その、夜のこと。
 菫に木蓮、桃に撫子、沈丁花。
 闇夜に紛れて、春を彩る花々が、久しく花など咲かなかった鳴かずの森に、百年か千年か万年振りに、今まで来なかった分の春が大挙して、足を生やしてやってきたかのようだった。森の向こうから、大蛇の勇ましい咆哮が聞こえてきたかと思えば、これはすぐにきゅうと黙り、かと思えばこの有様。
 これまでずっと、石のようにしだれ桜の根元に座していた老婆は、ぽかんと口を開けてこの様子を見つめていた。

 そう、老婆であった。
 大きな花籠を背負った集団の先頭を駆けてきた若君は、その老婆をいとしげに抱き寄せると、変わらぬ笑みでこう仰せになったのだ。

「ただいま、氷麗。ずいぶん待たせてしまったね ――― しだれ桜、お前もありがとう、ずっと長いこと、ボクの大事なひとを、守ってくれたんだね。ボクはもう、大丈夫」

 大丈夫の割りには、目玉二つと片腕が、相変わらず足りていないのだが、これを聞くと、風も無いのに揺れたしだれ桜の枝が、一瞬、女の姿を覆い隠し、これでまた、女は眩暈を覚えて己を抱き寄せるひとの胸に顔を埋めた。
 次に目をぱちりと開けると、すっきりとした目覚めで、体もずいぶんと軽く、手などを見ると、ずいぶん昔そうであったような、つややかな白い肌に変わっているのだった。
 そこに居たのは、美しい一人の女だった。長い黒髪は己の背丈を越えて伸び、扇のように広がっている。月のように煌めく瞳は、濡れたような艶かしさをたたえながら、己を腕に抱くひとを、おそるおそる見上げていた。花籠を背負ってやってきた妖怪どもの中には、彼女を昔から知る者たちも在るのだが、例えば久方ぶりに若君と邂逅した折、その成長ぶりに男惚れしたのと同様、これほどまでに美しい女だったろうかと、ほうとため息をついたほど。

 彼等に囲まれ妖気にあてられたか、根元に繋がれていた鎖は、役目を終えて途端に錆を浮かせ、枷はぽろりと力尽きたように女の足首を放した。

「はいはいはーい、若様、ちょっとそこの子を借りるわね。そこに清水が湧いてたから、この子を洗って着替えさせてくる」
「え、ちょ、待ってよ毛倡妓。ボク、まだ目玉戻してもらってないんだけど」
「だめだめ、今戻しちゃったら、若様、我慢できなくなっちゃうでしょ。女の子の気持ち、わかってあげなさいよ。アレ着せるんだから、体くらい清めてあげなくちゃ。若様もほら、着替えて待ってて」
「ちぇ」

 あれよあれよという間に横から浚われて、しかもそれがずいぶんと懐かしい顔であるので、女は ――― 雪女の氷麗は、しばらくぱくぱくと口を動かすしかなかった。ようやく目の前の女に、まさか、と問うことができたのは、清水の滝壺にどぼんと突き落とされてからなのだが。

「け、毛倡妓?!」
「あ、よかったぁ、憶えててくれたァ?」
「そりゃ、憶えてるわよ。でも、何?皆も居たし、今日はこれから、出入り?出入りなのよね?!あの忌々しいくちなわを、ねじり伏せるのよね?!」
「馬鹿ね、今日は大安吉日めでたい日よ。そんな色気の無いことするもんですか、これからするのは、もっとイイことに決まってるじゃない。ホラ、石鹸なんて使うの久しぶりでしょ?早くしないと奴等に気づかれて、それこそ乱闘になっちゃうんだから、ちゃっちゃと洗う!」
「は、はぁ……」
「髪も結い上げるから、綺麗に洗ってね」
「結い上げ……?」

 ほどなくして、身を清め終えた雪女は、毛倡妓にはい、はい、と次から次渡される、真新しい襦袢や着物を手渡されながら、次第に頬の熱が上がっていくのをどうにもできなかった。
 すべてを忘れて石のように、老婆に身をやつして時を過ごしていたのがつい此の前までのこと。今はようやく長い悪夢から目を覚ましたばかりで、寝ぼけ眼を開いてみたら皆がもうどんちゃん騒ぎを始めていた、というくらい、わけがわからないでいるのに。

 どこをどう見ても、着付けられているのは、白無垢であった。

「一体これは」
「白無垢」
「それはわかりますッ。どうして私が」
「新郎はリクオ様よ。何か不満が?」
「不満とか、そういうんじゃなくて ――― 」
「守役だから?姉のようなものだから?身分が違うから? ――― そんなこと言ってた時代から、ずいぶん遠くまで来ちゃったわよねぇ。今もまだ、若、なんて昔のなつかしさでつい呼んでしまうけれど、今やすっかり、総大将なんだから。その男が、アンタのもとへ、取り替えそうと思えばいつでも取り返せたろうに、目玉を残していった。どうしてでしょう」
「 ――― 」
「体がどんなに疲れてても、苦しくても、痛んでも、目がいつでもアンタを映していられて、本当にうれしかったんだってさ」
「私、ほとんど老婆でしたよ」
「なんなら、今からでも老婆に戻ってみるといいわ。だからと言って表情をぴくりとでも変えるリクオ様と思う?そういう御方じゃない、昔から。見ていれば惹かれる、手を差し伸べられれば嬉しくなる。恐怖ではない《畏》の持ち主。そうだったでしょ?
 そろそろ、いいじゃない、嫁ぎなさいよ。もう誰も文句なんて言わないんだから。リクオ様が、アンタを選んだんだからさ。あ、それとも、それが雪女の《何代かけても》っていう呪いだとか?呪いでものにした相手だから、負い目を感じてるとか?」
「ち、違います、私たちはそんな勝手な呪い、口走ったとしてもする力なんてありはしないんですから!あったとしても、母様も私も、そんなあさましいこと、いたしません!」
「あはは!やっぱり気にしてたんだ ――― まあまあ、今は酒宴の準備も整っていることだし、とりあえず、着替えるだけ着替えて、野点の茶席だとでも思ってさ、久しぶりの皆に、その綺麗な姿だけでも見せてやってよ」

 見せるだけ。もちろん、そうはならなかった。
 雪女が身を清めている間に、しだれ桜の根元のあたりは、整然と整えられていた。
 桜の根元を上座に据えて、紅の毛氈が敷かれ、誰が担いできたのか金屏風が後ろに立っており、雪洞が二本、それぞれ上座を囲むように立っていた。
 もっとも、これだけでは明かりなど足りず、鬼火や人魂たちが、それぞれあたりを照らしているのである。

 向かって右と左には客人たちのための毛氈が敷かれ、それぞれが既にかしこまった着物に改めて、席についている。
 真ん中には花道。
 花道や上座を埋め尽くすように、花籠から散らされた、色とりどり、極彩色の春の花々。

 野点の茶席などではない、これは、婚礼の宴席である。

 上座には、まだ誰の姿もなく、雪女がふと横を見ると、紋服に着替えた若君が、やはり目元を竜胆色の布で覆ったまま、そこに立っておられた。その姿を見上げて ――― そう、見上げたのに気づき、どきりと心の臓がはねた。若君は、この宵の中でも若君の御姿のままだ、しかし、いつしか雪女よりも背は伸びて、物腰柔らかな青年の姿となっていた。

「氷麗、そろそろ、お前が大事に撫でてくれていたもの、返してもらっていいかな」
「あ ――― 長いことお預かりしておりました、時を忘れ過ぎて、若のお戻りのときには気づかず、失礼を」
「ううん、お前だから安心して預けていられたんだよ。ボクのほうこそ、お前を見ているしかできなかった、すまない」

 今も懐にかかえてつい撫でていた、二つの目玉を取り出すと、若君は片手で器用に目元を覆う布を外した。するすると、見えぬ糸に導かれるように、目玉は二つ、収まるべき場所に収まった。
 若君は何度かまばたきをしておさまりを確かめると、うん、と一つ頷かれ、一つしか無い手を、そっと花嫁に差し出した。
 これで足りないのは、あと一つ、肘から先を失った、利き腕のみ。
 今ここで、きちんとすべてが揃ったお顔で微笑まれたのは、己が初めてであるのだと思い至ると、雪女は嬉しさと恥ずかしさで胸がいっぱいになり、それだけで今までのすべてのことが報われるような気がした。

 だからこそ、花道へいざなう若君の所作に、あの、と、ここに来てまで無粋であるとは思いつつ、それでも言わずにはおれなかった。
 こんな嬉しいことが現実にあるとも思えず、これが現実なのだと思った瞬間、自分はまた老婆の姿で、あのしだれ桜の根元でうずくまっているのではないか、一人凍えた体で、春の夢を見ているだけなのではないかと怯えると、中々、一歩を踏み出す気にはなれなかったというのもある。
 欲をかいては、この良い夢が醒めてしまうかもしれない。

「なんだい、言ってごらん」

 若君は辛抱強く、雪女の言葉を待つ。

「私 ――― 私など、いけません、きっと縁起が悪いです」
「縁起?」
「だって、せっかく、寒々しくなった此の世に、ようやく春が訪れそうだというのに、あのくちなわを、若がこれから調伏してくださるに違いありませんのに、私は ――― 私は、冬の女ですよ」
「なんだ、そんなことか。ここまで来ても、お前は屁理屈をこねるんだなあ、強情な奴め。……だったら言うけど、いいや、お前は春告げの女だよ。いいかい、お前の名を、こう、《つらら》、とね、愛らしく女文字で書いてやって、そこへこう、額を小突いて悪戯してやると」
「あいた」

 本当に、白粉をほどこした額を指先でこつんとやられて、

「春は《うらら》と、なるんだよ」
「 ――― 」
「夫婦になっておくれ、春告げのひと。これから訪れる春が、どうか長く続くよう。
 お前が雪の褥で守ってきた、春の花々も皆、きっとお前のことを好いている」

 こくりと頷く以外に、どんな応えができようか。

 花婿が一歩先を行き、花嫁を先導しながら花道を行く。
 中ほどまで歩いた頃、はらり、はらりと、落ちてくるものがあった。
 今まで、氷ついたまま枝から離れなかった桜の花弁が、ようやく氷の棺から目を覚まし、はらりはらりと淡雪のように、舞い落ちてくるのだった。
 鬼火に照らされ、満開のしだれ桜が枝を揺らすたび、めでたい宴席を祝う。

 二人、上座につくと、おごそかに、黒羽丸が告げた。

「それでは、これより、奴良組若君……オホン、総大将リクオ様と、雪女氷麗様との、婚礼の儀、執り行いましてございます」

 白木の台に並んだ、大、中、小の盃に神酒を注ぎ、花嫁と花婿が交互に口に運ぶ。
 これをじっと見つめていた九十九鬼は、最後の盃が花嫁の手からそっと白木の台に戻されると、緊張をほどいて、今度はやんやとはやし立てた。

「いやいや、お熱い。あんまり熱いから、桜の花を凍らせていたのが溶けちまいましたぜ、若、じゃなかった総大将、おめでとうございます、どうか末永く、お幸せになってくんなせえ」
「おめでとう、雪女。ううん、もう奥方様なんだねえ、よかったねぇ」
「おめでとうございます、若!いや、総大将!」
「よっ、日ノ本一!」
「おめでとうございます!」
「さあさ、今宵は祝い酒だ!ほら、朧車がはりきってくれたんで、たっぷり重箱乗せてこられたからね、どんどん食べておくれ」

 敵陣の真っ只中でこんなに騒いでいてはとちらり、考えたが、元来雪女も陽気な性格だ、飲み、歌い、肩を組んで騒ぎあう皆の姿がなつかしもあり、ふふっと小さく笑った。
 これを、隣の若君は逃さず見つめておられ、「ほら、さっそく」と示された。

「はい、なんですか?」
「春を呼んだ。長いこと目玉をお前のもとに託していたけど、今、本当に久しぶりにお前の笑顔を見た」
「そりゃあ、笑えるわけがありませんよぅ!だって、若があんな……ううん、いいんです、もう。そんなこと、いいんです。だって今はもう、こうして若がお側に」
「氷麗」
「はい」
「《若》はやめよう」
「 ――― リクオ様?」
「《様》もやめよう」
「総大将」
「論外」
「で、ではなんと」
「んー……あなた、とか。呼び捨て、とか」
「 ――― あ……あ……あ……あうぅぅぅ」
「わかった、おいおい、練習していこうね」

 こんな調子で、九十九鬼夜行が腹を満たし、体があたたまる程度に酒も回った頃、彼等は気色ばんだ者どもが、徐々に徐々に己等に近づいてくるのに気づいた。

「やれやれ、ようやくおいでなすった。鼻先で騒いでやったのに、ここに潜り込まれたのをようやく知ったのか。外の大蛇を何匹か落としたのが、それほどきいたのかな」

 若君がそれでも立ち上がらず、ぼやくように言うと、酒をかっくらって大の字にひっくり返っていた青田坊が、むくりと起き上がり、目を擦った。

「なりがデカイから、手を出す気なんて全然無かったってぇのに。だいたい、少人数の方が掻い潜れるなんて吹いてたのは、一体誰でしたかねえ。その誰かさんがコロっと気分を変えて、ちょっと突いてみようなんて悪戯をするから、エライ乱闘になりましたしね。確かにちっちぇえ頃は、若、じゃなかった総大将、藪と言やあ木の枝でつついて蛇を引っ張りまわして遊んでましたっけ。流石に雪女に ――― 今の奥方殿につきつけて遊んでたときは、ケツ叩きましたっけねえ。ったく、あの頃と全然変わらねえんですから」

 黒羽丸は、するすると水のように酒を飲んでいた割に、全く素面だ。

「あれは実に有効な陽動作戦だった。おかげで、時間を稼げたしな。トサカ丸、ささ美、警戒態勢を取れ! ――― 若、オホン、総大将、あちらは大小揃えて千鬼。数では我等に勝っております。心してかかりましょう」

 近づいてくる。千の鬼ども、蛇ども、蛟、そして龍がやってくる。

 ぐるりぐるりとしだれ桜を中心にして、怒り狂った竜巻となって迫ってくる。

 屏風は倒れ、枝は揺れ、皆の胃袋を満たした料理の残りかすや空っぽの徳利が、突風に巻き上がって舞い上がり、「あれ、片付けの手間が省けた、あははは」と毛倡妓を喜ばせた。

「千鬼対百鬼か。とすると、皆はあちらの、五人ばかり、雑魚を倒してくれれば事足りるかな」
「若、いや総大将、それでは計算がおかしいです。一人につき、十は倒しませんと追いつきません」
「ボクは大将だから、半分はボク持ちでしょ」
「若、いや総大将、それは流石に無理なのでは」
「真面目すぎるよ、黒羽丸」
「性分です」
「がはははッ!いいじゃねえか、一人につき十匹倒せばいいんだろう?軽い軽い、なんだったら、若、いや総大将、この青田坊が六百や七百、やっちまいましょうか!」
「ああもう、みんないいよ、無理して総大将とか言わなくて。もういいよ、ずっと若のままで。その方が言い易いんでしょ、どうせ」
「あ、いやー、わかっちゃいるんですけどね、いやいや面目ねえ。じゃ、若!おー、やっぱりこっちのがしっくりきます」
「おい青、失礼であろう。若、ご安心なさいませ、拙僧はちゃんと総大将と、若をお呼びいたしますぞ!」
「……本当に自分で気づいてないの、黒田坊……?……怒るよ……?」
「ぷッ……ククク……おもしれーッ、やっぱ奴良組おもしれーッ!!いいんじゃないスか、総大将が若のまんまでも、オレ、いいと思うっスよ。どっちでもいいや、おもしれーし!で、なんでしたっけ、一人五百、ぶちのめしゃいいんでしたっけ、若?」
「うーん、その計算だとあちらは五万鬼いないと足りないよ、猩影くん。……ま、いいか。みんな、作戦は《いのちだいじに》で。いいね」
「はぁッ?!リクオ、お前、そこは《ガンガンいこうぜ》だろうがげほげふごほがふがはーーッッ」
「はい、鴆くん、落ち着こう、落ち着こう、君が一番《いのちだいじに》しよう。ホント、よく生きてたよねぇ……長寿の鴆、ギネスに申請できないのが残念だよ。はい、深呼吸ー」
「若ァ、五人でいいんでしたっけぇ〜?とりあえず、ちらっと足見せて片目つぶったらふらふら寄って来たの、縛り上げておきましたけどぉ〜」
「紀乃、お前……ぅわ、酒くさっ。飲みすぎだろう」
「なによぅ首無ぃ〜、せっかくの祝言なんだからぁ〜、素面じゃだめじゃなぁい」
「わ、は、離せ、離せって!頭を抱えるな!だから無理やり飲ませるなぁぁぁッッッ!!!」
「ねー。首無って下戸じゃなかったー?使い物にならなくなっちゃわなーい?」
「そんときは、貴方が水でもかぶせなさいな、河童」
「皆、変わらないなあ。少しは年取ったんでしょ、もう少し落ち着いたらどうなの」

 からからと、しかし若君は皆の様子に一際明るくお笑いになり、それからすうっと目を細め、に、と笑んだまま、おごそかに告げた。
 たった今、夫婦の契りを果たした妻にして、最後の一鬼を腕に抱き。

「 ―――― これにて百鬼、そろい踏み。おめーら、披露宴にさっそくお客さんだ、たっぷり、持て成してやんな」