年が明け、世間が新たな年を祝う頃。
 いまだ、京都には昨春の魔京抗争の傷跡が深く残っていたが、花開院宿念の敵・羽衣狐を調伏しためでたき年明けとあって、花開院本家にすら、どこか浮き足立つような空気があった。

 日本全国から、花開院家にまつわる血筋の者たちが集い、さらに毎年のことながら政財界からも顔を見せる者があり、連日に渡って祝賀の宴が催される。あくまで花開院家は彼等を招く側であり、当主自ら腰低くして客人たちを迎えるが、訪れる人々にとっては信仰の対象となっている場合もあり、さらにはつい昨年の人ならざるものとの争いの折り、実際に花開院家に守られた者もあって、当主や螺旋封印の鎮護たちが通りがかれば、そこで袖に縋らんとする有様だ。
 花開院家の、そして京都を守護する螺旋封印鎮護たちの、日ノ本に対する力のありようが伺えた。

 とりわけ、注目されたのが、年賀の歌の会である。

 花開院本家、末妹・花開院ゆら。
 螺旋封印末席、伏目鎮護・花霞リクオ。
 このとき初めて、この二人が次期当主候補であることが、公にされたのだ。

 螺旋封印の筆頭である弐條殿こそ、当主に一番近い座であるというのが暗黙の了解であったから、少しでも事情を知る者があったなら、隠れた政争の行方に興味を持ったことだろう。
 その上で自ら二人を目にした者は、選ばれたのがこの二人であることに、納得もしたに違いない。

 なにせ選ばれたという二名、年十五にして、これはと思わせる雰囲気を持っていた。

 二人とも細身で、まだ幼さを顔立ちに残していた。
 
 一人はきりとした少年を思わせる、黒髪の少女。客人の中には、彼女がつい先ほどまで、火鉢のそばで三毛猫と一緒にごろんと横になり、目を細めていたのを見かけた者もあったが、その時のような、眠り猫のような空気など、その場には微塵もなかった。
 猫ではなく虎の仔。
 それが、白基調の狩衣に、銀糸で蝶の模様の刺繍をほどこしたものを纏っている。それだけならば、顔立ちの良いのも手伝って、男装の姫君とも呼べたろうに、首元が苦しいのを嫌ったか、留めをはずしてくつろがせ、さらには腕もまくって、肘から先をおしげもなくさらしていた。
 屈強な男であれば、いっそむさ苦しいといえたろうに、露わになっているのが細い少女の腕なので、見る者はつい見入ってしまう。無論、潔癖な彼女の視線に睨まれるなり、すぐに色欲などしぼんでしまうのだが。
 これが、花開院ゆらである。

 もう一人が、花霞リクオ。
 今日は黒基調の狩衣に、漆のような光沢の黒糸で桜の刺繍をほどこしたのを纏い、さらにその上から、白い狼の毛皮を肩にかけている。
 ほっそりとした肩を覆うには、獣の姿そのままの毛皮は少し、野趣に過ぎている。なにせこちらの少年ときたら、隣に並んで座す少女と比べて、さらになよやかに見えた。その上、髪や瞳もおぼろな色、ほんの僅かに袖から見え隠れする指先も、細く優しいそれだ。隣の少女と比べ、威に欠けていると言えたろう。明王と呼ぶには、どうも優しすぎる。
 ところが、いざ歌会の場となり、部外者が堂から閉め出されると、底から冷えるような御堂にふわりと春の香がして、彼が姿を変じた。
 髪は長く伸び銀糸に変じ、瞳は血に濡れたような紅瑪瑙。加えて体格も一回り大きくなったので、彼は両腕を広げて袖を直し、今一度座りなおした。
 纏っていた毛皮の狼の目が、周囲に集った者どもの顔を見渡してにたりと笑ったように見えたのは、果たして人々の気のせいだけであったかどうか。
 妖の血を引き、今は明王と呼ばれるらしいと言うのも、納得のいく見目麗しき姿であった。

 様々、故事に倣った儀式をふまえて、二人は公にも、当主候補と認められた。
 螺旋封印鎮護の義兄たちはもちろん、分家当主等もこの場に同席しており、内心どうあれ、昨年の騒ぎの末に牙を抜かれた状態では、二人をそう認めるしかなかったのである。

 さて、歌会という名の当主候補お披露目が終わった後は、無礼講の宴が始まるのだが、ふと気づいたときには、当主候補のうちの一人、花霞リクオの姿がない。
 誰もが注目していたはずの上座から、するりと空気に溶けてしまったように、まさに姿が消えてしまっていた。

 真っ先に気づいたのは、ゆらだった。
 あちらからもこちらからもご挨拶にと詰めかけられ、四苦八苦しているところに、弟はどうしているだろうかと隣を見ると、すでにそこはもぬけの殻。
 あれこれ理由をつけて席を立ち、自分一人に客の相手を押しつけおってとぷりぷりしながら彼の姿を探すと、まもなく、本堂から奥院にかかる渡り廊下で見つかった。
 切れるような空気の中、おぼろ月を見つめながら、暢気に酒など口にしている。

 闇夜に溶けそうな漆黒の衣だが、しろがねの髪が風におよぐたび、姿そのものが、ほのかに内側から光り輝くような錯覚さえ覚えた。
 己で消えようと思えばいつでも、人の目も妖の目も欺けるくせに、いざ現れ出ると目が離せない、ゆらの弟はたいそう厄介な妖の血を引いているらしい。

「あれ、流石、ゆらにはオレの《畏》も効きにくいなぁ。他の奴等はオレがいなくなったことにも気づいてないだろうに、いつ気づきはった?」
「ついさっきや。ひとに客の相手おしつけて、一人抜け出して酒盛りとは、ええ身分やないの。しかも手酌かいな、寂しいやっちゃなぁ」
「いや、手酌やないて。ちょいと人間嫌いの客人からも、祝いの盃をって話があってな、ここでいただいてたんや。ゆらもどうや」
「うちは未成年やで。アンタもな」
「今日くらい、そうかたいこと言うな。般若湯やと思えばええやないか。こう寒いと、人の身じゃあ酒でも入れんとかなわんやろう。
 おおい、こいつは大丈夫や、例のもう一人の当主候補で、オレの妹やさかい、誰か盃持たせたってくれ」

 リクオが言うが早いか、どろりと二人の周囲を霞が取り巻き、牛の頭に人の姿の者、蛇の目をした手代風の男、顔を面で隠した女、あるいは人の顔に鳥の胴体をした者や、巨大な虫などが周囲に現れて、

「ほほう、このちんちくりんが主さまの妹御でございますか」
「なんでも妖を払う術では、人の世では右に出る者がないとか。くわばらくわばら」
「流石は人間ながら、主さまが妹御とお認めになられるような御方だ」
「さあさ妹君、盃を手になさいませ。なに、人の世でも甘酒は、成人前でも良いとされているそうではありませんか。体をあたためなさいませ」

 好き勝手にあれこれと口にして、ゆらの手に盃を押しつける。
 陰陽師の本拠地で妖どもが酒盛りとはと、一瞬思うも、ゆらは細かいところを気にしない。まあええかと思い直してリクオの隣に腰を下ろし、ほかほか湯気がたった徳利から甘酒を受け嘗めた。

「あれだけ嫌がってた割に、立派に主さまやっとるやないの」
「ゆらこそ、最後の最後まで面倒だの秋房義兄に任せておけばいいだの言ってたくせに、今日は立派に当主候補さまだったじゃないか。姦姦蛇羅相手にも見事なモンだった。花開院家は安泰だ」
「なんやまるで、うちが当主になるのが決まったような言い様やないの。ええんやで、降りるんやったら、早々に退散しはることや。あとはうちがええようにしたるさかいな」
「勘違いしんとき。ゆらが当主になったらなんて、いつオレが言った?惜しくも破れたとしても、の話や。ゆらなんて、まだまだ暢気にTKG食べながら妹やってるんが似合いやろ」
「むかつく。めっちゃむかつくわ。それこそ勘違いもええとこやで。今から勝つ気満々みたいやけどなぁ、アンタの方こそ今度の夏にパパになるとは思えへんで。夜になっても寝床に入ったら子供返りしたふりでもして、雪女に甘えとるんが似合いやわ」
「ほお、よう知ってるなぁ。いつから千里眼になった、ゆら?」
「…………ほんまにやっとるんかい」

 ゆらが呆れてジト目で弟を横目にしている端で、二人を囲み世話をしようとする妖どもも、「あれ、お熱いこと」「ほほほ、好いた相手と連れ添ったなら、しばらくは蜜月が続きますものなぁ。主様、百年なぞあっと言う間にございます」「そうそう、百年後に奥方さまへお贈りするものなぞ、今のうちから決めておきませぬと、あっと言う間ですぞ」などとはやしたてる。

 恋女房の事を持ち出されると、弱ったように首を傾げて苦笑する様は明王姿でも昼間の優しいそれと変わらない。囲む妖怪どもに比べても、輪をかけて幼い様子なのが見て取れる。
 ゆらは内心、このような隙を妖怪どもに簡単に見せて、主など勤まるのだろうかと懸念した。
 騙されて、危ういことになりはしないだろうか、と。
 それがつい顔に出ていたらしい。

「妹御、そう我等を嫌って睨まれますな」
「さよう。人の仔なれば、それも陰陽師なれば妖ものなぞと思われましょうが、今日ばかりはめでたき日ゆえ」
「我等はただ、主さまを祝いたいばかりなのです」
「わかっとる。うちはコレの身内やさかいに、どうしても他人事ではおれへんのや。妖だろうが人だろうが、コレを騙そうとか虐げようとかするモンが昔っから後を絶たないモンでな、敏感になってもうたんやろう。なにせコレが京の主なんて面倒なもんになりくさってからこっち、後から後から護法どもが増えて増えて増えて。譜代の家臣ならまだしも、ここは安泰とわかってから寄ってくる日和見連中を警戒するんは、コレの周りにおる奴の役目やさかい、かんにんなぁ。ほんまアホやから。コレ。せやから周りのモンが本気で守らなあかんのやわ。大事な弟やさかいにな。
 当主候補から早めに降りときと思うのも、半分、本気やで、リクオ」

 棘のあるゆらの言葉に、なにをと思う者がないはずはないが、抗争の最中はどこぞへ隠れていた連中なのは確かだった。
 リクオの地位が安泰だとわかってから参じた者どもであったので、互いに目配せ合い、首をすくめて言い返す言葉もない。

 しらけそうになった場を救ったのは、からからと笑ったリクオだった。
 側に侍る魚鳥目 ――― 魚の顔と体に、鳥の羽を持った妖魚 ――― の娘に、盃を注がせ、一息に飲み干して見せると、追従のやんや喝采が起こる。
 世辞追従に踊らされるリクオでないのは百も承知だが、ゆらとしては、なんだか面白くない。
 我が身をまず大事にしてくれというこちらの意見は無視して、新しく抱え込んだ護法の方が大事と言われたようで、年相応の悋気に火がつきそうだった。
 ふんと鼻で笑って、こちらは甘酒の入った酒器を奪い取り、乱暴に手酌で注いで、やはり一息に飲み、さらに手酌で注いだ。

 さらに飲み、さらに手酌でとなったところで、リクオの手が、一回り小さな少女の手から優しく酒器を奪い、注いでやる。
 いたわるようであり、少したしなめるかのようだ。

「さっそく鍔迫り合いでもしようってのかい?ゆらは本当に好戦的だよなぁ」
「あんたが優しすぎるだけや。知っとったけど、姦姦蛇羅のときに再確認した。どこの世界に、世界全体を呪うモンを懐に入れる阿呆がおんねん。下手うてば、自分が呪われてまうってのに」
「………まだ根に持ってるのかよ。もう去年のことじゃねーか」
「何度だって蒸し返したる。あんたやったら、姦姦蛇羅が呪うのをやめるまで付き合うたるとか、言いだしかねんもん。見合わん負債を抱え込むような真似、雪女がいるんやし、もうせんやろうと思っとったのに、とんだ勘違いやった。次から次と出会うモンに手ェのばしてたら、食いちぎられて、いくつ指があったって足りへん。妖であれ人であれ、他人を騙すモンはいて、アンタはそれから自分で身を守ろうとせぇへんのやもの。怒りもするわ」
「氷麗にも、似たようなこと言われたなぁ。オレを害しようと触れたモンを、端から凍らせる呪いなんぞかけたろうか、とか何とか」
「一も二もなく賛成や」
「えー。なんでー?」
「なんでもなにもあるかい!アンタは危なっかしい。人と妖の共生を目指して当主にと言うけど、それを望まん人も、妖も、おるのやろう。格好の的やで」
「…………オレは、ぬらりひょんの孫だからな。共生を謳って初代が人と契る道を切り開き、二代目がつないでくれた縁で生まれた。人も、妖も、大事なんだ。そういう意味でなら、オレは初代と二代目の道を守るべき、三代目なんだろう」

 二人、知っていたろうか。
 数百年前、同じように、初代と十三代目がこうして差し向かいに酌をしあい、盃を交わしたことを。
 期せず、十三代目と同じ格好で盃を交わしたゆらは、酒気の強い甘酒にほんのり頬を染めながらリクオを睨むように見つめ、言葉を失っていた。

 ただ強ければ良い。技を磨いて、妖を滅する術さえあれば良い。
 それだけでこの年まで修行を重ねてきた彼女は、今、まさに壁にぶつかっていた。

 子供が大人になろうとするときにぶつかる壁と、陰陽師としての壁で、これまで天才として順調に歩んできたところの道を塞がれ、息苦しささえ感じている。
 イライラとする理由は、昔からいくら庇ってやっても学ぼうとしないリクオだと、思いこもうとするのだが、しかし隣に座してちらつく雪とおぼろ月を眺めるリクオは、明王姿であるのも手伝い、自分と違って立派な大人のように見える。
 諭しているつもりが、駄々をこねているのは自分のようで、恥ずかしくなった。
 リクオのやり方は、自分のやり方とは違う。
 わかっているのに、比べてしまう。
 わかっているのに、優劣を考えてしまう。
 歩みなど人それぞれだと、わかっているのに、自分より先に道を見つけたリクオが羨ましく、自分もまたと思うと、焦りが生まれる。

 ゆらが口を噤んでいるうちに、周囲の妖どもがまたかしましくして、雪女との間の子が楽しみだの、ご懐妊はめでたい事だが新婚早々では主さまもお辛いだろうだの、好き勝手なことを言って、リクオを困らせている。

 不思議と、堂々と本家の庭を眺めているというのに、人間は一人も通らず、時だけがすぎた。

 と、二人が見つめる先から、蒼い揚羽蝶がひらひらと飛んでくる。
 冬の、粉雪降りしきる中を蝶などとは、とゆらが目をこらしていると、リクオも笑って、

「こらこら、いくらその姿でも、冬に飛んでちゃ妖ですと名乗ってるようなモンだ。まだ宵の口だろう、人間も多いのと違うかい?」

 たしなめるのだが、揚羽蝶は他ならぬ、彼の肩にとまって、ゆらゆらと羽を動かす。
 ゆらには聞こえないが、何事かをひそひそとリクオの耳にささやいたらしい。

 機嫌良さそうに盃をもてあそんでいた指の動きが、止まった。

「………そうか。すぐに行く。店長にそう伝えて……ああいや、いい、このままオレも行く」

 何やら急な用事のようだ。
 揚羽蝶を肩に乗せたまま、リクオがすっくと立ち上がると、からからと軽い音をたてて牛車が引かれてきた。ただし、これを引く牛はない。朧車だ。

「ゆら、悪い。異界祇園でちょっと騒ぎらしい。行って、そのままオレは伏目に帰る。皆によろしゅう」
「阿呆。面倒はごめんや。うちかてこのまま部屋に引っ込むわ。……酔ってしもうた」
「ははっ。ゆらも早く、酒が飲めるようになればいいのにな。それじゃ、おおきに」

 うんと返事をしたゆらの前で、リクオの姿は牛車の中に消え、やがて雲のように妖たちがこれを取り巻いて、空へ消えてしまった。

「………人と妖の、共生、か」

 一人になった廊下で座り込んだまま、ゆらはつぶやく。
 四百年前、確かに、初代ぬらりひょんはその道を切り開いた。
 しかし、望まぬ妖どもが、そして人が居るのは確かだ。
 人は、誰もが異形なる者を受け入れようとする懐深いものどもではないし、妖もまた、誰もが人と歩み寄ろうとする心優しい者ばかりではないだろう。

「十三代目秀元、おるか」
「いつだってキミの側におるよん、ゆらちゃん♪」
「きもちわる。流石に風呂と御不浄は勘弁や。………アンタ、人と妖の共生って、どう思う。会ったんやろう、若い日の、あいつのじいちゃんに」
「そんなこと、聞いて、どないすんねや?」

 名前を呼ぶや、音もなくゆらの背後に現れたのは、十三代目花開院秀元。
 一人寂しく手酌で甘酒をすするゆらの隣に、ふわりと座して、からかうような、慈しむような視線で、ゆらを見つめる。

「別に。………アンタは、どない考えたのかな、って」
「さぁて。それは、ボクの考えやからなぁ。ゆらちゃんの見つける答えとはちゃうと思うで」
「そんなん、わかってる!聞いただけや!神経逆撫でするだけなら、帰れ!」
「やれやれ、立派に反抗期やねぇ、ゆらちゃん。うんうん、曾々……爺ちゃんとしては、感慨深いわぁ。そないに焦らなくても、ゆらちゃんはそのままでええよ。ええ子やもの。ちゃんと考えられるし、ちゃんと、思いやれる。
 せやなぁ、ボクがゆらちゃんにできるんは、せいぜい、螺旋封印の陣の秘術を、教えることくらい、かなぁ」
「なんやの、ソレ。うちの質問はガン無視かい」
「せやないせやない。………ぬらちゃんがな、人と妖と共生を目指す言うてたとき、ボクは楽ないなあと思った。そう思ったから、少しは楽になる道を探しておこうと、思ってなぁ」
「なんで、それで螺旋封印?めっちゃ、逆やないか」
「うんにゃ、それで良かったの。通り道を塞いだんやから。《安部晴明》復活を妨げるっちゅう、格好の言い訳もあったし」
「言い訳って………本当は、違うんか?」
「うん。本当はなぁ、《鵺》を産まないようにするための装置なんや」
「同じやん」
「同じやない。《安部晴明》は固有名詞、《鵺》は一般名詞やろ。たとえばな、リクオくんは固有名詞。リクオくんの属性は、ぬらりひょんっちゅう一般名詞やろう。ゆらちゃんは人間やな。人間は一般名詞、ゆらちゃんは、固有名詞や。それくらい違う。
 あははー、生きてるときはいえなかったこと、死んだら言えるようになったわー。いやすっきりー。当主の秘密とか、本当、重荷で重荷で仕方なくてー。でも霊体になってもどっかから見られてるような気がしてなぁ、なかなか言えへんかってん。けど、ここはまだ、リクオくんのぬらりひょんの《畏》で守られてるさかい、言えたー。いやー、胸のつかえが取れたー。すっきりー。すっきりー」
「当主の秘密?見られてる?………なにを言うてんの、アンタ?」
「あはは、ゆらちゃん、ダメや、時間切れ。………雪が、止んだわ」

 十三代目が扇でほれと空を指すと、かげっていた月が現れ出た。
 月は愛でるもの美しいものと、幼い顔で見上げたゆらだが、途端、ぞくりと身を震わせた。

 月が、まばたきをしたように、見えた。

 壷の中を、覗きこむ者が、あの穴の向こうにいる。
 そんな気がした。



+++



 リクオが出向いたのは、勝手知ったる異界祇園。
 おぼろ車を使ったので、風に乗るより早くついた。

 白蛇店長が治める花見小路界隈の、知る人ぞ知るモダンバー、《Plutinum Snake》の中に入ると、見知った店員の化猫や女蜘蛛たちが集まって何事か話している。
 リクオが入ると、皆気づいて振り返った。
 いつものカッターシャツにジーンズではなく、漆黒の狩衣姿であったので、皆一様に一瞬、ぎょっとした顔をしたが、すぐにリクオだと気づいてほっとした様子を見せた。

「リクオ!よかった、報せで来てくれたんだな」
「ごめんね花ちゃん、今日、用事があったんでしょ?その………人間側の」

 人間の側から見て、リクオが妖の血を引くのが御法度と思われるように、妖怪の側から見ても、リクオが人の血を引き、しかも陰陽師などに属しているというのは、御法度に値する。
 それを知っても、白蛇店長や店員たちはリクオを受け入れてくれた。
 リクオにとってここは、奴良屋敷、伏目屋敷に続いて、第三の我が家と言える。どうして、困ったことがあると言われて放っておけよう。

 宵の口といえど、陽は落ち、月が昇っていた。
 いつもなら、ちらほら客の姿がある頃だが、今日はその限りでなく、店員たちが集って何やら物々しい。店内には、白蛇店長の姿はなかった。

「………なんや。白蛇店長からって聞いとったが、店長は?急ぎの頼みってあったけど、なにがあったん?」
「ああ、店長なら………」
「いかん!地下まで丁寧にやられておる!くううぅぅうぅ〜〜〜、空き巣コソ泥万引き食い逃げの類など、ワシの《畏》で防いできたものを、こうまでごっそりやられるとは!悔しや、悔しや〜〜〜〜〜ッッッ!」

 噂をすればで、白蛇店長は、珍しくにょろにょろと自ら動いて、地下のワイナリーから姿を現した。
 その目、心なしか、潤んでいる。

「………店長、なんや、大変やって?」
「おおぉ、リクオ、さっそく来てくれたか!今日は大事な日だと聞いておったからのう、どんなもんかとダメもとで使いをやったが、やってみるもんだ。やはりワシの《幸運》、衰えとらん。うんうん。
 それがよ、リクオ、見てくれ、この有様」
「有様、って…………」

 リクオは、店内を見回す。
 いつも通りの店内である。
 ピアノジャズが程良い音量でかかり、調度品はアンティーク。カウンターの上、ずらりと並べられた酒瓶の風景も変わっていない。
 奥のソファ席は、上半分にカーテンがかかる半個室風、大理石のテーブルは磨かれてぴかぴか。
 天井を見上げれば、天窓の向こうにはぽっかりと月が浮かび、ちらちらと、粉雪が降る。

「別に、どこも変わらない、ような………。ん………?」

 いや、何かが足りない。
 振り返ってドア。いつもは、開ければカランカランと鳴る鈴がない。
 カウンターに並ぶ酒瓶。ところどころ、間があいている。
 さらにその中、いつもの白蛇店長の指定席、年代物の丸椅子はあれど、その上の座布団がない。

「………なんか、色々足りへんな」
「地下はもっとごっそり無くなっておる。どうやら、金目のモン、《畏》を強く発しておるものを、根こそぎ持って行きおったらしい。はあ、やれやれ、参ったわい」

 定位置に戻る店長だが、丸椅子の上には座布団が無いので、なにやら座りが悪そうだ。

「持っていった、って、なんや、強盗でも入ったんか?」
「恐喝、強請、そんなモンはワシが一番《畏》でもって封じておる。ちなみに、空き巣でもない。なにせこの店は、ワシの巣みたいなもんじゃからのう」
「いったい、なにがあったんだ、店長?」
「それがのう、ワシ等にもよくわからんのじゃよ、リクオ」

 器用に尻尾でタオルを扱い、汗をかいたのか体を拭う店長は、歯切れ悪く言い淀む。

「気づいたときには、この有様だった、と言ったところなんじゃ」
「気づいたときに?」
「うむ。知っての通り、ワシはこの椅子から動くことは滅多にない。お気に入りの座布団の上に座っているのが常じゃが、何やらいつもと比べて座り心地が悪いと思って下を見てみると座布団が無い。客が来てもベルが鳴らんと思ってみれば、もうベルが無い、といった具合でな。これはもしやと思ってワイナリーを調べて見たんじゃが、やられた。年代物、価値あるものばかりをごっそりな。相当な目利き、その上底無しに物を持って行けると見た」
「え、だって、店には誰か居たんだろう?それなのに、気づかなかったっていうのか?」
「人間どもの話ではない、妖同士の話じゃありえんことはなかろう。ワシの《強運》に勝る《畏》が、あったのだろうよ。やれやれ………」
「そんな、花見小路の商売神、白蛇店長に勝る泥棒モンがおるって?誰の目にも止まらず、来てもわからんような、そんなステルス的な都合の良い《畏>を持つ妖怪って、いったい、どんな………」

 そこまで口にしたリクオ、店の全員の視線が自分に集まっていることに気づき、考え直して、はたと。

「………………オレ?!」
「んなわけあるかい」

 これまた器用に、白蛇店長が尻尾で握ったハリセンが、しろがねの頭に炸裂した。



+++



「ワシがそんな、コソドロのような真似をしてたまるかい!ワシゃあただ、黙って人の家に忍び込み、飲み食いして帰る妖怪じゃぞ!」
「うん。オレも爺様が犯人とは違うと思う。なんというか、オレもぬらりひょんの血が騒ぐとしても、やりたくなることはその、飲んで騒ぐくらいやし」
「まあ、でも妖さま、人の家で飲み食いするだけならまだしも、飲んでご機嫌になったついでに、どこぞの大名屋敷から煙管を失敬してこられたことがございましたよね」
「ぐ」
「アンタもこの前、いつの間にか高そうなワイン、懐から出さなかったっけ。その前は何故か三十三間堂から仏像かついで持ってきたし。一緒に飲むんだーって、ご機嫌な顔してるからどうしようかと思ったわよ」
「いや、ワインはどこで拾って来たかもわからなくて、戻すに戻せなくてな。仏像はちゃんと、次の日にお返しした。あんまり見事な彫りやったから、眺めながら酒飲んでたら、その後あんまり覚えてなくて……。うん……ごめん」

 伏目屋敷のぬらりひょん二人。
 爺と若いのとが並んで、片やぷりぷりと痩せた肩をいからせながら、片や引き締まった体躯をせいぜい小さくしながら言い募る。
 二人が向かい合うのは、異界祇園からわざわざ出向いてきた白蛇店長であり、知らぬ存ぜぬで通すぬらりひょんにツッコミをくれてやっているのは、彼の妻の魂を宿したヤタガラスだった。

 ぬらりひょんの性質とは、すなわち、人から見えぬ妖の目すらあざむく、完全な隠形。
 しようと思えばいくらでも、万物すべての目を欺いて、飲食はおろか物取りや暗殺までこなせよう。
 ぬらりひょんとは、鬼や雪女のように、人数の多い一属ではないらしい。
 伏目屋敷の護法たちはもちろん、関東奴良組においても、ぬらりひょん一属とは、関東奴良組初代総大将その人であり、二代目であり、そして花霞リクオの、三人ぽっちでしかない。
 もっともその三人が、物取りや暗殺を企てるような輩かと言えば、三人を知る誰もが、「それよりも飲んで歌って騒ぐが好きな、根っからのお祭り好きだ」と言うことだろう。
 だいたい、彼等は相手を見つめれば、それだけで相手を魅了する、夢幻の具現なのだ。
 本気で欲しいものがあったなら、じいと相手を見つめて一言、これが欲しいんだがくれないかと言えばいい。それだけで、相手はそれがどんな宝物であったとしても、どうぞと自ら差し出すことだろう。ついでに下僕に下るかもしれない。盗むより、よほど角がたたない。

 そんなぬらりひょん一属が犯人だとは、白蛇店長も思っていない。
 出された宇治茶をずずーっとすすった後、

「まあ、落ち着け、二人とも。リクオはもちろんだが、ぬらりひょん、同じ業を持つアンタのことだって、まさかなあと思いながら、心当たりを聞きに来ておるだけなんじゃ。気を悪くするかもしれんが、これも商店街の長として、必要なことなんでなあ」

 ワイナリーの酒をごっそりやられた後、しばらくぐるぐるととぐろを巻いて、しゅうしゅうとやっていた店長も、今では落ち着いたものだ。
 ちろちろとピンク色の舌で湯呑みの底を味わいながら、じいと初代を見つめている。

「けっ。人を泥棒呼ばわりしやがって、けったくそ悪ィ!」
「爺様、すまんな。まさかとは思ったんだけど、オレもその、氷麗に言われたみたく、覚えてないうちに持って来てることってあるから、そんなことがなかったかなって、確かめておきたくて。ほんと、我が身の情けなさを棚に上げて、申し訳ない」
「いや、お前は悪くねぇよ、リクオ。酔えば妙なモンが欲しくなるもんじゃ。そうよ、どこぞの大名屋敷の煙管とかな、どうでも良いモンを持ってきちまうことがあったわ。どこぞの城の天守閣に飾ってあったシャチホコ。朝起きたら、そいつが枕元にでんと居座ってたこともあったのう。あの時は雪羅にフルボッコにされて、大変だった」
「やはり、リクオさんの時々の酒癖の悪さは、お前さまの血なのですね。鯉伴は酔った振りは得意でしたが、どこか冷めているようなところがありましたから………」
「なるほど。お義婆さまも苦労なされたのですね。隔世遺伝というやつでしょうか?」
「もっぱら、雪羅さんが叱ってくれましたが、直ることはありませんでした。もっとも、酔ってる間はどんなに叱っても、さらに陽気になってからから笑って、持ってきたことに満足して寝てしまうのが常でしたけど。酒乱の気ではありませんから、安心してくださいね、氷麗さん。借金や暴力は絶対にありませんでしたから」
「おいこら、お珱。そこには浮気も追加しておかんか。三大悪はどんなことがあってもせんかったぞ」
「あらまあ、お前様がそう思っていたとしても、それに近いことはあれやこれやそれやとあったような。そりゃあ、普段は誠実にしてくださいましたけど、お酒が入るとお前様は陽気になるあまり、普段はなさらないことをしておしまいで」
「ああ、まさにそう、それなのです。リクオ様ったら、普段こんなに真面目で誠実でおられるのに、顔色一つ変えずにするする飲んでいるかと思えば、ある時突然、妙なことをし始めるんですよ。この前など、地獄の閻魔王庁のバイトの帰りに、上司の方に誘われたらしくて、ずいぶんとお酔いになって帰ってこられました。のは良いんですが、その店で良いものを見つけたからって持って来たのが、《水の尽きぬ水差し》。『これがあったら、わざわざ水を注ぎ足しに行かなくてもええんやでー、氷麗も席立たなくてええから、楽やろー、ええなーと思って持ってきたー』って、子犬みたいな顔で言うんですもん。どう考えたって此の世にあっていいものではないんですから、普段なら考えられないし我に返ったら後悔なさるに決まってるのに。案の定、翌朝は真っ青になられておいでで」
「氷麗、あんまり言わんといて。恥ずかしい……」

 常のしっかりした明王ぶりはどこへやら、なにもかもを知っている妻にあれこれ上げ連ねられて、可哀想に、リクオは羞恥のあまり両手で顔を覆ってしまった。
 同席していた副将たちも、確かに、時折我らの御大将は、そういう茶目っ気をお出しになる、とは知っていたので、今更なことであったし、野次馬の小物どもと一緒にくすりと笑う。

 ただ一人、鬼童丸は真面目な顔だ。
 しばらく何事かを思案するような顔をしていたが、やがてリクオにこう問うた。

「……ときにリクオ、お前にくれてやった、《葉隠れ》はあるか」
「え?そりゃあ、いつも懐にしまって大事に………。あれ、おかしいな、いつも持ってるのに………どこ行った?氷麗、オレの横笛知らないか?」
「え?知りませんよ。お着替えのときでも、あれはいつもお持ちじゃありませんか。今日だって歌会で使うかもしれないって、持っていったはずじゃない?」
「ちょ、ちょ、ちょっと蔵、見てくる!茶釜狸、あと数人誰か小回りきく奴、手伝ってくれ!」

 慌ただしく部屋をでていった御大将と、茶釜狸率いる小物衆を見送って、《葉隠れ》の名に首を傾げたのは初代である。

「なんじゃ、リクオの持つ横笛、たいそう大事にしておったが、お前のモンじゃったか、鬼童丸」
「昔、手に入れたものよ。羅生門に住んでおった頃にな、楽に詳しい男があった。たいそうな笛の名手で、奴の笛の音色ときたらそれはもう見事なもの、門に住む鬼どもすら、そやつを食らうのも忘れて聞き入るほどであったわ。
 よほど良い笛なのであろうかと、そのときにワシが手慰みに彫ってあった《葉二つ》という笛と交換させた。しかし、ワシが吹いてもあのような見事な音色はおよそ出ない。そのまま忘れておったが、リクオが横笛をやるというので与えてみると、あのときのあの男に勝るとも劣らぬ音色が出るのでな、そのままくれてやっている」
「なんじゃ、ということは、只人がこさえた名もなき笛ってやつかい」
「うむ。なくなろうと、別段、困らん」
「そうじゃな。妖気帯びたものというならともかく、ただの人間が作ったものではなァ」

 年経た二人をよそに、顔を見合わせて眉を寄せたのは副将たちだ。

「玉章、鬼童丸のおっさんが持ってた笛って」
「うん、今昔物語に乗っているアレかな。源博雅とやらが、羅生門で鬼に会って笛を取り替えたという……」
「鬼童丸のおっさんが持ってた笛があっちに行って、リクオが、そいつの持ってた笛をもらったってことか」
「なにせ平安の頃の話だ。重要文化財クラスに違いない。鬼童丸が持っていたことで、妖気を帯びぬまでも、いくらか強化されたんだろう。立派にリクオくんの法具をやってたこともあるし、もし見つからなかったら、今頃、蔵で途方に暮れているかも」
「年寄りどもはわかってねぇよな、てめーらの若き日の時代はもう歴史の教科書の結構前の方のことで、そのころの細々したものってのは結構貴重だってことをさ」
「ついでにリクオくんが、そういったものを風情の一つとして好むということもね。どれ、ちょっと慰めに行ってあげようかな。明王姿の方だと、なかなか撫でさせてくれないんだ。こういう機会でもないと」

 ひそひそとやった二人は、お互いリクオの副将でありながら、こっそり兄のような気分でもあるので、最近妻を迎えた弟分がすっかり奥方べったりなのを、少し寂しくも思っていた。
 というわけで、そっと席を立って蔵に向かった二人は、蔵の中に仕舞ってあったあれこれから、貴重品ばかりを盗まれ呆然としていたリクオを、心行くまで撫で、慰めた上で、皆が待つ座敷へ連れてきたのだが、そのときのリクオと来たらひどく青ざめているので、皆を心配させた。

「もしかして、無かったの?」

 氷麗の問いに、疲れたようにため息一つついた後、うん、と頷いて、そのまま顔を上げない。

「《葉隠れ》だけやのうて、ずいぶんやられた。それも、これはと思うモンばっかり、狙ったように。預かりモンも随分やられてもうた。だめだ、オレ、もう………」

 花が萎れるように肩が落ち、夜明けでもないのに、しゅるりと妖気が解かれて、後に残ったのは人の子の可憐な姿。それでもって、大きな瞳に涙をため、ふるふると震えているのだから、その場の誰もが焦るというもの。
 あまり人前で弱気を見せることのないリクオだけに、雪女の焦りようも甚だしく、まあまあお可愛そうにと、守子にするように抱き寄せてやっている。

 明王姿なら流石にリクオも拒んだろうし、妻の方もそうはしなかったろうが、こちらの姿ではこうするのがまるで自然に見えた。
 力が抜けたのか、それとも彼女に寄りかかりたくてわざわざ化生を解いたのかは、リクオのみぞ知るところ。

「ボク、もう、ダメ。しばらくやる気なんて出ない。姫巫女さまからもらった国宝クラスの紺糸威鎧も、出雲から預かってた勾玉も、伊勢から預けられてた鏡も、すっかりやられてる。《葉隠れ》も無くなっちゃった。なんで気づけなかったんだろう。………グス」
「そりゃあまた、ずいぶん見事にやられたもんだのう。だがリクオやい、蔵にあったモンなんぞ、別段無くなっても困りはしなかろう。依頼人から祓ってくれと頼まれてたモンもずいぶんあったようだが、そういうのは無事だったかい」
「うん。呪い付きは見事に避けてるよ。けど、価値がなくても《葉隠れ》のような法具のたぐいはごっそりやられた。独鈷杵の杖も無い。お爺ちゃんからもらった毛皮、ずっと着てたから大丈夫だったのかも。………でも、こんな、こんなことって………皆、ボクを信用して、預けてくれてたのに………どないしよ………」
「で、でも、リクオ様。蔵にはしっかりと鍵がかかっていたのでしょう?それも、リクオ様自ら、幾重にも封じをしていたではありませんか。妖怪はもちろん、人間にも、鼠一匹だって通さないことでしょう。そんなに厳重に保管しておいたのにも関わらず、なくなってしまったと言うなら、どこか他の場所にあったとしても、やはり盗まれてしまったのでは?……ああ、どうかそんな風に、悲しいお顔をなさらないで」

 どうせたいしたものでもないのだろうとか、預けた後はなしのつぶての者も多いことだし、黙っていてもわからないのではとか、当たり障りのない慰めなど、落ち込んだリクオの耳に響くものはなかったが、ただ一人、鬼童丸は違った。
 仮初めのものであったとしても、ここ数年、父親として剣の師として、リクオを見守ってきた平安の鬼は、大きな手でそっとリクオの頭を撫でた。

「やる気なしついでに、お前がしばらく明王も菩薩行も休むというのなら、常は休めと言っても休まないお前のことだ、止めはせんが。一つ気になる話がある。聞くか」

 己がくれてやった笛の行方などどうでも良いのだが、こうもしょぼくれられては可哀想で、内心、数百年ぶりに笛でもこさえてくれてやろうかと思いつつ、鬼童丸が声をかけてみると、リクオはぴくりと反応した。
 おそるおそる、と言った様子で、大きな目が鬼童丸を見つめてくる。

「お父さん、怒ってへんの?」
「怒る。ワシがか。何故」
「だって、もらった笛、無くして………」
「くれてやったのだ、その後捨てるもどうするもお前の自由。もっとも、捨てられてはいささか寂しい気もするが、お前が大事にしていたものを何者かが奪ったのに、何故お前に怒る。無くなったついで、新しいものでも彫ってやろうか。だからそう、しょげるな。お前のそういう顔は、見ていると胸が痛む」
「本当に?ほんま?」
「うむ。………生まれてくる和子の木刀や姫御前の雛を彫るのにも、そろそろ飽いたところだ」
「まあ、お義父さまったら、気の早いこと……」

 一体生まれてくる子供に、何百本腕があると思っているのやらと、玉章や猩影を内心呆れさせていた鬼童丸は、次ぎに彫るものを定めたところで、話を続けた。

「ここのところ、近所で同じようなことが続いているらしい。やはり、物取りだ。知らぬうちに、家の高価なものがやられているそうだ。宝飾品や調度品の類が多くやられていると言う。ところが、現金には手をつけていない。
 ………町内会でもPTAでも話題だ。人間だけの物取りと思っていたが、しかし異界祇園にも手を出してきたとなると、妖怪の仕業と考えた方が良いかもしれん。となると、螺旋封印の結界がある今、外から中に入れば陰陽師どもの知るところとなり、だがそんな報せが来ていないとなると、もともとこの京にいた妖怪だったということになる」
「もともとの京妖怪か。江戸ならば鼠小僧だなんだと有名どころが居たが、こっちにそんな奴、おったかのう」
「平安の頃にな。そうとも、ぬらりひょん、貴様のような若造など、まだ生まれておらんかった頃に、おったよ。
 ――― 羅生門で鬼となった盗賊、その名、袴垂と言う」