依頼人の元をまわり終えたリクオが、黄昏が降りるやすぐに明王姿に変じたのは、風に乗り少しでも早く恋女房のもとへ帰ろうとした健気からである。
 ところが、伏目屋敷の檜皮葺の門前に降り立つと、年の頃は還暦ほどだろうか、温和そうな恰幅の良い背広姿の紳士が一人、山高帽を脱いで、ごま塩の髪をあらわにし、ハンカチで皺が刻まれた額を拭っている。

 夕方を過ぎると身内以外の来客を断る旨、門までの坂道の手前に立て札をしているし、近所でも明王様のお住まい、護法屋敷などとしておそれられているところだから、うっかり観光客などが夕方以降、好奇心にかられて細道を登ろうとしようものなら、やめねやめね、もうこの時間は明王さんがおわします時間や、バチがあたりますわと、ご近所さんが追い払ってもくれるので、すっかりそのつもりで居たリクオは、そろりと己の身を宵の気配に隠して、一体この紳士は何者だろうかとしばらく様子を見た。
 するとどうだ、この紳士はあたりをきょろきょろと見回し、ふうと息をついた拍子、背広の下からそろりと、太い立派な狸の尻尾を出して、こちらの汗も拭うではないか。
 何度か試したのだろうが、もう一度、やれやれと言いながら玄関ブザーを押す。
 しかし、音は鳴らない。
 壊れているらしい。

 リクオも気がついていなかった、こちらの手落ちだ。
 その上、この御仁は人間に化けてはいるが、妖らしいとわかったので、申し訳なさから姿を現し、リクオはそっと声をかけた。

「もし、そこな方。拙宅に何か御用かな?」
「お、おぉ、いやこのような時間に申し訳ないとは思ったのだが、電車の到着が遅れましてな。ここにうちの倅が居ると…………」

 中を覗こうと、背伸びをしていた紳士は、家人に声をかけられたと思って安堵したのだろう、突然後ろから声をかけられたその瞬間は、びくりと身を震わせたが、すぐにほっとしたような声をあげて、くるりと振り返った。
 と、人の良さそうな口上は途中で止み、笑い皺の寄った目をみるみるうちに見開いたかと思うと、

「ぬらり……?……ぬらりではないか!!いやはや、お主、変わらんのう!!」
「え?」
「いやぁ、うちのタマがここに世話になっていると聞いてな、しっかりやっているのかと思って顔を出してみたのだが、まさかお主に会えるとは思わなんだ!」
「…………うちのタマ?って、え、なに、猫?」
「あれから何百年経つかのぅ、ワシもずいぶん老いた。しかし、まだまだ有事の際には現役のつもりでいたが、お主ほど変わらんとはなぁ……、いや、お主むしろ、若返ったのではないか?無精髭はどうした。それにその髪……色が抜けたか?にしては、これまたあやしなる銀色よな」
「へ?」
「まさか忘れたか?!そんな外見で耄碌したか?!」

 リクオは目をぱちくりさせながら、多分初対面なはずなのだが、誰かと人違いをなさってはおられないかと、口を開こうとする。
 だがそれより先に、玄関口の大声を聞きつけて、彼女が顔を出す方が先だった。

「なァに、玄関口で騒いで。アンタ、帰ったの?」

 門の三間ほど先、屋敷の中から横開きの戸が開くと、途端、冬の切れそうな風が吹いて二人を包み、リクオは慣れ親しんだ気配に目を細め、客人は思わぬ北風にぶるりと全身をふるわせる。
 ついで、ひょっこりと顔を出した愛しい妻の愛らしいおもてに、リクオはつい目の前の紳士を忘れて、うん今帰ったよと微笑んだ。
 北風は、彼の愛妻が纏う氷雪の空気であるので、ほのかに良い匂いがして、つい抱きしめてしまいそうになる。
 来客がなければ、そうしていただろう。
 毎日のことだ。

「おかえりなさい、早いお帰りでしたのね。御夕飯には早いから、先に湯を使ってしまってくださいませな。……そちらの方は?」
「おお、おぉ、雪女ではないか!いやはや懐かしい。お主も、いつまでたっても変わらず美しいのぅ」
「え?」
「しかしこれはどうしたことだ、何故、お主等がここにおるのじゃ。それに雪女、お主、やや子を孕んだのか?!まさかぬらり、雪女を後添いに?!何故知らせてこんのじゃ」
「へ?」
「いやお客人、それは確かにオレの家内だが、きっと貴方が思われている雪女とは別人だ。それにオレも」
「なんと?お主等、ぬらりひょんと雪女ではないのか?いや、確かに変わりがなさすぎるが、しかし、別人とは思えぬが………」
「なんじゃお主等、玄関先で何をやっておる?いちゃいちゃらぶらぶちゅっちゅするなら中でやれ、中で。………ん?」

 玄関に迎えに出た雪女がいつまでも戻ってこないので、今度は孫の嫁を追ってきた初代が、どうしたことかと顔を出し、その紳士を前に眉を寄せ、

「………まさか、隠神刑部狸か?!」
「………というお主は………」
「はっはっは!やはりそうか!お主も老けたのう!ワシじゃよ、ぬらりひょんじゃ!」
「なんと、ぬらり!すっかり背骨が曲がりおって、いやしかしその姿なら納得じゃ。こっちの若いのだと変わりがなさすぎて、いやむしろ若返ったようで妙だと思っておったのじゃよ!」
「そっちはワシの孫とその嫁じゃ。嫁は雪麗の娘じゃよ」
「ほほーう、お主の孫と、なんと、あの雪女の娘御か。道理で瓜二つよ!」
「はーっはっはっは」
「いやはや、どうして」

 どうしたわけか、二人のご隠居たちはその場で笑いだし、違いの顔の皺、毛並みの色を失った様子をとりあげてはおかしそうに、あの時はああだった、こうだったと次々に話し出す。

 リクオと雪女は顔を見合わせ、視線だけで、「この御方はどちら様?」「さぁ……誰かを探しに来たらしいけど、なんやさっぱり」と首を傾げ、声をかける隙をすっかり失ってしまった。
 そこへ、屋敷の中から三人目の出迎えが、顔を出した。

「雪女、初代、大将のお帰りじゃなかったのかい?………あれ………」

 流し目一つくれてやれば、老若問わず女が恥じらう、泣き黒子の涼しげな顔立ちをした青年が、少年のように目を丸くした。

「パパぁ?!」
「おおおぉぉ、タぁマぁ!ワシの可愛いタマちゃんや、しばらく見ないうちに、また凛々しゅうなったもんじゃのう!」
「ちょ、パパ、その呼び方やめてったら!」
「あははははッ。タマちゃんですって!かーわいいっ。私も今度からそう呼ぼうかしら。ねぇタマちゃん?」
「ふざけるのはよしてくれ!ほら、こんなところで立ち話なんかしてないで、さっさと入るんだ。初代も、ほら、パパ………父さんも、リクオくんも、おかえり。………リクオくん?どうしたの、難しい顔して黙って突っ立ってないで、ほら」
「タマ………って、玉章の《タマ》?………そうか。オレはまた、屋敷に仔猫でも迷い込んだかと………タマちゃん………そうか………」
「………リクオくん、眉間に皺寄せて堪えられるより、いっそ爆笑してくれた方が傷つかないんだけど」



+++



 京の主と呼ばれていようとも、花開院次期当主候補であろうとも。
 初代奴良組総大将ぬらりひょんにとって、リクオはいまだに、目に入れても痛くない孫息子だ。

 同じように、四国八百八狸の長にとっては、京の主の懐刀と呼ばれていようとも、その主に一家の智恵者として頼られていようと、玉章はいつまでたっても、年老いてから得た、可愛い可愛い末息子。

「で。わざわざ四国の山奥から、八百八狸の長が、まさか京都観光に来たってだけじゃないよね。わかっているよねェ、パパ。僕はちゃんと一家の事情も手紙に書いたはずだ。羽衣狐の脅威が去ったとは言え、いや、あの羽衣狐を目の当たりにしたからこそ、京都の陰陽師たちは今、大妖に敏感だ。京の主と呼ばれるようになったとは言え、いやだからこそ伏目明王のお立場はとても微妙で、今は大人しくしなければならないときなんだと。
 陰陽師相手に脅威でもって押さえつけようとなさる方ではないし、だからこそ温厚な、古くから京に住まう妖たちからの信も厚い。人と妖の橋渡しのような立場にあるからこそ大事にもされるが、逆に疎んじられることだってある。そんな御方のところにだよ、四国の古狸が転がり込んだなんて噂にでもなったら、陰陽師たちがまた、平成の狸たちが合戦でも始めるのかとおそれおののいて、伏目明王が人間を裏切ったのなんのと騒ぎ立てるかもしれない。
 たたでさえ、妖の奥方を娶られて、さらには奥方が身重となられたことを良く思わない陰陽師たちもいる、難しい時期。
 そこへ突撃してくるのだから、まさか、僕の顔を見に来ただけ、だなんて。
 言わないよねぇ、パパぁ?」

 こんな風にネチネチやられようものなら、伏目屋敷の連中ならば、その後でどんな仕置きが待っているやらと震え上がるような、玉章の冷たい視線にも冷たい言葉にもびくともせず、

「うむ、たいそう難しい立場におられると、タマからの手紙で知らされておったからなァ、窮屈じゃったが、この通り妖気を抑えて人の姿で、人間臭いのを我慢して人間どもが乗る電車で瀬戸内を渡り、新幹線に乗り換えてやってきたんじゃ。
 風に乗って空を飛ぶような真似はしとらんぞ。
 ふふふ、息を潜めるようにして、こっそりと封印の境界を越えてきたからのう、人間どももわからんかったじゃろう。そこの伏目明王さんも、ワシが玄関先で尻尾を出すまで、妖怪だとわからんかったそうじゃ。どうやら封印と言うのは、気を昂ぶらせた者が出たり入ったりするのは阻むが、分をわきまえているうちは、大目に見てくれるものらしいのう」

 八百八狸の長・隠神刑部狸は、実にのんびりと、出された茶を啜りながら笑っている。

「にしても、タマよ、お前がそのように他人を思いやって怒るとはなぁ。末っ子だからと少し甘やかしが過ぎたか、四国に居た頃はいつも己の思うとおりにならぬと怒り、他人がどうなろうと知ったことではないと言う風だったお前が、なぁ。お前はワシの若い頃に、子や孫たちの中でも一番似ているものだから、ついつい、平和が訪れた後でも何か企み、京都を手に入れようとしておるのではないかと……信じていなかったわけではないが、手紙と噂だけではどうにも心配で、来てみた甲斐があったと言うものよ。ほっとしたわい」
「ああ、企んでいるとも。この先、伏目屋敷に花霞の二代目三代目が誕生されたとき、僕の子か孫か知らないけど、それと縁組でもさせれば合法的合理的且つ速やかに、京都は僕のものだとね。さあ安心したなら帰れ古狸」
「うんうん、そうじゃなあ、この一家がこの先、何代にも渡って栄えればそういったこともあるかもしれん。そこまでの間、一家を支える覚悟があるとは!……タマや、ワシは、ワシは、お前が四国を離れてしまったのはまっこと哀しい、寂しいが……そのように何か一つに打ち込み、そこまでの友を見つけたお前を見るのは、嬉しいぞ……!」
「あーもうウザイ!僕の言うことに次々独自解釈加えないでもらえる?!恥ずかしいったら!」
「何が恥ずかしいものか。タマよ、ワシも昔はお前と同じようにな、本音を知られるのが恥ずかしかったものじゃがのう、結局、本音で語り合うのが一番の近道じゃぞ。だいたい、ワシにそのような虚勢を張ったところで全てお見通しじゃよ。お前の意地の張り方ときたら、ワシの若い頃にそっくりなんじゃもの。
 お前が伏目明王さんを気に入っているらしいのは、手紙からでもようわかったし、その様子からして、気に入った以上に惚れ込んでしまったんじゃろうというのもようわかる。じゃからワシを邪険にして追い返そうとしておるんじゃろう?またまた、かーわゆいのう、タマちゃん♪ 安心せい、お前の宝物には傷一つつけんぞ。可愛い可愛いタマが大事にしているものを、取ったりするはずなかろう?のう?」
「だからそういう事をぺらぺらぺらぺら喋るなって言ってるんだよこの毛むくじゃらッ!」
「ワシもなあ、若い頃はとんがっておったから、お前の気持ちはようわかるぞぅ。本当は嬉しいことでも嬉しくない、喜んでなどおらぬと言い張って突っぱねてのう。ワシもあの松山城の戦の折、このぬらりから加勢の申し出を受けたときは、本当に嬉しいもんじゃったわ。ワシを友と呼び、心配りをしてくれる者があるというのは、本当に嬉しいもんじゃ。あの加勢を受けておれば、四国は今頃どうなっておったかのう……」
「そうしたら四国は奴良組の傘下だったろうって言ってたのは、他ならぬパパじゃないか。それにリクオくんは、一度お断りしたぐらいで諦めてなんてくれないし、四国を乗っ取ろうなんて考えてもいない。勢力を広げようなんて魂胆が無いんだから、一度助けようと思ったが最後、自分の四肢が千切れても助けてしまう大将なんだよ。だから僕が苦労してるんだ。余計な騒ぎや頼みは、決して持ち込まないでよね。わかったら、パパ、さっさと帰って。お願いだから。玉章のことを本当に可愛いって思ってくれるんだったら、さっさと帰って。今すぐ」
「なあ、玉章、そこまで言わなくてもいいんじゃないのか?せっかく顔見に来てくれはったんやから、素直に喜んで、京都の街でも案内して……そうだ、白蛇店長の店で舞妓はん呼んでもらって楽しんできはったらいいのに。
 (どこぞの二代目と違って)船で大勢連れて空飛んで乗り込んできたのとは違うし、静かに息を潜めるようにして来てくれたんだから、別に怒らなくても」

 可愛い末息子に淡々と説教されて、丸い肩を落とした隠神刑部狸を哀れに思ったらしい、リクオが横から口を出すと、玉章は目を瞑り天井を見上げて、心底疲れたように米神を指で揉む。

「リクオくん、懐柔されないでくれよ。僕は君と一緒に、君のパパを追い出してあげたのに」
「懐柔なんて人聞きの悪い。あの人は戦争するみたいな勢いで突撃してきたしな」
「ふゥん。蜜柑と柚子と干柿と冷凍鰹の山はともかく、僕には今の君が、懐柔されているようにしか見えないけどね。今、君が抱いてるその、腹巻着用したおっさんヒヨコのぬいぐるみに、しっかりと懐柔されているようにしか見えないんだけどね」
「バリィさんに向かって《おっさんヒヨコ》とは失礼やろ玉章ァ〜。日本全国ゆるキャラグランプリ堂々第一位の実力の持ち主やで。んもー、ふかふかふわふわで、いやぁ、仕事であの辺通りがかるたびに、一匹連れて帰ろうかなーどうしようかなーって思っててなあ。玉章のパパさん、ほんまおおきになー!」

 隠神刑部狸が手土産として持ってきた、山ほどの瀬戸内特産品は賄いからも溢れ返り、他にも今治タオルだの備前焼だのといったものがこの広間に溢れかえっていて、皆がわいわいやりながら、一つずつ中身を確かめていた。
 いつもなら、屋敷の皆がさあと促してようやく柚子や文旦の一つにでも手を伸ばすリクオが珍しく、自ら「こ、これ、もらってええやろか?!」と震える手を伸ばしたのが、今治ゆるキャラのぬいぐるみ、である。

 もちろん、玉章をたしなめる間も、ずっとそのおっさんヒヨコのぬいぐるみを抱えて頬ずりしながらであったので、迫力も何もあったものではない。

「いやいや、手土産を気に入っていただけたなら何よりですじゃ。玉章から、伏目明王さんの好みはそれとなく聞いとったからな。しかし、そんなにそやつを気に入ってくださったなら、ぬいぐるみなぞではなく、ちゃんと本物を連れてくれば良かったのう」
「えッ、バリィさんて、本物居るん?!」
「そりゃあ、可愛いだの格好いいだの怖いだの気色悪いだの、人間の心の動きあるところに、ワシ等、妖の者は生まれるもんですからのう。ここの茶釜狸も元々はそういう生まれであろう。おおそうじゃ、次は供として連れて参りましょうかのう」
「ほんまに?!いつ?!次はいつ来てくれはるの?!」
「しれっとホラふくな言うとるけんこんのクソ親父ッ!!」
「ほっほっほ、タマちゃんの口から久しぶりに方言聞くのう〜。そうじゃそうじゃ、パパの前じゃもの、遠慮なんていらんけん」
「隠神よォ、うちの孫をあんまりからかわんでくれ。本気にしておるわ。リクオ、流石にソレの本物はおらんと思うぞ。居たとしたら、千葉の舞浜あたりはえらいことになりおる。奈良のマスコットキャラは人面鹿扱いじゃわい」
「えッ、嘘なん?!」
「ほっほっほ、京の新しき主さまは、なんとも可愛らしい御方であらせられる。噂に聞いておりましたのは、明王のごとき勇ましさと如来がごとき聡明さ、慈悲を併せ持つとか、人どもとよく交わり信仰まで得ておられるとか、かと思えばあの羽衣狐を母と仰ぎ慕っておられるとか、逆に羽衣狐の方からも、我が子と寵愛を受けているとか ――― そうした、とりとめのないことばかりで、正直、末息子の預け先として不安に思っておったのですわ。しかしそれも、掴みどころのないこのぬらりひょんの孫であるならば、なるほどと納得もできること。今お見せになっておられる、まるで無垢な子供のような御顔も、数多ある《畏》の一つでしかないのでしょうなあ」
「その通りだよ、パパ。もしも、僕を足がかりにしてあわよくば京都を手中に ――― なんて考えているなら、僕がまず相手になるからね」
「……玉章、またそんな、つっけんどんな。パパさん、ええ人やんか。そないないけず言うたら、いい加減、可哀相や」
「リクオくん、今、その《ええ人》がしれっとついた嘘に騙されたのは君だよ。この人は同じ顔で、もっと酷い嘘だってつくし、知っていることを知らないと言い張ることだって得意だし、後から泣きついたときには善人面して『はて、どちら様でしたかのう?』なんてことだってやるんだよ。良心の塊のような顔をしておきながら、良心の呵責なんて言葉を、心の辞書に持ち合わせていない古狸だ。用心した方がいい。
 いいかい、この古狸は温厚そうな顔をしているけれど、昔は僕以上にギラギラしていたんだ。善人面した海千山千相手に、隙なんて見せちゃいけないよ」

 ほっほっほ、と、隠神刑部狸は、末息子のこの酷い言い様にむしろ誇らしげに笑うのだが、言聞かせられたリクオの方はそれで居住まいを正すでもなく、隠神刑部狸を屋敷に招いてからこちら、変わらぬ寛いだ様子で、「でも」と笑う。



「仮に玉章のパパさんがオレに何か策を弄したとしても、オレの方には玉章がいてくれるんだろ?やったら、何も不安なことなんてない。絶対安全だし、安心できる。玉章がオレを守ってくれるんだから、何にも心配なことなんてないよ」



 全幅の信頼が込められた、あたたかな紅瑪瑙の瞳が、機嫌の良い猫のように細められる。
 それまで息巻いていた玉章が、ぐ、と黙って顔を伏せ、突然、喉の調子が悪くなったらしくしきりに咳払いをして口元を手で覆った。
 ほらほら、興奮してるからや、お茶で喉を潤して ――― と言聞かせるリクオと、視線を逸らしたがる玉章のやり取りに、二人の父と祖父が顔を見合わせた。

「………ぬらりよ、お主の孫息子の口説き文句、破壊力がはんぱないのぅ。ウチのタマが耳まで真っ赤じゃ。ぼっけぇタラシじゃぞ、お主の孫は。流石お主の血じゃのう」
「………アレは、ワシをタラシこんだワシの奥の血の方じゃ。完全に天然なのよ。ワシにアレができていたら、今頃とっくに四国は奴良組のモンじゃわい」

 そこへ、酒肴の膳を用意してやってきた雪女と女衆がするりと障子を開け、「まあまあ賑やかですこと」と、雪女も楽しげに輪に加わった。リクオがしっかと腕に抱いたぬいぐるみにさっそく目を止め、こちらにも「よろしゅうございましたね」と笑顔を向ける。
 夜行をすれば、異界のどこへ赴いても妖の女がしなを作って近づきたがる美丈夫が、その女どもにはてんで見向きもしないくせに、無垢な目を向ける者どもに無心に慕われると門の中に招き入れてしまう、夫の性分を知っているからこそ、こうした様を見るとどうにも愛しく思ってしまう。

 毎日いたわりを向けられ、夜毎、子を抱けるのが待ち遠しいと仰せいただくので、今腕の中にいる丸いぬいぐるみにも、いずれ抱けるだろう我が子を重ねているのだろうと察した。

「リクオさま、白蛇店長へ申し上げましたら、ちょうどお座敷が空いているそうですよ。隠神刑部狸さまには、ご子息と積もる話もあるでしょうし、そちらの方が気兼ねなく過ごして頂けるのでは?初代も、いつも伏目屋敷に詰めてばかりでは、気もつまりましょう」
「うん、そうやな。それじゃあ朧車を呼んで ――― 」
「既に呼んでおります。小半時もすれば参りましょうから、それまで、さ、隠神刑部狸さま、お口に合いますかどうか、軽いものですが……」
「おぉ、これはすまんのう、気を使わせてしもうた。そうさなあ、タマや、今宵は久しぶりに一献やろう。のう?」
「雪女は気が利くのぅ。リクオや、お前はどうする」
「ん……あんまり遅くなると明日に響くし、氷麗を置いて行くのは……」
「お前は生真面目じゃのう。そういうところ、お珱そっくりじゃ。たまには嫁さん離れせんと、嫁さんに愛想尽かされてしまうぞ」
「まあ、お義祖父さまったら。リクオさま、明日はお仕事も学業も、それほど立て込んではいなかったように思いますよ。たまには楽しんでこられては?」
「そうだなあ。パパさんに、玉章の小さぁい頃の、恥ずかしい話の一つや二つ、聞いてみたい気はするなあ」
「ほっほっほ、それならいくらでもネタはございますぞ。タマの小さい頃は、それはもう愛らしゅうて愛らしゅうて、泣くのを我慢しているときなぞ、こう、口がMの字になりましてなあ、顎のところに梅干作って必死にこらえてもう」
「パパッ!!」
「へぇ〜。そんで、寝小便はいつまでしてはったん?」
「リクオくんッ!!」
「……リクオよ」

 ここで重々しく口を開いたのは、皆に入り混じり土産物の焼き物を手に取ってしげしげと眺めていた、鬼童丸だった。

「……お前は奴良鯉伴が、お前の幼少の頃のおねしょの話を他人に聞かせようとするのを、快く思うのか?」
「……ひとにされて嫌なことは、せえへん方がええな。うん。やっぱ、オレは遠慮しておこうかな……」
「そうそう、鬼童丸殿は伏目明王殿の父親役とか。剣の師でもあったというなら、それはそれは、ただならぬ縁を感じられておられるのでしょうなあ」
「うむ」
「いかがですかな、今は昔のあの頃を肴に、我等と酒を酌み交わすと言うのは。ついでに息子自慢でも致しましょうぞ」
「悪くない。行こう」
「ちょっと、オヤジさん?!」
「伏目明王殿の得意科目はなんじゃろうな?うちのタマは数学と経済が得意でのう」
「うむ、家庭科だな。数学も苦手ではない様子だが、それよりは古典を好むようだ」
「タマを慕う奴等はのう、あの頭の良さに惚れ込んだと言ってくれてなあ。神通力もさることながら、石鎚山の謎かけ妖怪と、なぞなぞの試合で勝ったのがほんのコレっくらいの小さい頃で……」
「なんの。リクオは昔から夢幻の術に長けておってな、春はとうに過ぎておるというのに、桜の幻がちらほらと目の前を掠めて、するとその者が望んだ幻が見えるのよ。これに誘われた者どもが次から次、自らあ奴を主様主様と崇めてなあ。笛もたしなむのだが、こちらは興が乗ってくると、幻がそのまま形になって……」
「リクオくん、息子自慢は止めないとエスカレートするよ。なにせ鬼童丸は、これまで君の人間側自慢しかできなかったわけだから。妖怪側の自慢は数年分溜まってると思うよ。君も来た方がいい」
「……そうみたいだな。うん、そうする」

 多少げんなりしつつも、たまにはこんな夜も良いかと思い直したリクオ、雪女に外行きへの着替えを優しく促されて、広間を出た。

 猫が笑った目のような、三日月が出ていた。

 へらり、と猫のように笑う、東京の実父がここに居たならどうなったろう、と他愛もないことを考えて、苦く笑った。



+++



 場所を変えて、奴良屋敷の二代目もまた、同じ月を見ていた。



 何もしたくない。何も考えたくない。



 それで、畳の目の痕が頬にくっつくのも構わずに、ごろりと畳の上に寝そべって月が昇るのをなんとはなしに見つめていると、ああ、この辺りはちょうど、若菜が布団を敷いて眠っていたな、幼いリクオと川の字に布団を敷いて、短い間だったけどちゃんと夫婦親子だったよなと、考えたくもないのに、いろいろなことが思い出されて、いい年こいて涙が滲む。

 一度思い至ってしまうと、何からやり直せばいいのかと、考えるのはそればかりだ。
 もしも、時間を巻き戻せたなら、と。

 けれど、どんな人間でも妖怪でも、過ぎ去ってしまった時を戻すことができぬのが、世の定め。
 それでも死んで魂になったのなら、只人には無理でも、二代目ならば地獄だの天界だのにちょいと散歩がてら足を伸ばし、顔を見てくるぐらいはできるだろうに、それができたなら、妻が黄泉で醜女になっていようとなんだろうと、同じ穢れを被るぐらいの覚悟はできているのに、もうあの魂は此の世に解けてしまって、どこにもないと言われる始末。

 どこにもないと同時に、どこにでも在れるような存在になったのだから、きっとお前のことも見守ってくれていよう。
 と、地獄を訪ねた先で閻魔大王が鯉伴を慰めたが、鯉伴にとっては、お仕着せの文句でしかなかった。

 それよりも、もうあの声が聞けない、あの顔が見られない。
 最期を看取ってやることもできなかった。
 そればかりが、悔やまれる。

 時を戻せるとしたなら、どこまで戻そうか、と。
 たらればの話など詮無いというのに、頬に畳の痕がつくまで寝ころんでいると、どうしても、夢想してしまうのだった。

 奴良屋敷の者どもにしてみれば、お調子者だが頼れる我等が主が、ここ最近火が消えたようにおとなしくされているので、当然心配にもなる。
 組のことはあれこれ回しているが、そういうときには以前と同じようにさっぱりした顔でおられるから、空元気が余計目立ってお可哀想だ。
 二代目を小さな頃から知っている、牛鬼や一ツ目入道などは、気遣って色々差し入れなどするし、本家伺いの頻度を増やしもするが、これにはしっかりと応じられる。
 百物語組のその後については注意深く聞いておられるし、酒が入れば冗談も仰せになるので、そうかと思い、ところで後添えはいかがかと調子にのってお伺いすれば、途端に口を噤み、ぎろりと客人を睨むような始末。

 後添えについては、奴良組若頭からの強い要望があり、組をあげてお探し申し上げたというのに、寄せられる話の数々を、二代目はことごとく、乱暴に断ってしまわれた。

 若菜と離縁した覚えはないからというのが理由で、若頭の仰せに馬鹿正直に応えた者どもは、やはりぎろりと睨まれ、以降、言うに言えない。

 そんな日が繰り返されては、心配をしても、手だてがない。
 中には、ご自分を庶子扱いされて、二代目が京都を気安く訪問せぬよう手を打つとは、リクオ様はいささか不人情ではないかと言う者もあったが、すぐに二代目に黙らされた。二代目からしてみれば、リクオが言うことはもっともなことで、今リクオのそばにある幸せを蔑ろにしてまで、己を重んじてほしいとは、とても思えなかった。
 大事にしていたつもりだった、これからだって大事にするつもりだった。けれどきっと、大事にする方法を己は知らず、無知が理由なら許される行いだったかと省みれば、我ながら全く許せぬ行いばかりだった。なまじ、色男だ風情男だとちやほやされてきた分だけ、始末が悪い。
 若菜が笑っていてくれたのは、一重に彼女の強さゆえ。
 恨みも辛みも飲み込んで、許す強さを持っていたがため。
 畳の上ではない、板張りの控えの間で膳を使っていたり、貸元たちがいる前では息子にさえ母と呼ばせず端女として一歩引いていたり、そうしたことを困ったこととして諭すのでも、口説くのでもなくて、一度でいいから怒って、哀しんで、泣き喚いて、駄々捏ねて、あんなに酷いことをする女を誉めるような幹部どもなんざ放って、あの女と息子だけ連れて、どこへでも行けばよかった。

 そうしなかった分のツケがまわってきたのだなと思えばこそ、年賀の挨拶に来たは良いが、若頭として総会と宴に顔を出した後、京都へとんぼ返りした息子を、引き止める言葉は出てこなかった。
 息子は己と違って、大切なものの序列を間違わないらしい。
 嬉しく感じこそすれ、どうして責める言葉が出てこよう。

 ただただ、無性に寂しい。
 そのまま、畳に溶けてしまいたくなる。

 後添えがどうのという話さえ無ければ、今まで通り、頼れる二代目であらせられるので、このような生活がいくらか続いた今では、日がな一日、誰も使うな近寄るなと命じられた四畳半に転がっていても、もう誰も文句など言わない。

 おかげで、この十年、妻子を転がるように探し回っていた二代目にしてみれば、たっぷりと時間があって、考えたくもないことを思い悩む時間になっている。

 あの時、ああしていれば、と考えると、思い浮かぶのは、若菜と連れ添おうとしたそのときだ。

 いつか連れ添ってくれる日を待つなどと、悠長なことを考えていないで、彼女一人だけを抱えて、屋敷を出るべきだった。
 適当な奴に三代目を継がせ、身一つになったところで、じっくりと若菜と向き合い、お前がお前自身を人でも妖でもない、ただ食われるだけの物と思っていたとしても、おれにとってはもう、お前は若菜って名前の心在るものなんだよと言い聞かせるべきだった。実の一つなさぬ前に、花すら咲かぬ若菜であるからなどと、貸元どもの前で笑って端女としての分をわきまえたような事を言ったあの娘を、叱ってやらなければならなかった。言わせた者どもを、殴ってやらなければならなかった。
 若菜が心在るものなら、正体が例え、冬には散る一輪の花、いや、花さえ咲かせぬ青々とした葉の一枚だったとしても、こうして口説いて、連れ添ってくれと言っただろうよと、しっかり説いた上で、己等を誰も知らぬ土地で、細々とで良いから、家族だけの生活をしていればよかった。



 優先して守るものの順番を、きっとその時に誤ってしまったのだ。
 まず組や家を捨てることを、前提として考えていなかった。
 己は、あの娘よりも組を選んだのだ。
 あの娘がそれで良いと言うから、甘えたまま時を過ごして、あの娘を壊してしまった。



 ぬらりひょんの名の通り、自由に生きてやればよかった。



 そうしていたら、どうなっていたろう。



 どこか遠くの山奥で、家族三人、仲良く川の字に布団を敷いて暮らすのが当たり前だったなら、きっと。



 ふわりと幸せの夢想が脳裏をかすめると、すぐに、十年ぶりに再会したリクオの、灯火のような笑みが目に浮かぶ。

 京都抗争が終わった際、伏目屋敷に運び込まれたリクオは、小物たちの手でぼろぼろの着物を寝着に着替えた。そのときに目にした、体の傷跡には、どうあっても戦いでついたものではないもの、忌み文字、忌み言葉のたぐいが刻まれており、この十年、当然のように浴びせられてきたものであるのを、思い知らされた。
 それだけの虐待を受け続けていたなら、きっと己を恨みもするだろう憎みもするだろう、全部を引き受けてやろう、いや、引き受けさせてもらわねば、割に合わないとさえ思っていたのに、睨みつけるような視線一つ貰えないまま、自分は所詮庶子だから、そうしたことがあるのも仕方がないと決めつける。諦める。



 痛い。痛い。よほど、痛い。
 そうなったのは己の過ちだ。



 痛みに苦しむ資格などなかろうが、それでも、もう此の世に好いた女が居ないのなら、それどころか天国にも地獄にも居ないのなら、己には到底、仏になるなど無理だろうから、いっそ風にとけて消えてしまいたいとさえ思う。

 どこか、幻でも良いから、もう一度、家族が三人で暮らせるような場所などないものだろうか、と思いながら、気を失うように眠っている。
 そんな毎日だった。




 ところで、ぬらりひょんとはどういう妖だろうか。

 妖はふつう、人には見えぬ。
 人には見えぬ妖だが、妖同士ならば相手を見る。
 なのに、ぬらりひょんという妖は、そういう妖相手からも姿を隠し、あるいは見えたと思うと幻であったりする。
 妖そのものがつかみ所のないものであるのに、その妖どもの中にあっても、さらにつかみ所のない者だ、と言われている。
 だいたいにして、同属が無い。
 奴良家を開いた初代自体が、自分以外にぬらりひょんという妖怪など、見たことも聞いたこともないと言う。
 はたして、そんな妖があったものだろうか。

 とにかく、夢から抜け出てきたような美しい御方であったので、誰もが、「人どもの怨みつらみや恐怖が、闇夜に淀んでおそろしい妖怪を作ることがあるのなら、夢幻から美しくおそろしい妖怪を作ることもあるのだろう」と思うばかりだった。

 二代目も、半分人の血を引いてはいても、そういう御方だ。

 そうした妖が、人の心を抱えて、こんな夢も良かろう、こんな幻も良かろうと思っていたなら、どうなるだろう。人の心で望むまま、妖の術を無意識に使っていれば、どうなるか。





 うと、うと、二代目はいつしか、微睡んでおられた。
 布団も敷かず、いつものように畳に頬をくっつけて。

 すると、そよとあたたかな風が頬を撫でた。
 ああ、良い日和だ、と思えた。
 こんな日は、広く広がる野原に寝転んで、空で輪を描く鳶を眺めているだけで、いくらでも時を過ごせる。日中は暑くなるだろうから、木陰などが側にあると良い。若菜は己と違って、壊れやすい人間であるし、その中でもさらにか弱い娘なのだから、日差しが暑くないか、木陰が寒すぎやしないかと、気をつかってやらなけりゃ。
 水筒に水をたくさん汲んでおいて、弁当は握り飯があればいい。
 あらかじめ、行こう、と言ってしまうと、若菜が全部準備してしまうから、こちらで不恰好でも握り飯作って、準備して、そうしてから洗濯物を畳んでる若菜に、なあデートしよう、野原でごろんとしよう、と言ってみよう。

 そう思える、柔らかな風だった。

 ぴーひょろろろろ、と、鳶の声が響いた。

 風がどこからか、花の甘い匂いを鼻腔に届ける。

 さわさわと、風に泳いだ草が頬を撫で、太陽の光が瞼の向こうに眩しくなってきた頃、二代目の意識はふと浮上した。
 年賀が終わったばかりと思ったが、いつしか春が来たろうか。
 己はそれだけ眠っていたんだろうかと、ぱちり、目を開けてみると。





 周囲は野原。空には鳶。遥か向こうには、山々が見慣れぬ稜線を描いている。
 目をぱちくりとさせて瞬きをしても、奴良屋敷はもちろん、そこに住まっていた妖怪どもの、影も形も見当たらない。
 知らぬうちに、夢を渡ってどこか別の場所に来てしまったのか ――― ?
 ただの見慣れぬ場所であったなら、そうとだけ考えたろうが、そうはならなかった。





「 ―――― なんだい、ここは?」

 むくりと身を起こしたものの、二代目はそこで途方に暮れてしまった。

 周囲の風景は、まるで見覚えの無いものであったし、何より、 山々の稜線の向こうに見えるものが、これまで居た世界のどこでもないことを、物語っていた。
 空の向こうに透けるような、水晶の塔が立っている。

「ありゃあ、なんだい ――― ?」

 山々よりも高く、何処へ目指しているものか、頂点は蒼穹に吸い込まれて見えない。

 戸惑って振り返ると、しかしそこには、懐かしさを覚える茅葺屋根の一軒屋がある。
 長い午睡の果てに、千年か二千年かを一息に超えてしまったろうかと戸惑いながら、そちらへ向かってとぼとぼ歩く。
 一軒屋は椿の垣根に囲まれ、門は柱を二つ立てただけの簡素なものだったが、庭は掃き清められ、そこに、コッココッコと、鶏が数羽、機嫌よさげに土を突いていた。
 少年の頃に良く見た光景であったので、ほっとしたのも、束の間。



「 ――― あれ、お帰りですか?ずいぶん、遅かったんですねぇ」



 家の向こうから、女の声がした。
 いや、おれは違うよと言いかけたが、その声が知らぬものではなかったのと、すぐに現れた姿に、言葉など、どこかへ消えてしまった。



「あ ――― え ――― ?」



 萌黄色の小袖姿に、明るく煌めく榛色の瞳、濃茶の髪には、いつだったか飲み屋の帰りに買って帰った、安物の髪留め。
 それだけなら、夢に入り込む妖の仕業かと警戒したろうが、言葉を継げずにいた二代目の前で、手早く足荒いの準備を始めた彼女の左手に、件のものを見つけてしまい、そこで二代目は疑うのをやめた。
 きゅうと喉と胸が締め付けられるように痛んだ。



「お疲れ様でした、長旅で疲れたでしょう?お腹減ってませんか?里芋の田楽を作ってたんですよ」
「うん、食べる」

 油断すると涙が出てしまいそうだった。
 ここがどういう場所で、どういった仕組みでこんな再会がかなったのかなど、考えたくもなかった。
 それよりも先に、腕が彼女を抱き寄せた。
 鼻先を埋めた肩からは、懐かしい、彼女の匂いがした。
 おそるおそる指で髪を撫でると、ふわふわとした、彼女の感触がした。

 長旅。

 そうだった。この十年、彼女を探して、本当に長い長い、旅をしてきた。



「ただいま ――― 若菜」



 涙声が出たが、彼女は何も言わずにいてくれた。



「おかりなさい、鯉伴さん。ずいぶん甘えんぼねぇ?」



 ころころと笑いながら幼子を宥めるように、ぽんぽんと、二代目の肩を叩き、背を撫でた彼女の左手に薬指には、あの日の指輪があった。










 その日、奴良屋敷から、二代目総大将奴良鯉伴の姿が消えた。