えて、主に不埒な(と、己では思っている)恋心も抱いているのだから、屋敷の何を置いてもお前だけは連れていくと言われ、嬉しくないはずはない。
 これまで、カラス天狗に叱られることや、主によからぬ噂がたつことばかりを気にしていたせいで迂闊にも思い当たらなかったところ、つまり、毎週のように駆け落ちするたび、繰り返されたちょっとした出来事を思い出すや、輪をかけて嬉しく、地獄どころか天に昇ってしまいそうな心地である。

 毎週のように、主は着の身着のままでお出かけしようとなさり、雪女だけを供につけた。
 他に何かお持ちにならないのですかと訊いてみても、要らぬ、と仰せなのだ。
 駆け落ちである。
 屋敷にあるのは奴良組のものである、だから持ってはいけぬと。
 気取ったことを仰せで、結局はあれこれ細々としたものを持つのがお嫌なのだろうと慮り、あれこれと主の身の回りのものをご用意するので忙しかったが、今考えてみれば、あれは。

 昼と夜とで、にこにこしていたり、ぶっきらぼうであったり、表情は違えど言うことは同じで、雪女ときたら頭から三代目の悪ふざけだと思いこんでいたために、これまで思い当たらなかったのだが ――― 一連の駆け落ちごっこに供を許されたのは、己だけだった。

 今考えてみれば。少しだけ、自分に都合の良いように考えてみるとしたなら、あれは。

「あ、あの、あの」

 降り注ぐ口づけと、羽のように優しく触れてくる指先に、螺旋を描く瞳をぱちぱち瞬かせながら、雪女は主の胸元を、そっとつかんだ。
 無礼にならぬ程度に、ほんの少しだけ。

「なんだい」
「あの、私」
「うん?」
「………勘違いをしても、いいのでしょうか」
「勘違いじゃ困るぜ」

 しかと、わかれ。

 耳元に囁かれ、ぞくりと、身を震わせた雪女。
 強く抱かれて、ここがどこなのかも、今がどういう時なのかも一瞬忘れかけた。
 けれども、次に耳に届いた、しゅるりと帯をほどく音が。

「………わ、若、あの、何を」
「女の帯をほどいてすることと言やぁ、一つしかねぇだろ。他になんかあんのかよ。絵に描いた餅じゃあるめーし、見てるだけなんざ御免だぜ」
「い、いけませんッ。若はまだ……!」
「元服なら済ませたろうが。お前の前にいるのは、お前に飢えた雄が一匹」
「お昼間は人間ではありませんか!後悔しますよ!絶対!ええ絶対!つららには分かります、明日の朝になったらぜーったい、若ってば顔を覆って『なんてことしちゃったんだごめんねつらら悪かったこの通りだ』って土下座までして言うに決まってます!言われる方の身にもなってみてくださいようぅ想像するだけで情けないったらもう……。ね、だから、もう、わかりました!つららは心の底から反省いたしました!私はいついかなるときでも、未来永劫、リクオさまのものでございますであります!このたびの浅はかなふるまいについては、誠に申し訳ございませんでしたあああああッッ」
「うっかり者のお前だから、今はわかった気になっても、どうせすぐに忘れちまうだろう。だったら思い出せるように、体の方にもちゃあんと教えておいてやる。どっからどこまでがオレのモンかって線引きを、じっくりと、とっくりと」

 叫んで非礼を詫びても、彼女の主は何処吹く風で、帯を解いた胸元に何やらを見つけると嬉々とした様子。

「氷苺みっけ」
「若あああああっっっ」
「お前な、ちったぁそれらしい声をあげねーか」

 我に返った雪女の前で、胸元に零れ落ちていた涙の粒を舌先で拾い上げ、それはそれは美味そうに喰ってしまわれる。
 喰う前に、歯で挟んでこれみよがし、赤い舌に溶かされていく様を見せ付けてこられるので、己の身から零れたものが溶けていく様に、あさましく淫らな様子を思い浮かべてしまった。

 かあと目元に熱が上がり、ぴくりと体が打ち震えれば、女の思考を読んだ主の喉奥から、酷薄な笑みがこぼれる。
 女が感じた嫌な予感はこの場合、卑しい期待によく似ていた。
 本当にならないうちに、これ以上はと身をよじって逃れようとするも、許されない。
 青ざめて、これ以上主にご迷惑をかけてはならぬ、今はこれで良いと思われても、人の常識に照らされる朝になればきっときっと思い詰めてしまわれるのだからと、やや往生際悪くあがいてもみるが、これも無駄であった。

 目元を舐めて涙を喰らわれていた唇が、次は先ほどまでご自分の手で押さえつけていた己の喉元に落ち、嗚呼、と、陰が落ちる天井を見上げながら雪女は、これから己は主に食われるのだと、打ち震えた。
 何を言っても無駄ならば、どうしてそれ以上の抵抗ができたろう、最初から、己は主の獲物であったというのに。
 卑しい期待が、今度こそはっきりとした歓喜に変わるのを、女は自覚した。

 主の肩にしがみついた己の手が、主を遠ざけたいのか、抱き寄せたいのかすら判然としなくなった頃、くつくつと機嫌よさそうにお笑いになる主の声を、木霊のごとく遠くに聞く。

「いい加減、覚悟を決めてオレのところへ堕ちてきやがれ、オレの雪女。
 お前を形作る指だろうが目ン玉だろうが爪先だろうが、お前のモンなんぞありはしねぇんだ」