皆が飢えていた。
 皆が病んでいた。
 幼い者から、弱い者から死んでいった。

 平安京などと笑わせる、人の世が平らかで安らかであったためしなどあるまいに。時の権力者が無いものねだりの末に名付けた都は、名とは裏腹、朝方に生まれたと思った赤子が夕方に死ぬのも珍しくない、そんな世だった。

 そんな中、都に名を轟かせたのが、大盗賊・袴垂だ。
 人々の口に上る彼の特徴はと言えば、剛胆であり、腕もたち、さらに賢く、麻のように乱れた世を生き抜くのに必要なものに恵まれていたということだ。
 ただ物取りをするのではない。いや、追い剥ぎも強盗も殺しもするのだが、相手の意表をつくやり方が多かった。

 己と同じか、己以下の力を持つものや、あからさまに貧しい者をいくら狙ったとしても、結局実入りは少ない。
 そこで、彼奴が狙うのは、武士や貴人である。
 もちろん、そういった者たちは、彼より力があったり、多くの護衛に囲まれていたりするから、彼のような盗賊風情など、真っ正面からかかっていってはたちまち斬り伏せられるに決まっている。
 ところが、袴垂は例えば、こんな手を使う。

 ある時、武士の一行が通りがかったとき、身分の低い者たちが、何かを囲んでいる。遠くから見ると、何者かが横たわっているらしい。おそらく行き倒れか何かであろうと思われた。
 病か飢えで、往来に人が横たわっているのはさして珍しくもないことであるから、武士の一人は、さして気にもとめず、先を急ごうと気にもとめなかったが、馬に乗っていた武士たちの長は、歩みを止めて皆に弓を構えさせた。

 一体何をするのかと聞くと、例の死体にむけて、射かける必要はないが、弓を構えて、なるべく遠巻きに進むように、警戒せよ、と言う。
 死体相手に警戒とは、我等が殿は臆病風に吹かれたかと思いつつ、一同は弓をかまえ、往来に横たわる死体に向けて今にも射かけんとばかりに狙いを定めながら、ゆっくりと、何事もなく、通り過ぎることができた。

 一体、我等の長はどうしたのだろうかと、誰もが首をかしげながら先を急いだが、やがて後方で、騒ぎがあった。
 彼等とは違う武士の一行が、死体の側を何の警戒もせずに通り過ぎようとしたところ、死体であったはずの奴がむくりと起きあがって、側を通り過ぎようとした馬の鞍に飛び乗り、すかさず馬の主の刀を奪って、馬の主を斬り殺した。
 さらには素早く彼の服をはぎ取り、金目のものをいくらか路上に放り投げると、後ろに続く者どもが弓や刀を構える隙もないうちに、馬の腹を蹴って去ってしまった。
 路上に放り投げられた金目のものを拾わんと、それまで死体を囲んでいた人々はそこら中にはいつくばり、おかげで、長を殺された武士の一行は、奴を追うこともできず、立ち往生するばかり。

 この、死体のふりをしていた者こそ、袴垂である。

 用心深い武士は自ら彼を避けるが、彼よりも智に劣る者は自ら彼に近づいてしまうということだ。彼の手際は素早く、出会ってしまえば、後は身ぐるみはがされるだけ。

 そういった奴だったのだ、と鬼童丸が結んだとき、リクオはさっそく疑問を口にした。

「でも、別に、妖怪ではないんでしょう?ボクも、そういう人がいたって、話には聞いたことあるけど、今回がその人の仕業だっていうのは、どうして?」
「そうさな、もともと、奴は人間だった。こうした、少しばかり知恵を使った悪さをしているうちは、まだ人間であったよ。まだ、な。だがとある機会に、鬼になった。奇妙なものだな。妖怪は、いくら年経てもひょんなことから人間になったりなどせんと言うのに、人間というのは時折、何か境目を踏み越えて、簡単に鬼や魔物になる。
 奴の場合は、一人の女だった」
「女?」
「ああ。羅生門にはな、その昔、路頭に迷った人間どもが雨風をしのぎにやってきたり、疫病で動けなくなった者を、家の者が捨てにやってきたものだが、そこに、あの袴垂もやってきたことがある。
 そのときはまだ、人間であった。その日、食うもの、寝る場所、そういったものに困る程度の、少しばかり知恵がまわる、こそ泥であったよ。ところが、その日、一人の女と奴は、羅生門で鉢合わせをした。それからだ」
「それから?………その女の人が、袴垂に何かをしたの?」
「いいや。元々、二人はそういう約束であったのだ。この日と定めて、この場所と定めて、二人は互いを待っていた。どれほどの年月が経っていたのかなど知らぬが、女は男を待っている様子だったし、男は女を待っている様子だった。それだけで、互いが互いを待っているのだろうと察しはつく。
 ワシや配下の鬼どもは、その頃とっくに門に棲み、訪れる人間どもを食っておったが、腹が減っておらなかったのでな、その時は息を潜めて成り行きを、ただ見ておった。この男と女は数年前に、同じ場所で、互いを待つと約束し合った男と女だなというのが、姿が変わり果てたためだろう、互いが互いにわからない様子なのが、面白うてな。………リクオ、その頃はワシも血気盛んな若い鬼だったのだ。今はそのような真似はしておらんよ」

 人が人を騙す、陥れる、人と人がすれ違い、誤解する、そんな様を己が笑って見ていたのは、もう千年も昔の話なのだぞと、鬼童丸は念を押した。
 すっかり萎れている息子が、この上さらに無常を感じて俯いてしまってはたまらぬからだ。

 何度も、昔の話であるぞと念を押した上で、鬼童丸は続けた。

「袴垂は、最初から盗賊であったわけではない。盗賊となる前は、どこぞの家人であった様子だった。あやつが羅城門にやってきたその夜は、あやつが《盗賊・袴垂》となるかどうかの、瀬戸際の夜であったのだろう」

 尚も、鬼童丸は語った。

 闇の濃い夜に、後の袴垂は、羅城門を訪れたのだと言う。
 一晩の宿を求めるだけの、職を失った男は、楼閣の上で、一人の老婆に出会った。
 鬼童丸は ――― 平安の世に生まれた鬼は、その邂逅を、見つめていた。



 死体の髪を抜いてな、髪を抜いてな、鬘にするのだ。
 鬘を売れば金になる。
 もう死んでいるのだ、これを使って何が悪い。
 生きるためだ、生きるためだもの。

 老婆は必死に言い募り、男はじいとそれを聞いていた。



 闇の中で、鬼は笑って見ていた。



 男は、とある屋敷の下人であったが、仕えていた屋敷を解雇され、一晩の宿を求めようとした羅城門で、老婆が若い女の死体から髪を抜いているのを見た。
 当初はこの行為に怒りを燃やし、老婆に飛びかかり刀をつきつけてやめさせようとした男だったが。



 死体となったこの女も、生前には、蛇の干物を干魚だと偽って売り歩いていた。
 生きるために仕方がなくおこなった悪だ。
 だから己がこの女の髪を抜いたとて、この女は己を許すだろう。



 言い募る老婆の言葉に、男は、目の色を変えた。



 そうか、生きるために仕方がないことであれば、許してくれるか。
 呟くと、弱い老婆を蹴り倒し、老婆の着物をはぎ取って、闇の中へ逃げ去ったその男の行方、人どもはまるで知らないが ――― 。



 鬼は。
 笑って見ていた鬼は。






「思い切りよく老婆を蹴り倒したそやつを、面白く思ってな、手勢は多ければ多いほど良い、仲間に加えてやろうと考えた。手勢の一人に後をつけさせ、そやつの力になってやるよう、言い含めたのだ」

 当時の事を思い出すとき、どうしても鬼童丸の瞳には暗いものがよぎった。
 誰もが飢え、誰もが病んでいた。
 都全体に、乾いた死の風が吹いていた。

 貧富の差は当然であり、宮中では雅な音が奏でられているというのに、その外では飢えた者どもが、死んだ鼠を、虫を払って食っているのが当たり前の光景であった。
 人が人として扱われなかったその頃、妖が生まれるのはたやすかった。あやつは人ではない、鬼だ化け物だと言われ続けると、指をさされ続けると、なるほど元々そうであったような気がするのだ。
 あとはお決まりの道、転げ落ちるように修羅道餓鬼道に真っ逆様。
 生きながらにして妖に転じるものどもは、鬼に導かれるまま鬼になる。

 鬼童丸は、そうした者どもを率いる、鬼の頭領だった。

 鬼童丸の手下を使い、袴垂は当時の京で、一大勢力を誇るに至った。
 鬼と怖れられ、名乗るだけで並大抵の人間など、もてる物をすべて差し出すような有様だった。
 押し入った貴族の屋敷は数知れず。
 京の都は、震え上がった。

 金銀珊瑚、多くの財宝を手に入れて、気をよくした袴垂は、そろそろと思ったのだろう、ある日手下の鬼に、こう言った。

「金を稼いでこの身が安泰となったなら、夫婦になろうと約束した女がある。この京で一番の美女なので、探すには困るまい、連れて参れ、と言ったらしい。
 袴垂は手下の鬼どもが、本来はワシの手下であるなど知らん。袴垂が何かを言うたびに、何かをするたびに、手下の鬼どもはワシのところへ報告に来た。聞いて、ワシは笑った。人間どもは相手の見目が変わると、お互い全くわからぬらしいとな。それも闇夜になれば、声すらよくは聞こえなくなるらしい、と、酒の肴に笑った。
 ………袴垂が捜し求める女は、奴が袴垂となったその時に、羅城門で蹴倒した、あの老婆に他ならなかったというのに。
 苦労を重ねたために、髪は白くなり肌には皺がきざまれ腰は曲がり、京一番の美女の面影などなかった。だがその女も羅城門に住み着いていたのでな、ことあるごと、男が迎えに来てくれるまでは死ねぬ、と呟いていたのを、ワシは聞いておったのだ」

 鬼童丸は手下に、素知らぬ顔をするよう命じた。
 そして、素知らぬ顔をした手下どもは、仮の主である袴垂の言う通り、捜し求めている女として、例の老婆をとらえ、袴垂の前に連れてきた。
 互いの驚くことと言ったら。

 女は驚き、己を襲った男が、今度は己の命を取ろうとしてここへ引きずってきたのだろうと思いこみ、半狂乱になって逃げようとした末、彼等が住まいにしていた荒れ寺の縁から落ちて、頭を打って死んでしまった。
 袴垂も驚いた。
 目の前で勝手に驚いて死んだ女が、己をこの盗賊の道へ導いた老婆であるとは覚えていたが、まさかその老婆が、己のいとしき女であるなどとは思わない。

 こやつは人違いだ、このような老婆ではない。
 そう言って聞かぬので、手下の鬼どもは、仕方なく妖術を使った。死体になってしまったものを蘇らせることはできないが、死体になってしまった老婆が、在りし日はどういう姿であったのかを見せることならばたやすい。袴垂の目の方に、ちょっと細工をして、女が在りし日どういう姿であったのかを見えるようにした。
 ごにょごにょと手下の鬼どもに術をかけられ、改めて老婆が落ちた縁の下を見てみると、なんとそこには、いとしき女が熱を失った姿で、仰向けに倒れている。
 今更駆け寄って何をしようとしたところで、死んだものはどうにもならない。

 袴垂も失意に教われ、その場で己の命を絶って死んでしまった。

 いや、死ぬはずだった。ただの人間で、あれば。



 だが、死ねなかった。

 生きるためならば、何をしてもという思いで、追いはぎ強盗はもちろん、貴族の屋敷に火を放ち手勢を率いて押し込みを働くなど、ありとあらゆる悪事をはたらいた男は、奪っていた命の分だけ、呪いにかかっていたのだ。
 奪っていた命たちが、本来なら生きるはずだった年数に、さらに奪ってきた数だけ倍にして、袴垂は生き続けなければならない体に ――― 妖に、化生していた。

 そこから鬼童丸の手下になったかと言うと、だが違う。
 己が死ねぬ妖になってしまったと知った袴垂は、あの晩、老婆から姿を晦ましたときと同じように ――― 違うのは絶望に染まった悲鳴をあげていたことだが ――― その場から疾風のように走り出し、闇の中へ消えてしまった。
 以来、その男の行方は、知れない。



 充分な素質もあり、知恵もまわり、少しは使える鬼になろうと思われていたのに、鬼童丸はすっかり当てが外れてしまったのだと言う。

 だがそのやり口。
 何かになりすましてあざやかに、武士であれ貴族であれ、その持ち物を盗み出したやり口は、今でも、よく覚えていたらしい。



 ここまでの話を、リクオは荒鷲に全て話した。

 伏目屋敷は、花霞リクオの《畏》の腕が届く場所。
 リクオにとって、誰の盗み聞きも、気にする必要はない場所だ。

「たしかに、鬼の手下どもを使って、押し込み強盗のたぐいもよくやっていたけれど、一人で盗みを働いていた頃は、家人を装って潜り込み、知らぬうちに盗み出していたらしいよ。
 確かにそのやり口だったら、家人がちょっと目を離した隙に……ってことも、あるかもしれない。
 けど、その話を聞いてもボク、本当に袴垂が犯人なのかどうかはちょっと疑問なんだ。だって、ボクはこの屋敷に出入りする護法たちの顔、全部覚えてるもの。知らない顔があったならきっと、だあれって訊いてるはずだもの」

 リクオの話を聞いて、ううむと荒鷲も腕を組み首を捻る。

 屋敷の護法の数は多いが、確かにリクオは全員の顔と名を把握している。縁の下や天井裏に棲む小妖怪の数や名はもちろん、小蜘蛛妖怪たちが張った巣の数までも。
 けれど、ふと。

「………そりゃあ、確かに大将はそうでしょうが、たとえば俺みたいのはね、まだ誰が誰だかさっぱりですわ。同じようなのが結構居ると思いますぜ。覚えなきゃならないほど、顔を合わせるわけでもねぇ、大将のお側に侍るのは好きだが群れるのはかなわん、って奴だってございやしょう。こんだけ数が多けりゃあ、誰だって一人や二人、知らねぇ顔があるに違いねぇや。だから、見かけねぇ奴がいたとしたって、きっとまた一匹二匹増えたんだろうとぐらいにしか考えねぇや。あとは大将のことだけ気をつけて、姿を大将に見られねぇようにすりゃあ、知らない奴だとは知られねぇんじゃないかな」
「そんな、まさか。ボクの前にだけ姿を見せないようにして、出入りしたって言うの?」
「賄い処なんざ、勝手口から結構出入りしてる奴が多いですからねぇ。忙しい時ゃ、誰が出て誰が入ったかまで、茶釜さんも気にしてられねぇって言ってるし。ああそう、今日なんて小豆とぎの奴、お使いからぜんぜん帰ってこないでサボってるし。それでもぜんぜん、気にしないような奴等ばっかりなんだから」
「そうか。確かに、ボクがみんなの顔を覚えてても、みんなもそれと同じだとは限らないよね」
「そういうことです。どうですかねぇ大将、この屋敷に居る護法どもを、一度、一つ処に集めてみるってぇのは。もう怪しい奴はトンズラしていねぇかもしれねえが、もしかしたら誰かが、そういえばここにはあいつがいねぇって、名前は知らねぇが顔は知ってる、そんな奴があぶり出されてくるかもしれねぇですよ」

 点呼を取る。
 出入りの激しい富士山麓の男衆が、よく使っていた手である。

 雪女の中には、節操なしに男を《虜》にする者がある。
 男を籠絡する術を覚えたての、雪ん子からやっと抜け出したような若い雪娘は、面白いように男が《虜》になるので調子づいて、必要もないのに気まぐれに次々と男を連れてきてしまうのだ。
 そういったときは、男衆の頭を張っていた荒鷲でも覚え切れぬほどになるので、一つ処に皆を集めて、名前のわからぬ奴には名を書かせ、着物の胸に縫いつけさせた。

 そやつの顔と名前をずうっと見ていれば、次第に名札がなくても、そやつの名前がわかるようになる。
 名札を持たないでうろうろしている、見知らぬ奴は、夢の境をうっかり踏み越えた、現の迷い人であったりするので、すぐに追い返す。

「それはいいね、さっそくやってみよう。……ねえ、誰か、近くにいるかい?」

 荒鷲から方法を聞いたリクオは、大きくうなずいて、しょげていた顔を引き締めさせ、大きく声をかけた。

「はい、ここに」

 と、廊下の角からすぐに姿を見せたのは、やはり雪女だった。

 呼ばれてたった今姿を見せたかのようであるが、冬の冷涼とした空気に、気配を潜めていたのは間違いない。
 今更、扱いの違いに痛みを覚えるような荒鷲ではないが、雪女がリクオに向ける優しげな笑みを内心、自分に向けられる眉尻をつり上げた形相と比べて、《虜》相手と《夫》相手とは、扱いがこんなにも違うものかと舌を巻いた。
 雪女にとっては、夫とはそれほどのものなのか、と、痛みまではいかなくとも、いくらか羨ましく思った。

 かくして、大広間に、屋敷中の護法たちが集まった。
 賄い処や自分の部屋に籠もっていた者どもはもちろんのこと、天井裏、縁の下、そうしたところの小物どもまで、すべての妖どもが、だ。
 百鬼夜行と言うけれど、その数はとうに百など超している。
 全員が、己のケンゾクを集めて頭を張っていたなら、構成団体七十二の奴良家よりも、花霞家は規模の大きなものであったろう。

 良きにつけ悪しきにつけ、伏目屋敷に住まう護法たちは、己が一家を持って頭を張ろうという気持ちに疎い、のんびりした気風の者が多いので、一匹は一匹のまま、屋敷に住まっている。
 そうして、花霞リクオはそのひとりひとりを、全て覚えていた。

「皆、よく集まってくれたね」

 一体何が始まるのかと、大広間はざわるいていた。
 なにせ大将が、夜なのに昼の御姿でこちらを見つめておられる。
 心なし、赤い目で。
 もしや泣かれたのだろうか、泣かせたのは何奴か、脇に控えている褌一丁の変質者ではないのかなどと、ひそひそやっていたのが、リクオが口を開くと、一言も聞きもらすまいとして、しんと静まり返った。

「ボクはこれで全員が集まったようだと思うけど、皆はどうだろう、あの時見かけた奴がいないようだとか、そういうことはないだろうか。ちなみに羽衣狐との決戦以降、暇を申し出てきた護法は、いないはずなんだけど」

 不思議な仰せに、護法たちは互いに顔を見合わせたり、きょろきょろとせわしなく部屋を見回した。

 そのうち、

「そういえば………」
「花開院の義兄ちゃんたちは、暮れから家に帰ってるんだっけ?」
「にしたって、同じ背格好の奴が足りないよな」
「背格好?……あー、人間サイズの奴が、そう言えばもう一人いたよなぁ」
「あいつ、名前なんて言ったっけ」

 この場にいない《誰か》が、浮き彫りになってきた。

 副将二人は、そこは二人どもが、それぞれ一家を構えていてもおかしくない器。流石に屋敷の妖怪どもを把握している。
 大将と同じく、これで全部と思っていたところに、小物どもがあいつが居ない、などと言いだすので、大将と三人で顔を見合わせた。

「それは、どういう姿だった?」
「何か覚えてる特徴は?」
「小さいことでもいいから、何でも覚えてることを言いたまえ」

 大将副将が、こうして聞いてみても、

「目が二つありました」
「耳も二つ」
「あ、腕は二本で、足も二本でしたよ!そういうところは、大将と良く似ていらっしゃいますねぇ!」
「 ――― それは特徴とは言わないだろう!」

 こんな事を本気で言うので、玉章などは業を煮やして、本性をあらわし小物どもに唸り声を上げてしまった。
 きゃあと逃げ惑う唐傘小僧や小蜘蛛や山鳩等は、すぐに大将の後ろに隠れる。

「玉章くん、落ち着いて。この子たちからすれば、立派な特徴だよ。人間の姿をしていたってことだもの。それでみんな、他に何か思い出せることはあるかい?」
「ええと ――― ああそうだ、チリンって音が」
「音?」
「そうそう、耳に鈴飾りをしてましたね」
「耳元にあんなものつけて、煩くないんですかねぇ」
「分厚い帳面も持ってましたね。あれこれと、あたし等の話を面白そうに書き連ねて」
「趣味で面白い話を書き溜めてるって言ってましたっけ」
「名前 ――― 名前、誰か知ってる奴、いるか?」
「ええと〜、なんだっけ、クニオ?」
「ああ、そんな名前だったような気もするなぁ」
「僕たちのお話、面白いって言って、仕事の合間に色々聞いてくれたよねぇ」

 小物たちがどさくさに紛れて大将にひっついたり、頭や肩の上に乗ったりしながらかしましくし始めたところに、尋ねたのは奴良組の初代だ。

「もしやそいつの鈴飾り、片耳にぶらさがった奴かい。姿現れるときに時折、チリンとなるやつよ」
「ああ、それ!まさにそれです!」
「着流しに羽織姿で」
「羽織にはびっしりと、なにやら書き連ねた紙を貼り付けていたっけ」
「そういや名前 ――― 」
「ああ、名前ならワシが知ってるよ」

 茶をすすりながらのんびりと初代は仰せになって、部屋の隅から隅に目を光らせた。

「<語られた>そのときに、姿現すのが《百物語組》。おめェもその一人だったよなァ、柳田よ?」

 夜の闇、行灯の明かりが届かぬその奥から、チリン、鈴の音が響いた。



+++



「さすがは、奴良組初代総大将」

 リン、と。

 透明な鈴の音を響かせて、暗がりから姿を現したのは、一人の青年であった。
 妖であるとわかったのは、それが息を潜めていたのではなく、無数の黒い虫たちが依り集まって、一つの形を取ったからだ。

 圓潮が消えたときと同じ、姦姦蛇羅が姿形を盗まれたときと同じ。
 見えなかったのは、ぬらりひょんの《畏》とはまた違う、なにかしら、小手先の術を用いて小虫たちに隠れていたためだろう。

 黒虫たちが形作ったその青年、切れ長の瞳は一見穏やかそうだが、奥には消せぬ狂気の色。
 奴良組の初代、副将二人、鬼童丸、カナ、雪女、そしてリクオへと視線を滑らせて、にこり、笑う。

 曲者の視線が大将をとらえたとき、初代も鬼童丸も、そして副将たちもが、己の身をずいと乗り出して曲者をにらみつけ、狼藉を働かんとするならすぐに斬るとばかの殺気を放つ。
 カナもまた、奥方様に手出しはさせまいと、人間でありながら己の身を彼女の前に乗り出すようにして庇い、逆に雪女は、夫の弟子たる彼女に大事あってはならぬと、袖に隠した手でそっと彼女を制し、柳田を睨んだ。
 いや、座敷に集まった全ての護法が、ただならぬ殺気を放って、柳田を睨んでいた。

「久しぶりだなァ、柳田よ。圓潮ともども《百物語組》の奴等は、あの妙な黒虫になってどこぞに行っちまったモンだとばっかり思ってたぜ?伏目屋敷にこそこそと出入りして、うちの孫の大事なモンを盗ったってのは、お前さんかい。だとしたら、ずいぶん趣味が変わったようだなぁ、おい?」
「お久しぶりです、初代。私はただ、面白い話を聞き集めて回っている次第。今回は、うちの絵師が『アイテムのインスピレーションがわかない』って言うから、色々と見せていただいていましてね。実物を見た方が創作意欲がわくって言うんで、お借りしたものを、描き写しさせるつもりでして。
 そうするうちに、盗賊の噂なんてものが出てきたものですから、これは面白い《物語》だと思いまして、他にも色々と聞いているうち、少々夢中になってしまいました。昔からそうだったでしょう、私は《耳》。お忘れになられた哉」
「こそこそ嗅ぎ回るのも《耳》のお役目ってわけかよ。<語られた>が最後、こうして姿を現しちまったなら、お前さんはもう逃げられん。観念して、あらいざらい吐いちまった方が身のためだぜぇ」

 盗人の正体はこやつに違いない。
 となれば、この場には伏目屋敷の護法たちがそろっているのだ、逃がす道理は無い。そのはずだった。

 護法たちがぐるり輪を描いて不審な奴を取り囲む中、荒鷲はそれ見たことかと胸を張り、縄でもかけてやろうかと、柳田に歩み寄ろうとしたが、当の本人はまるで動じない。

 それどころか、

「観念するのは、どちら哉。妖怪の戦いは《畏》の奪い合い。数が頼みとは限らない。そうだったよね?」

 切れ長の瞳をさらに嫌らしく細めて、上座の中心に座る、リクオを視界に捉えたのだ。

「こいつ、負け惜しみを言いやがって」
「たたんじまえ」
「縛り上げて、蔵に放り込んでやろう!」

 言い知れぬ不気味な視線が、我等の主を舐めるように見つめているのが許せず、周囲の者どもが不気味さを取り払うように尚更大声を上げて飛びかかる。

「 ――― 駄目だ、皆、下がって!」

 飛びかかった者どもが、リクオの一喝に従いその場でぴたりと制止していなければ、誰もが巻き添えをくっていたかもしれない。

 柳田を中心にして、ぶわりと例の黒虫が、螺旋を描いたかと思うと、






《さてさて、皆様 ――― 》






 圓潮の声で、語り始めたのだ。






《これなるは、大盗賊・袴垂。元はどこぞの家人でございましたが、職を失った後平安京の羅城門にて、老婆を一人蹴り倒して以来、生きるため、生き延びるためにあちらこちらで押し込み強盗を働いて参りました。
 それもこれも、一人の女と誓い合ったため。
 己が一身出世をはかり、安泰となったあかつきには夫婦になろうと誓い合った女がおりまして、その女を迎えに行くまでは、死ぬに死ねぬと決めていたのでございます………》





 にわかに、黒い虫が霧のようにわき起こり、柳田の前に一つの形として瞬く間に現れた。
 現れた形は、一人の男。
 暗い瞳を覆面に隠したその男、平安の無頼がしていたように、衣の袖を肩までまくり上げ、腰の刀を既に握っている。
 背には奪った宝物か金か、袋包みを縛り付け、荒々しくも堂々たる風情。
 それが現れた瞬間、刀を一閃!
 剣圧だけで周囲の護法がはね飛ばされ、障子が破れ、襖が倒れた。
 あらゆるものを斬り裂きながら、剣の風はまっすぐにリクオの喉を狙って迫ったが、脇から躍り出た女修験者、邪魅の刀がはじき返して事なきを得る。

 弾きとばされ、ころりと転がってきた野兎を、すくいとって庇いながら、リクオは笑みを消し、視線で彼を射た。

「圓潮含めた《百物語組》が、どこかに潜んで物語を集め、それを駒にして人々から《畏》を集めているというわけかい?先日の姦姦蛇羅も、貴方たちはどこかから見て、その《形》だけを奪って行ったね。それが、貴方たちのやり方か」
「妖怪なら、《畏》を得たいと思うのは当然じゃない哉。僕たちは、こういうやり方でそれを得ようと思うだけ。袴垂の話、実に興味深い物語だった。実に良い駒になってくれそうだよ。それだけじゃない、流石は京の主の屋敷と言うべきか、あれこれと興味深い話が転がっていたねぇ。
 特に、伏目におわします明王さまのお話は、母子の悲しき別れあり、魑魅魍魎の主の血族でありながら陰陽師にならざるをえなかった、幼き日の主の苦行ありの、涙の物語。あれでよくもまぁ、人間嫌いにならなかったもの。いいや、既に人間はお嫌いかな。なにせこんな辺鄙なところに、妖たちに囲まれて、妖の妻を娶り、それで心安らかにしているのだから。
 もしもその心の内を語ることができたなら………ふふふ、傑作の予感だ」
「………ボクを、<語る>と?」
「決めるのは《口》である圓潮先生。僕はただ、聞くだけの《耳》」

 柳田が腰に吊した帳面に、さらりさらりと何事かを書き記している間も、圓潮の声はどこからともなく響き、やがてここは座敷であったはずが、声によって引きずられたか部屋の四隅が、ほろりほろりと灰のように崩れて行く。
 その後には何も残らない。
 家屋がなくなれば後には草むらなり土なりが残るのに、しかし四隅が崩れた向こうには、何も、何も無い。

 虚無が広がるばかりのそこに、引きずり込まれるのを多くの護法が思わず恐怖して、脂汗を垂らしながら部屋の真ん中の方へと、自然、集まった。





《さてさて、ここに語りますのは、平安の都から無念にも流されました……》
《その荒御魂は都に疫病飢饉をもたらし、自らは鬼、いや魔王となりて……》
《御名、崇徳上皇》
《さてさて、ここに語りますのは、平安の都から無念にも流されました……》
《梅花に愛されたその御方、哀れんだ東風が太宰府まで、梅花の香りを運んだとされますが、傷つけられたまま死に至った心は、花の香りだけでは癒されませなんだ……》
《末は雷を従える荒御魂となりて……》
《御名、菅原道真公……》





 その間にも、圓潮の声はさらに大きなそれとなり、<語られた>物語は次々と形となって、柳田の周囲を守護するように取り囲む。
 今や、座敷であったはずのその場所は、畳数畳のみ残し、天井も壁も、暗黒が渦巻く混沌の坩堝と化していた。
 一歩でも足を踏み入れれば、いずこへ続いているやら知れない。

 柳田の周囲に現れた荒御魂は、格の違いを如実に見せつける。
 この部屋全体が混沌に呑み込まれようとしている今、それを取り囲んで憤怒の形相で睨み、柳田の命があれば、部屋ごと彼等を粉みじんにせんという有様だ。

 そうなっても、リクオを中心として、雪女や副将、初代と鬼童丸などは堂々としたもので、柳田から一瞬たりと目を離さない。
 恐怖に呑まれた方が負けだと、今動けば、柳田を逃すとわかっているためだ。

 事実、己の<物語>を聞き、持ち帰ろうとしている相手を、リクオは視線で絡め取り、あともう少しで柳田は、目の前の小さな少年の大きな《畏》に、呑み込まれるところだった。
 口元に笑みこそ絶やさぬものの、内心を表してか、二つの目はぎらぎらと輝き、忌々しそうにリクオを見つめている。

 集めた<物語>で作り出した妖怪、荒御魂は、従順に柳田を護ったが、元々が虚ろな者たちだ。
 座したままでいるリクオの、意味深い瞳が投げかける視線だけで気圧され、振り上げた拳をおろすことは叶わなかった。

 けれど、端っこに居た小物たちが、じりじりと迫る暗黒の淵に、尻尾までぶるぶる震えさせ、近くに居た小物たちと抱き合って恐怖に耐え続けたあげく、狛鼠が尻尾を呑まれそうになってひゃあと悲鳴をあげたのを、どうして責められよう。

「………リクオくん、いけない。今集中を切らしては、奴を逃がす」

 淵があると思うから呑み込まれるのだ、己を保てぬ小物など捨ておけと、玉章が形だけ厳しく進言するが、もちろん、

「どうせこのままじゃ我慢比べだ。いいぜ、リクオ。やれよ」

 本気で我等が大将が、小物一匹だからとお見捨てになるはずがないと、わかっている。
 猩影と玉章、二人がずいと前に出たのは同時だった。

 頷いたリクオが、そっと、肩に触れる妻の両手を感じた後、柳田を見つめていた視線を、一度、閉じた。

 あの心眼の前にさらされ、全身汗だくになっていた柳田が、ほっと力を抜いたのも束の間。



 次の瞬間には、その場は虚無から、地平線まで続く睡蓮の湖へと、姿を変えていた。



「……ほぉう、《畏》の場を作り出すとは、人の姿でありながらリクオもよう勉強しておるのう。流石はワシの孫じゃ」

 その場の誰をも、柳田も、それを囲む妖怪たちも、この場に引きずり込まれてにわか、あわてた様子であったが、両者の緊張が切れた一瞬でもあった。
 睡蓮の葉の上、この世界を作り出したがために半眼の瞑想状態に入ったリクオは、実に無防備に見えたのだ。

「手の内を見せたか。なるほどなるほど、これが伏目明王として《畏》を集める、花霞リクオの実力か。確かに人の身でこれはすごい。お孫さんは実によく学ばれたようで、よかったですな、初代」
「そうじゃろうそうじゃろう。って、お主に言われたくないわい!」
「このフィールドの効力は、闇に属する妖怪、荒御魂の特殊攻撃無効化、といったところ哉ァ。消費MPは………これほどの大技ならば、使用後しばらくは同等の大技を使えなくなるか、MPが足りなければHPから削ることになりそうだけど、お孫さんの場合は、はて、どうしてか無尽蔵に見える」

 この時、猩影が振りおろした大鉈が柳田の真上から振りおろされたので、彼はリクオの観察から、目の前の敵に集中せざるをえなかった。
 彼自身、戦いを本分とする妖ではないが、腰から吊した帳面にはぎっしりと、これまで聞いてきた《物語》が書き連ねられている。

 大鉈の一撃を横にかわし、次に迫った、玉章が放つ網のような木の葉を飛んでかわしながら、ばらばらと帳面をめくっては、「将門、牛若、巴御前……」と、次から次、目に付いた頁の登場人物を読み上げていく。
 するとそこに、あの圓潮の声が重なり、語られた《物語》は、自覚を与えられぬままに、柳田の敵へと襲いかかった。

 足場さえあれば、妖にとっては少し眩しい世界であっても、それが御大将の《畏》の中だと思えば伏目の護法たちにもう怖いものなど無い。
 互いに抱き合ってぶるぶると震えていた小物たちも、ほっと息をついて蓮の葉の上に降り立ち、湖を泳ぎ、紫雲がたなびく空を飛びして、副将たちに続いた。

 加えて、柳田にとって一番に厄介なのが、半眼の瞑想状態にあって一番距離があるはずの、花霞リクオだった。

 どこまでも、彼の視線は追ってくる。
 逃げても逃げても、どこまでも世界は続く。
 たなびく紫雲が、透き通った湖が、美しい睡蓮の花や蕾が、目に映る全てが、柳田にとっては忌々しいにもほどがある。
 心暴こうとする陽の光も、居心地が良いと思わせる、かぐわしい香りも忌々しい。
 己を語ると言われても、微動だにしなかった心も、小生意気で忌々しい。

 だが。
 にやりと、柳田は顔を歪めて笑う。

「そうか、これが君の手の内か。手の平の中に妖をすくいとり、籠絡して己の護法とする。
 ハハハハハ、まるで売女、陰間のようなあさましさ。己をエサにしているだけじゃないか!ハハハハハ!
 いやしかし、これは良いヒント哉。君の《畏》は、《彼女》によく似ている。あの忌々しい女神の光、廃するならば君にヒントがあるということ。あの女神も、威光などと名ばかり、己をエサにして多くの人間を味方につけてしまっていることだし、それを廃するには、君の弱味と同等の弱味を、彼女の中に見つければ良い、そういうことだ。
 君の弱味を語らせてくれない哉、花霞リクオ。見せてくれない哉、聞かせてくれない哉。
 こんな綺麗な世界を夢に見なければならないほどに、君に浴びせかけられた現実は、悲惨なものだったというわけだ!どれほどだった哉、人間たちがもたらした痛み苦しみは。いかほどだった哉、妖怪たちがもたらした怒り悲しみは。
 母を人質に取られて、陰陽師に斬り刻まれた記憶はもう、いかほどか薄れた哉。どうせ癒えるのだからと、腕や足を斬り落とされ札で戒められた記憶はもう薄れた哉。妖のくせに、妖のくせにと、同じ年の子供等に、蹴られ殴られ涙した痛みは、もう薄れた哉。舐めて床を綺麗にしろと、頭を踏みつけられた屈辱は、もう忘れてしまった哉。
 いやいや素晴らしい、なにを暴かれても、君の心は揺らぎもしない。鏖地蔵はこの《畏》の中で逝ったのか。
 だがしかし、僕は逝かないよ。こんな光などおそれはしない。もっと恐ろしい闇を、知っているのだから!
 さあもっと聞かせておくれよ、君の怒り、苦しみ、恨み、妬みを!」

 いたぶるような言葉を羅列されようと、古い記憶だ、今更、リクオの心には波風一つたたない。
 鏖地蔵とは縁を切ったなどと言っても、元は一つの体から生まれた《百物語組》の柳田が、それを知らぬわけはない。

 同時に、鏖地蔵が知り得た事柄も、知らぬわけはないのだった。

「ねぇ、是非、聞かせておくれよ。
 それほど守りたかった母君、守れなかった母君に会えたとき、そのときの君は、世界と母君と、どちらを選ぶのかをさ。
 母君も、きっと君に会いたがっている」

 守れなかった。
 母は成仏して、ここではない世界へ旅立ってしまった。

 僅か、睡蓮の湖に波紋が鳴り、僅か、陽が陰った。
 それだけで、動揺は知れた。
 もっとも、その時はそれだけだった。
 もう母はここにはいない、けれどそれと同時に、かつて無かった家族のつながりがあると思えばこそ、リクオの《畏》は、柳田を己の世界の中に封じ込め続けていた。

 だが、それだけの動揺で、柳田には充分。

 勝ちでこそなく、柳田にとっては、相手をいささか侮り試してやろうと思ったがための危機であったが、これで逃亡の計はたった。





「母君は、《昔、着てみたかった》衣装と、よく似たお召し物を着ておられるよ、花霞リクオ。よく似合っておいでだ」
「 ―――― え?」





 深い瞑想に沈んでいたリクオの意識が、不意に浮上した。
 おそよ欲や執着が感じられなかったあの母が、たった一度だけ、こっそりリクオに囁いた、ささやか過ぎる望みを、まるで柳田は知っているかのようだった。
 伏目の護法はおろか、花開院の兄妹たちも知らないそれを、どうして、柳田は知っているのか?

 リクオの心に僅かな乱れが生じた。
 それでも尚、広がる湖と青空と、睡蓮の風景は変わらない。
 柳田を守るように現れ出ていた、中身の空虚な荒御魂などは、太極の座に引きずり出されて長くは持たず、拳を振りあげた姿のまま、砂の楼閣のようにさらさらと消え始めていた。

「そのような世迷言で、我が御大将を惑わすとは」
「死をもって償ってもらおうか!」

 ついに副将たちの爪と牙が、柳田をとらえるかと思われた、その時だ。

 リクオが僅かに動揺したその揺らぎが、異界と現世をつないでしまったらしい。
 柳田の目の前の空間が、からりと音をたてて、人一人分だけ、横に開いた。

「たっだいまー。みんな、どうしちまったんだい、賄い所に誰もいないんだもん、おいら探しちまったよ。お使いついでに近所のおじさんからたっくさんお菓子もらったから、大将、一緒に食べよー。って、え、あれ?」

 姿を現したのは、お使いに出ていた小豆とぎ。
 お使いついでにたくさんのお菓子をどこぞから貰って来たらしく、スーパーの袋にたっぷり二つ分、駄菓子を詰め込んで引きずっていた。

 からりと開けたその場所、座敷であるはずのところに、広い青空と湖と睡蓮と、心地よい光溢れる《畏》が広がっていたので、慣れ親しんだ御大将の《畏》ではあったが、すぐには事態を飲み込めず、目の前に必死の形相で迫っていた柳田に、対処できなかった。
 うわあと尻餅をつき、柳田はその小豆とぎの顔を踏みつけて、するりと戸の外へ出てしまったのだ。

「袴垂、足止めをしろ!」

 柳田にぴったりついて後方を守っていた黒装束に覆面の盗賊は、玉章と猩影二人を相手に、襤褸切れのようになっていたが、柳田の命令にたじろぐ様子なく、戸口で振り返って二人に向き直る。

「ええい、邪魔な奴!」
「どけ、この大鉈で潰されたいか!」

 ここまでも二人の容赦ない追撃を受けていた袴垂、もはや避ける術もなく、紙屑のように裂かれて消えるかと思われた。

 しかし。
 大鉈と刀、二人の容赦ない一撃を、袴垂は懐から取り出した二つの宝物 ――― 独鈷杵の杖と、横笛《葉隠れ》でもってしっかと受け止め、はじき返した。

「そいつは?!」
「それは、リクオくんの。……貴様、それを返せ!畏れ多くも御大将の持ち物に、穢らわしい手で触れるんじゃないッ!」

 二人ともがいよいよ気色ばみ、尚更攻めの手を激しくするが、二度、三度と得物を打ち合わせているうち、するり、と、二人の手の内から、得物が意志を持ったかのように飛び出て、袴垂の手におさまってしまったではないか。

「猩影、玉章よ、おそらくそやつは、《相手の大事なもの》を見抜いて奪う《畏》の持ち主。武具であれ宝物であれ、時間をかけていると奪われるだけぞ」

 鬼童丸が言うが早いか、こちらも抜こうとしていた刀をするりと奪われる。
 護法たちが手にしたそれぞれの得物がするりするりと、空を飛んで次々と、袴垂の手元に収まっていくのを、誰一人として止められず、このまま柳田も、袴垂をも取り逃がしてしまうかと思われた。

 その時だ。すっくと立った男。
 いや、漢が一人、居た。

 その男、一張羅の褌に手をかけると。

「他人の《大事なモン》を根こそぎ持って行くたぁ、ふてぇ野郎だ!この荒鷲さんがとっつかまえてやる!オラ、俺の大事なモン、持っていけるもんなら持っていきやがれッ!!」

 その場でそいつを、勢いよくはぎ取り天高く放り投げたのである。

 場違いな女衆の悲鳴もなんのその、褌はこれもまた、くくっと袴垂に引き寄せられ、その手におさまった。
 その端っこをひっつかんで居た荒鷲ごと。

「こいつはオマケだッ!」

 釣り針にひっかかった魚のごとく、ほとんど真横に飛んだ荒鷲が、袴垂の横っ面を殴りとばしてその上に馬乗りになるのと、周囲の景色が霞んで、元の大座敷に戻るのとが、同時だった。

「うし、取り返しましたぜ、大将!」

 意識を失った袴垂の手から、独鈷杵と横笛を力任せに引っこ抜き、荒鷲は堂々の勝利宣言をしたものの、

「前を隠せ、うつけ者がッ!!」

 満面の笑みで振り返った途端、片袖で顔を覆った雪姫さまから、氷塊を顔面にいただいたのであった。