次の日、その次の日と、日を追うごとに、猫の客人は回復した。
 若君が心を尽くして介抱するので、来たばかりの頃は何かにつけ、爪をたて牙をむいていたのが、嘘のように懐いて、若君が学び舎から戻られた気配を感じ取ると、甘えた声をあげるまでである。
 ここでようやく、首輪についていたペンダントを詳しく調べると、この猫の飼い主の家であろう、浮世絵町陽炎…と、所をはきとした字で裏に彫ってある。よほど大事にされていたに違いない。

 あちこちの傷が大方癒えて、少し動かしても傷が開くことはないだろうと、義兄弟の太鼓判がおされてから ――― さも、別に難しい用向きを抱えているような顔で奴良組を訪れた、あの薬鴆堂の主は、おそらく可愛い弟分が、拾った猫がもし間違って死んでしまうようなことがあれば、目に見えて気落ちしてしまうだろうから、万が一にもそんなことが起こらないように、体の調子が良い日をわざわざ狙って、ふらりと屋敷を訪れたのだ ――― 若君は猫を抱き、この場所へ向かうことにした。

 お休みの日に、おでかけになろうとされる若君に、お一人でなど危ないのではと、普段あまり口出ししない毛倡妓が言いかけたが、人に化けた雪女と、それから若君の御友人の姿が数人、屋敷の玄関にあるのを見て、いくらかマシであろうと口を閉じた。
 少なくとも、あれだけの人数がいれば、何人かが的になっている間に、若君は逃れられようと。

 さて、この若君の御友人というのは、まじりっ気なし、正真正銘ただの人間である。
 若君がもっと幼い頃からの縁で、屋敷の外の話題になれば、何かと若君の口にのぼる名前の主たちで、酔狂にも、怪異を求めてあちこち練り歩いているらしい。
 この中に、あの、京の陰陽師、花開院本家の娘も居るというのは、奴良組の威光を恐れぬチンピラ妖怪が若君を狙ってくるかもしれぬと思えば頼もしいが、万一若君の出自を知られればと思うと恐ろしい。しかし、その娘というのが、陰陽術以外のところではてんでふわふわとした足取りで、どこを見ているかわからぬ阿呆のように見えるので、毛倡妓や他の妖怪たちも今のところは、若君の意思を尊重するのだった。
 さらに、彼等が捜し求めているのは、妖怪の主ぬらりひょんだと言うが、彼等は幾度となく、捜し求める対象に出くわしているというのに、気がつくことなく今日もまた、その総大将その人から、「おうおう、今日はみんなでおでかけかい、気をつけてな。リクオをよろしく頼むよ」とにこやかな声をかけられ、どこぞから失敬してきた不味い飴を振舞われているのだから、何とも奇妙で、おかしなことである。

 清十字怪奇探偵団、と、二つ三つ前の年号を思わせる名を冠したこの一行は、若君が猫の話をしたところ、首輪にあった、陽炎という地名の方へ足をのばすことにした。
 同じ浮世絵町の中であるし、電車でもせいぜい、二つ三つ先の駅程度のところだから、子供たちの足でも陽が暮れる前には帰ってこられるだろう。

 週末の休みの日に、わざわざ浮世絵町周辺へ出かける地元の人間もないので、電車では皆が座席におさまった。若君が抱える籠の中で、黒猫も大人しくしているので、これを中心に、話題は尽きない。

「それにしても、みんな、猫ちゃんの家を一緒に探してくれるなんて、いいところあるじゃないですかぁ。私、感激です!」
「へへへ、いや、困ったときはお互い様だよ、及川さん。ね、清継くん!」
「何を言ってるんだい島くん!陽炎と言えば、浮世絵町の中で今一番、ホットな心霊スポットじゃないか!」
「え」
「なにそれ、あたしたち、聞いてないケド。鳥居、知ってた?」
「は?猫ん家、探すんじゃないの?」
「はっはっは、君たち、予習が足りないなぁ!刻一刻と、妖怪の勢力図は変わっているのだよ!見たまえ、これを!!」

 探偵団代表、清継氏が取り出だしたのは、彼が自宅から持ち出した、薄い箱のようなもの。雪女は、たしかあれには「もばいるぱそこん」なる名前がついていたと記憶している。その箱には鍵盤のようなものがついていて、これを操ると、箱についた絵柄が様々移り変わるという、奇異ながら便利なものらしい。
 現代の申し子清継氏は、若君と雪女が言葉を失っている前で、さささと鍵盤の上で指を滑らせた。
 画面に映しだされたのは、清継氏自ら管理し、日本各地から情報を募っている、ホームページ、《妖怪脳》、そのとある頁。
 そこにあったのは、つい二月ほど前から起こり続けているという、《妖怪ひたひた》の、怪異譚であった。

 怪異譚のあらましは、こうだ。

 とある夕暮れ時、陽炎神社に詣でたその帰り道、ふと気がつくと、ひたひたと後ろをつけてくる音がする。振り返るか、と思うが、不気味でできない。少し早歩きになる。足音もまた、早くなってついてくる。

 ひたひた。ひたひた。

 忍び足。小さな足音。そこに、何か不気味なものが居るとわかる。

 転げるようにして、神社の帰り道を戻るのだが、この神社の石段が、途中、何かに持ち上げられたかのように一段、ぐらと浮いたので、あっと思ったが早いか、足元をすくわれ、追いかけられたその人は、あわれ急な石段を転げ落ち ――― と、いうものだ。

「どうだい、怖いだろう、追いかけてくる妖怪!!」
「………」
「………」
「き、清継くん、でもそれ、別に妖怪だと決まったわけじゃないんじゃ?」

 一行の中で一番常識的な中学生活を営む、巻と鳥居が可哀想なものを見る目で、清継氏を見やる。小学校の頃から清継氏を信奉し続け、いまやすっかり世話女房の位置におさまっている島は、あははとごまかすように笑いながら、どこから手をつけてよいのかわからぬほど溢れる、ツッコミどころと言おうか、言わねばならぬところの中から、あえて一番に清継氏を傷つけずに済むところに触れる。
 そう、それは妖怪などではなく、ただ単に、石畳に足を取られて転んだ話なのではないか、と。
 追いかけてきたのは、足音ばかり。ならば、もしや石畳に己の足音が、反響していたのではないか、と。
 こういったところには、触れないでおく。

 ばりばりぼりぼり、と、陰陽師の娘、ゆらは、電車に乗る前に、「奴良くんのおじいちゃん」に袋ごともらった煎餅を、腕に抱えて一心不乱に食っている。
 若君の幼馴染の娘、カナは、清継氏の話よりも、普段学び舎へ向かう方向とは違う場所へ向かう、車窓の景色が気になるようで、やはり菓子をこちらは控えめに食みながら、時折横目で、幼馴染と、その隣に当然のごとく陣取る、最近知り合った同学年の娘、つらら ――― もちろん、人に化けた雪女 ――― を、ちらりと見やる。

 その雪女は、カナの視線にはてんで気づかず、清継氏の話に呆れたように肩をすくめ、また困ったように笑む若君はもちろん、清継氏が語る《妖怪ひたひた》が行く先に現れるなど、信じてはいなかった。
 清継氏がすぐその後、こう言い放つまでは。

「なーにを言ってるんだい島くん!この妖怪に襲われて、お亡くなりになっている方もいらっしゃるというのに、不謹慎だぞ、君は!うん、不謹慎にもほどがある!」
「え ――― ?」
「この妖怪は、つい最近現れた妖怪らしい。ひたひたという足音で人を脅かしていたうちはまだいいんだが、このところ、凶暴化したようなのだ。
 陽炎神社のみならず、その周辺で、かわいそうに、犬や猫、それから近くの小学校の飼育小屋では、兎なども被害にあったらしい。そしていよいよ、今度は人が殺された。一人の老婆が、陽炎神社の石畳から転がり落ち、そのまま、帰らぬ人となったと……。
 僕は思うのだ。妖怪は居る。人を殺める妖怪もまた、居るだろう。しかし、この一件が本当に妖怪の仕業だと決め付けるのは、あまりに考えなしというものではないかと。何故なら、人を殺めるのは何も人ばかりではないし、島くんが言うように、たまたまこういった騒ぎが起こっているところへ、信心深くも悲しき老婆が一人、足を踏み外された不幸な事故があったのかもしれない。
 だが、同時に、この神社の付近で、犬猫に悪趣味な悪戯をほどこす、けしからぬ輩がいることも事実。そして、奴良くんが拾った猫の首輪にあったのは、この陽炎の地名。しかも、この猫は尋常ではない怪我を負わされていた。
 ならば、そのような人間を放置せず、こらしめるまではいかずとも、居所をつきとめ警察に通報するのが、仮にも探偵団を名乗る団体として、当然の義務ではないかね、諸君!ただこの猫をもとのところへ返しただけでは、またいつ怪我を負わされるか、わかったものではないじゃないか!
 もし人の仕業であるとすれば、こんな妖怪のうわさをたてられて、あの妖怪の主も、さぞ迷惑しているだろうからね!」

 妖怪あるところに、あの銀髪の美丈夫、ぬらりひょんの姿ありと、信じきっている清継氏、さらに身振り手振りで今度は小さなときの体験を、あれこれ尾ひれをつけながら話し始めて、巻や鳥居から容赦のないツッコミを浴びているので、今なら気づかれまいと、こそり、雪女は若君に耳打ちした。

「ねぇリクオ様、迷惑、されていらっしゃいました?」
「ううん、ぜんぜん。初めて聞いた話だもの」

 答えてから、若君はさらに低く小さくした声で、律儀に耳打ちを返された。

「夜の散歩のときだって、そんな奴、見たことないぞ」

 夜の御姿とは別人のようだというのに、どこか彷彿とさせる口調で言うものだから、愛らしい若君に、あの妖艶でたのもしい男君の姿が重なって、雪女の耳は熱を持ち、慌てて彼女は首巻に顔をうずめた。
 あれ、どうしたの、つらら?
 と、問うてこられるのは、もとの若君のお声だが、潔いほどさっぱりと笑っていて慌てる様子がまるでないのは、おそらく、彼女が己のこの口調に、元服前のいとし子でなく、一人の男を見ると知っていたからであろう。
 からかわないでください、と小さな声で言えば、からかってなんてないよ、どうしたの、と真剣な表情で見つめてこられるので、尚、たちが悪い。

 この方はやはり、総大将の愛孫でいらっしゃる。

 最近色気づいてきたらしい若君の幼馴染が、やけにじっとりした目でこちらを見つめてくるのが、雪女にとっては痛いやら、こそばゆいやら。



+++



 はて、若君は幼い頃、昼の御姿も夜の御姿も、それぞれ等しく同じ年頃の様子に見えたのに、何故夜の変化を自在にされるようになってからは、夜と昼との御姿が、まるでご兄弟のように違っていらっしゃるのだろうと、以前から雪女は甚だ疑問に、少し不安に思っている。
 若君は、雪女の主は、どちらが真の御姿であらせられるのだろう。昼の若君のお優しさか、それとも夜の男君のたのもしさか。

 奴良組に出入りする、古株幹部たちならば、「それはもちろん、夜の御姿こそが総大将として相応しかろう」と満足そうに言うのだろうが、雪女にとっては若君も男君も、どちらも幼いときから守り侍り仕えてきたいとし子で、主に違いないので、どちらかが嘘であると断じられるのは、それこそ身を切られるように苦しい。
 素直に喜べない、などというものですらなく、例えば愛する子が二人あったとして、そのうち一人は要らぬ、明日、谷あいに捨ててこいと無情に言い渡されるようなものだ。

 だから、どちらも本当であり真である、昼も夜も、若君も男君も、主は主、同一の人であり、姿形が変わったとて、ほんの少し(雪女にとっては、あくまで、ほんの少し!)性格が変わったとて、魂魄の色や抱かれる想いや、何を美しいとお感じになり何をあさましいとお感じになるかまでが変わるわけでは無いのだと、最近はとくに思いつめる。
 今もまた、これを強くしながら、雪女は若君の背を見つめ続けた。

 男君は、人も妖怪もへだてなく、よく心を砕かれる。
 己の縄張りで、奴良組に属さぬ妖怪たちが好き勝手しようものならば、これをこらしめておられ、妖怪でありながら、無意味に人に仇なす輩を厭われる。
 これを、妖怪でありながら気の小さいことと、哂うものもあるが、これは男君の傍に侍っておらず、縁を結んでもいない輩が、実際に見たわけでもあるまいに、結果だけを聞いて判じたものだ。
 縁を結んだ妖怪たち、男君の傍で全てを見た者たちにとっては、男君が人を守っているように見えながら実際には、奴良組を下手に人の仇としないことによって、人に妖怪がいるとしらしめることなく、時を経るごとに闇が薄くなり、棲みにくくなる世の中ながら、妖怪たちの住処を、帰る場所を守っておられるのだと納得できるものであった。

 では、若君はどうされるのであろう。
 男君となって、あの人間を、どうにかするおつもりであろうか。であれば、人に仇なしはしない、これによって逆に妖怪たちの縄張りを守るのだという、暗黙の約束はどうなるのか。

 昼前に、屋敷を出たときと同じように、若君が抱えた籠の中には、やはり黒猫がいる。
 疲れたらしく、籠の中で大人しく眠っていてくれているのが、唯一の救いだ。

 玄関に入ると、「お帰りなせぇ、若!」大物小物問わず、若と縁のある妖怪たちが、我先にと顔を出す。
 足洗いの湯を用意する者、「お風呂はどうなさいます、先に入ってしまわれますか」と、首だけ座敷からにゅるりと出てきて問うてくる轆轤首、皆ににこやかに笑いかけ、「ただいま」と仰ってくださる若君の、手に抱えた籠の中から、例の黒猫がにゃおんと顔を出したので、「あらまあ」「あれ、若、おうちは見つからなかったんですかい?」「にゃんこ、にゃんこ、よく戻っておいでだねぇ。こちらへおいで、煮干をあげよう」妖怪たちは、今朝や昨晩でもう小さな客人とはお別れだとばかり思っていたから、陽気にはしゃいだ。

 奴良組の妖怪たちは、仁義の徒である。
 何の理由もなく、傍若無人に振舞う輩とは違う。
 おそるおそるではあるが、そんな彼等に黒猫が身をゆだね、腹が減ったらしい、煮干を食んでいるのを見届けて、若君は彼等に言い渡された。

「この子の飼い主さんね、亡くなってたんだよ。家族の人はいたんだけど、この子の飼い主になるつもりはないみたいだったから、連れ帰ってきた。もうしばらくうちの子のはずだから、皆、もう少しよろしく頼むよ」

 これを聞いて、雪女は合点がゆかぬ。
 たしかに、あの老婆の家族は、この猫を引き取るのに難色を示していた。しかし、いたではないか。老婆と懇意にしていたという、少年。妖怪の基準では、元服してからしばらく経つような齢であったようだが、人間で言うところでは、まだ、少年。
 礼儀正しい、はきとした物言いの、良い少年であった。雪山で遭難していたのなら、まず助けるべきだろう。
 その彼が、「その子、よければ俺が引き取ろうか。犬や猫は他にも飼っていて、世話をするのが好きなんだ」と、言ってくれていたのに。

「若、今日会った、何といいましたっけ、あのお婆さんと懇意だったという男の子。あの子では、何がいけなかったのです?」
「駄目だよ、あの人では。絶対にだめだ、あの人には渡せない」

 いつもなら、なんとなく、だとか、ちょっとね、だとか、言葉を濁す若君なのに、今日ばかりはすうっと目を細め、意志も強く仰せになった。
 どうしたわけだろうと、若君の胸中を知るすべもないまま、若君の後ろをついて部屋へ向かう途中、思い出したように若君は、まとわりつく小物たちにお声をかけられた。

「そうだ、納豆小僧、一つ目小僧、それと、すねこすり、鬼火、人魂、歌い髑髏、からかさ、他に急ぎの用向きがなかったら、ちょっと、僕の部屋に来てよ」
「何かなさるんですかい?」
「うん。ちょっと悪戯を思いついたんでね、今日の夜の散歩ついでに、どうかと思って」

 声をかけられた小物たちは、久しぶりに垣間見た、若君の悪戯っぽいお顔に、わあっと歓声を上げ、「悪戯だ、悪戯だ、若との悪巧み、久しぶりだ!」「何をする、誰を化かす?」「どうやって化かす?」「化かされた奴、きゃあって言うかな、ひいって言うかな?」「若、若ァ、ひどいですよぉ、オイラも一緒にいきたぁいぃ」様々に喜び合う。
 名を呼ばれなかった者たちの中でも、戦いならばともかく、悪戯は大の得意という小物はとかく、恨めしく思って泣き喚くので、そういう輩には「じゃあ、お前も一緒においで」と、若君は懐深く招き入れられるので、よりいっそう、陽気な歓声は大きくなった。
 ここ数年はあまりなかったことだが、幼い頃の若君の悪戯者っぷりときたら評判で、そのお供はいつもこうした小物たちだった。人を殺めることはなく、化かして嚇して、きゃあと尻餅をつかせたり、ひいと転ばせたりするのが、大の得意である輩たち。
 彼等は若君の急のお召しにも、まるで臆することがない。ここ数年、なりをひそめて、何が気に入らぬのか「妖怪の総大将になどならぬ」と意固地になっておられたが、最近ようやく三代目を継ぐ御決心をされてからは、あれは若君の反抗期とやらであったのだろうとばかり、勝手にそれぞれ納得している小物たちだ。
 これにも、雪女は驚いて目を丸くする。

「若、一体どうされたのです、夜のお散歩ついでの悪戯って……。まさか、出入りじゃないでしょうね?昼間、何か感づいたんですか?やっぱりあの神社のあたりの、妖気の主が?!」
「違うよ。心配しないで、雪女。それに、妖怪相手の立ち回りは、この昼の姿じゃ不利だって、お前も知ってるじゃないか。けど、人間相手のことなら、僕も少しはわかっているつもりだから。多分、お前よりもね」
「それは、どういう……」
「人間はね、嘘をつき、契りを破り、他も自分さえも欺く生き物なんだ。都合が悪くなったら、自分の悪行や自分の心の中のことですら、すっかり忘れてしまえるんだよ」

 若君の仰る理屈はわかるのだが、それが昼間見てきたあれこれと、どう関わりがあるのか、さっぱり雪女には理解ができぬ。
 雪女だけではない、夜の御姿について百鬼夜行の立ち回りを見せる大物妖怪たち、側近の青田坊や黒田坊はもちろん、縁の深い首無や毛倡妓もまた、首を傾げるばかりで何のことやらさっぱりだ。

 彼等は、小物たちの後ろをついてぞろぞろと、大きな体を小さくして、若君のあとについて座敷に入った。若君のこと、呼ばれもしなかった者がついてきたとて、無碍にお叱りなどされるまいと思われるが、あくまで声がかかったのは、小物たちである。
 若君が床の間を背にして上座につくと、堂々と後に続いた小物たちが、周囲を取り巻いて座り、さらにその周囲を、いつもは御傍近くに侍る雪女や、他の縁深い大物たちがかためる。

 黒猫は煮干をたいらげ、満足したようすで、前足を舐め、顔を洗っている。これを膝に抱き上げ、優しく撫でてやりながら、若君は口を開いた。

「今日、赴いた先で、この猫の飼い主だったお婆さんの話を聞いたよ。世間でも評判の偏屈……もとい、正義感の強い人だったらしい。そのせいか、娘さん夫婦とは、あまりうまくいってなかったようで、娘さんという人にも会ったんだけど、土地を売るにしても面倒ばかりだとか、相続税だって馬鹿にならないとか、変な遺言のせいで、死んでまで面倒だとか、けっこう酷いこと言ってたな。僕等みたいな子供相手に言うくらいなんだから、よっぽど鬱憤がたまってたんだろうね」
「そうです、ひどい話ですよ。実の母親のこと、死んだっていうのに全然悲しくなさそうでした。『遠くに住んでて、悲しくなるほどの行き来もなかった。にしても、あれほど言っておいたのに、神社の石段で足を踏み外して死ぬなんて、馬鹿なひとだわ』って、笑ってましたよ?!」
「まあまあ、そう熱くならないでよ、雪女」
「若、あの女に悪戯をしかけるおつもりでしたら、この雪女めも、お供いたします」

 雪女は、ここでようやく合点した、つもりになった。
 なるほど、男君は妖怪同士の出入りに相応しいが、人間相手では《畏れ》が強すぎる。人間の姿の若君ならば、親子の情をなんとも思わぬあの女を、ちょいとこらしめてやるぐらい、そう角もたつまいと。
 長い袖に、今すぐ襷をかける勢いの雪女を、「違う違う」と、若君は笑って仰せになった。

 曰く、

「あんなに、精一杯虚勢をはって悲しんでいる人を、さらに怖がらせるなんて、言うもんじゃないよ」

 と。

 はて、それでは若君は、一体誰の元へ、小物百鬼夜行をおしかけになるおつもりなのであろう。
 首をかしげていると、若君はお続けになる。

「それよりも、婆さんの背を押して石段から突き落とし、命を奪った野郎を、ちいっとばかしこらしめてやった方がいいと思うんだがね」

 優しげな笑みではなく、薄ら寒くなるような微笑をたたえた若君の、瞳はほのかに紅い。
 若君がそっと、大切に袂から取り出した絵馬は、昼の神社で拾ったものか。誰の書き損じであるのか、言葉は途中で途切れている。哀しい視線をこれに送り、慈しむように小さな手で撫でてやりながら、はたして、若君の目には何が映っているというのか。

 若君と雪女が、見てきたものは同じであったはず。
 同じ道を辿って同じ場所へ赴き、同じ人の話を聞いて、こうして同じ時刻に屋敷に戻ってきたはずだ。だというのに雪女には、老婆を石畳から突き落とした者になど、てんで心当たりが生まれなかった。

 雪女だけではない、清十字怪奇探偵団の誰もが、納得していたではないか。
 事故死だと。
 これを説明したのは、赴いた先で出会った、例の少年である。

 陽炎神社のあたりを嗅ぎまわっていた見慣れぬ一行が、小学生まではいかなくても、まだ充分に幼い様子であったし、このところ辺りは物騒であるし、気にかかったのだ、と、声をかけてくれ、一行が《妖怪ひたひた》について説明すると、たしかに最近、そういう噂があるのは知っていて、古い町だから、もしかしたらそういうものが棲みついているのかもしれないけれど、と、前置きしてから、少年は、老婆が死んだのは事故だった、と断じた。
 少年の父は医師であり、実際に、倒れていた老婆の、検死とやらを行ったのだから、間違いはないはずだ、と。

 この事故が、不幸にも、最近、足音の怪異が重なる陽炎神社のあたりで起こったものだから、妙な気を起こした奴が、ネットの掲示板に書き込んだのだろう ――― というのが、彼の見解だった。

 清継氏などは、すっかり、この涼しげな少年に感銘を受けてしまったらしく、しきりに感心していた。

 一行は、少年に招かれて、近所のカフェに腰をおちつけ、これらのことの、あらましを聞いた。
 老婆とは知り合いというか、彼女に何をした記憶もないのだがやけに叱られた、と笑っていたが、カフェの店長は皆の前にカップを並べながら、「因縁つけられてた、の間違いでしょ」と茶々を入れていた。
 少年は近所でも評判の優等生で、「なのに、あのばあさんときたら、妬ましいのか、何かとこいつを目の仇にしてたんだ」と。
 少年が老婆が腕に抱いていた猫を撫でようと、手を伸ばしただけで、半狂乱になったこともあるらしい。たしかに黒猫の方でも、せっかく少年が引き取ると言ってくれたのに、シャーッ、と威嚇して籠の中へ潜り込んで引っ込んでしまう等、嫌っている様子だったので、そのまま連れて帰ってきたが、これに対しても少年は、からからと笑って、「婆さんと同じ嫌い方をされたなァ」と、気にする様子も見せない。

 実に、さっぱりとした潔い、少年である。
 どう考えても、この少年が、何かに関わっているようには、雪女には思えなかった。

 逆に、老婆の娘は、老婆が残したものの整理があるからと、小さな家に一人寝泊りしていた様子だが、猫の頭を一つ撫でると、「悪いけど、この子の世話は、私には無理」と、あっさり見放してしまい、一行を招きいれようとすらしなかった。
 若君が、陽炎神社の石段の脇、草むらに溺れかけていた、書きかけの絵馬を見せたときなど、「うん、たしかに、あの人の字だね」と乾いた返答をしただけで、それが何?とでもい言いたげに、仏頂面で首をかしげてみせただけだ。

 若君が、今は小物たちと膝をつき合わせながら ――― そうしていると、若君自身もそれほど背が大きゅうはなく、むしろお小さくあらせられるので、小物同士が寄り集まって、ひそひそと内緒話をしているようで、見ている分には大変にお可愛らしい、と雪女は思ってしまう ――― 悪いたくらみをしている側で、これを見守る大物たちは、雪女から今日のいきさつを聞き、ふむ、と唸って腕を組んだ。

 そうこうするうちに、誰そ彼の時刻も過ぎ、お天道さまは本日のおつとめをつつがなく終え西の空へ沈んで、月がかわりにぽっかりと、夜の洞のように空に浮かぶ頃である。

 若君は、己の姿を夜の男君へと化生させる様子は無い。
 あくまで昼の御姿の、お小さくいとけない、雪女がお守りする幼子のままでおいでだ。
 ところがこれに、いつもの眼鏡を外されて、ちょっと良いところへお出かけになるときの大島紬に袖を通され、これにいつもの蒼い羽織をこなされると、人であろうか……と思わせる、妖しき気配を帯びられる。
 抑え切れない妖力が、瞳の色だけを瑪瑙に変えてしまわれるで、そのまま外へおいでになれば、人は驚き妖は惹かれてしまうだろうから、やはり少しでも誤魔化せるように、いつもの眼鏡をおかけになった方が……と恐る恐る、雪女は進言するが、「今日はこれでいいんだよ」と、紅い目を細めて笑われる。
 これが、なんとも言えぬ妖しさで、どこかおそろしい。

 若君が、ちょっとそこまで散歩をしてくる、と仰るのは、このところ夜になれば恒例のことであるし、今は昼の御姿であるので多少は心もとなさを覚えるも、その分、小物とは言えいつもより多くのお供を従えていらっしゃるので、そういう夜もあるのだろうと、あの口喧しい烏天狗までが、お気をつけてとだけ言ってお見送りする。
 縁深い大物たちは、せめて自分たちはと後をつけようとするが、「必要ないよ」と若君に、柔らかくもきっぱりと申しつけられると、これをおしてまで不興を買う理由も見つけられない。
 それでも後を追ったのは、雪女、ただ一人で、これにやはり若君は嘆息され、屋敷に戻れと仰せになったが、雪女は頑としてきかなかった。

「仕方がないなぁ」

 と、若君は、小さな頃から昼も夜も側にあった、この雪女を、御母堂とはまた違えど、姉のようにも妹のようにも、それとはまた違う何者かのようにも、つまり憎からず思われておいでなので、このように大きな瞳を氷のように綺羅と潤ませて迫られては、拒むにも覇気を持てない。

「 ――― こわい想いを、するかもしれないけど、いいんだね?」
「若のお側で若をお守りできないことほど、こわいことなどございません」

 しかもこのように意地らしく袖を掴まれては、振りほどくこともできず、若君はかぶりをふって、いつものように天井裏に棲む大蛇を呼ぶと、雪女を腕に抱いてこれの頭に腰を下ろす。
 お召しになった小物たちも、我先と大蛇の背にしがみつくなり、飛べるものは御側にはべるなどして、若君に従った。

 ゆるゆると天に昇る大蛇と、これを取り巻く小物妖怪たち。
 屋敷に残った、若君と縁結んだ大物たちは、心配そうにこちらを見つめ、事の次第を知らない連中は、やれ、若君のなんと可愛らしい百鬼夜行だ、と、はしゃいで手を叩き見送った。
 これらもやがて遠く後ろのこととなり、夜の薄雲を割いて向かうは、小高い丘向こう、陽炎地方。