夜歩きは、気分が晴れる。
 家の一室に閉じ込めた、物言わぬ犬猫で憂さを晴らしても、まだ鬱屈した気分のときは、夜歩きをして獲物を探し、遠くから、そうっと、ほんの少しの距離をあけて獲物を付回した。そうすると、獲物は敏感にも狙いをつけられた恐怖を知るらしく、歩みを速める。その速さにぴったりと合わせて、また付回す。
 駅前から少し離れてしまえば、夜遅くの商店街などは、ことごとくシャッターが下りている。
 逃げ場など、どこにも無い。

 追われる者とは面白いもので、こちらは別に何をしようとしているわけでもないのに、何かされると思い込むものらしい。やがて走り出し、ずいぶんとこちらと距離をとってから、振り返ったりしている。もちろん、好んで姿を見られてやるつもりはないから、そのときには、物陰に隠れて一人、声を殺して笑っている。
 恐れおののく者を見るのは、何より気分が晴れた。馬鹿め。

 今日もまた、追われた挙句に悲鳴をあげて、荷物を放り出して走り出した酔っ払いの中年男があったので、部屋に帰ってきてから、声をあげて笑った。
 息が苦しくなるまで笑った。笑って、笑って、笑い続けて、ああ面白かった、と、ベットに横になった。
 枕に顔を押しつけてうつぶせに、くつくつとまだしばらく笑っていたが、ふと、思い出されることがあって、眉を寄せた。


 ――― そこの兄さん、気をつけた方がいい。


 あのとき、振り返ると、見慣れぬ着流し姿の銀髪の男が、すっくと立って、紅い、瑪瑙よりもまだ紅い、鋭い目でこちらを見つめていた。当然、射すくめられた。ひっと喉の奥から声を上げた自分に構うことなく、男は続けた。


 ――― あんたの背中にべったりと、憑いてるそいつは『通り魔』って奴だ。
 ――― オレにはどうにもできねぇぜ。そいつは、お前自身の魔なんだから。
 ――― せいぜい、間違わぬようにするんだな。


 思いだすと、嫌な気分になった。
 射すくめられたことにだ、と、思い込むこみ、こんなことを続けること自体にではないのか、と考えかけたところには、その声が小さなうちに蓋をした。

 せっかく気分がよくなったのに、またもや、むかむかと腹の底から黒いものが生じてきて、ベットからむくりと起き上がり、続きの部屋の扉に手をかける。と、続きの真っ暗な部屋に積まれた籠の中で、獣たちががさごそと逃げ回る音がした。
 かたかたと震える、気配が心地よい。
 怯えられていると、感じれば感じるほど、鳥肌がたつまでに興奮する。

 今日は誰を、どんな風に虐めてやろうかなと、思う頃にはもう、あの夜の男の言葉など、すっかり忘れてしまっていた。

 手近な籠から、出るのを嫌がる小さな犬を引きずり出して、今日の慰み物にすると決めた。

 いつものように、木槌を振り下ろす。
 一度、二度、と振り下ろし、少しずつ気分がのってきたところで、今度は、あの老婆の言葉が脳裏をよぎる。


 ――― もう、おやめ!馬鹿な子だね、そんなことしたって、どうにもなんないだろう!!


 だがその婆も、もう居ない。
 自分に向かって、馬鹿など言うからだ。他の皆と同じように、優しくてスポーツ万能で、勉強もできるなんて自慢の息子さんねと、ちやほやだけしていれば、あんな目に合わせる必要もなかったのに、あの婆が悪いのだ。
 三度、四度、木槌を振り下ろしても、不思議なことに、あの婆の必死な顔だけは、目の前から消えることがなかった。

 息があがるまで犬猫を打った後、これにも飽きて、またごろりとベットに横になった。
 以前は、何度か打つと、それだけで気が晴れたものだ。
 ぶるぶると体を震わせて、こちらを見る犬や猫を見ると、それが終わりの合図にもなった。
 その頃は、変なことを趣味にしてしまったものだと、我ながら思ったが、誰にだって一つくらい、密かな楽しみがあるだろうと、自分を戒めることなくずるずると、この楽しみを続けてしまった。

 それが少しずつ、打つ回数が増えて、耐えられなかった犬や猫の始末に困るようになった。しかも、まだ気が晴れないうちに死んでしまうものだから、一匹や二匹ではとても数が足りない。
 幸い、犬や猫は、保健所で捨てられているものなら、いくらでもタダ同然で手に入る。あまり頻繁では怪しまれるから、どうしても足りないときは、親にねだればすぐに新しいのを買ってもらえた。
 母が父に隠れてこっそりと買っている、宝石やブランドの鞄や衣服に比べれば、僅かに与える餌代など、安いものだったはずだ。何の文句も言われたことが無い。

 そのうち、犬や猫に、気に食わない輩の顔を重ねるようになった。
 ろくに顔も見ない会話もない父や、露骨に機嫌をとってくる母や、これまたごまをすってくる学校の教師、優等生は気に食わないなどと言って、愚かな振る舞いをしてくる不良ども、都合のよいときだけ周りを囲んで、暴力沙汰だと思えば見て見ぬふりをする同級生。
 皆、にこにこと笑って当たり障りのない返事をしていれば、そのうち、彼のことなど忘れて、また毎日の営みを続けていく。

 やがて、家の中だけで小さなものを打つだけでは、気が晴れなくなった。
 別の楽しみが必要だと感じて、夜歩きを始めた。
 父はほとんど家にいないし、母も父の目を盗んであちらこちらへ出かけて男を漁っていたから、誰に気兼ねする必要もなかった。

 人の後をつける、それだけのことだったが、やってみると案外楽しい。
 面白いように皆が怖がるので、犬や猫を打ってもまだ気が晴れないときは、これをすることにした。
 別に、死なせるつもりもない、殺すつもりもない。ただ、「殺される」と怖がられるのは、楽しい。
 誰も、彼の仕業だと思うものはなかった。これもまた、面白かった。

 ところが、だ。
 ただ一人、あの偏屈な婆が、どうしてか感づいた。
 何故感づいたのか、さっぱりだ。近所だったが、犬猫を打っているときは、窓を閉じていたし、聞こえたとしても、換気のために窓を少しだけ開けていたとき、にゃあにゃあと鳴いていた声が風に乗って届いたくらいだったろうに。
 どうしてあの夕暮れ時、あの婆は自分だと決めつけて、自分が家を出て、人を付回しているところをおさえたのだろう。最初から、誰かに聞いて知っていたかのようだった。
 町内でも、あの婆は猫ばかり可愛がって、人とあまり接したがらず、親切にしようと近づく輩にも、酷いことを言って、しかもそれが大概その人にとって図星なものだから、余計に人は遠ざかっていた。だから死んでもあまり悲しむ人はなく、あまり騒ぎにならないことが幸いだった。

 大丈夫だ。ばれない。話さなければ、知る者は無い。
 誰もいなかったのだ。あの婆だって言っていた。

 ――― もう、おやめ!馬鹿な子だね、そんなことしたって、どうにもなんないだろう!!
 ――― 今なら、誰も見ちゃいない。馬鹿なことはやめて、言いたいことがあるんなら、腹にためずに言ってやったらいいじゃないか。嫌われる?そんなの、自分を嫌いたい奴があるなら、嫌わせておきゃあいいじゃないか。こんな風に、溜め込んだ分を変なふうに吐き出すくらいなら、昼間へらへら笑ってないで、怒りたいときゃ、怒ればいいんだよ!
 ――― そう、やめるなら今だ。ここにゃ、あんたとあたししか居ないんだから。

 しかし彼が選んだのは、「誰もいない」場所で、彼の秘密を知る老婆の頭に、隠し持っていた木槌を振り下ろすことだった。

 あわれ、老婆の体は、まっさかさま。

 かつん、と、老婆が持っていた絵馬が、石段を跳ねて転がり。

 ごろりごろりと石段を転がり落ちた老婆の側に、慌てて駆け寄ったのは、一匹の黒猫。
 老婆の側をいつもまとわりついていた、猫だった。


 目が合った。


 はっとした。


 見られた、と。思った。


 老婆の側から離れたがらない黒猫を、毟り取るようにして引っつかみ、やはり木槌で何度も打って大人しくさせると、これを家に持って帰って、ちょうど開いていたケージに閉じ込めた。
 この猫ときたら、他の犬猫と同じように、がたがたと怯えているなら可愛げもあるのに、シャーッ、と、一人前に威嚇して、見開いた金色の目を、彼から離そうとしない。
 腹がたったので、針でつぶして、瞼をきっちり縫ってやった。
 そのうち死ぬだろう、と、唯一の目撃者の最期を見届けてやるつもりで、とある朝に部屋をのぞいてみたら、錠のかけ方が甘かったのか、南京錠は外れて床に落ち、ケージの中は空だった。換気のために開け放っておいた窓から外を眺めてみても、黒猫の姿はどこにもない。

 なに、物も言えない猫一匹、逃げたからと言って気にすることでもないだろう。
 誰に何を言うことも、できはしまい。
 そうとも、ばれなければいい。ばれなければ、こんな些細なこと、誰も悪いとは言わない。人を殺したなどと、誰も自分を疑わないじゃないか。
 黙っていればいい。今まで通り、黙っていれば ―――


「なるほど、それでお兄さんは、猫の目を潰したんだね。見られたのが、そんなにこわかったんだ」

 どこからか、子供の声がした。
 くすくすと笑う、有象無象の気配もして。


 見つめていた、天井の明かりが、ふ ――― と、消えた。
 何だ。誰だ。
 と、寝転がっていたベットから立ち上がるも、返事はない。

 くすくすくす。ケラケラケラ。ほほほほほほ。

 耳元で、何かが笑っている。
 背中を、小さな指がかすめているような気がして、気味が悪くなって払うそぶりをしながら、明かりが消えたのをなんとかしなければと、手探りで壁のスイッチを探すが、歩く途中で、何の障害物もなかったはずなのに、すねの辺りを何かにはさまれて歩きにくくて仕方が無くなり、しまいには、自分の部屋で転んでしまった。

 ケタケタケタケタケタケタケタケタケタ………

 気味の悪い笑い声、顎の骨を打ち鳴らすような乾いた音が響き、何をされるわけでもないのだが、何かされかもしれないと思えばおそろしくなって、がむしゃらに這い進むと、スイッチに手を伸ばした。
 かちり。かちり。かちり。
 明かりはつかない。
 畜生、と一人呟き、廊下のブレーカーを探すことにする。
 懐中電灯を手に取り、明かりがついたのでほっとして、部屋の中を照らすが、何もない、誰もいない。机の下も、ベットの下も、おそるおそるのぞいてみたが、何もない。

 しん、と、部屋は静まり返っている。

 当然だ。明かりのつかないのだって、停電に違いない。
 何かが居るだなんて、馬鹿なことを思ったものだ、と、気を取り直して、廊下のブレーカーを見ると、やはり落ちていた。直すと、すぐに明かりは元通り、部屋の中を照らし出した。

 先ほどの、子供の声は、どこかで聞いたような覚えのあるものだったが、それも、本当に耳にしたのかどうかわからない。考えるのはもうやめようと、そう思った。
 もう気晴らしのことはやめて、机に向かって、少し勉強でもしなければ。
 勉強さえして、良い成績さえおさめておけば、父も母も何も言わない。

 ヘッドホンをかけ、集中できるよう、クラシックをかける。
 勉強をするときは、これが一番良いと、父が言うからだ。別に好きでもなんでもないが、好きだと言っていれば父の機嫌が良いので、そうしている。
 教科書やノート、問題集を広げて、いくらか集中する。
 このまま夜が更けていくかと思われたが、ふと、妙な物音がするな、と、思った。

 物音?と思うが、ヘッドホンをかけている。振り返っても誰もいない。

 しかし、音がする。音、というよりも、息遣い。

 ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。
 という息遣いが、音と音の間に、たしかに聞こえる。
 慌ててヘッドホンを取ったが、今度は、ヘッドホンを取ってもたしかに聞こえる。
 ぜい、ぜい、ぜい、ぜい、ぜい、ぜい、ぜい。

 一体なんだ、何なんだ、こんな悪戯、だれがしてる!!

 怒鳴ってやると、やはりまた、ケタケタケタケタケタケタケタケタケタ………、と、歌うような笑い声が、窓の外から聞こえてきた。

 外か!と思って窓を開け、辺りを見回すと、視線の端に、さっと壁の向こうに隠れた、子供の足が見えたような気がした。

 逃がすものか、気味の悪い悪戯しやがって。
 思ったが、二階から飛び降りるのも見目が悪い。開発中の住宅街で、家の影はまばらだが、外は誰が見ているか知れない。舌打ちして、子供の気配がどこからか現れないか目を凝らしていたら、くすくすくす、と忍び笑いが、壁の向こうから聞こえてくる。
 野郎、隠れてこっちを笑ってやがる。

 腹が立って、玄関から飛び出した。
 不思議なことに、ドアを潜った瞬間、彼はもう陽炎神社の境内に居た。

 振り返ると、例の長い石段がある。
 おかしい。つい今、自分は家の中にいて、ドアを開けたばかりのはずだ。
 嫌な汗が背中を伝う。くすくすと、笑う声がする。

 誰だ、いるんなら姿を見せやがれ。

 怒鳴ると、素直に声の主は姿を見せた。

「昼間はあんなに優しかったのに、夜は別人みたいだね、お兄さん」
「……お前……昼間の?」

 彼の目の前に現れたのは、昼間、この辺りをうろうろとしていた、中学生たちの一人。いとけなく幼い風貌なので、同級生同士だと言われるまで、誰かの弟かと思っていたが、これが今、慣れた様子の着物と羽織をこなし、和傘を肩にかついでくすくすと笑っている。
 この子供の笑い顔など、昼間も見ていたろうに、こうして宵闇の中で見ると、何かを含んでいそうで、不気味な心もちだった。

 境内の石灯籠の明かりが、ゆらゆらと揺らめいて、子供の影がやけに長く四方へゆらめく。
 他人の前で、彼はいつも通り、優等生めいた表情を作った。
 腕を組み、年下の子供を叱るのに相応しい貫禄をただよわせる。

「帰ってなかったのか?あんな手のこんだ悪戯するなんて、悪いことだぞ」
「あはは、怖かった?ビビった?」
「当たり前だろ」
「でも、お兄さんはまだ、続けてるんだよね」
「何を」
「『通り魔』だよ、兄さん」
「 ――― え?」

 何を、言ってるんだ。
 通り魔。それは、あの銀髪の、瑪瑙の男が言ったそれ。
 どうしてお前は、あのときの男と、同じ目をしているんだ?

「しかも、いけねぇなあ、ずいぶんと、その背中にべったりついた魔、大きく育てちまって。しかも、いよいよ大きな間違いも、犯しちまったんだろう?
 なあ、兄さん、どうだろう、今ならここには、アンタとボクしかいない。都合よくもここは、陽炎神社の境内だし、ここらでもう、土地神様の前で、お天道さんが昇ったら、自分の悪事をお上に白状しますと、誓ったらどうだい。そうすりゃあ、土地神様の名にかけて、あんたの『通り魔』、少しは封じてくれるかもしれねぇぜ?」
「白状って……何言ってるんだ、お前。誰かと間違えてるんじゃないのか?」
「いいや、間違えてるのは兄さんの方さ。誰だって、化かされりゃ怖い。悪戯も過ぎりゃあ憎まれる。もうやめろと、この場所でそう言われたとき、やめてりゃあよかったのに、あんたはそうしなかった。そうだろう?」
「 ――― 」
「犯した間違いは、もう取り返せない。あのとき忠告したものを、兄さん、あんたは聞き入れず、婆さんの声も無視して、そうやってどんどん餌をやり続けるもんだから、ほら、背中の通り魔がそんなに大きくなってるじゃあないか。
 早いところそいつを祓わないと、きっと、取り返しのつかないことになる」
「う、うるさい、黙れ!そ、そうさ、お前しかいない。ここにはお前しかいないんだ、お前がいなけりゃ ――― !」

 子供の高い声色で、にたりと笑いながら言われるものだから、全て知られているのかと思うや、おそろしくなった。ばれる。ばれてしまう。全て明るみに出たら、出たら ――― 一体どうなってしまうのだ。
 考えることすら怖ろしくて、目の前の子供の胸元をむんずと捕まえると、力任せに石段から突き落とした。


 軽い体は簡単に宙に浮き、あわれ、子供も、まっさかさま。
 なのに、子供は急な石段を落ちながら、こちらを見て、にたぁり、と、笑っている。
 ごくりと喉を鳴らしたのは、この子供の周囲に、ふわり、ふわりと、鬼火や人魂が飛んで、この子供を助けおこしたからだ。


 かと思えば、ケタケタケタケタケタケタケタケタケタ………と、どこからか不気味な笑い声がこだまして。
 どこだ、なんだ、と探して、顔色を青くする。
 見上げた、境内の巨木の枝先で、髑髏が顎を鳴らして、彼の狼狽ぶりを笑い、唄っていたのだ。


 ―――― 石灯籠の明かりも、ふ、と消え、辺りは真暗闇。



+++



 そこで、目が覚めた。起き上がると、汗がびっしょりで、服が肌にへばりついている。
 ベットに横たわりながら、いつの間にかとろとろとしていたらしい。枕だけが足元に転がっていて、服のまま、枕もなく、変な姿勢で寝ているから、変な夢を見たのだ ――― と、ほっとした。あたりはまだ闇に包まれている時刻だが、ベットライトをつけると、いくらか胸騒ぎがおさまった。
 妙な夢だった。
 子供が出てきて、つまり、罪を告白しろという。
 どんな子供だったか、もうそれは憶えていない。夢が覚めた途端、面影はすうと消えてしまった。
 しかし、言われたことは、はっきりとしていた。
 通り魔が、背中にべったりとはりついていて、それが大きく育っているのだと言う。

 馬鹿なことを、と思いつつ、背中のあたりを、ぱたぱたと払った。
 何もいない。いるわけがない。家には父も母もいない、誰もいない、自分だけだ。

 喉が渇いていた。水を飲もうと思って、下に下りる。
 行く先々の部屋で、ぱちぱちと電気をつけた。夢の中の話とは言え、不気味さはいまだにぬぐえない。

 冷蔵庫の中から麦茶のペットボトルを取り出して、一気に飲み干すと、いくらか落ち着いた。
 落ち着いて考えてみれば、馬鹿馬鹿しいことに怯えていたと思う。
 何が、通り魔だ。何が、悪事を白状するだ。何が、取り返しのつかないことになる、だ。

 むかむかとしてくると、今度はアレが必要だなと思った。
 空になったペットボトルを捨て、自分の部屋へ戻る。隣の部屋に目を向け、木槌を手に取る。
 ドアに手をかけ、開けた。


 ――― またも、暗転。


 目の前に、猫の顔があった。
 真暗闇の中に、猫の顔が浮かんでいる。目が離せなくなって、じいと見てみれば、猫の目元は包帯で覆われていて、これが、あの婆の猫であると気がついた。
 慌てて自分の部屋に戻ろうとしても、たった今、通ってきたはずの扉が無い。
 どういうわけか、周囲はまたしても、あの陽炎神社に変わっている。
 しかし、この境内が大きい。石灯籠などは、彼の背丈より少し小さいくらいだったのに、今は何百年も生きた巨木ほどもある。

 目の前に浮かぶ猫の顔も、これまた大きい。
 闇の中に、ぬ、と浮かんでいるように見えたが、これが実は大きすぎるせいで、暗闇の中に沈む黒猫の体が、見えていなかったからだとわかった。猫と人の大きさが、逆になっているのだ。

 ぽおん、と、猫が鼠でじゃれるように、彼を前足で打った。
 たまらず、彼は境内の石畳に叩きつけられた。ぐへぇ、と声を漏らし、ついでに小便も漏らして、石畳の上をのたうちまわりながら、逃れようとした。
 そこを、背中をぐいとおさえつけられ、何度も打たれた。
 頭を庇うと、手ごと頭を打たれた。
 腹ががら空きになると、腹を打たれた。
 足を打たれた。
 どこもかしこも打たれた。
 ひいひいと声をあげて、たすけて、たすけて、と泣き喚く。

 またも、ケタケタ、ケタケタ、と笑うあの声が聞こえた。
 髑髏が、虚ろな両眼の底に紅い光をともして、梢で歌っていた。


 せけんでひょうばん ゆうとうせい
 いぬねこいたぶる あくぎょうを
 ひたひたという あしおとを
 だれもしらぬと おもいあがる

 かぜにのったねこのこえ
 きいたは ひとりの へんくつばばあ
 ろうばは きらわれものだったけど
 ゆうとうせいを しっていた
 おさないころから しっていた

 だれでも ちいさなころは かわいいこ
 うでにだき やさしくうたった こもりうた
 おもいだして だからおもった
 みちのまちがい ただしてやらねば

 ろうばはねこに きいていた
 ろうばはねこの ことばがわかった
 だからしってた だれからも
 りかいされない さみしさも

 そんなろうばの こころもしらず
 ふりおろされる つみぶかきづち 
 あわれろうばは まっさかさま


 髑髏が歌っている間も、ひいひいと泣きながら、彼は転げまわった。
 許してくれ、許してくれ、と泣き叫んだ。
 誰か、誰か、オレが悪かったから、許してくれ、と泣き叫んだ。

 すると、着流し姿の、あの子供が、猫の側に立って、こちらを見下ろしている。

「知ってた?犬や猫も、喋れるんだよね。ただ、人間がその言葉を知らない、馬鹿なだけでさ」
「 ――― ひ、ヒィ……」
「だから、ばれないなんて思ってたのかもしれないけど、お婆さんは知ってたんだよ。だって、この猫と話すことができてたんだから。この猫が、窓からお兄さんの部屋をのぞくのは、簡単なことでしょ。
 それに、お兄さんの家から漏れる犬猫の声だって、お婆さんにとっては苦悶の声。たすけて、たすけて、っていう声だったから、知ってたんだ」
「 ――― ああ、たすけて、たすけて……、ち、違うんだ、オレだって、何度もやめようとしたんだ、悪かった、もうしない、だから、たすけ、たすけて……」
「お兄さん、自分で打った犬や猫が、何度そうやって助けを求めてたか知ってて、そんなこと言ってるの?」

 くすくすくす。
 子供が笑う。不気味に笑う。もはや一片の慈悲もなく。

 ゆらゆらと、子供の周囲で飛び回る、鬼火が笑う。人魂が笑う。
 がさごそと、あちこちの草むらから何かの気配がして、これがいっせいに笑う。

「もう、誰も助けてなんてくれないよ。だって、助けてくれようとした人を、自分で殺しちゃったんだもん」
「おねがいだ、たすけて、たすけて」
「機会なら、三度、あったよ。一度目は、ボクが初めて、忠告したとき。二度目は、お婆さんがお兄さんを助けようとしたとき。三度目は、ついさっき。でも、お兄さんはボクを突き落として、家に戻ったら、また隣の部屋に閉じ込めている、犬や猫を打とうとした」
「あ ――― あ ――― 」
「ほら、自分の背中を見てごらんよ。そんなに大きくしちゃってる」

 もがいて逃れようと、境内の玉砂利を這い進んでいたのに、いくらもがいても先へ進めないので、先ほどの猫がおさえているのだろうとてっきり思っていたが、言われて、おそるおそる己の背中を見て見ると、ぎょろりとした、黄色い目玉がこちらを見つめていた。
 死んだ魚のような目玉が、手足を生やしている。目玉は彼の頭ほどもあり、人一人と同じほどに重い。
 これが、自分の背中にしがみついているのだ ――― いやちがう、自分の背中から生えている。
 ぎゃあっと叫んで尚もがくが、この大きな目玉がどんどん重くなる。重くて、重くて、支えきれず、ああと情けない声を上げて、彼は玉砂利の中に突っ伏して、ひんひんと泣き始めた。

「自業自得。因果応報。それはまぁ、てめぇで責任とれるんなら、別にかまやしないけどよ。自分より弱いものを打とう、自分だけは助かろうって、そういうハラが気に食わないなぁ、兄さん」

 もう己の身が打たれていないのに気づくこともなく、彼はなき続けた。
 もう泣き続ける以外に、できることはない。
 恐怖と、後悔が、どっと押し寄せてくる。その中で、このおそれを与えてくるこの子供はいったい何なのか、このおそれの正体はいったいなんなのか、泣きじゃくりながら問うた。

「なんなんだ、お前、いったい、なんなんだ」
「人間だよ ――― 今はね」

 子供の声色には容赦がなかったが、何の気まぐれがおこったか、ふ、と、彼を責めていた言葉が柔らかみを帯びた。

「まあ、ボクは部外者だから。最期は、兄さんを仇と思うこの猫に、始末を任せることにしようか」

 待ってたかのように、目元に包帯を巻いた黒猫が、ぬ、と、再び彼に顔を突き出した。
 これを前にして、ゆるしてくれ。と、彼は言った。
 泣きながら、みっともなく小便を垂れ流しながら。
 ゆるしてくれ。ゆるしてくれ。オレが悪かった、もうしない、決してしない。
 婆さんのことは、オレが悪かった。本当に悪かった。
 お前の目をつぶしたことも、本当に、本当に、悪かった。
 だから、ゆるしてくれ。

 猫は言った。
 閉じ込めている、犬や猫、怪我をしているものには介抱し、ちゃんと世話をすると約束するか。数が多いようならば、新たな家を見つけてやるとここで約するか。

「する!約束する!だから、たすけてくれ、ゆるしてくれ」

 老婆を襲った罪も罪だが、息子がやったと知っていて、これを隠したお前の父も罪を犯した。ばれなければ罪にならないのではない、お前も父も、罪は罪だ。
 夜明けとともに、お前、お上へ全てを語れ。
 世間の評判、優等生の看板、それら全てを失って、今しているように、地べたを這いずり回って生きていけ。
 そして、あの老婆の菩提を、お前が死ぬまで弔うのだ。
 それとも今ここで、地べたを這いずり、小便まみれになりながら、一思いに死んで、父母よりも一足早く輪廻へ向かうか。

「わかった、話す、全部話す、だから、命だけは ――― 命だけは、どうか」
「じゃあ、約束だよ。お兄さん」

 玉砂利に頭を突っ込み、伏してかしこみひたすらに願うと、あの子供の声がした。

「約束を破ったら、どうなるか、わかるね。これが四度目、最後の警告。次は、こんな悪戯じゃすまないよ。 ――― ボクはひとだが、ひとだからこそ、妖を騙って妖の世界を騒がし妖に仇なすひとを、放ってはおかない。
 もしも、約束を破ったら。この陽炎神社の土地神が証人だ、お兄さん、あんたは全ての加護を失くし、祟られて、六道輪廻の煉獄を、何度輪廻を繰り返しても味わうことになるだろう」

 ひんひんと泣き喚き、壊れた人形のように、こくこくと首を縦に振る。
 振るたびに、玉砂利の中へ顔をうずめてしまうが、そんな痛みよりも、体中が打たれて痛かった。またどんな気まぐれで、命を奪われてしまうかもしれぬと思うと、さらにおそろしい。

 約束する、かならず約束する、と声に出したところで、ふっつりと意識が途切れた。

 暗くなる。人魂も、鬼火も、石灯籠の明かりも、全て消えて、ただ一人、彼はそこに残された。

 なおーん、と、やけに長い猫の声が、低く、低く、耳に残って ――― 。