袴垂。

 その盗賊と鬼童丸との因縁が座敷で語られている頃、空っ風吹く、伏目屋敷の門の前。

「ふぇ、っくしょおおぃッてやんでばろちくしょーいぃッ」

 趣深い京の空に似つかわしからぬ、乱暴なくしゃみが轟いた。
 空気がそのまま凍り付きそうなほど、冷えている。

 風情もへったくれもないくしゃみをした彼を、通りがかった小物たちがくすくす笑った。
 いや、中には眉間に皺を寄せ、咎めた者がある。

 小物たちを束ねて、平時は賄いに従事し、有事は御大将のお側に侍って何度も危機を救ってきた、花霞家の番頭、茶釜狸だ。

「こら新入り、そんな阿呆のようなくしゃみをするんじゃない!ここは畏れ多くも伏目屋敷の門前であるというのに、なんと下品なふるまいか!ついこの前まで富士山麓の男衆として働いていたというのは、ホラだったのか!」
「……ったってよォ、茶釜さん。寒いモンは仕方ねぇよ。ここ等の寒さは、富士とは違わぁ」
「だったらそんな寒そうな格好をしていないで、御大将から賜った着物をまかなえば良いのに」
「けっ。痩せても枯れてもこの荒鷲、富士山麓は雪羅御前の男衆筆頭よ。その雪羅御前から直接これこれといった沙汰が降りてるんでい。はいそうですかと申し上げちゃ、男がすたるってもんだい」
「はあ。どうしてお前はそう意固地なんだ。まあ、伏目屋敷に来たばかりの奴ってのは、皆そんなもんだけど。しかし、そんな格好されてちゃ、こっちまで寒くなるってもんだ。雪女の《虜》にされて妖になったってだけで、他は人間と変わらないんだから、風邪でも引かれて寝込まれちゃ、たまったもんじゃないよ。もうここを掃くのはいいから、賄いの手伝いでもやっとくれ」
「うへぇ、ありがてぇ」

 手をすりあわせながら、箒を担いで勝手口に駆け込むと、中の熱気が途端に全身を包む。

 外から見るより、中に入ると広く見えるのが京都の屋敷の作りだ。
 伏目屋敷も例外でなく、妖の手が加えられているだけ余計に広い。

 身震いしながら荒鷲が中に入ってくると、そこでは女怪や付喪神たちが、湯気の中であれこれ煮炊きしている。
 まだ夕餉が終わったばかりだが、なにしろ妖は夜行性な上に、伏目屋敷の彼等は数が多い。
 今から夜食の準備をしておかないと間に合わないし、人間と同じように朝起きて夜には眠る御大将の、朝飯昼飯の準備もしておく必要がある。
 おかげで一日中、伏目屋敷の台所からは、火が絶えることがない。

「荒鷲、この箱全部、氷室に持っていっておくれ」
「あいよっ」
「荒鷲、悪いんだけど、そこの食器、洗っておいてもらえるかい?小豆とぎがお使いに出かけたまんま帰ってこないもんで、溜まっちまったんだ」
「あいよっ。小豆とぎの奴、大丈夫なんスかね?」
「なに、そのうち帰ってくるさ。いつもボーッとしている奴だけど、大将のことは大好きだから」
「ふーん、そんなモンっスかねぇ」

 畏れ多くも富士山麓の姫御前の婿殿を、賄い処や人足やかわや掃除などに連れ回し、俗に言う婿いびりをした報いとして、荒鷲は彼の主・雪羅御前より、直々に褌一丁の刑をたまわった。
 本当は腐刑に処されるところだったのを、花霞家の副将たちがとどめたのだ。

 結果、荒鷲は富士から伏目に、名目上は姫御前の世話役として送られ、今に至る。

 今でこそ、いくらか伏目屋敷にも慣れた彼だが、こういう、「一に大将、二に大将、三四も大将、五に大将」といった風潮にだけは、未だになじめない。

「あんただって、本当は雪麗さまのいる富士に帰りたいんじゃないの?下僕にとっての主様ってのは、そういうものだと思うけど。それにうちの大将ときたら、あの通りやんごとない愛らしさでしょう。屋敷を一時的に離れたとしても、必ず帰ってきたくなるのよ。寂しがってやいないか、泣いてやいないか、また一人で無茶をなさってはいないかって、気がかりでねぇ」
「まあ確かに、富士は俺の第二の故郷みたいなモンですから、帰りたくないと言やあ嘘になりますが……。にしたって、鉤針女さん、あんたの主は、副将の方じゃありませんでしたっけ?」
「あらやだ、意地悪を言うのねぇ。いいじゃないか、うちの玉章さまだって、今じゃ大将命なんだし」

 と、どこでもこの調子なのが、荒鷲にはまだわからない。
 他の者たちと違って、荒鷲は、ここの大将に心引かれて屋敷にとどまっているわけではないからだ。

 けれどとにかく、伏目屋敷の連中は気がいい奴等ばかりだった。余所者の荒鷲をあたたかく迎えてくれるので、たとえ褌一丁でも、おおむねうまくやっている。
 周囲から見ても、荒鷲が大将を少し苦手に感じている様子なのは明らかだが、それにしたって害しようという気持ちはないようだし、大目に見てやろう、と考えてくれているらしい。

 荒鷲も生来の働き者で、それが雪羅御前の目に留まり、《虜》となった過去がある。働くのは嫌いではない。汗水垂らして働く者に、概ね、周囲の者は好意を抱くものだ。
 伏目屋敷に、荒鷲はすぐになじんだ。

 荒鷲自身も、花霞大将だ京の主だとちやほやされていい気になっているのだろうとばかり考えていたリクオが、屋敷に帰ってみれば自らも賄い処に入って煮炊きしたり、身の回りのことはすっかり自分でしてしまう上に、昼も夜も勉学や仕事で走り回っているのを目にして、富士での己の行いを素直に恥じた。
 てっきり、大将大将とちやほやされた、苦労を知らぬ若い妖が、うちの可愛い姫御前をたらしこんだものと考えていたので、リクオの働きぶりを見ると、あの時くらいはゆっくり過ごしていただけばよかったという気持ちを抱いた。

 ただ同時に、昼の姿の方を初めて目にしたとき、こちらが人の姿なのだと照れたように言われて、それを早く言ってくれれば、あんな無体な真似などせずにいたのにと、少し騙されたような気にもなった。

 彼が忠誠を誓う姫御前と、並んで仲睦まじく手を握り、額をくっつけあっているところを目にしても、女学生同士が戯れあっているようにしか見えぬ。
 そんな姿形を最初に見せていてくれたなら、きっと丁重に扱ったろうに、と。

 嘘をつかれたような気分になって、それで何だか苦手意識が先立つのだが、もちろん、リクオの方に騙す気がなかったなんてことも、荒鷲は百も承知。
 うじうじ悩むのも性に合わぬので、彼の姿を見てもやもやとした気分になるならば、見なければ良いのだと思い、あまり大将夫婦に関わることのないよう、裏方に徹してこれまでやってきた。
 この事件がなければ、これからもそうしてきたろう。



+++



「あれ、ここにあった備前焼の銚子や猪口、誰かどこかに仕舞ったかい?」

 最初は、他愛もない物探しから始まった。
 醤油はどこだい、味噌は誰が使っているのなどと、物探しは賄い処につきものなのので、その時は誰も不思議に思わなかったのだが。

「ねえ、誰か、水晶の器知らない?ほら、しばらく床の間に飾っておいたやつ。大将の元服のお祝いにって、稲荷さまから賜った。何かお料理に使ってるのならいいんだけど」
「私の簪、この辺に落ちてなかった?」
「おう、おいらの襟巻き、誰か洗ったか?見あたらねぇんだけど」

 こんなことが続くと、さすがに誰もがおかしいと思い始める。

「むむ、もしや、蔵だけじゃなく、屋敷全体がやられてるのか?」

 事情を聞いて難しそうに眉間に皺を寄せ、短い腕を組んだのは茶釜狸だ。
 大将に従って蔵をあらためたところ、大将の大事な持ち物がいくつか失われていたのは、つい先ほどのこと。大将がまだ幼い頃にその心に触れて護法に下り、以降は誰より御側でお世話をしてきた茶釜狸としては、良い思い出が少ない御大将が、数少ない思い出の品を失われたことが不憫でならない。

 もしも見慣れぬ怪しい奴があったなら、すぐ知らせるようにと言いつけるため、すぐさま己が預かる賄い処にやってきたのだが、その時既に、賄い処はこうして騒ぎになっていた。

「御大将じゃあるまいし、妖同士なのに目に見えないなんてことは考えられない。しかも、こうも貴重品ばかりを狙って盗んでいくなんて。伏目屋敷も異界祇園の店も、人の出入りが多いから、それで誤魔化されてるだけなんじゃないかしらとは、大将のお言葉だ。
 皆、ここらに最近、怪しい奴は出入りしなかったか?」
「怪しい奴 ――― 」
「ううーむ。この寒空の下、褌一丁で歩き回ってる奴以上に、怪しい奴などおるかのう」
「な、なんだよ、俺が犯人だって言うのか?!」
「落ち着け荒鷲、誰もそんな事、言っておらん」
「ったく、気分悪ィなァ、ええおい!こんなに出入り激しい屋敷なんだ、大将は全員の顔を覚えてるのかもしれねぇがよ、他の奴等は、案外知らない奴がいても、気にしてなかったりするんじゃねーのかよ?!」
「そういきりたつなよ、荒鷲。悪かった悪かった、ただの冗談さね」
「ちっ。だいたいこの格好で、一体どうやったら盗んだものを隠しておけるんだっつーの。言いがかりにもほどがあるぜ!」
「いややわぁ、本気にして、かわいらしいこと」
「ぐずるやや子と一緒やなあ」
「くすくすくす」
「気ぃ悪くせんといてや。みんな、あんたのこと気にいっとるさかいに、からかいとうなるんよ」
「けったくそわりぃ!ガキ扱いすんじゃねーや!こちとら富士山麓の男衆率いてんだ!
 おおそうとも本当なら、ここの大将の持ち物までくすねやがったっていう不届き者、しょっぴくくらいわけねぇんだぜ!」

 からかわれるのが許せなくて、つい豪語したが、本気にする者は誰もない。
 わかったわかった悪かったと宥められるのが悔しく、荒鷲はいよいよ本気になった。

「見てろ、すぐにとっつかまえてやらぁな!」

 とは言っても、まるで心当たりなど無い。
 仕方なく、せいぜい余裕ぶって茶釜狸に尋ねてみた。

「そんで、茶釜さん。そんな迷惑な奴なんだ、どうせどこに居るのかくらい、ここの大将は見当ついてんでしょ?」
「それがわからないから、困ってるんだよ。そりゃあ、御大将は京都近辺だけじゃない、日ノ本の妖怪のことなら、たいてい御存知だ。その大将がどうやら、心当たりを見つけられない様子なんだよ。
 鬼童丸様が、ずうっと昔の京都に居た、袴垂っていうのがそうじゃないかとか、仰せだったけど、途中でこちらが騒がしくなってきたから、あたしは抜けてきたんだ。その後にどんな話をなさっているのかは、知らないよ」
「なんだ、そうかい。しかし、袴垂だって?どんな奴なんです、そいつ」
「古い文献に名前のある、元々は人間だそうだ。そろそろ話も終わってるはずだから、聞いてみちゃどうだい?」
「元人間ねぇ。そんな奴ならわけもない、きっと捕まえてやりますって。とりあえず、屋敷ン中、見回ってきやす」

 せいぜい胸を張ってみたものの、手がかりがまるでないのに違いはない。
 賄いから出て、廊下をたっぷり二十歩は歩んだところで、荒鷲は、やれやれ、とため息をついた。
 自分で言い出した事とは言え、どうやら厄介事を抱え込んでしまった。
 しかし、このまま黙ってみていれば、いずれは、幼少のみぎりより見守ってきた姫御前の持ち物にまで、被害が及ぶかもしれぬ。それに、ここで犯人をとっつかまえれば、雪羅御前も少しは見直してくれるかもしれないと考え、無い袖をまくりあげるような所作をして、よし、と奮起するのだった。
 奮起してとりあえず見回りを開始した荒鷲だが、その行く先で、ふう、と、やはりため息をついている者があった。
 その姿に思わず隠れようとしたが、曲がり角もなんにもない、まっすぐな廊下でのこと。
 華奢な柱に隠れようとしたのが逆に不審かつ滑稽で、すぐに見つかってしまった。

 そのため息の主は、一瞬戸惑った様子だが、やがてころころと笑って、

「荒鷲さん、どうしたの?ボクに見つかっちゃ、まずかった?」

 分け隔て無い優しい笑みを、彼に向けたのだった。



+++



 リクオの側には、たいてい妻の氷麗か、そうでないときは副将のどちらかや、初代や鬼童丸、あるいは屋敷の小物どもが集まっているのが常なので、一人ため息をついているとは珍しい。

「人の姿でこんなところにいちゃ、風邪を召しますぜ、大将」

 見つかっては仕方がない。
 黙って立ち去る洗濯しは消え、荒鷲は観念してリクオの前に姿を現した。

「荒鷲さんこそ、ここには監視の目なんて無いんだから、差し上げた着物を着てくれたらいいのに。誰も、お義母さんに告げ口なんてしないよ?氷麗には、ボクから言っておくし」
「約束ってのは、誰も見てないから破ってもいいってモンじゃねーでしょうが」
「それはそうだけど、流石に、冬は寒いでしょ」
「もう少しで強制的にオカマにされるとこだったんだ、それに比べりゃマシってもんです。俺のことなんざ、構いなさんな。雪羅さまのお許しが出るまでの、居候のことなんざ」
「居候だなんて。荒鷲さんは、氷麗の近侍として来たんでしょ?なら、伏目のお客様だもの。何か足りないことがあったら、ちゃんと言ってね。きっとだよ?」
「………この上、大将にそんなケチをつけたら、俺ぁ今度こそ、雪羅御前に氷漬けにされたあげく折られちまいまさぁ。ぽっきりと。アレを」

 大将の笑顔ときたら、流石に初代が、「ワシの孫ときたら、昼姿はワシの奥にそっくりでのう」と、でれでれめろめろに言うだけのことはある。
 荒鷲もつい、リクオにこうしてふわりと笑われると、雪羅御前と姫様に忠誠を捧げた身なれど、つい頬に熱があがってしまうほどに、柔らかであたたかだ。

 あの夜姿のリクオが、可愛い姫御前を一目見て気に入り、数百年前に彼の祖父が妻にそうしたように、お前が欲しいと押し倒し我が物にしたのかと勝手に想像していたからこそ、婿殿何するものぞといびりを決行した荒鷲も、こちらの姿のリクオ相手だと、どうにも決意が鈍る。
 こちらの昼姿のリクオなら、姫御前に文から始めてくれそうだし、突然押し倒したりはしないだろうし、結ばれた後も、脇目をふらずにきっと大切にしてくれそうだと初対面から思えたろう。
 事実、ぬらりひょんの孫とは思えぬほどに奥手だそうだとは、伏目屋敷に来てから知った話。

 なまじ、雪羅御前を袖にした、ぬらりひょんの孫である、などと先入観があったために、文句のつけようがない美丈夫である夜姿を見てしまうと、うちの姫御前をたぶらかした悪党としか見えなかったが、いざ富士山麓を放り出されて伏目に世話になってみれば、昼でも夜でも、変わらず一途に、姫御前を扱ってくれるし、他の女に目移りする様子もない。
 姫御前、つまりこの屋敷では奥方様と呼ばれている雪女などは、他の女の影を心配するどころか、己の胎に子を得てからも、どこか幼い愛情を求めてくる夫にまで、雪女の母性をあふれるほど注いでいる。

 そんな妻の姿まで彼の側にないのは珍しく、荒鷲は怪訝に思った。

「ところで大将、お一人なんて珍しいスね」
「ああ、うん。本当は、ちょっと考えごとがしたくて、御堂に行こうとしたんだけど、氷麗にダメって言われちゃって」
「御堂へ?そりゃあまあ、大将の毎日のお勤めだとは聞いてますが、なにもこんな夜中に、しかもそっちの姿で行かなくても。もうとっくにお月さんも高くあがってるんだ、派手な毛並みの方に姿を変えた方が、妖気を解放できて楽なんでしょう?寒さだって気にならんでしょうに」
「それは、そうなんだけど………」

 いつになく、歯切れが悪い。
 昼でも夜でも、リクオは概ね、あまり悩まない。
 うじうじしたところが無いのだ。
 今のように、俯いてめそめそと泣いてしまいそうな姿など、荒鷲は想像もつかなかった。

 そうなると何だか去り難く、どうしたことかと思いながら、荒鷲はリクオの隣に座った。
 リクオの方も、荒鷲に話を続けて良いらしいと判断したらしい。「あのね」と、言葉を続けた。

「落ち込むことがあると、いつも御堂に行くんだ。あそこには、護法たちも近づいちゃいけない決まりだから、一人になれるし、落ち込んだ顔、みんなに見せなくて済むから」
「………へえ、大将も落ち込むこと、あるんだ」
「酷いなあ。ボク、まだ十五だよ?落ち込みもすれば、泣きたくなることだってあるし………でもそういう時、あっちの姿だと上手く泣けないの。妖気は解放できるんだけど、感情が上手く解放できないって言うのかな。片意地張っちゃうっていうか、元服を皆が祝ってくれた後くらいから、もう大人なんだからしっかりしなくちゃって思い始めたからかも」
「なるほど。妖怪は十三で成人ですからねぇ」

 夜姿のリクオは、荒鷲が大人げない嫉妬を覚えるくらい、立派な美丈夫だった。
 成人後の妖の年など、気にするものはない。
 荒鷲も、姫御前の夫の年など、全く気にしていなかった。

 けれど、そう言えば、これをやれと言ってみたところ、はいわかりましたと大変素直に答えた様は、外見の美丈夫ぶりとは反して、なんだか幼かった。
 今思えば、年相応だったのだろう。

 もっと早く教えておいてくれればと思いつつ、今のように、昼の華奢な姿でしょげられていては、恨み言を言う気にもなれない。

「ですが、成人したからと言って、いきなり大人びる必要もございやせんでしょう。ここの屋敷の妖どもは、むしろ大将を甘やかしたくて仕方がないようでございやすしね?」
「だから、気を抜くと甘えちゃうんだ。ちゃんと反省もしなくちゃいけないのに、ただ悲しさに任せて泣いてるだけじゃ、ダメなのに」
「……そんなに大事なモンだったんですかい。大将が亡くしたモンってのは」
「うん。陰陽師のお仕事の方でね、色々曰く付きのものを預かったりするんだ。人間用にちゃんと鍵をかけてたし、妖怪用には、ちゃんと蔵に結界も張ってあったのに、まるで役にたってなくて、色々物色されちゃったみたい。高価なものが根こそぎ持って行かれた。今はもう山の梟たちに頼んで探してもらってるけど、見つかるかどうか。
 でも本当はね、ほかの人たちのものより、父さんにもらった横笛がなくなってたことが、すごくショックだったんだ。そんな風に考えちゃだめなのに。預かってたものだって、持ち主の皆さんにしてみれば、すごく大事なものかもしれないのに、一瞬でも自分のことで頭がいっぱいになっちゃったのが、情けなくて。
 執着を捨てたつもりで、一つだけほしいものをと思って氷麗を望んだつもりで、でも、なんだかどんどん強欲になっちゃってる気がして。それで、ちょっと頭を冷やしたかったんだ。
 ………ごめんよ、荒鷲さん。寒いのに話し込んじゃった。もう、お部屋に戻った方がいいよ。風邪ひいちゃう」
「他人のものより、自分のものの方が惜しいって思うのは、そんなに悪いことですかねぇ?」

 ちらほらと雪が降ってきたので、リクオは荒鷲を思いやり話を切り上げようとしたが、リクオこそ腰を上げようとしないのに、どうして荒鷲がそれじゃあお先にと引っ込めたろう。

 いつになく、しょんぼりとした様子のリクオが、御堂に行って頭を冷やしてくるというのを、そんな寒いところにどうして行かせられようか、せめて屋敷の屋根があるところでと姫御前は縋ったのだろう。
 それなら、今も気配を殺して、きっと幼い夫君を、どこからか見守っているはずだ。

 荒鷲はリクオの横によいせと腰掛けた。
 濡れ縁まで冷えきっていて、尻が寒い。

「おお、冷てぇ。こりゃあ頭が冷えるどころか、体が芯から冷えちまわぁ。そんで、大将はなにをやられたんです?」
「《葉隠れ》っていう、父さんからもらった笛だよ。それに、独鈷杵の杖も。お母さんの形見は、いつも気にしてたせいかな、無事だったんだ」

 その場を去らぬ荒鷲に戸惑いながらも、袖からのぞく細い手首の数珠を、そっと逆の手で撫でてから、リクオは目を伏せ、言葉を続けた。

「他のものも、気をつけてなかったわけじゃないのに。全部、大切だったのに。知らずに優劣をつけてたみたい」
「そりゃあ、仕方ねぇでしょうが。物事には順序ってモンがある。大事なモンの順序だってそうでしょうに」
「けどボク、皆のことはちゃんと大事だよ。助けを求めてくれるなら、どんな人だってどんな妖だって、優劣なんて」
「いや、そこは優劣つけましょうよ。助けを求めてくるのは良いでしょうが、それがいつもこっちの都合を考えてくれてるわけじゃねぇんだし。例えばですよ、姫様がヤバイってときに、助けてくれーって言われたとして、そこでどっちを助けようか考えるようじゃいかんでしょうが。そこは、姫様を優先してくれねぇと。同じように、持ってるモンだって優劣つけていいんでしょうよ。それに、それくらい大事にしてもらってたって思えば、鬼童丸の旦那も嬉しく思うんじゃないんですかい?」
「そうなのかはわからないけど、また、新しいのを作ってくれるって言ってくれた」
「ならいいじゃないですか。古い笛なんぞ、くれてやりゃあいいんです。旦那と大将の縁が切れたわけじゃねぇんだ」
「………でも、あの笛、ちょっと特別なんだ」
「特別?そりゃあまた、何が」
「あの笛をくれるときにね、ずうっと昔の平安の貴人からもらったもので、自分では上手く吹けなかったけど、気に入ってたって、父さん、そう言ってたんだ。だから、そんなに気に入ってるのに、ボクなんかに渡していいのって訊いたら、《いずれ父が死んだときには、父のものは息子に譲られるのだから、先に渡しておいてもいいだろう》って。
 父さんがね、ボクを息子だって言葉にしてくれたのは、あれが初めてだった」

 荒鷲から見ても、鬼童丸のリクオへの思いのかけ方は、実の父に勝るとも劣らぬものだ。
 時折、ちゃぶ台を囲んで真剣に、進路の話などをしている様子からは、数年前までは他人だったなど信じられない。

 リクオが高校に進学すると決めたのも、義務教育を卒業したら仕事に専念しようかと迷っていたところへ、鬼童丸が「今から生き方を狭めなくとも、選択肢は多い方が良かろう」と、背を押したのが大きい。
 これが奴良屋敷の二代目なら、こうはいかなかったろう。
 妖だてらに、PTA会長などしているだけのことはある。

 リクオも彼を慕っており、富士山麓で雪羅御前を相手に、己の父として紹介したほどだ。

 二人がどのようにして縁を結んだのか、荒鷲には預かり知らぬところだが、リクオにとっては大事な品だったらしい。

 それでなくても、ここまで話し込んでいると、荒鷲はもう黙ってはおれなかった。
 可愛い姫様の夫君のためならば、一肌脱ごうではないかという気になってくる。いいや、雪女が関わりなかったとしても、荒鷲はリクオの力になろうとしただろう。
 遅かれ早かれ、伏目屋敷に来た妖怪たちは、春の日向のようなリクオを、好いてしまうのだった。

「よしきた。大将の笛も、俺が取り返してご覧に入れますぜ」
「取り返す?………って、荒鷲さん、盗んだのが誰だか知ってるの?」
「あー………いや、それをまず調べてたトコでさぁ。賄いの方もちょいと騒ぎになってましてね。ケッ。俺がこんなナリで色々足りてなかろうから、俺が一番怪しいなんざからかいやがって。今に見てろってんだ。
 そんで、大将には何か心当たりが?」
「ボクはよく知らないんだけど、お父さんがね、《袴垂》じゃないか、って」
「袴垂?」
「昔、お父さんが平安の、羅城門に棲んでいた頃。一人の男が一夜をしのごうと、門の二階にあがってきたことがあったんだって」

 鬼が棲む、闇潜む、門の中へと。