昼の若君は愛らしく、いつまでも雪女の庇護を必要としてくださり、たまに甘えた様子も見せてくださるので、雪女としては情をかける対象として申し分ない。
 これ幸いと、雪女は凍てつく冷気のごとく若君を害するものを拒みながら、春が訪れるまで草花を深い雪の褥が守るごとくに、若君を大事に大事にお育てしている有様だ。過保護と貶されようとも、これこそ雪女の性であり、若君の御傍にある理由なのだから仕方が無い。

 対して、夜の男君はたくましくたのもしくいらして、最近は夜遊びまで覚えたらしいので、雪女としては頭が痛いところである。
 もちろん、昼と夜とで姿が違えど同じひとであるので、夏の盛りが過ぎれば元服を控えていらっしゃる方なのだからいつまでも膝に甘えさせておくわけにもいくまい、何かの拍子に人に見られて、あらぬお噂をたてられるのも主の本意ではなかろうと気を使い、昼の御姿がまだいとけなくお見えであるとしても、膝に甘えてこられるのを、何より自らに戒める意味で突き放したのも自分であるし、頭が痛いとは言え、妖怪の世に照らしてみれば不思議もないことだから、悩んでも詮無きことと諦める他はなかった。

 十三の年で妖怪は元服し、あとは身一つでどこへ消えようとも、個の意思として尊重される。その元服のときを数ヶ月先に控えただけで酒や女や煙管の味を覚えようと、これを叱る大人は妖怪の世界には無い。
 男君を叱る者は誰もなく、雪女もまたこれに口を出しはしないが、しかしそれでも、この長雨に辟易とした男君が夜の散歩へお出かけにならず、ご自分の部屋でくつろがれておられるらしいと誰かが噂しているのを聞けば、そうか今日はお部屋にいらっしゃるのかと嬉しくもなるので、ときを見計らって、欲していらっしゃるのではと思うものをご用意してお傍に侍った。
 誰がどこで見て聞いているかしらないから ――― 奴良家では、障子と思って手をかけてみると、格子を覆っていた障子紙が、寝ぼけた眼をぱちぱちとさせることなんて日常茶飯事であるし、あらここには布団をしまっておいた押入れがなかったかしら、と思って壁をくすぐってみると、ぬりかべが身をよじって飛びのくなんて、毎夜のことであるし ――― 一度己を戒めたように、べったりと甘やかすわけにはいかないが、かくも立派におなりの男君が、少しばかり唇を尖らせて耳が痒いなどと、あからさまな理由を仰せになるものだから、気の毒に思って、耳掃除をいたしましょうかと助け舟を出した。
 喜んで膝に甘えてこられるのも、そこでとろとろと浅い眠りを求められる様子にも、それはそれはもう、この上ないいとしさを感じるので、いつまでもこうしていたいと思うから、一度は己に戒めたとしても、ついつい起こす時間をのばしてしまった。

 今は少し、これを後悔する。
 何の戯れか、何度も語って聞かせた雪女の昔話をと求められ、畳に転がったまま動こうとされない主にこれを語ってお聞かせする羽目になり、しかしもういい加減にお休みくださいとここで突き放すには、久方ぶりに感じた膝の重みに、雪女の方が心を移してしまっていた。
 子供のように拗ねる主を一人残すには、どうにも後ろ髪が引かれて、請われるままに、つい昨年までの主には解せなかったであろう、雪女という妖の《畏れ》とはどういうものなのかを語り続ける。

 雪女の昔話をお聞かせすると、幼い主は、色々不思議にそしてあわれにお思いになるのか、物語の最後になっても、「その先はどうなったの」と、寝床の中から雪女の袖を掴んで離さなかったものだ。
 もちろん、お話の終わりの後に、さらなる続きがあるはずもなく、それを言って聞かせると、主はそれじゃあこれだけは、と、きまって尋ねてこられた。


 雪女、ボクの雪女は消えたりしない?


 あの頃とは違えども、やはり主は今も、雪女が終えようとした昔語りを許さずに、「それじゃあよ」とお続けになる。

「オレはとっくに、お前の《畏れ》にしてやられてるんじゃねーか。取り返しのつかないこととやら、どういうもんだか楽しみだねぇ」

 からかうように仰せになるものだから、馬鹿を仰いますな、と、これもまたあの頃といくらか調子は違えども、昔お育てしている若君をたしなめていたように、雪女は重ねて申し上げた。

「若と結んだのは、主従の盃。昔話の樵と雪女が結んだのは、夫婦の盃。比べるものが違います。昔話には、続きがありましたでしょう。ある雪の日、しんしんと降り積もる雪と、いつまでも変わらず美しい妻を見ていると、樵は昔のあの夜のことが思い出されて、『そういえば昔、こんな雪の降る日に、オレは雪女に会ったんだよ』と、昔のことを話してしまい ――― 」
「妻は、自分こそがその雪女であると正体を現して、『契りを破ったお前を、殺さねばならぬと思っていたが、子供等のことを思えばそれもできない。私はこのまま消えるが、子供等の面倒をよく見ておくれ』と言い残し、吹雪の中に消える……だろう?」

 そこで、終わる物語。
 幼い主の声を、雪女ははっきりと思いだすことができる。

 それからその雪女はどこへ行っちゃったの。
 その樵や子供たちは、どうなっちゃったの。

 続きをねだる小さな子に、さあどうなったのでしょうねえ、この二人はこれでお別れすることになってしまいましたが、私はずうっと若のお傍にありますよ、と柔らかく笑って言い聞かせると、いくらか安心されるのと、そして聡い心にこれ以上は尋ねてはならないようだと悟られるのか、やがて口を閉じて眠ってしまわれたものだ。
 だが、今の主は、あの頃の、幼いお方ではない。

「で、契りを破った代償は、連れ添った妻を、目の前で吹雪に連れ去られたことかい」
「いいえ、若。この雪女は本来、裏切りの代償に、命を求めるはずでした。しかし、雪女が男を殺さなかったので、男は何の代償も払わずに済んだのです。この話の雪女は、最後にして最大の自らの《畏れ》を、自らがかぶる羽目になったので、雪塊となったのでしょう。吹雪に連れ去られた、のではなく、文字通り、吹雪の中へ、消えてしまったのです」
「そりゃ、ひどい話だな。男を守ろうとしたばっかりに、手ひどい目に合わされたもんだ」
「そうでしょうか?私は、そうは思いません」

 雪女には、男だ女だと話してはいても、この話の中の二人の顔など想像もできないが、それでも、いとしいと思う情愛を主をお育てしてきたことで、いくらか共感できるようにはなったので、そこははきと言う。

「だって、そうまでして守りたかった相手を、殺さずに済んだのですから。そこまで愛せる人に、出会えたのですから。自らがかけた呪いを、自らが浴びることになろうとも、それで他の妖怪たちから、だから雪女は弱い妖怪なんだと笑われようと、そんな謗りや詰りなんてどうでもよくなるくらい、最後まで好いていられたんですもの」

 他の妖怪たちにはわからなくても、雪童の頃にはわからなくても、雪を纏う女になったなら、よくわかる。凍てついた体だからこそ、そっと抱き寄せてくれる腕があったなら、どんなにいいかと憧れもする。冬の只中に生まれた氷塊の身で、せめて心だけでも春を感じるためには、誰かを想うしか、ないのだから。

「誰かと契りを結ばぬ限り、効果を得られぬ《畏れ》など、役に立たぬとよく笑われます。何が最大にして最大の《畏れ》だ、それをかけようと狙っていた相手に情愛を移して役に立たぬのなら、いつもヒュウヒュウとやっている吹雪の方が、よほど恐ろしいじゃないかと。
 でもね、若、私はこれもまた《畏れ》だと、たしかに想うんです。話の中の雪女が、かけそこねた《畏れ》の方ではなく、それから男を救った方こそが、雪女の一番の《畏れ》だと。自らの呪い、つまり《畏れ》、それによって命を失うはずだった男を、自らが溶けてなくなろうとも消え去ろうとも、守って守って守り抜くのだと決めた心こそ、雪女の、一番の《畏れ》なんだと思えるんです。
 そうも無心に誰かに惚れぬくなんて、素敵じゃないですか。誰にもできることではないでしょう?派手な御業ではないですが、相手を滅する技でもないですが、これって、誇りにできることだと思います」
「 ――― さっきから黙って聞いてりゃあ、なんだ、ずいぶんと手前勝手な言い分、ならべやって」
「はい?」

 雪女自身が、最近になってようやく納得できた答えでもあったのだが、男君は何が気に入らなかったのか、先ほどまで子供のようにぶすっと拗ねて転がっていらしたのを、畳の上にごろりと横になりこちらへ向き直って、片腕で頭を支えながら、すうと目を細めてこちらを睨んでおられる。
 何か気に障ることを申し上げたろうかと、訝る間もなく、重ねて仰せになった。

「自分が消えてもいいと思うくらい、好いていた?男は何の代償も払わずに済んで命拾いし、めでたしだあ?そりゃあ、雪女としちゃ、大満足な結果かもしれないが、結局、男は置いて行かれたんだろーが」


 雪女、ボクの雪女は消えたりしない?


「お前な、よく考えてみろよ、雪女は消えてもいいと思うくらい、自分を全て捧げられるくらいに男を好いていたと言うが、男の方だってな、多分、惚れ抜いていたんだよ。多分、だけどな」
「どうしてそう、思われるんです?」
「だって、そんなに長いことともに暮らしていたら、いくらなんでもわかるだろう。うちの女房ときたら年はとらない、真冬でも平気で着物一枚で動き回る、夏はバテて滝の傍の木陰で涼めば出てきたがらない、湯気のたつ飯は避ける、作った飯は旨いが冷えてる、おまけに触ると冷やっこい、ってなもんだ。
 これで何も気づかず暮らしていたはずがあるか。約束していたから、女がばれていないと思い込みたがるようだから、口をつぐんでいたんだよ」
「では……何故、その口を、生涯閉じていてはくださらなかったのです」

 戯れに始めたはずの言葉を重ね過ごすうち、それまでは字面で「男が」「女が」と話すばかりだったのが、次第に、薄ぼんやりとした影絵のように形になって、雪女の脳裏に描かれる。あつかましいとは知りつつも、この影の「男」の方は、主の御姿によく似ていて、「女」の方は、雪女の姿形をしている。
 二人して夫婦となり、うちとけて子供までもうけて、過ごす日々はどれほど尊く、夫の隣で眠る夜、聞こえる寝息はどれだけいとしく、腕に抱かれて浅い夢を見るときのしあわせは、いかばかりであったろう。
 末永く続くことだけが、本心からの真の願い、唯一無二の大願であったろうに。
 話の中の雪女に共感して、少し恨めしい問いかけになったのも、仕方が無いことだった。

「それはお前、わかりきったことを訊くな。この男が人間だってということを、忘れちゃいないか?前にも言ったろう、人間ってのは、平気で嘘をつき、契りを破り、他も自分さえも欺く業の深い生き物だと。とは言え、この場合は、そればかりが理由でもなさそうなんだがなぁ」
「理由はどうあれ、そういう生き物だから、つい約束を破ってしまったと?」
「いやいや違う、男は知っていたんだ、恋女房とてめぇの、命数の違いってやつをさ。
 女房が十人も生んだ子供が、全員年子とは限らねえだろう。もしかしたら一番上のガキはとっくに、男なら嫁をもらい、女なら里へ嫁に行っていたかもしれない。それくらいの年が経っても、女は尚、匂いたつように美しい。かわって手前の方は、年相応に老けていく。女の正体なんざ、とっくに見抜いてる男だから、女がいつまでたっても変わらないのに驚くこともないだろうが、しかし里の人間どもが感づいてはややこしいことにもなろうから、里に降りようともせずに、一人で樵を続けていたんだろうよ。
 雪女の寿命ってのが、いつ頃尽きるもんなのか、気にしながら」

 いつしか語り手と聞き手を代えて続く昔語りに、じっと聞き入る雪女の中で、もうこの男の姿は影絵などではなく、苦楽も喜怒哀楽も春夏秋冬もともにした、いとしいひととして、今度こそはっきりと男君の姿になっている。
 今よりもう少し大人びた、男君の隣では、今の己と寸分違わぬ姿をした雪女が、今の己と同じように、情を移したひとのそばに侍る喜びでいっぱいになり笑っている。とても幸せな絵のはずが、何故だろう、少し切ない心もちもする。

「でな、男は女に尋ねてみたんだ。雪に命数があるとしたら、それはどんくらいのもんなんだろうか、とな。別に、それくらい、構わないだろう?雪女に会った、という話を口にしたわけじゃねーんだし。ただ知りたかったのさ、手前の命数が尽きた後、手前は三途の川のほとりで、どんだけ女房を待てばいいもんなのか。どれくらい待っていれば、また一緒になって、あっち側へ渡っていけるのか。
 そこが黄泉の国なのか、来世なのか知らんがよ、現世に女房残したまま、しかもその女房が人ではないもので手前がただの人であるなら殊更、黄泉返りの術を知っているわけでなし、黙って逝けるわけがない。そこのところはっきりさせておかないと、仏にもなりきれんだろうが」
「雪に、命数などございません。富士の霊峰や森の奥でひっそりと生まれる私たち、たとえ元の氷塊に戻るときがあろうとも、季節が巡れば、また雪は降り積もるのですから。
 ……でも若、それじゃあ、雪女の方だって、わかってしまいますよ。この男は自分に気づいているって」
「ああ、そうだろうなあ。気づいていたんだろうなあ。お互い気づいて、気づかれているのも気づいていて、それでも傍にいたかった。だから、正真正銘、この男と女は夫婦だったのさ。人と妖、奇縁だが、無い話ではないだろう?
 そして男は、今のお前が答えたのと、そっくりそのまま同じことを、女房の口から聞いたのよ。困ったことだろうよ、悩んだだろうよ、手前はたかだか五、六十年そこらの命。それも大半は使い切っちまってるってのに、女房の命には限りがないも同然。手前が死んだ後せめて、別の男のもとへ行くなり、山へ帰るなりして忘れてくれればいいが、契りを交わした女房が、そんな当世風の女のような、あつかましい顔ができる女だとは思えぬとくれば。
 手前が死んだ後、女房は変わらぬ姿のまんま、現世のある限り手前に操立てして、手前を恋しがって泣くのかと思うとよ、嬉しい気もするが、しかしそれ以上に、あんまり哀れだろうが。こちとら来世があったって、そこへ現世の縁を持っていけるとは限らない、儚い浮世の身ってヤツなんだ。
 困り果てて、手前が住む山に、ちらほら見かける、人でもなく獣でもない、にぎやかな小物妖怪どもにでも、相談なんかをしたかもしれんよな。不思議はねえさ、雪女を女房にして、人里離れた山奥に住む男なんだ、そういう話し相手がいたって。
 例えばだ、斧を振るう音にのせて呟いてみたら、山奥から木霊が呟き返すついで、気まぐれに教えてくれたかもしれないだろう」
「木霊が何を答えようと、一度契ったものを、なかったことにはできませんよ。ただの人である人間が、外道に堕ちぬ限り、命の限りを失くすこともできません」
「そうそれ、外道に堕ちれば妖にもなれる、しかし、そんな手前は、女房が好いてくれた手前ではないからこの道は選べない。それじゃあよ、男の方から契りを破ったら、雪女はどうするんだったい?」
「ですからそれは、その男の命をもって、償わせるつもりだったと」
「そいつもわかってる。その男もわかってた。だが、あいにくと、その野郎が心配していたのは、手前の命のことじゃねえ。こっちが先に契りを破れば、女房は契りから解放され、御山に帰れんのかいと、そいつが心配だったのさ」

 昔話の中の夫と、同じ姿をした男が、ねそべりながら雪女の頬へ、そっと手を伸ばしてくる。
 これにそっと頬を寄せ、妻として契りを結んだ女の心を思いだすように、ぽつりと雪女は呟いた。

「いいえ、契りは、なかったことにはなりません。雪女は、契り交わした男に、その男と口吸いを交わすたび、知らず知らず六花の露を含ませます。契りを守っている間、この露は何の悪さもせず、むしろ男を病や怪我から守るまじないとなります。
 それが、裏切りのときに雪女がふうと息吹を吹きかけてやると、いっせいに芽吹いて心の臓を中心に体をたちまち凍てつかせ、男の体はそのときの姿のままで、氷の棺で時間を忘れ、眠り続けるのでございます。まじない、とは、呪い、と書きます。まじないそのものに、良いも悪いもありません、これをかける者、かけられる者の心一つで、良くも悪くもなるものです。
 さて、こうすると、男の体は土に還らず、魂もこれに閉じ込めておけるので、これぞと決めた男をこのように我が元へ置きながら、雪女は長く虚ろな生を、慰めるのですよ」
「そいつがお前の言っていた、『取り返しのつかない』ことかい」
「はい。ですから、若、これから、三代目をお継ぎになれば、あちらこちらから袖を引かれることもあるでしょうけれど、こんなまじないの形もあるのですから、どうか軽はずみなことは ――― 」
「ははあ、なるほど、ようやくあの話の男が契りを破って何をなそうとしていたのか、合点がいったぜ」
「え?」
「どうしてわざわざ自分から契りを破るのか、どうしてもっと傍にいてやろうとしないのか、これが昔っから不思議だったんだ。しかし、それを聞いてようやくわかった。なるほどなあ、そういうからくりかい」

 なるほど、なるほど、と、しきりに男君は感心しておいでになる。
 何のことかわからずに、雪女が小首を傾げていると、これを愛でるように、雪女の目元を撫でてこられる。どうしてまたそんなに頬や目元を撫でてこられるのか、雪女は不思議でならないが、ここまで夜長を供にすれば、主の言う話を最後まで聞いて、それから下がっても同じだろうと思い、その間くらいならばと、身をまかせた。

「木霊に教えてもらったのかもしれないし、山奥で百鬼夜行が宴を開いていたときに、妖怪のふりをして近づいて、聞き出してきたのかもしれない。そのまじないとやらを、男は誰からか聞いて、決めたのさ。 
 男は女房が来ない限り、三途の川を渡るまいととうに決めている。川のほとりで来ない女房を待つぐらいなら、何の因果かこんな命数の少ない手前一人と決めてしまった、あわれな女房のなぐさめに、氷付けにでもなんでもなってやろうと、さ。夫婦として日々を暮らしていたときのように、口をきくこともできなければ、抱き寄せてやることもできないが、しかし何か一つ形見を置いてやれるとしたら、これ以上のものはないだろう。せめて、傍にはいてやれる。ずうっと、ずうっとだ。
 それで、心に決めたことを、迷った末、子供たちが寝静まったある冬の日、変わらぬ姿の女房を前に、告げるのよ」

 たぶん、昔話の男は、目の前の男君がしていたように、目を細め、やわらかに笑ったに違いない。男は男君よりも、もちろんもっと老けていたろうが、もし黒髪に白いものが目立ち始めていたなら、それだけ長い間ともに居た証であったろうし、もし目元に皺があったとすれば、それは二人でそれだけ笑い合った証であったろう。
 やがて、男君の姿形と声を借りて、この男は、妻に優しく語りかけた。

「 ――― お前がともにいてくれて、本当に、夢のような日々だった。お前が道に迷ったと、この山小屋の戸を叩いたときから、オレには家族ができた。本当に嬉しかった。お前にとっては、たよりない男と思うこともあったかもしれないが、お前が傍にいてくれたから、家に帰ればお前がいてくれると思ったから、こんなオレでも強くなろうと思えた。お前が守ろう守ろうとしてくれるとな、たいして信心深くもないオレに、どんな神仏が力を貸してくれるのか、面白いことにいつもよりも力が漲ってきて、逆にお前を守ろうと思えたものなのよ。
 お前がどこからここへ来た女なのか、オレはわかっているつもりだ。どんな宿縁があってここに留まってくれていたのか知らないが、本当に感謝している。心からお前を好いている。お前とともにいたい、お前とともにありたい、来世があるなら、そこでもと契りたい。
 哀しい顔をするな、お前が人の世の来世に契りを結べるモノではないと、知っているのだから、強いる気はない。
 オレが唯一、心に残ることがあるとすれば、まさにこの、オレが来世へ向かったあとのことなのよ。お前はそのまま、変わらぬ姿で、今生のオレとの契りに操立てしながら、雪深い山のどこを彷徨い歩くのか、とな。人の一生は短い。オレがあと五十年生きるかというと、厳しい御山に痛めつけられたせいで、そんな自信は無い。
 そういうことを、ここのところずっと考えていて、この前ここを通りがかったモノに、ちょいと聞いてみた。お前と同じような生き物が、雪山にはいるってのを、親切に教えてくれてな、氷の棺の話を聞いた。契りを破った報いとして、憑いた男を氷付けにして、体を土に返さず魂すらこの中に閉じ込めて、眠ったままの人間を、来世へ行かせず現世に縛りつけるそうだな。
 これは本当のことか?お前はそれができるのか?
 泣くな。本当のことを答えてくれればいい、お前は何も心配しなくていい ――― そうか、本当か、それは嬉しい。
 ならば、今こそ契りを破ること、どうか許してくれ。そうして心置きなく、オレを氷の棺に入れるといい」
「やめてください ――― いとしいひとの姿形だけ、氷の棺をのぞけばいつでもお会いできたとして、その声も聞けぬ、笑いあうこともできぬ、腕に抱き寄せてもいただけない、それが何の慰めになりましょうか。しかもその魂が、氷の中に閉じ込められていると知っているなら、長い生の中で、来世へ姿を変えた御方にいつかお会いするのだという慰めすら、覚えられますまい」

 どうして男君が自分の頬を撫でているのか、ようやく雪女はわかった。
 いつしか、つうと涙が溢れて雪女の頬を伝うので、男君はこれを、優しく慰めておいでなのだった。昔話の終わりを告げる、《あの》雪女の心もちが、同じ雪の女怪だというのに、今になって初めて、心の底からわかったのだった。

 影絵から抜け出た男が、雪女の頬をそっと撫で、今、己を胸に抱いて、告げた。



「 ――― そういえば昔、こんな雪の降る日だったな、オレは雪女に会ったんだよ。お前という、いとしいいとしい雪女に、出会えたんだよ。さあ遠慮することはねえ、氷麗、オレを連れていきな」









...は る う れ う こ ろ...
雪女が春を嫌うなど、誰が決めたことでしょう。これほど切なく畏れながら待ち望む、これは厭いではなく憂いなのです。誰よりも、春を待っているのです。