捕縛できたのは、袴垂のみだった。
 荒鷲にぶん殴られて気を失った後、副将二人に縛りあげられ、仕上げにリクオの札をあちこちに貼られた後は、何を話すわけでもなく、身動き一つしない。
 黒覆面は引っ張っても何をしても取れず、頭の上に上った狛鼠がどうなってやがるかと、目開きから中を覗いてみた瞬間、しっぽまでぴんとのばして震え上がった。

「な、な、な、なななななッ」
「おうどうしたい狛鼠、何が見える?」
「な、ないッ!」
「ないって?」
「どうしたの、狛鼠。ないって、何がないの?」
「何にもねぇですよ大将!コイツん中、空っぽだッ!」

 柳田によって呼び出された他の者どもは、柳田の逃亡を助けた後、さらさらと黒い砂のようになって消えてしまった。
 その上、袴垂の中身が空っぽとはどういうことかと、一同が黒装束の盗賊に見入る。

「空っぽ……にしては、でも、動いてるみたいだよね」

 リクオに指れて皆が注目してみれば、なるほど、空っぽのはずの装束の胸のあたりが、まるで息をしているようにわずかに膨らんだり、顔を覆う覆面も、息をしているように時折形を変える。

「元々が人間でも、妖怪になったら中身だけなくなったりするものなのかな?」
「……いや、服装はよく似ているような気がするが、奴ではない。《百物語組》の手口は知らんが、鏖地蔵がよく使っていた影の忍が、こういった輩であったように思う。噂という糸をたぐり寄せて編んだ綱のようなものなのだろう、何かしらの《畏》は感じるのだが、内実が空っぽの、つまりは偽物だ。こやつはワシが会った袴垂ではない」
「偽物の、妖怪?確かにここに居るのに?」
「奴等にとっては、そういうものなのだろう。駒として呼び出し、使い捨てる。見たところ、つい先ほど、あの柳田という奴がこれを呼び出したように見えた。生まれて間もないから話せぬのか、それとも回収するつもりもないから、余計な事を話さぬよう、意志などは持たせておらぬのか。どちらにせよ、妖怪と呼ぶにも半端な、影法師のようなものだ」

 偽物であり、影法師である。
 使い捨てられるためだけの、道具である。

 だから情けをかけても無駄だぞと、思ってはいても、鬼童丸は続けなかった。
 それこそ、優しすぎる息子には、何を言っても無駄である。
 ここに捨ておかれたこの木偶の始末など、決まりきっていた。

「……でも、生まれ方がどういうものであれ、生まれたものが心持たぬものとは、限らないでしょう。他に呼び出された者たちと違い、彼が消えずに残ったのなら、それだけ何か強い想いがあるということだもの」
「屋敷においてやるつもりか」
「このまま外に放逐して、あちこちのものを盗まれちゃたまらないし、もしかすると気が変わって、《百物語組》のことをいろいろと教えてくれるようになるかもしれない。誰かに面倒をお願いしたいけど………そうだ、荒鷲さん」

 そこでリクオは、今回の金星、荒鷲に、富士山麓では男衆をまとめあげていた上に、今回のあぶり出し作戦の知恵も出してくれたことだし、伏目屋敷での手下を与えるつもりで向き直った。
 向き直ったが、いると思っていた場所には彼の姿がなく、かわりにそこには氷像があって、いそいそと小物どもが下半身に布を巻き付け、庭にごろりと頃がしているではないか。

「ちょ、ちょっと、みんな?!やめてあげて?!ちょっと、みんなってば?!」
「えー。だって奥方様が『変態に死を』って」
「やっぱり、変態だったな」
「変態だ。ド変態だ。痴漢だ」
「うわー。えんがちょー」
「こ、こら!氷麗、そんな事しちゃダメだよ、がんばってくれたのに!」
「いけませんリクオ様、それはそれこれはこれとして、あのような変態行為はきっちりと罰さねば。雪女の下僕として仕えるべき男衆が、あのような、あのような………!お母様がこの場にいらしたら今度こそ、誰に何を言わせることもなく、腐刑だったことでしょう」
「そ、そりゃあ、女性の前でアレは、デリカシーに欠けたかなという気がするけど、その、許してあげて。ね?」

 夫君の弱った様子に、常の雪女ならどれほど怒っていても、いたしかたありませんねと釣り上げた目尻を下げたろうが、今日ばかりはそうはならなかった。

「なりません、リクオ様。伏目屋敷に住まう女怪の筆頭として、こればかりは許すわけには参りません」

 うんうん、と雪女の周囲の女怪たちが、一様に頷く。
 鉤針女をはじめ、伏目護法を名乗る女怪たちは皆、相応の格を持った女たちだ。

「伏目屋敷が男所帯なのは、致し方ありません。圧倒的に殿方の数が多いのですもの。カップラーメンばかり食すのも、床がポテチの欠片と油で足袋の後ろが脂ぎってしまうのも、布団の間にいかがわしい本が挟まっているのも、男所帯ならば致し方ないと、私どもは耐えております」

 うんうん、と、女怪たち、頷く。

「ですが。夏に暑いからと言って、いわゆる《ラ》状態でそこらをほっつき歩く、縁側にひっくり返る、酒を飲んで踊る、ああいったことには厳しい罰を与えてやりませんと!」
「……皆、そんなに我慢してたの?」
「そうです。リクオ様が甘いのを良いことに、酔った勢いでその嫌らしいものを、女怪に見せびらかして嫌がる様子を見て楽しむ者もおりますし」
「そらあかんなあ。誰がそんなことしはったん?」

 苦笑しながらリクオが周囲を見回すと、数人、さっと目を伏せる者どもがある。

「馬鹿馬鹿しい。小学生か、お前たちは」

 その中にあって図体のでかい手洗鬼は見逃されず、玉章の拳骨をちょうだいした。

「……荒鷲の手柄を誉めてやるは結構でございますが、振る舞いの不味さを躾するは、荒鷲を母より預かった氷麗の役目でございます。荒鷲は女所帯の富士山麓で、男衆の躾も任されていた身です。あのような振る舞いをしてただで済むとは元々考えておりますまい。氷が溶ければ、あとは解放いたしますので、荒鷲への話はそのときにでも」

 艶やかに笑う妻に、まだ幼さを残す夫君は二の句が継げない。
 妻が理由なく、このような残酷を言うはずがないし、言われてみると荒鷲はリクオの護法ではない、富士山麓から氷麗を娶ったときに、氷麗につけられた近侍である。リクオがあれこれ口を出すのは、筋違い甚だしいというものだろう。

「さあさ、リクオさま。今宵は少し夜更かしが過ぎましたねぇ。リクオさまが正式に花開院家当主候補が任じられた、折角のめでたい夜だと言うのに、すっかりお祝いが後回しになってしまいました。
 お湯を使って、軽く何か含んで、今日はもう寝てしまいましょうね。お祝いは明日、続きをいたしましょう」
「あの、でも、その、氷麗。庭に転がしちゃったら、荒鷲さん、氷が溶けても風邪ひいちゃうんじゃあ?」
「《虜》になってからは、妖気を帯びるようになっております。それで風邪をひいたなら、そやつの間抜けということですよ」
「で、でも」
「いけませんよリクオさま。これ以上の夜更かしは、体に毒です」

 でも、でも、とさらに言い募ろうとするリクオを、脇からうながして席を立たせると、むずがる守子を寝かしつけるねえやの手管で歩ませ、下がらせる。
 小物どももすっかり奥方さまの味方で、庭に転がった荒鷲の上に乗り上げて、小さな手をふりふり、御大将夫婦を見送った。御大将ときたら放っておくと、夜通しでお勤めをなさるなど、無理を無理と思わぬ御方であるから、大将大事の護法たちにとって、無理にでも寝かしつけてくださる奥方様は、ありがたい存在だ。

「そんで、白蛇よ、ワシ等ぬらりひょんの一属への疑いは、これで晴れたのかのう?」

 それではおやすみなさいませ、とたおやかに老妖怪たちへ挨拶した雪女へ、二人きりになったからとて、あまり夜更かしするんじゃないぞとからかって、大将夫婦を見送った後、ぬらりひょんは傍らの白蛇店長に、意地悪そうな視線を送った。
 白蛇店長は僅かに鎌首を下に、尻尾をぴんとのばすような所作をする。
 肩がないので、肩をすくめられないが、リクオなら店長のとぼけるときの癖だとわかったろう。

「ワシが疑っていたのではない、商店街の奴等の手前だと、最初から話しておったじゃろうに。おうとも、ぬらりひょん一属は無実と、しっかり寄合連中に話しておくとしよう。あとは盗まれたものが元通り、元の場所に戻っておれば良いのだが」
「確かめるのは、夜が明けてからになるじゃろうな。うちの嫁はリクオの夜更かしを嫌うからのぅ」
「おかげでバイトの回数が減らされて、うちの店としてはちと困っておる。リクオ目当てに来ておった祇園の女怪たちが文句たらたらじゃ」
「ほぉ、我が孫ながら、リクオも隅に置けん奴じゃ。雪女にはいささか悪い気がするが」

 年寄り連中は、こうして話をはぐらかし、気にかかる暗雲を、いくつか見ぬ振りをした。
 逃亡した柳田についてや、いずこにでも現れるようになった《百物語組》が紡ぐ抜け殻の妖怪についてをだ。
 夜更けの思案は良からぬ考えしか導き出さぬと、知ってのこと。

 なにせ今日はめでたき年明け、この屋敷の主が陰陽師の筆頭候補となられた祝いの日であるのだから。

 そうするうち、年寄り連中三人の前に、小物たちが膳を捧げ持ってきた。
 消えた黒虫たちの後を追ったり、大将が放った《畏》にうっかり腰を抜かして立てないでいる者どもを助けたり、大座敷はまだ立て込んでいるが、そこは客人をないがしろにせぬようにと、しっかり躾けられている護法たちだった。
 白蛇店長は席を立とうとしていたところに膳が運ばれてきたので、いやいやそんなつもりは無かったからと一度は辞したが、鬼童丸からも「祝いの酒だ」とすすめられると、固辞できたものではない。
 なら一杯だけと席についたが最後、二の膳、三の膳と運ばれてきた。
 障子で遮られた庭や隣の部屋からは、結界を敷き直すだの、他にも曲者が無いかどうか確かめるだの、副将に率いられた護法たちがあれこれせわしなく動く物音が届くが、それよりもすぐ傍で付喪神たちが奏でる音楽が耳に心地良く、あまり気にならない。

「つい五年前くらいは、一家と言うてもリクオが居なければその夜の献立にも困っていたような者どもじゃったのに、今は夫婦二人、寝入ってもまわるようになっているとは、花霞一家も大きゅうなったもの。しかし………」

 こればかりは、と思って、白蛇店長は一言だけ、苦言を申し立てた。

「褌一丁の変態を招きいれたとは、聞いてはおらんかったぞ。なんじゃ、あの変態は。あんな変態がいたのでは、可愛い凛子をここに遊びにやらせるわけにはいかんぞ、リクオの奴め」

 事情を知らぬ白蛇店長なのだから仕方ないとは言え、ギリシャ彫刻のように庭で氷像と化している荒鷲、哀れ。



+++



 そのまま放置されていたなら、なにせ冬のこと。
 朝陽に照らされたとて、雪女の氷が溶けたかどうか。
 荒鷲がその夜のうちに氷像から生身に戻り、えっくしょいと相変わらず下品なくしゃみができたのは、それを懸念した屋敷の主の厚情に他ならなかった。

 ふうと吹きかけられた妖気は、春の息吹。
 僅かな一瞬、氷像は蒼い炎に包まれたが、火の粉が桜の花弁のように舞い散ると、その後には生身の荒鷲が居たという次第だ。

「ぶえっくし、えっくし!……なんだ、なんだ、俺、どうなった?!」
「災難だったな、荒鷲。風呂沸かしてあるから、じっくり温まってこいよ」
「え、あ、大将……?」

 へたりと座り込んだ荒鷲が、濡れた犬のようにぶるぶると顔を振ってから顔を上げてみると、そこには明王姿で寝着のままの、リクオが苦笑いしている。
 リクオだけではない、その両脇を副将二人が、やはりそれぞれ寝間着とパジャマ姿で、にやにやしながらこちらを見ていた。

「袴垂を首尾良くとらえたのは覚えているかい?しかし、手段がまずかった。畏れ多くも奥方さまの前で褌を取り払った君は、行儀作法のまずさに氷像の刑に処された。
 大将によく御礼申し上げたまえよ、荒鷲。本当なら自然解凍を待たなければならなかったのに、御大将は君を不憫に思い、わざわざ奥方の厳しい監視をくぐり抜けてこの夜のうちに庭に出て来てくださったんだから。」
「おい玉章、からかってやるなよ。リクオ、あとは俺たちが伝えておくから、お前部屋に戻っていいぞ。姐さんにはトイレって言って来たんだろ?あんまり時間かけてたら、疑われるだろ」
「ったく、二人とも、いつまでオレをガキ扱いするつもりだよ。ちょっとくらい大丈夫だって。
 荒鷲さん、今回の件、アンタのお手柄だったぜ。ただちょいと女衆の前であの手段はまずかったな。うちの女房がすっかり目くじらたてて……まさか氷漬けにしちまうとは。どうか、恨みに思わないでやってくれ。今回の手柄のことは、オレからも富士の義母上さまに、お報せ申し上げるから」
「手柄……氷漬け……あー……、なんとなく思い出してきた」

 袴垂を逃がすまいとしてとっさにとった行動だったので、その場に誰がいるかまで考えていなかったが、思い返してみるとあの場に、雪姫さまを筆頭に女衆も数人居たような気がする。
 伏目屋敷は富士山麓の火を扱う場所と同じくらい、男衆が多い男所帯なので、つい失念していた。
 それにしても、雪姫さまの存在さえ一瞬だけとは言え失念してしまうなどと、雪女の《虜》にあるまじきことなので、《虜》になりたての下男ならいざしらず、よもや我が身に起ころうとはと荒鷲は少し混乱し、恥じた。
 氷像の下半身部分をくるんでいた布をたぐり寄せ、少しは見苦しくないように腰に巻いて、その場に両膝をつき大将へ頭を垂れる。

「こいつは、奥方さまの前で不調法いたしやした。恨みに思うなんざとんでもねぇや、氷漬けの仕置きなんぞナマやさしいくらいの無礼でしたでしょうに。これこの通り、お詫びいたしやす」
「そうなのか?オレはちょいと酷いと思ったんやけど……」
「だからいつも言ってるじゃないか、リクオくん。君は甘いと。この屋敷にはおよそ罰則というものが存在しないから、つけあがる奴はつけあがるんだ。奥方さまの仰せはごもっともだよ。猛暑と言えど、あちこちで裸状態の男どもを目にするなんざ、見ているこちらが暑苦しい。ときに下僕には、躾が必要だよ。犬神を見てごらん、僕の躾のたまもので、そこで待てと言えば、長袖姿でも炎天下の中で一日中待っているよ」
「いや、お前の例は極端なんだよ、玉章。リクオ、まあ俺はどちらかと言えば、自分の部屋は自分しか使わねぇし、ポテチの袋が散らかってることも多いけどよ、中にはもっと酷い使い方をしてる奴も多いぜ。目に余る汚部屋は、流石に片づけろって言い聞かせちゃいるが、女衆にしてみりゃ、そんな部屋に入るのも嫌ってのが正直なところだろ。大将が良いって言ってるんだからいいだろうってな具合に、女衆と喧嘩腰になる奴も中にはいる。花霞一家も俺が来た頃に比べて大きくなったし、ここらでちょいと、シメるところシメないといけねぇかもなあ」
「……でも、オレ、そういうの、ようわからんわ。そないに掃除したくない場所があるなら、オレがかわりにやろうか?」
「「ダメ、絶対」」

 放っておいたら本当に、一人で屋敷の隅から隅まで掃除してしまいそうな大将に、二人の副将は兄貴分としての役割をきっぱり果たした。
 弟分がしゅんとするのはわかっていても、言うべきところは目尻を釣り上げて、ACかくやと思うほどきっぱり申し上げなければ、御大将はどこまでも護法に甘いから、本当に皆の部屋の掃除を始めてしまいかねない。
 それを見て倣う者どももあろうが、御大将のようにはなかなかできないからと、結局任せっきりにしてしまう者もある。数が少なければそれでよかろうが、大所帯になってくると、それではいけない。

「掃除云々もそうだが、行儀の部分だって確かにそうだ。その点、荒鷲は女所帯のことをしっかりわかってらぁ。富士山麓でいきなり沙汰ぁ決めろと言われたのが初対面だったし、お前をあちこち引き回して下男のように扱った報いを決めろと言われたから、こういう沙汰にもしてみたけどよ、それに文句を言うわけでもなし、しっかり働いてらぁ。俺はそろそろ許してやってもいいと思うけどな」
「許すと言うと語弊がある。ここ百年ばかりは富士を離れて、奥方さまの近侍を続けるという約束は、果たしてもらわないとね」
「………あの、大将、それに方々、いってぇ、何の相談で?」

 寝間着姿の三人は、何か決定を下しているらしいが、荒鷲にはいまいちぴんとこない。
 彼にとっては、知らなかったとは言え雪姫さまの夫君にあのような失礼を働いたのなら、己の沙汰は当然。雪羅御前にしてみれば娘の結納を前に恥をかかされたのだから、むしろ今こうして息をしているだけでも温情をかけていただいたと思えるものだ。
 雪姫さまの前で、ほんの一瞬でもその存在を失念したのは、御大将の大事な持ち物も取り返してやらねばと、雪姫さまの夫君としてではなく、御大将自身を大事に思ってのこと。これは《虜》としてあるまじき、移り気と思われてもいたしかたなく、氷像にされたのも納得できることだった。
 《虜》とはまったく、義理堅く哀れな生き物である。

「お前に褌一丁の沙汰を申し渡したのは、僕たちだ。御大将に男衆の着物を着せて、猿回しのごとく雪屋敷を連れ回すなどと恥辱を浴びせたのだから、それぐらいは当然だと思ったまで。僕は別にこれから百年、君がそのままだったとしても、全く、これっぽっちも、良心など痛まないんだが、うちの大将が事あるごと可哀想だと言うし、隠れて着物を与えたりもするし、そうなると罰が罰と思われなくなって、一家の風紀の問題になってくる。だからここらで、褌一丁から少し格上げしてやろうかって言うことさ。沙汰を言い渡した僕たちがそう決めれば、今回の手柄もあるし、周囲も納得するだろう。不本意ながら、ね」
「手柄……。するってぇと、大将の持ち物は、手元に戻ったんで?!」
「ああ、この通り。荒鷲さん、あんたのおかげで取り返したよ。ありがとう」

 懐から、笛と独鈷杵を大事そうに取り出した大将が、心底嬉しそうに微笑まれたので、荒鷲もほうと心から息をつく。
 立派な男君であらせられるが、副将たちが弟扱いするように、どこか頼りないところがあって、だからこそ逆に、自分が支えてさしあげねばと思わせるのだと、ほんの一夜、こうして側に居て話しただけでも思い知らされる、たぐいまれな御方だった。

「他にも盗まれたものが戻ったかどうかは、異界の方は白蛇店長が、ご近所さんの方はオヤジさんが調べることになった。荒鷲さんの手柄だよ。玉章がこんな風に、他人を誉めるのは珍しいんだぜ」
「こいつのこの物言いを、誉めてると言うのはお前くらいだぞ、リクオ」
「玉章は照れ屋なんや。かんにんしてな、荒鷲さん」
「僕をツンデレ扱いするのはやめてくれ。……コホン。つまりね、荒鷲。雪羅御前から君を預かった百年間、君にはその姿で居てもらおうかと当初は思ったが、今回の手柄に免じて、少しばかり身を覆うものを多くしようと言うことだ。女衆の前に出るにも、その方がやりやすいだろう」

 きちんと折り目のついた着物を、御大将が自ら手渡してくださったので、これを荒鷲は頭を下げて受け取った。
 以前もこっそりと、そんな格好じゃ寒いだろうからと渡された着物や上着があったが、小物どもが「やっぱり大将は甘いなぁ」「荒鷲、我慢できなくなったら着てもいいんだぞ」などとはやすのが我慢ならず、一度も袖を通したことはなかったが、今回はきちんと沙汰としていただいている。
 袖を通してもかまわない、という事だろう。
 今一度、額を土に擦りつけて申し上げると、御大将自身は「そないに気ィ張らんでも」などと鷹揚だが、副将二人はうむときっちり頷いて下さった。

「ありがとうございやす。御大将へのご無礼の段は、この荒鷲、一生かけて償わせていただきやす!……おや、こいつは?」

 さて、手渡された衣を広げてみると、人間界には大正時代までしかなじみの無い荒鷲でも、見たことがあるものだった。
 上下漆黒、上着は詰襟金ボタン。ついでに冬用の外套とマフラー、手袋まで揃っている。

「師範学校の生徒さんが着てたようなのに、よく似てますねぇ?最近の人間の男ってのは、それを普段着にしてるんですかい?」
「いいや、今もそれは学生服だよ。男子生徒用だ。女子生徒用より良いだろう?」
「玉章、そのネタを引っ張るのはもうやめろ。あのな、荒鷲さん、許す言うても、富士の義母上さまから荒鷲さんをお預かりしている身としては、監督の義務って奴があるんだ。アンタのことだからそんな事はしやしないだろうが、例えば人間の里で酒にへべれけになるだとか、それで騒ぎを起こすだとかされちゃ困る。その点、その学生服を着てる人間は、人間の里で酒は頼めない決まりだし、荒鷲さんは高校生くらいに見えないこともないし」
「ついでに、四月からはリクオの護衛を頼むわ」
「え、猩影、それ本気で頼むん?」
「初代と鬼童丸と俺たちと、四人で話して決めたことだって言ったろ。それより問題が明るみになった後で姐さんに知られて、《相手》を氷漬けにされた方がいいか?」
「それは困るけど……」
「あの、俺が、護衛ですか? ――― 冗談はよしてくだせぇよ、大将はオレなんかよりよほどお強いでしょうに」
「妖怪相手にはね。お前に頼みたいのは、人間相手の部分だよ、荒鷲」
「人間、相手?」

 確かに、学び舎に通うなら陽のあるうち。
 荒鷲は目の前の男君ではなく、あの線が細くどこか儚げな、少年陰陽師の姿を思い描き、すると昔からどういう連中がどういう相手をどういう標的にしてきたか、明治大正の頃から変わらぬ此の世の悪しき慣例に思い当たった。
 他ならぬ荒鷲も誤解から、つい昨年の秋口に、目の前の男君を相手に婿イビリなどをしてしまったが、古来から世の中には、もっと醜悪な輩がある。

 もしや、と荒鷲は目を細めて、しろがねの大妖を下から見つめあげた。
 当の御大将は、副将や家族の思い過ごしこそが心配の種だとばかり、肩をすくめるが、しかしこの件について発言力は無いらしい。何も言い返さないのが何よりの証拠だ。

「君は朝夕校門まで、リクオくんの送り迎えをするぐらいでいいよ。もちろん、学校があるときは毎日だ。誰かに何か訊かれたら、数多くのお兄ちゃんたちの一人、と答えればいい。君のような強面が毎日送り迎えするとなれば、不逞の輩もそうそう手出しはしてこないだろう」
「へい。きっちりと、お勤めさせていただきやす!」

 かくして、荒鷲は来るリクオ高校生活においての、対人間用対策の護衛の任を、預かることになった。
 つい昨日まで、褌一丁で賄い処だ風呂焚きだと、裏方に身をやつし、これが百年続くのかと、緩慢に形を変える月ばかり見つめていたのが嘘のようである。賜った学生服を抱いて、一同に深く礼をした荒鷲は、いそいそとその場を後にした。
 言葉を交わすまであったような気がした、御大将への苦手意識や騙されたような気分など、もやもやしたものはすっかり消えて、すっかり雪麗御前や雪姫さま抜きに、大事な御方と思うばかりだ。明王のように猛々しいところがあると思えば、如来のように静謐な《畏》を内に秘め、なのにただの人間から見ればそれが異質であるがゆえ邪険にされたり攻撃の対象になることもあるのだろうと、この一夜で理解に至ったこともあるが、ただ一言、笑ってありがとうと仰せいただいたのが、何より荒鷲の心を溶かしたのだった。

「これであいつ、少しは伏目屋敷に馴染むといいなぁ。リクオ、また虐められたら隠さずに言うんだぞ」
「荒鷲をもう許してやるなんて、僕は甘いような気がするけどねぇ。けど、猩影くんが言うように君の護衛をさせるなら、あのムサイ顔にセーラー服なんて着せたらそれこそただの変質者。リクオ君のお迎えに現れたなら、そのまま通報されてしまう。致し方ないか」

 二人の副将の過保護はいつものこと。
 また二人に言わせれば、己が己を粗末に扱っているように見えるらしいのも、いつものことらしい。
 人間の子に打たれたり蹴られたりした場に、何度か居合わせていたからだろう、いつもは玉章をたしなめる役割の猩影も、この時ばかりは結託して荒鷲を護衛役になぞしてしまった。となると、二対一でリクオにこの件を覆すことはできない。

 ならばその一件、これ以上は何も言うまい。それよりもっと重要なことだ。

「 ――― で、二人とも。例の黒虫どもの行方、つかめそうか」

 答えは猩影の方からあった。

「霧散した黒虫を、軍曹たちが追いかけた。てんでばらばらに街中に散ったそうだけど、それでも追いかけてみると、街中に散ったものよりも、ある場所に向かった数の方が多かったらしい」
「流石、蛇の道は蛇、虫には軍曹やな。で、ある場所とは?」
「行く先は羽衣狐の棲家だった、例の洋館だったそうだ。柳田もその辺りで姿を消したってよ」
「あの洋館か。たしかに秋口に一回バルサン焚いただけやな。そろそろもっかい焚いとこか。無人だと蔓延るらしいし」
「いや、それ以降もあそこは、家長が頻繁に掃除だの整理だのしてたらしいぞ。開かずの扉だったところや隠し部屋だったところも、羽衣狐が、いや、衣吹さんが伏目に滞在してたときに全部教えてもらって、手入れしてるってよ。いつまでもあの数の本を、伏目屋敷に置いておくわけにいかねぇから、きちんと掃除して図書館代わりに使うんだと。ついでに、開かずの間だったところからは、さらに手付かずの蔵書類が出てきたそうだ」
「えぇッ?!それ、カナは大丈夫だったのか?!」
「衣吹さんから伝授された『おすわり』『待て』の術で事なきを得たらしい。今は他の本たちと同じで、従順なペットさ」
「ほっ。……開かずの扉に隠し部屋か。そら確かに、母上にしかわからんわな。ついでに母上が棲んでたところとあれば、曰くもいくつかついてそうだし、黒虫が好む妖気でも溜まってるんやろうか」
「ありうるな」
「 ――― 猩影、軍曹たちには、伏目に一個小隊残して、あとは洋館で黒虫駆逐と、それが済んだら《百物語組》の出入りが無いかどうかその場で見張るよう、伝えてくれ」
「承知」
「玉章には、ちょいと頼みたい」
「なんなりと。どんなことかな?」
「情報収集だ。FQオンラインとかいうゲームのシナリオと、最近出てきた新キャラと、新アイテムについて」
「カーン・ダーラに引き続き、今回の袴垂も似た名前で出現してやしないか、ということだね?」
「そういうこと。ゲームの内容は雅次義兄に聞けば教えてくれると思う。いや、オレも聞いたんやけど、正直何言ってるかさっぱりやったから、頼むわ」
「お安い御用。ついでにそのゲームに関わった人間が昏睡する噂なんかも調べてみよう」
「頼む。オレは明日からまた、そのゲームに関わった奴の見舞い、行ってみるから」

 長い夜の仕事と明日からの仕事の指示が終わり、やれやれそれじゃあもう少し休ませてもらおうかとリクオが伸びをしていると、

「その見舞いとやら、まだ続けるのか?」

 猩影が眉を寄せて尋ねてくる。

「なにか、ダメな理由があるのか?」
「見舞いって同級生で、それってシマジローなんだろ?小学生のときのイジメっ子じゃねーか。お前が見舞ってやる義理なんざあるのかよ?」
「あれ。誰から聞いた」
「凛子ちゃんから」
「ああ、そういや、口止め忘れてた」
「なんだなんだ、見舞い相手は噂のイジメっ子だったのかい?昏睡状態になってるなら絶好の仕返しチャンスだと言うのに、ただ見舞うだけなんて君もひとがいいねぇ、リクオくん。仕事上の様子見なら、護法を遣わせればいいことじゃないか。行きたくないところにまで、行く必要なんか無いんだよ」
「いや、本当に見舞いだよ。《百物語組》の気配を感じたことが、行くきっかけにはなったけど、それだけじゃない」
「また『他生の縁』とやらか?やめとけやめとけ」
「猩影君、そのシマジローというのが、リクオ君の学校エネミーだと理解しても?」
「エネミーもエネミー。金持ち相手に尻尾ふりふりして、それまでのダチを捨てるような奴だよ。中心人物じゃなかったけど、中心人物に命令されてリクオを側溝に落としやがったり、上履きだとか教科書だとか隠したり、そいつが見てないときだけ話しかけてきたり」
「どれもこれも過ぎた話じゃねーか。もう何年も前の、それこそ猩影、お前が屋敷に来たばかりの頃の話じゃないかよ。あれから何年経ってると思ってんだ」
「たかだか四年か五年で阿呆が菩薩になるかってんだ」
「ふぅん、コバンザメ系か。良くないよリクオ君、僕の周囲にも居たからわかるけど、ああいう手合いはボスの色に合わせてカメレオンのように自分を変えるんだ。利用はできても信用できないタイプだよ。見舞いなら、何か心づけを届けるくらいでいいだろう。わざわざ行く必要なんて無い。まあ、そんな奴が落ちぶれた姿を見たいというなら止めはしないけど、君はそんな趣味、どうせ持ってないだろう?」
「昔の話は昔の話。中学に入ってからは、気分悪いときに保健室に連れて行かれたりとか、助けられもしたよ。根はいい奴なんだ」
「わかったわかった、なら、早速だけど荒鷲を連れて行くんだね」
「ハァ?行く先、病院だぞ?」
「その親御さんと会うかもしれないじゃないか。君にもしものことがあっては大変だ」

 解せないリクオだが、それで二人が納得するならそれでいいかと思うのと、何よりそろそろ明方が近く、ふわあと欠伸が出た。

「 ――― なら、それでええよ。すまん二人とも。なんや今日はあれこれあって疲れたし、もう休む」
「おう、おやすみ」
「おやすみ、リクオ君」





 庭で二人と別れ、リクオは再び寝所へ戻り、そうっと障子を開けて、中を覗く。
 出てきたときと同じく、妻は襦袢姿で静かな寝息を立てていたので、安堵して足音を殺し、その隣にもぐりこんだ。

 よしよし、気がつかれなかったらしい、と思ったのも束の間。
 白い腕が伸びてきて、ひやりとリクオの首に回されたと思うと。





「むぎゅ」
「バレてないと思ったの?全く、長いお手水だこと」
「あ、いや、その、氷麗。く、苦しい」
「あら、息はできるでしょう?苦しいだけ?」
「苦しいっていうか、なんていうか……気持ちイイけど、その分、なんや落ち着かん。は、離して」
「駄ァ目。今日はもうゆっくり眠るって約束だったのに、破った罰よ。いいじゃない、これくらい」
「だ、だって、変な寝方したら、腹の子に障るだろ?」
「平気よ、この前なんて私、気がついたらうつ伏せに寝てたもの」
「ちょ!」
「おっかなびっくり過ぎて、最近、抱き締めてもいただけないんですもの。氷麗は寂しゅうございますよ、リクオ様……」

 抱き寄せられ、顔を妻の胸元に埋める羽目になってしまい、息が苦しいやら心地良いやら 、落ち着かない心地がするやら。
 妻の方はリクオを腕の中に取り戻して上機嫌らしい、まだ冷気を帯びる銀糸の髪に、心地良さそうに頬を寄せ、子供にするように撫で付けている。
 彼女に寂しいと言われると弱いリクオなので、もぞもぞと少し動きながら妻の腕の中に甘えるように身を任せると、彼女の息遣いが耳元に香って、なんとも心地良い。

「もう寝てるかと思った。オレが居ないときでも、先に休んでてな?」
「お心遣い、ありがとうございます。……あんまり遅いときは、そうさせてもらってるわ。でも今日は何だか、ほら、あの虫騒ぎがあったでしょ?私、何だか興奮しちゃったのかな、眠れなくて」
「ああ……大丈夫や、この屋敷は虫が居つかないようなっとるさかい」

 奴良屋敷でオニバンバを見た雪女が、卒倒したのを思い出し、あの黒虫がその辺に潜んでいるのではと思い当たったのだろう。
 雪女は冬纏う妖で、その里は万年雪に閉ざされ、つまり春夏秋には湧くものである、虫が無い。
 奴良屋敷や伏目屋敷ではそうはいかず、また妖怪の中には虫の姿をしたものもあるし、百足などは毘沙門天の使いとして崇められることもあるので、彼女は邪険にすることもなく、護法たちへは分け隔てなく接するが、そうでない相手、つまり普通の、心を持っているようにはとても見えないごくフツーの、《頭文字G》相手には腰を抜かすほどだ。
 雪屋敷の雪姫さまならば、物心ついてから成人するまでは、妖の姿をしているとは言え、虫の姿をしたものには接したこともないのだから、仕方ない。

 察したリクオが先んじて、安堵するように言聞かせた。

「臆病だからな、あんまり姿を見せないが、軍曹に任せておけば《ゴ》のつく《アレ》を綺麗に駆逐してくれる。異界祇園でも花開院家でも引っ張りだこ」
「まあ、妖怪なのに、花開院家で?」
「妖だと駄目で、護法だとええんやて」
「勝手なこと」
「そいつ等に今、あの黒虫も追わせてるから、安心してな。何個小隊かが勇んで突撃して行ったらしい。普通の小物が入れないような隙間でも、軍曹たちなら大丈夫だろ」
「ふうん、そんな凄い仔たちがいるのね、知らなかった。確かに伏目ではまだ、《アレ》を見てないなあと思ってたのよねぇ」
「ああ、うん。うちには《アレ》いない。軍曹のおかげで」
「それじゃあ今度、その軍曹さんたちにご馳走してあげなくちゃね」
「……いや、フツーのモンは喰わへんから、ええよ」
「そうなの?じゃあ、一言御礼でも」
「……直接会うのは、氷麗はやめておいた方が」
「あら、どうして?」
「虫、嫌いやろ?」
「…………軍曹さんって」
「アシダカ軍曹。アシダカ蜘蛛が長じて妖になった。ゴのつくアレが好物でご馳走って輩。むしゃむしゃやってくれるから、あっちの方から寄り付かん」

 想像してしまったのだろう。
 びくりと妻の体が震えて、ぎゅっとリクオを抱き寄せる力が、少し強くなった。

「…………くれぐれも、よろしく言っておいて頂戴ね」
「おう」
「アンタは何か、苦手なものが無いのかしら?」

 呆れたように問うてくる妻に、夫君はくすりと笑って、鷹揚にお答えになった。

「色々あるよ。氷麗が居ない夜とか、氷麗が居ない朝とか、氷麗が居ない明日を考えることとか ――― 盗まれたのが氷麗でなくてよかった。そうなったら、泣くだけじゃすまん」



<袴垂の怪・了>